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税務と聖歌

        1

 ナスティは、小屋を掃いて、鶏の糞を集めていた。

 鶏小屋の周りには、誰もいない。

「ぽこちーだーんす、ぽこちーだだーんす、うー! はー! うー! はー!」

 自作の歌が、口から自然とこぼれた。

 もう一度、歌う。

「ぽこちーだーんす、ぽこちーだだーんす、うー! はー! うー! はー!」

 二回目を歌う。

 一回目とは、違う。

 最後のかけ声を、低音で試してみた。

(ぽこちーに会いたいなぁ……)

 ポコチーを思い返すと、自然とジョニーを思い返す。母親と家族の思い出も芋づる式に出てくる。

 ナスティは鼻を啜った。涙がこぼれそうになる。

「ぽっこちー、ぽっこちー、ぽっこぽこちー」

 涙をいて、陽気な歌を続ける。歌いながらの掃除は、悲しみを解き放ち、作業効率が上昇するのだ。

「ぽこっと一発? ちー太郎! ち、ち、ちー太郎、ちちちー太郎! ……ハッ!」

 新曲を次々と編み出していく。

 絶好調である。

 もちろん、最後の掛け声は、声を張った。

「あなた、良い声ね」

 ふと、声を掛けられて、ナスティは飛び上がった。

 くせっ毛の黒髪を後ろに束ねている、中年の巫女だ。

 副巫女長のケイトであった。

 ナスティは自分の顔を隠した。

(聞かれちゃった……! よりによって、一番恥ずかしい歌を聞かれるなんて……。うわあ、なにが、ぽこちーだんすだよぉ……)

 顔が熱くなる。

「何かご用ですか?」

 ナスティは平静を装った。手遅れである。

「聖歌隊が一人、いなくなったの」

「また巫女が、いなくなったんですか? 最近、失踪する人が多いですね。卒業して、市井アウトサイドに働きに出かけると、そのまま帰らないって……」

 卒業という表現に、ナスティは違和感があった。

 見習い期間の終了が、正しい。

 先輩のセルデとは、よくすれ違って、よく挨拶を交わす。図書館から仕事が終わると、大神殿に帰ってくる。大神殿が家なのだ。

 巫女は身分的には奴隷なのである。

 分譲住宅を買ったり借りたりする権利を持っていない。

 だが、もし伝手つてがあるのなら、大神殿に帰らない、という選択もある。

「……違うの。卒業していない子が、忽然こつぜんと消えたの」

 ケイトが首を振った。

 失踪する気持ちが分からないでもない。

 ナスティも、脱出したくなる瞬間は、何度もある。

 監視の目は、かなりゆるい。

 いや、ほぼ、無い。逃げ出せる機会は、いくらでもある。

 誘拐されてきたのに、ナスティは脱走しなかった。同じ境遇の巫女は多数いるが、単純に帰る家がないからである。

(家を見つけたのかな……? どうやって見つけたんだろう?)

と、ナスティは、疑問に思った。巫女とはいえ、ただの奴隷に、家を貸す好事家を想像できなかった。

「あなた、低い声を出していわよね? うー! はー! うー! はー! って。外まで鳴り響いていた」

と、ケイトが興奮気味に報告した。

(褒めないでぇ……。余計に恥ずかしいよぉ)

 ナスティは箒に、顔を隠した。恥辱の極みである。

「あなた、低音の才能がある。高音もいけそうだけど。音域が広いのね。表現力も豊かだし、是非、聖歌隊に入ってちょうだい!」

「え、でも、ボク、音痴だから……」

「いいの、初めは誰だって下手なんだから……!」

「……鶏小屋の仕事がありますので」

「ううん、私が大神官様とフィディ巫女長に掛け合ってあげるから。来て来て」

 ケイトに腕を引っ張られる。箒と集めた鶏の糞が、地面に散乱する。

(わー、大神殿の偉い人たちって、どうして、こちらの都合を考えないのだろう……?)

