歌
1
夜になった。
税務の仕事は最終日である。
この日、ナスティは、歌の練習を休ませてもらっていた。
(朝活が功を奏したぞぉ)
税務全体の仕組みが理解できた。少なくとも、任された仕事の範囲内であれば、いくらでもできた。あとは、機械的に処理していくだけだ。
ナスティは、計算を終えると、ダチョウの羽でできた筆で書類に印をつける。
間違った計算が見つかった場合、筆を走らせ、書き直していく。
最後の一枚を仕上げる。
ナスティは、書類の山に一枚を積み上げた。机の上にある山は、同僚の山々よりも飛び抜けている。
(終わったぁ……)
ナスティは机にうつ伏せになった。
周りの巫女たちが、歓声を上げた。
勝利の雄叫びである。
巫女たちは、戦友をお互いにねぎらい合った。
ナスティは、皆が帰り去ったあと、税務大全を元の場所に戻した。
(できれば、来年はやりたくないなぁ……)
だが、どんな仕事でもこなせる自信がついてきた。大神殿の中でも、一番の激務をこなしたのである。
「やっぱりアナタだったのね。本を盗んだのは……」
暗い影からカシワが現れた。笑顔である。
「ごめんなさい、どうしても勉強したくて……」
ナスティは、謝った。
「謝らなくてもいいの。あなたのおかげで、皆が助かったわ」
カシワが微笑んだ。
「カシワお姉さんが教えてくださったから、ボクも仕事ができました」
カシワを偏屈な人物だと思っていたが、ナスティは、一番仕事に対して情熱的な人物だと分かってきた。難解な計算を要求される箇所では、二人で相談して解決していった。
信頼できる仲間である。
「最初、アナタは職業体験だと思っていたの。どうして、こんな小さい子が同じ仕事をしに来ているんだろうって分からなかったけど。……神様が送ってくれた天使だったのね」
褒めすぎである。
ナスティは恥ずかしく思った。
翌日の朝、ナスティはフィディに呼び出された。
「……税務審査の季節が終わった。午後は普段の授業に戻るがよい」
フィディが威厳のある口調で命令した。税務審査の疲労で、肌が荒れている。
(ようやくボクの教育を受ける権利が保障された)
ナスティは安心した。
だが、ケイトが慌てて、横入りしてきた。
「待って! 午前中の仕事は聖歌隊よ? 低音の人手不足は解消されていないからね。それに、今日は大神官様が帰ってこられる日よ」
午前中の練習に移った。
午後と比べて、若い巫女しかいない。
聖歌隊の練習生たちである。
熟練した聖歌隊と比べて劣るが、誰もが歌が上手かった。
自分よりも一個下の巫女が美声を放っている様子に、ナスティは圧倒された。
(聖歌隊って、大神殿の中でも選りすぐりのエリート巫女が選ばれるんだね……)
ナスティは端っこで膝を抱えて座っていた。
どこにいれば良いのか分からなかった。鶏小屋や税務といった、どちらかというと、世界とは切り離された孤独な仕事ばかりをしていた。
同世代の巫女たちが話をしている。ナスティは、どう入り込めばよかったのか分からなかった。
授業はベルザたち年上しかいない。いや、姫をやっていた時代も、同年代の少女たちと話をした記憶がない。
「“低音の人”。こっちに来てぇ」
聖歌隊の中では、“低音の人”、あるいは、ただ“低音”と呼ばれ始めた。
ナスティが唯一の低音なのだ。
部署同士で固まり、話をしている。
ナスティは教師役の巫女に、今回歌う、低音の確認を何度もやらされた。
「今日、大神官様が帰ってこられる日だから、合同練習を何度もするわよ」
「ぶっつけ本番ですか……?」
だが、ナスティは歌った。少しでも、練習の遅れを取り返さなくてはいけない。
昼になっても、誰も食事に行かない。
「あの、皆さん、ご飯は、どうされるんですか?」
ナスティは、おずおずと訊いた。
「当然でしょう。本番前に、そんな暇はないわよ」
「午後の授業もですか?」
「授業? そんなの関係ない。部屋を変えて、練習よ」
「ふぇ~」
歌詞は覚えている。ナスティは、緊迫した空気の中、嵐のような歌の練習にさらされていた。
2
夕方、大神殿の巫女たちが大聖堂に集まった。
ナスティたち聖歌隊は、舞台の隣に立っていた。
舞台は、仕切りに覆われている。
しばらくすると、楽器の音ともに、仕切りが外され、大神官セロンの姿が現れた。
椅子に座っている。
ナスティたちは、セロンの後ろに侍る位置になる。端に立っていたナスティは、セロンの後ろ斜め顔が見えた。
巫女たちは立ち上がり、拍手をした。
見知らぬ巫女が、花束を持って、セロンに献上した。
