飛び級
1
バケツがひっくり返った。暗い廊下に、汚水が広がる。
「あら、ごめんなさい」
通りがかりの巫女集団が、意地悪な笑顔を見せている。
(……絶対わざとだ。わざとバケツを蹴ったね)
次の日、ナスティはバケツを手元に引き寄せながら、拭き掃除をした。
巫女の集団が、通りかかる。
先頭の巫女がバケツの横を過ぎる寸前に、ナスティはバケツを引っ込めた。
巫女の脚が空振りする。
「なによ、アイツ。生意気なんだけど……」
リーダー格の巫女が、舌打ちをして、聞こえるくらいの音量で毒づいた。まるで自分が被害者であるかのような口ぶりである。
「行きましょう、ベルザ……」
取り巻きの巫女が聞こえるくらいの音量で耳打ちをした。
「なんで人が嫌がる真似をするの?」
ナスティは困惑した。理解不能である。マグダレーナといい、誰かの不幸を喜ぶ人種が存在するのだ。
(あの女、ベルザって言うんだ。覚えておこう)
怒りの気持ちが溢れて出てきた。
だが、悲しかった。攻撃される意味が分からない。
上を見上げると、教師セトラが腕を組んでいた。
「あなた、従いてきなさい。巫女長のところよ」
犯罪者にでもなったかのような気分になった。怯えながら、従いていく。
セトラが一室の扉を叩く。許可を得たので、室内に入った。
机を前にして、平たい顔のフィディが腕を組んでいる。
フィディの背後はカーテンで仕切られていて、カーテンの隙間から、個人用の寝台が見える。
床は大理石で、壺や観賞用の植物が置かれていた。
(良い生活しているねえ。さすが、巫女長)
ナスティは羨ましかった。
フィディが机の上に、問題集を広げた。ナスティの問題集だ。
「なんだこれは?」
面倒くさそうな口調で訊いてきた。
「これは、ボクの問題集です。授業中に解きました」
「……何故、全問正解なのだ? 授業中に、答えを勝手に見たのではないか?」
フィディは、ナスティの不正を疑っている。
「ボクがズルをしているとでも? していません。じゃあ、何か質問をしてください。答えられなかったら、不正を認めます」
フィディは不機嫌そうな態度で、セトラに目配せした。
セトラが問題文を読み上げる。
ナスティは緊張はしたが、すべてを答えた。
「全問正解……!」
セトラが興奮して答えた。
別に不思議な話でない。どれもが、一度は解いた問題なのである。問題と回答方法さえ知っていれば、簡単なのだ。
「巫女長。この子は、凄いです。問題集を全部解いて、廊下の拭き掃除も真面目に取り組んでいました。午前の奉仕も、上学年の分まで働いていたのです。ただの子ではありません。もう少し年上の学級に編入させましょう。とても賢い子に育ちます。このまま同じ年齢の子たちと学ばせては、もったいないです」
セトラが、フィディに興奮した表情で説明する。
ナスティは感動した。
この世には、自分の仕事ぶりを評価してくれる人がいるのだ。
フィディが面倒くさげにナスティを見た。
「お前は、どうなんだ? やりたいのか? より高度な教育を受けられる機会だ」
「別に嫌じゃないですけど」
急に決められない。
そもそも、向学心は、期待されるほどない。
「……お前が今の環境に満足しているのか、と聞いているのだ」
フィディの質問に、ナスティは、鶏小屋の生活を思い返した。
鶏たちは、自分が餌を持っていなくても、集まってくる。
一羽が首を傾げている様子を思い浮かべると、愛らしく思えてきた。
ただ、仕事をしない同僚に、うんざりしていた。
「……満足していません。できれば、変えてください」
「分かった。でも、後戻りはできんぞ? いいな?」
フィディが面倒くさそうに応えた。
「構いません」
ナスティは喜々として答えた。もう鶏小屋で働かずに済む。
次の日になった。
だが、フィディからは何の連絡もない。ナスティは仕方なく、鶏小屋に出向いて、鶏の世話をする。
食事を終えると、鶏小屋にセトラがやってきた。
「お前は違う学級に行くのだ」
普段とは違う天幕に連れて行かれた。
自分よりも年上の巫女たちが、並んで座っている。
座っていた巫女が一人、振り返った。
ベルザだった。
教師がナスティを紹介する。
ベルザは、不機嫌な視線を送ってくる。ナスティに対する悪意は、ベルザの周りに伝播した。
教室の端っこで、プリムが座っている。暗い顔で、俯いていた。
隣の女が、ベルザに内緒話をしている。明らかに敵意のある顔だ。
「生意気なんだけど」
「なんか狡い方法を遣っている」
「よく見るとブスだよね」
ナスティは、ベルザにも、ベルザの友人にも、嫌われる理由が見当たらない。
(どうして? ボクが何かした?)