 たどり着いた先は、大神殿の中心地から離れた、高層建造物であった。

 中から奇声が聞こえる。

 中に入ると、巫女たちが、並び、目を見開き、口を大きく開けて、声を出している。

 ナスティなど、眼中にもなく、ただ一心不乱に声を出している。

 大人の巫女に混じって、ナスティと同年代の巫女もいる。

「皆の真似をして、発声練習をしてね」 

 ケイトの圧力に負け、ナスティも“目を見開き軍団”に参戦した。

 散々、発声の練習をさせられた後、個人指導になった。

 ケイトが手のひらで、床を押さえつける仕草をした。

「お腹に空気を入れて、手で抑える感じ」

 低音の出し方である。

 ナスティは低い声を出した。

「凄い。ちゃんと低音が出てる! 高音も出せるし、あなた、歌の才能があるわよ。女ばかりで、低音が貴重だから、助かるわ~」

 ヴェルザンディだと女は高等教育を受けるには、男のふりをしなくてはいけなかった。

(今度は、シグレナスの大神殿で男の役をやらないといけないなんて……!)

 歌詞の書かれた紙を渡された。

「一週間くらいまでに、全部を暗唱をしてね」

と、ケイトに指示された。

(無理……)

 ナスティは絶望的な気持ちになった。 

(疲れた……)

 声を出すと、体力が消耗した。

 昼食を終えると、フィディに呼び出された。

        2

 フィディが、椅子に座っていた。周りに巫女たちが侍っている。

「また優秀な成績を収めたのだな。……もう一つ飛び級をしてはどうだ?」

 一枚の書類から視線を外した。

 中間試験の結果である。

 さらに飛び級すれば、ベルザとは、学級クラスで会わずに済む。飛び級とは、魅力的な提案ではある。

「……お断りします」

 ナスティの考えは違った。

「どうしてだ?」

「ボク、いや、私は十一歳です。三歳上の飛び級をしたので、大神殿では、十四歳になります。これ以上、飛び級すると、今年、卒業試験を受ける結果になるからです」

 学年を早く上がれば上がるほど、卒業試験に対策をする準備がなくなっていく。

 飛び級の盲点であった。

「……そうか。分かった」

 フィディは引き下がった。

 ナスティは安堵した。

 実は、卒業試験に対応できるほどの学力を持っている自負があった。

 とはいえ、ナスティは、まだ大神殿を出て行く自信がなかった。どんな仕事に就くか考えてもいないからだ。

「では、鶏小屋の仕事を辞めて、私の手伝いをしろ」

「えっ」

「えっ」

 ナスティとフィディは同時驚いた。

「私の仕事が、不満なのか?」

「いいえ、ボクの……私の仕事は、聖歌隊ですから。鶏小屋は辞めました」

「えっ」

 今度はフィディだけが驚いた。

「いつ聖歌隊に入った?」

「昨日、ケイトお姉さんに、入るよう命令されました」

「……今、誰が鶏小屋の仕事をしている?」

「さあ? プリムお姉さんと……」

「私は、お前が聖歌隊に入るなど、聞いていないぞ。ケイトを呼び出せ」

 フィディが周りの巫女に、ケイトを呼びに行かせた。

 ナスティは、フィディと二人きりになった。

「巫女長のお仕事って、どんな仕事ですか?」

 ケイトを待っている間、恐る恐る質問した。

「税務審査だ。……シグレナス大神殿は、帝国内の税金を取り扱っている業務を担っている事実を知っているな?」

 フィディの質問に、ナスティは無言でうなづいた。

 シグレナスの税金や国宝は、大神殿に収納されている。

 神聖な場所に、不浄な気持ちで踏み入れば、神々から天罰が下る、と考えられていた。

「毎年、市井アウトサイドの者たちが、税務申告を行う。……私たちは、税務申告が適正に行われているかを精査するのだ」

 神殿内の住人たちは、大神殿を、神殿内部インサイドと呼び、対比して、神殿以外の場所を市井アウトサイドと呼んでいた。

 税金の計算をしろ、というのだ。大神殿は、税務署の役割も果たしていた。

 多くの奴隷や巫女たちが、税務審査に駆り出せられる。

「本来であれば、卒業試験を通過した者だけがこなせる仕事なのだが、現在の大神殿は、人手不足になっている。……算術で満点をとれるお前なら、税務計算で使われる特殊な式など、難しくはないだろう」