セロンは笑顔で受け取る。
セロンが演説を始めた。
「来月は、セレスティア祭だ。神々に捧げる準備が始まる……」
巫女たちは、恍惚とした表情で聞いている。
だが、ナスティは、演説の内容が頭に入ってこない。
これから、歌を歌うのだ。
緊張のあまり、吐き気がしてきた。天上を見上げると、目眩がする。
ほどなく、聖歌が始まった。
楽器の前奏が鳴り、ナスティは歌った。
聴衆の巫女たちが、動揺している。
「やめなさい。なんですか、これは?」
セロンが、勢いよく飛び上がった。怒った表情を、ナスティたち聖歌隊にぶつけた。
演奏が止んだ。
フィディとケイトが同時に顔を青くした。
「高音が主役の曲なのに、低音が目立ちすぎている。いや、引き立て役が主役に、主役が引き立て役になっているのだ」
セロンが、苛ついた口調でまくし立てた。先ほどの穏やかな雰囲気が嘘のようだ。巫女たちは怯えている。
「大神官様がお怒りになった……。普段、温厚なのに」
「歌の話になると、大神官様はお怒りになるのよ」
巫女たちが口々に囁いた。
「全員、座りなさい。低音の者たちのみが立ち上がりなさい」
セロンが命じた。
反射的に、ナスティは周囲に合わせて座り込んだ。
低音は、ナスティだけである。
周りの巫女たちが、それぞれの視線を、ナスティに集中させた。
逃げ切れない。
ナスティは覚悟して、立ち上がった。
「なんと……そなたがたった一人だと? たった一人で、高音よりも大きい声を出していたのか?」
セロンは、困惑した声を出した。
「あの、すみません。なんか……その」
「……もう一度だ。……同じ曲を、最初から歌いなさい」
命じられたまま、ナスティは、歌い出した。
セロンは椅子に座った。目を閉じ、腕を組んで、ナスティの歌を聴いている。
「すごいな……」
セロンが、手を挙げてナスティの歌を止めた。
「褒めていただき、ありがとうございます……」
ナスティは胸をなで下ろした。
「いや、褒めていないぞ。声は出ているが、歌が下手すぎる。こんなに下手なのに、よく人前で歌えるな」
セロンが躊躇いがちに応えた。ナスティは金槌で殴られたような衝撃を受けた。
(ええっ? 褒めれていなかったんかーい! しかも、皆さんよりも大きい声で、皆さんの前で、音痴な歌を披露してたの、ボク?)
ナスティは、ケイトたちを見た。全員が、申し訳なさそうな顔をしている。
「みんな、知ってたのですか? ボクが下手だって?」
ケイト以下、聖歌隊たちは同時に頷いた。
ナスティは理解した。
(ボクは、唯一の低音。失踪されては大変だから、ボクが辞めないように、皆で真実を黙っていたんだ……)
いないよりはマシ、という評価であったが、実際は、温厚な大神官セロンが飛び上がるほど怒らせる結果となった。
「こんな下手な歌い手は、初めて見た。シグレナスに大神殿が開設されてから、史上初の下手くそだ。……こんな歌を聴かされたら、神々はお怒りになるだろう。私たちに天罰が下るかもしれん」
セロンが、口元に拳をあて、深刻な顔をした。
「ボクの歌は、そんなに酷いんですか-?」
ナスティは涙で視界が揺れた。皆の前で晒し者にしなくても。
「呆れてしまって、怒る気力も失ってしまったよ。……低音のそなた。……今日は下がりなさい」
セロンは、家畜を追い払うような仕草をした。
ナスティは大聖堂の端を死人のように歩いた。
初日で、降板となったのである。
恥ずかしさのあまり、死んでしまいそうだ。
巫女たちは、ナスティとは顔を合わせなかった。蔑んだ笑いをしたベルザたちを除いては。
「ま~じでアイツ、調子に乗っていたもんね」
「バッカじゃねえの。大神官様に全力で嫌われているじゃん」
ナスティに聞こえる声量で話し合っている。
聖歌隊の透き通るような歌声の中、ナスティは下を向いていた。
誰と顔も合わせず、部屋に戻り、寝台に顔を埋めて、静かに泣いた。
3
次の日、セロンの前に呼び出された。
(ボクって、いつも偉い人に呼び出されるよね? それに、めっちゃ怒っているし……)
セロンは、眉間にしわを寄せている。
ナスティに向き合わずに、斜めに座っている。
机を指で叩いた。
「そなた……。歌詞を追いかけすぎている。歌詞を思い出そうとしすぎだ。まず、耳から覚えなさい。歌詞に振り回されない。歌詞を忘れたなら、口を閉じて、旋律だけを口ずさむのだ」
ナスティにとって以外なほど、優しい内容だった。
歌詞を間違えたくない……。
自分の恐れを、セロンにすべて見透かされている!