教室の雰囲気は、暗かった。
「ガルナバリス帝の御代、ヴェルザンディの間で起きた戦争の名前は?」
教師に問題を当てられても、分からない。
いや、そもそも習っていないのだ。
答えられない問題があると、ベルザを中心に、冷ややかな笑いが起こった。
(こりゃあ、大変な場所に来ちゃったよ……)
ナスティは冷ややかな汗をかいた。
「どうする、ベルザ? 今日もフケる?」
ベルザの隣が、ベルザに耳打ちをする。
「あのー、先生。ウチら腹が痛いんですけどぉ?」
ベルザの隣が立ち上がった
教師役の巫女は息を飲んだ。曖昧な返事をする。
ベルザたちは集団で、どこかに出かけていった。
授業を抜け出しているのだ。
(だから、道理でボクのバケツを蹴り飛ばす時間があるんだね。集団でお腹が痛くなるときって、集団食中毒かな? 先生もおかしいよね。廊下の拭き掃除をやらせれば良いのに)
腹が立ってきた。ベルザと扱いの差が違いすぎる。
ナスティは、ベルザの得たいのしれない強さを見た。教師役よりも立場が強いのである。
(ベルザたちがいないほうが、授業に集中できる。……話に従いて来れないけど)
入浴と食事を済ませると、別の部屋に通された。
部屋の壁際には、寝台がひしめき合っている。
寝台の上に、さらに寝台があり、さらにその上に、もう一つ寝台があり、三段になっている。
巫女たちが、一斉にナスティを見た。
「こんにちは、ここでお世話になるナスティです。よろしくお願いします」
ナスティは気まずい気持ちで、一礼をした。
誰も挨拶を返さなかった。巫女の一人が、隣に耳打ちをしただけだ。
ナスティは、唯一空いている寝台を通された。
一番端の三段、最上階である。
木組みの梯子を登る。不安定で、一種の冒険旅行に出かけたようだ。
寝台は狭い。
しかも、天井とは、目と鼻の先である。
「蜂の巣みたい」
最初の寝泊まりした雑魚寝部屋とは違い、個人的な空間は確保されている。
だが、狭い。木製の板が安全柵になっているが、いつ外れてもおかしくない。そもそも、いつ倒れるか心配である。
(落ちたら死ねるね。結構な高さだよ)
天井を見た。
顔に近い。
寝苦しさはないが、ナスティは掛け布団を柱状に丸めた。
(ジョニー……)
布団を抱きしめる。
感情が溢れ出てきた。
ひとりぼっちになったのは、久しぶりである。
大神殿に来てから、いつも誰かといた。一人になれても、仕事に追われて、自分と向き合う時間を確保できなかった。
自分の感情を押し殺していた。
狭い空間が、ナスティから他者を断絶したのである。
(ジョニーに会いたいよぉ……。抱きしめたいよぉ……)
押し込めていた気持ちが爆発した。
腹の底から、虚しさが込み上げる。自分から存在価値がなくなったようだ。
ナスティにとって、ジョニーは、自分の存在証明だったのである。
強く抱きしめた布団に顔を埋めて、涙で濡らした。
そのまま、眠りについた。
2
次の日になった。
寝不足である。
脚を引き摺ながら、職場……鶏小屋にたどり着いた。
セルデが、目を見開いて、話しかけてきた。
「聞いたわよ。二年も飛び級ですって? 貴女って、凄いのね」
ナスティは褒められたが、気分は悪かった。
(二歳も年上の学級に連れてこられたの? そりゃあ授業に従いてこれないよ! ……フィディに意地悪されたのかなぁ)
ナスティは、フィディの悪意を感じた。
「貴方、卒業試験を受けるの?」
セルデが質問をした。
「卒業試験って、何ですか?」
聞き慣れない言葉である。
「勉強の試験よ。巫女は、一五歳になると、試験を受けるの」
「それを受けて、どうなるんですか?」
「成績の高い人から、好きな仕事を選べるの。成績の高い仕事に就けば、もう鶏ちゃんたちとはお別れよ」
鶏小屋の掃除をしていたナスティは、手を止めた。
仕事には慣れてきた。鶏が可愛く思えてきた。
このまま、鶏小屋の仕事を一生やり続けてもよい気がする。
「セルデお姉さんは、この仕事を辞めたいんですか?」
「そう。本当は、図書館で働きたいの。それには、試験で良い点を取らないとね。勉強は苦手だけど……」
セルデの顔には、翳りが見えた。
「……点数の低い人はどうなるんですか?」
「……仕事を選べなくなる。大人になっても、ずっとここで下働き。ずっと食堂なら、ずっと料理を作り続けないといけない」
「ずっと料理を作り続けるのって、楽しそう」
ナスティは、自分が料理をしている様子を想像して、楽しくなった。
だが、セルデの表情は、ますます暗くなった。基本的には、どんな仕事に対しても、意欲的ではないのだ。
「勉強ができたら、大神殿の中で偉くなれるのよ。ほら、フィディ巫女長は“混沌の軍勢”出身だったのに、頑張って勉強して、ご奉仕をして、巫女長になったのよ。……私は大神殿にいたくないから、ここを出る仕事に就きたいけど」
「大神殿から出る仕事……!」
ナスティは閃いた。
(……ペンダントを取り返す。それから、外に出て、ジョニーを探す。ジョニーと一緒に、お母さんを連れ帰る)
ナスティの内側から熱くなってきた。
「勉強って難しい……」
セルデが教科書を見ながら、呟いた。問題集は脇に置いてある。
「問題集は解かないんですか?」
「……もうちょっと分かってから」
セルデが返事をした。
ナスティも、セルデの気持ちが分かる。
(ボクも歴史って覚えられない。シグレナスの皇帝って、皆似たような名前しているよぉ……。九十五人もいるんだよ?)