 フィディに褒められた。

 褒められても、ナスティは嬉しくなかった。

 フィディから、教育に厳しすぎる母親と同じ雰囲気を感じて、素直に喜べなかった。

 小さい頃から、勉強ができず母親から、叱りつけられてばかりだったのだ。

 ほどなくして、ケイトが現れた。

「お伝え済みだと思っていましたが」

 ケイトが慌てている。連絡の行き違いが起きている。

「私は聞いていないぞ。……ケイト、お前の独断で決めてよい話ではない」

 フィディは、口元を歪め、怒りを醸し出している。

 だが、ケイトも引き下がらなかった。

「巫女長、低音を担当できる者が失踪しました。大神官様がこれを知ったら、なんとお怒りになるか……! 代わりの者を探さなくてはならないのです」

 大神官……セロンの名前を出され、フィディの顔に焦りが出てきた。

「それは不味いぞ。……低音が出なければ、高音のみの曲だけで行けないか?」

「無理です。大神官様は、歌のこだわりが非常に強くて……。一度、高音のみの時期があったのですが、激怒されました」

 ケイトも焦っている。大人二人が、今ここにいない大神官セロンに怯えているのだ。

 大神殿では、毎日、賛美歌が歌われる。

 どれも神々に捧げる歌であり、最重要視されていた。

 不手際があると、セロンは怒った。

「賛美歌は、神に捧げる、もっとも重要な行為だ。絶対におろそかにしてはならない」

と、セロンはしつこく周りの巫女に説教していた。

 フィディとケイトの対立は、税金という世俗な問題と、賛美歌という霊的な問題の対立でもあった。

「大神官様があまり大神殿にいらっしゃらないですから、今のうちに低音ができる、この者を育てるのがよろしいかと……」

 ケイトが苦しげな表情で、ナスティを指さした。

 フィディは目を閉じた。息を吸い込み、しばらく、口も閉じる。

 薄い唇を開いた。

「分かった。では、午前中だけ、この者の稽古をつけるがよい。だが、午後は税務の仕事をやらせるぞ」

「分かりました。ご高配、ありがとうございます」

 ケイトが、深々とお辞儀した。

「あのう、午後の授業はどうすれば?」

 ナスティは恐る恐る訊いた。できれば、遠回しに断りたい。

 ナスティの意向など、一切無視なのだ。仕事を掛け持ちする巫女など、ナスティは見た記憶がない。

「お前の学力であれば、授業など聞かなくても問題なかろう。どうせ数ヶ月の話だ」

 フィディは、ナスティの拒絶を断った。

 問答無用である。

「人手不足の原因は、ボルテックス商店の連中が、新しい巫女をつれてこないからだ」

 フィディは苦々しくつぶやいた。

「新しい奴隷を連れてきてくれると良いんですけどね……」

 ケイトが同意した。

 物騒な内容の割には、軽々しく話しているな、とナスティは思った。

 ボルテックス商店は、都市シグレナスを闊歩かっぽする広域暴力団である。大神殿に、奴隷を供給しているのだ。

 ナスティは巫女たちの噂で知っていた。

 自分が連れてきた男女も、ボルテックス商店の構成員であるとも知っていた。

(大神殿の闇が深すぎるよぉ……)

 ナスティは悲しくなった。巫女の数が足りていない。大神殿は、暴力団に頼らなくては成り立たないのである。

        3

 かくして、ナスティは、鶏世話係を正式に卒業したのである。

「バイバイ、“皇帝”」

 金の首輪を首にはめられた鶏……“皇帝”……に挨拶をした。

“皇帝”は三代目である。

 初代“皇帝”は雄鶏だった。雄鶏に受け継がれる決まりだったが、が、ナスティの手違いで今上“皇帝”は雌鶏となっている。

(それでもバレないんだよなぁ……)

 鶏小屋には、プリムだけが残っている。

 後任の巫女は誰かは聞いていない。

 プリムに挨拶をして、迎えの巫女について行く。

 職場は、フィディの執務室からすぐの部屋であった。

 ナスティと同年代の巫女はいなかった。年配の巫女ばかりだ。

 巫女たちは、机にかじりついて、書類の束からひたすら計算をしている。 

 ナスティが自己紹介しても、気にも留めていない。

 資料の山が積み上がっている席に、年配の巫女に誘導された。

「ここ、アナタの席ね。私はカシワ」

 ナスティはカシワに自己紹介をした。カシワは黒髪で直毛の、肌が黒い小太りの女であった。顔色が悪い。

「すみません、なにをすれば良いんですか?」

「アナタに教える暇なんてないのよ」

 カシワが冷たい口調を放ってきた。

 莫大な量である。

(やり方が分からない。教えてくれてもいいじゃない!)