(さすが大神官様……! 教え方が上手)
人よりも一倍歌に対するこだわりが強い。
「このように歌うのだよ」
セロンは、低い声で手本を示してくれた。美声だった。
部屋の外から、巫女たちの歓声が聞こえる。扉を開いて、中を覗く巫女もいた。
「仕事に戻れ」
フィディが追い払った。
どの巫女よりも透き通る声をしていた。
セロンの歌声は、精巧で完璧な硝子の像を眺めているような気分だ。
「口から出る美術品……!」
ナスティは羨ましくも、感心した。巫女たちから人気なのも頷ける。
ナスティも真似をする。追いかける。
「そうじゃない。歌詞にこだわりすぎている。音だ。音程であり、抑揚なのだ。音の流れを意識しなさい」
歌詞にこだわらない。ナスティにとって以外だった。
「すぐにセレスティア祭が始まる。皇帝陛下もお見えになる大舞台だ。それまでに仕上げる必要がある……。だから、月に一回、いいや、週に一回、一週間後に、この部屋に来なさい。私が直々に試験をしよう」
試験!
ナスティは、また試験に晒される結果になった。
「練習を必ずさせるように」
セロンが、フィディとケイトに視線を送った。
二人は飼い犬のように怯え、畏まった返事をした。
「じゃあ、午後は授業なんで……」
ナスティは退室しようとした。
「授業? そんなものに行く暇はありません!」
フィディとケイトの二人に、引き留められた。
「教育を受ける権利ぃ……」
歌い続ける日々が続いた。
一週間がすぐに経った。
すぐにセロンに会いに行く。
「うむ。技術は上達してきたが、心がない。そなたは、歌っていないのだよ。歌に歌わされているのだ」
「歌に歌わされている……。難しいです」
「あの像を見たまえ」
セロンは、大神官の部屋に飾られた女神の像を指さした。
「……魂が籠もっているのが分かるかな?」
ナスティは目を閉じた。だが、何も感じられない。大神殿に来てから一年以上経つが、“霊力操作”をしていなかった。
「おかしいな……。若い頃は普通にできたんだけどなぁ……」
十一歳になったナスティは首を傾げた。
セロンは、自分の口元に手を置いたまま、ナスティを観察していた。
ナスティは、自分が分析されていると感じた。
「……低音を主体とした賛美歌を作ってはどうだろうか?
セロンがケイトに提案した。
「いえ、シグレナス大神殿の賛美歌は、どれもが高音が主旋律となります。そんな曲はないかと……」
「私が作曲をしよう。“低音”。よく聴きたまえ。この曲を覚えるのだ」
鼻歌を聴かせてきた。
さみしげながらも、力強さを感じる響きであった。
セロンが、ナスティに視線を送る。理解したかどうかを確認したいのだ。
「ええ? こうですか?」
ナスティは鼻歌を歌った。合っているかどうかは分からない。
「……完璧だ。よくぞ一発で記憶できたな」
セロンは驚きながらも、笑顔を見せた。
「すごい、大神官様がお褒めになった」
フィディとケイトが手を合わせて喜んだ。セロンの機嫌に左右されやすい。
「いや、褒めていないぞ。記憶力を褒めただけで、歌を褒めていないからな。……この鼻歌に言葉を乗せて、そなたが好きなように作詞をしなさい。そうすれば、簡単に覚えられるだろう。なぜなら、そなたが作詞したのだから」
セロンは、口元を綻ばせた。
良い考えだ。
セロンが聡明な人物に見える。
「分かりました。作ってみます」
ナスティは頭を深々と下げた。
(わーん、真面目な曲にしなきゃ……ぽこちーだんすとか歌ったら駄目だよね?)