と思った。ばいばい

 さっきのカシワが一つ資料を完成させる。

 自分よりも離れた机の位置に置いた。

 だが、すぐに考えが切り替わった。

「ボク、やり方が分からないんで、お姉さんの仕事を見て参考にしていいですか?」

 お姉さんと呼べる年齢に見えなくても、先輩はすべてお姉さんと呼ぶのが、大神殿の習わしである。

 カシワは返事をしなかった。持ち出して良いのか悪いのか、分からない。

(ええい、怒られてもいいや!)

 勝手に奪い去った。

「賃料表、売上表、税務計算表……。市民会税?」

 知らない単語ばかりだ。授業で受けた記憶もない。

 だが、先輩の処理を見よう見まねでやってみた。

 納税者の申告書が正しいか正しくないかを精査している、という業務である。

 ……それだけは理解した。

「これでいいですか?」

 責任者フィディに訊く。

「……お前の上司に聞け」

 フィディは、資料から視線を離さず、応えた。

「ボクの上司って誰でしょう?」

「……あとでまとめて確認をする。置いておけ」

と、雑な返事が返ってきた。

 だが、フィディは無言だった。ナスティの質問に応えない。

 ナスティは腹が立ってきた。

(命令系統が曖昧で、新入社員とか中途採用とかを育成する余裕のない職場って、本当に最悪……)

 ナスティは、放置された。

 しばらくすると、カシワがナスティの資料を片手に、現れた。

 こことここが違う、とカシワが面倒くさそうに指摘してきた。

(違うなら、最初から教えろよ)

と、叫びたくなったが、我慢する。

「巫女長から教えてくれるっていうお話だったんですけど」

 ナスティは怒りを堪えて、カシワに問い詰めた。

「聞いていないぞ? 何から何まで分かる熟練者を連れてくる、という話だ。まさかお前みたいな子どもが来るとは思ってもいなかった」

 カシワが反論する。

「巫女長に文句を……」

「やめろ、巫女長は限界だ」

 カシワはフィディを見た。フィディは頭から煙を出したかのように、顔色が悪くなっている。

 巫女長としての業務の上に、税務の仕事もこなさなくてはならないのだ。

(フィディ巫女長は、あまり数字の計算が得意じゃないんだね)

 ナスティは見抜いた。

 だが、誰もナスティに構う余裕がなかった。

 特にややこしくしているのが、特殊な計算式があった。この分の売上は税金がかからない、非課税の分野だ。

(ぐぉおお、数字、数字……)

 本棚に、「シグレナス税法大全」なる書物が目に付いた。

 手に取り、ペラペラめくる。

 仕組みが書いてあった。

「これを借りて、部屋を持ち帰って読んでも良いですか?」

と、カシワに訊いた。事実上、カシワがナスティの上司になりつつある。

「だめだ。勝手な真似をするな」

(どうすればいいの? 報告や連絡どころか、相談のできない職場は辛いよぉ……)

 食事を挟んで、昼から、賛美歌を歌わされる。

 午後の部になると、同僚は、ナスティよりも年上の巫女ばかりだ。同年代の巫女たちは、授業を受けているのだ。

(ボクだけ教育を受ける権利が侵害されている? ベルザたちと顔を合わせなくて済んでよかったけど)

 発声練習はすぐに終わり、すぐに曲の合同練習に入った。熟練者たちには、発声などほぼ習得済みなのだ。

「低音、音が外れている!」

 聖歌隊の先生に怒られる。

 聖歌隊での呼び名は“低音”になった。一人しかいないので、間違いが目立つ。

 一日が終わった。

 ナスティは狭苦しい寝台の中でうなされていた。

(税務審査、したくない、したくないよぉ……。朝から、あのギスギスした、恐ろしい時間が始まるよぉ……、ど、どうすればいいんだろう?)