4
ナスティは、セロンの前で歌い出した。
風 薫る
幾多の教えとともに
ああシグレナス大神殿
我らの学び舎
「なんですか、これは?」
セロンは、ナスティの作詞した紙を床に叩きつけた。
「修辞学の本を読みあさって、作詞しました。大神殿の雰囲気に合っているかと……」
ナスティは、もじもじと応えた。
セロンは自分の前髪を書き上げた。金色の髪が流れるように掬い上げられた。
「……“低音”よ。そなたは頭で物事を考えすぎだ。歌を歌って、試験で満点を取ろうとしているのかね?」
「え、満点を取って何が悪いんですか? ……だったら、どんな本を読めばいいんですか? ……いくら勉強しても、歌詞が出てきません」
「勉強や知識に頼ってはいけない。そなたの心で捉えなさい」
「心で捉えるって……?」
「数字ではない、誰かの知識ではない。そなたの心からあふれ出る想いを、気持ちを、歌詞に乗せるのだ」
セロンが身振り手振りを強調して、熱弁をしている。
(……意味が分からない。心とか気持ちとか、そんな不確定な代物に頼るなんて、理不尽すぎる)
セロンの部屋を後にして、資料室に向かった。
ありったけの歌詞に目を通す。
(そうだ。歌詞の類型を覚えよう。類型を組み合わせれば良いんだ)
ナスティは、セロンに歌詞を見せる。
瞳を閉じて
移りゆく町並みの中 白い翼を広げて
光が差す方に 闇を切り裂く
会いたくて会いたくて震える
「駄目だ駄目だ。君は誰かの模倣をしたいのかね?」
セロンが背を向けた。
苛ついた調子で、貧乏揺すりをしている。どうも癖らしい
厳しい。だが、練習には付き合ってくれる。
「勉強は禁止。一切勉強するな」
「教育を受ける権利ぃ?」
「フィディ巫女長。……“白い部屋”に連れて行きなさい」
セロンがフィディに命令すると、フィディは顔を青くした。
「“白い部屋”? 仕置き部屋です。こんな小さい者には厳しすぎます」
「これ以上、この“低音”を放置していると、勉強してしまう。勉強をさせてはいけない。歌詞ができるまで、一歩も出させるな」
セロンの命令は絶対だった。
ナスティは、両脇を体格の大きい巫女たちに囲まれ、大神殿の遙か奥に連れて行かれた。
ナスティが連行されている様子を見て、巫女たちが内緒話をしている。
鎖で厳重に封鎖された格子の扉を開ける。
その扉の先に、尖塔が建っていた。尖塔の扉も、鎖で封印をされている。
(どうして、何が起きているの?)
ナスティが事情が掴めないでいる。ただ、恐怖がわき上がってきた。
尖塔の中は、螺旋階段だった。
前後を巫女に挟まれ、螺旋階段を登った。
一番上にたどり着くと、一室につながる扉に出くわす。
扉を開けると、中は、白い部屋だった。
壁が白く塗装されている。いや、天上も床も、白い。
机と椅子も白く、寝台と毛布も白い。
部屋の奥には便所につながる白い扉がある。窓も、というより格子も白かった。
部屋の隅に、桶があった。
桶に水が入っている。
これが飲料水であり、入浴用の水なのだ。
目立った家具はそれだけだった。
巫女に外から鍵をかけられた。
「まさか、歌詞が書けないで独房に入れられた人は初めて見ました」
外から巫女の声が聞こえる。
(ボクもだよぅ……)
便所に行く。
便所の内部は白くなかった。
便所には、木の板で穴が塞がれていた。蓋を開けると、暗い穴が続き、底が見えない。
足を滑らせては、漆黒の下水に直行だ。
ナスティは慎重に歩いた。
文字通り“白い部屋”は、完全な独房であった。
ナスティは呆然としていた。
「こんなはずじゃ……」
食事が運ばれてくる。
扉の低部が、押し開かれた。皿を乗せた盆が、滑り込んでくる。
「うぇ~ん、ぐすっ。ついに受刑者になっちゃったよぉ……」
ナスティは泣きながら、パンを千切った。
食事はすぐに終わった。
ナスティは、寝台の上に転がった。
狭い。だが、二段式寝台よりは、個人情報が保護されている。
「勉強をするな」
ナスティは、セロンの指示を反芻した。
生まれて初めて聞く。