 明らかに、税務に対する知識が不足しすぎている。 

(……忍び込もう)

        4

 ナスティは、二段ベッドから降りた。忍び足で歩いた。同部屋ルームメイトを起こさてはいけない。

 誰もが寝静まった、夜の廊下を歩く。

 まだ肌寒い風が吹く。庭から、虫の音が聞こえた。

 月明かりの中を、突き進む。

 目的の部屋にあった。

(開いてんじゃん)

 鍵は、かかっていない。

 暗い部屋の扉を静かに開け、足を踏み入れる。

「あった!」

“シグレナス税法大全”である。

 ナスティは巫女服の中に隠し持ち、部屋に戻った。

 朝になり、ナスティは本を開いた。

(気になる箇所だけ読もうっと)

 一頁から見ていくほど余裕はない。

 勉強時間は、同部屋の巫女たちが起きる、わずかな時間しかない。

 しかも、自分の寝台から持ち出しはできない。誰かに見られたら、盗みが露見する結果になる。

 ナスティは、“市民会税”なる概念が理解できなかった。

 だが、読書をすると分かってきた。

 貧しい層は、個々に支払うのではないのであった。

 貧民たちは市民会に売上と賃金を報告する。その報告をとりまとめて、市民会が貧民から集めた税金を支払う。

「なるほど!」

 ほぼ貧民の税金ばかりになる。“市民会税”の仕組みを理解しなければ、シグレナス帝国の税制を理解できない。

 一定の収入を超えた富裕層は、市民会の手から離れ、直接税務申告をするのだ。

 ナスティが次に理解できないのは、免税制度であった。

 だが、もう同部屋の巫女たちが起き上がった。ナスティは本を寝台に隠し、朝食に向かった。

 行列に並びながら、歌詞を読む。

 食事の時間になると、両太ももの上に歌詞を置き、暗唱しながら汁をすする。

 税務の本と違って、歌詞は人目を気にせず、勉強できる。

 午前中の仕事が始まった。

(まったく分からないよ……)

 誰も教えてくれる人はいない。

 だが、ナスティは切り替えた。

(とりあえず、簡単な奴からやる。で、分からない箇所は、本で調べる。分からない箇所を見つけるために、毎日、仕事をしよう)

 ナスティは何が分からないのかを暗記していった。

 現時点では、本がなくなっているとは誰も気づいていない。

 昼になり、食事の列に並ぶ。

 歌詞の暗記は順調だ。

「セレスティアよ、天上から愛と知恵を持って舞い降りた御方」

 ひたすらシグレナスの至高神、セレスティアの名前を呼び、ひたすら褒める内容ばかりである。

「その剣は、炎。すべての悪を焼き払う。その知恵は、水。すべての乾きを癒す。その愛は、光。すべての人たちを包み込む。……覚えた」

 そんなに難しい言葉を使っていない。

 あとは褒める言葉を繰り返していくだけだ。

「まずは、簡単な曲から覚えていこう。自分自身に自信をつけなきゃ。あとは、セレスティア狙いでいこう。シグレナスだと、セレスティア関連の曲が、一番多い。至高神だからね」

 シグレナスは多神教だった。やたらと神様の名前が多い。太陽神から、草の根っこに住む神まで存在する。すべての歌詞を暗唱できるとは思えない。

 午後は、聖歌隊の練習に参加する。

 発声練習も徐々に慣れていった。

 合同練習が始まる。

 暗唱したセレスティアの曲は、ほとんど歌われなかった。

 ナスティは合同練習から外れ、低音専用に先生を一人、付けてくれた。

 一対一で学ぶ。

 税務の仕事と比べて、教えてくれる人の熱量が高い。

(そうだよ。これこれ。何も分からない人を教えてあげないと、組織は強くならないよ)

 思った以上に声が出た。税務の仕事で溜まった鬱憤を、歌で晴らすのだ。

「若くて、元気があるわね」

 先生に褒められたが、それほど、怒りが自分の中に渦巻いていたとは、ナスティにとって意外であった。

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