生まれてこの方、母親からいつも、勉強、勉強、勉強と命令され続けていた。
ナスティがどこか待ち望んでいた言葉ではある。
だが、これまで生きていて、勉強をして問題を解決してきた。
その唯一の方法を封印されたのである。
「勉強か……」
数学が一番好きだ。
基本的な数学の仕組みを使って、問題を解いていく。数学の問題を見ただけで、どう攻略してやろうか……となる。解法の類型がある。ときどき類型から外れた問題が出る。そういう問題を解いていて、裏切られた気持ちになるが、裏切られる問題も、一種、楽しみにしていた。
歌詞の作成は、修辞学に近い、いや、そのものだ、と思った。
修辞学にも類型が決まっている。花の美しさを表現しなさい、という問題でも、答えが決まっている。どちらかといえば、数学に近い。言語を使った数学である。
歴史学が一番つまらない。
年号と事件名がまったく結びつかない。なんとか戦争やなんとか法律……まったく楽しくない。ただ、試験に出る知識がある。それだけを暗記すればなんとかなる。
試験問題は、とにかく類型をつかめば勝ち、とナスティは知った。傾向と対策である。
作詞も、類型がある。だいたい決まっている。
賛美歌は、どれもシグレナスの神々を褒め称えているだけだ。
歌詞を類型化して、セロンに見せても、セロンは良い顔をしない。
「むりだよぉ、勉強しないで、知識なしで歌詞なんて書けないよぉ」
試験対策であれば、簡単なのに。過去問を徹底的に研究する。試験勉強ができても、創作のやりかたなど習いようがない。
「逃げだそうかな……」
便所から下水に降りて脱出できなくもないが、逃亡者の謗りを負うまでもない。下水の中に逃げるほど、度胸もない。
「大神官セロン……。こんなところにボクを閉じ込めるなんて、悪魔神官だぁ……」
寝返りを打った。
「俺は聖者ではない……」
老人ティーンの言葉を思い返した。
「ティーンさん……。そうだ。ティーンさんは無事なのかしら?」
目を閉じた。
ティーンの姿が見えない。
ティーンと交信できる、“祈りの指輪”は手元にない。マグダレーナの力で砕け散っている。
(ティーンさんに何を教えてもらったんだっけ?)
すっかり忘れていた。
寝台の上で、足を組む。
目を閉じ、瞑想をする。
「自分が一番幸せだった頃を思い返せ」
ティーンの言葉が、ナスティの口から自然と出てきた。
「ジョニー好き好き」
ナスティは顔が緩んできた。
「ナスティさーん、はーい、何が好き? ……ダメダメ、誰かの真似をしてはいけないし、頭で考えてはいけない。……ジョニーとの思い出を身体で思い返すのだ」
ティーンの言葉を思い返す。セロンも似た発言をしていた。
ナスティは孤島の湾岸で“銀魚湾”で抱き合った様子を思い描いた。
(身体で思い返すって……!)
ナスティは、鼻から吹き出した。
「ちがう。奴と、ジョニーとチュウすれば解決する話じゃねえ。たとえジョニーから離れたとしても、お嬢ちゃんがお嬢ちゃん自身を愛すれば良いんだよ。ジョニーは、取っ掛かりだ」
ティーンの言葉が口から出てくる。まるで、ナスティの口が、ティーンの拡声器にでもなったかのようだ。
(ジョニーが取っ掛かりとか酷い……)
とは思った。
だが、裸で抱き合う想像をした。想像が止まらない。
「あーん、ジョニー好き好き」
長い禁欲生活で、私利私欲の反動が強くなっている。
瞑想状態から解放され、寝台の毛布にしがみついた。
「ボクは何を考えているんだ……」
ナスティは頭を振った。
取っ掛かりの意味が分かった。
「えっちな方向になると、瞑想にならないんだよなぁ。だから、えっちな考えになる前に、えっちを止めないといけない。だから、ジョニーは取っ掛かり……」
性的満足は脇に置いておく。ジョニーを思いながらも、二人でいた頃の、幸せな瞬間を大事にする。
自分に対する愛が、真の“霊力操作”だと、ティーンから教わった。
(自分を愛してどうするんだろう……? 人から愛されないと、意味がないよね?)
気づけば、白い部屋は黒い部屋になっていた。
ジョニーが、部屋の隅に座っている。
「ジョニー!」
ナスティは、寝台から足をもつらせて、ジョニーに向かって走った。
闇の世界では、すべてが解決していた。何も心配しなくてよい。ジョニーは、ナスティを覚えていたのである。
ナスティはジョニーの手を取った。
「ふわあああ……」
ジョニーが隣にいる。これだけで、ナスティは幸せだった。これが、自分を愛する、という意味なのだ……。
だが、ジョニーは手を離して、歩いて行った。
(誰?)
ジョニーは見えない、透明の階段を昇っていく。
階段の先には、背の高い女が立っていた。
ジョニーは知らない女の手を握って、片膝をついて話をしている。
「告白をしている……ボク以外の女の人と?」
ジョニーは、女の目を見ていた。
ナスティには、ジョニーの気持ちが分かった。
(ジョニーは、この女が好きなんだ……。そうだよね。ボクは自分のためにキミを悪い人たちに差し出した。……こんな狡いボクなんかが、キミに愛される資格もない……)
ナスティは、無力感に苛まされた
無力感の中から、怒りが湧いてくる
ジョニーに対して?
でも、ジョニーに対して怒っても仕方ないのだ。
(ジョニーを、ジョニーの心を殺した者は、ボクなのだから……)
扉を叩く音がする。
朝だった。
朝食と換えの水桶が扉の下部から出てきた。押し込んできた。
ナスティは済んだ食事の皿と桶を、押し込んだ。
食事と水桶の新旧交換である。
「ジョニー……」
食事の前で、涙が出てきた。
食事を無理矢理、喉に通す。
日にちが経っていく。
一日が長い。
そういえば、ずっと走り続けてきたような毎日だった。一日が短く感じていた。
「このままだとボク、おばあちゃんになるまで懲役しつづけるんだろうか?」
ただ、ジョニーのことしか頭に思い浮かばない。
楽しかった思い出、一緒に怖い場所を冒険した思い出、そして、二人を引き裂かれた思い出……。
次の日になった。
扉を叩く声が聞こえる。
「ナスティさん……。曲はできましたか? 大神官様がお呼びです」
「できました!」
ナスティは嘘をついた。歌詞なんて思いつきもしない。ただ、この白い部屋から出たいだけだ。
ナスティは、巫女にセロンの部屋まで連れてこられた。
部屋の中では、ベルザたちがセロンと話をしていた。
ベルザの両目が輝いていたが、ナスティを見るなり、敵意を込めた視線を送ってきた。
セロンは、ベルザたちを退室させる。
椅子に座り、脚を組んだ。
「さあ、歌を聴かせたまえ」
セロンは前髪を書き上げる仕草をした。
歌詞なんてできていない。
頭にある考えなんて、ただ、ジョニーを失った苦しみだけだった。
(そうだ、ジョニーについて歌おう)
君は今 愛を告げている
君が好きな人は 僕じゃない
僕じゃない誰か
ナスティは自分の口から、言葉が勝手に出た。
部屋中の空気が凍っている。さきほどの、談笑していた雰囲気は消し飛んでいた。
セロンは、怒りもせず、なにも反応しない。
横一文字に結んだ口に握り拳をあて、眉間にしわを寄せていた。
「大神官様……?」
フィディとケイトが、セロンの顔をのぞき見る。
「お前のせいで、大神官様がお怒りだ」
フィディがナスティを責めた。
「ねえ、“低音”。大神殿では、恋の歌は禁止なの。神様を褒め称える歌しか歌っちゃいけないのよ」
ケイトがナスティを叱るふりをして、かばった。
セロンは、続けろ、と手で合図をした。
(ええい、もうどうなってもいいや!)
ナスティは目を閉じた。
勝手に言葉が出てくるのだ。ただ、身を委ねるだけだ。
でも 好きなんだ
君がいたから 僕は変われたんだ
君が教えてくれたんだ
だから 君を守るよ
この炎の剣で
この星の翼で
「大神官様?」
フィディの心配する声が聞こえた。
ナスティは目を開けた。
セロンの頬に、涙が一筋の光となって、流れている。
「こんな酷い歌詞は、初めてだ……」