ナスティは算数や数学を得意としていた。数字であれば、必ず答えが出てくるからだ。
「何々という戦争に勝利された皇帝を答えよ」
と問われても、戦争と帝の御名がどう結びつくのか論理的に分からないのである。思考回路が、数学と違う。
ナスティは、ジョニーの姿を思い返した。
「セルデお姉さん、卒業試験の問題って、持っていますか?」
「……持っていない」
「先輩のお姉さんたちから、もらえませんか?」
「……知り合いの先輩ならいるけど。私が小さかった頃、お世話になったお姉さんがいるわ。その人はもう大神殿から出ちゃったけど」
「無理ですか……?」
ナスティは俯いた。
過去の問題があれば、傾向と対策を立てられるのに。
「あ、でも、手紙を送り合えるから、連絡を取ってみるね」
3
年上の学級に参加しても、勉強に追いつけない。算術と数学の時間は、ナスティの回答に、誰もが驚いていた。
得意科目なのである。
歴史と修辞学はシグレナスの人間でなければ知らない内容ばかりである。
修辞学は、シグレナスの文章作成術で、詩歌や公的文書の書き方を学んだ。
回答を間違えると、ベルザたちから笑われる。
「あいつ馬鹿じゃね?」
「どこから来たんだろう、あの田舎者」
「ねえねえ、これまではさ、プリムをいじめていたけど、今度はアイツをいじめようよ」
学級ごとにお茶会を開くのだが、ナスティは呼ばれなかった。
お茶会を開催する相談ですら、話の輪にいれてもらえないのである。
ベルザが、座長のように、会の中心に陣取っていた。
一人ずつ発言を求める。だが、ナスティが発言をする番になると、ナスティを飛ばした。そこに存在しないかのような扱われ方である。
(この人たちは、ボクの心を攻撃したいんだ……)
ナスティは、悔しく思った。
なるべく平然としておいてやろう、と思った。
(こんな人たちになんか負けたくない)
学級内の人間関係は最悪であった。
鶏小屋の仕事は、まだ続いている。
「卒業試験、全部もらってきたよぉ」
セルデが巻物を抱えてやってきた。
卒業試験の写し……数年分の過去問である。
ナスティは、 鶏小屋の仕事をすぐに終わらせ、早速、過去問に取りかかった。
特に、苦手科目の歴史学と修辞学に齧りついた。
(歴史学なんて、似たような問題ばかり……! 出てくる皇帝も、数人しかいない。この数人の皇帝さえ覚えちゃえば、歴史学は回答できる!)
歴史の重要な点が見えてきた気がしてきた。
毎日、鶏小屋の仕事を終わらせると、セルデと勉強会を始めた。
セルデが鶏の世話を積極的にやってくれるのである。勉強時間を捻出できた。
「あなた、勉強できるのね。ねえ、分数の足し算ってできる?」
セルデは算術と数学を苦手としていた。
ナスティは卒業試験の数学を見た。
難しい。
ナスティは、答えを先に見た。それから問題に取りかかる。
ジョニー方式である。
難問も、実は簡単な問題の組み合わせである。
問題文のどこかに、解法のヒントが隠されている。基本的な数学の知識以外に、巧妙に隠されたヒントを見つけ出す根気さが必要だと学んでいった。
ヒントの隠し方も、ある一定のパターンがあると分かってきた。
ナスティの説明に、セルデは聞き入った。
「とっても分かりやすいわ。あなた、先生をやりなさいよ」
セルデが満足そうに答える。
反対に、セルデは歴史学と修辞学を得意としていた。
図書館勤務を第一志望としているだけあって、読書量が多い。
セルデが、初代シグレナスの伝説を語り出した。
歴史、というよりも、物語を聞いているかのようだ。
教科書にも載っていないような知識をセルデは知っている。
「あなたに教えていると、知識が整理できる」
セルデは喜んだ。
物知りだが、成績が余り優秀ではない。いや、どちらかというと、よろしくない。悪い。
「私が頭が悪いのって、なんでなんだろね」
セルデが自嘲気味に笑った。
「セルデお姉さんは、好きな分野ばかり勉強して、興味の無い分野に対しては、興味がない感じがします」
「そうなのよ! よく分かるね。……どうすれば良いんだろう?」
「問題集を解いて、苦手な分野を炙り出すしか無いと思います」
ナスティは、ジョニーが隣で喋っているかのような感覚になった。
セルデは、素直な表情で、ナスティを見上げていた。
3
寒い時期が始まった。
それでも二人は勉強を続けた。
ベルザたちはお茶会をしている。そんな噂を聞いたが、ナスティは呼ばれもしていない。だが、勉強時間を確保できたので、問題はない。
歴史学も修辞学も、過去問を解き続けていると、同じ問題ばかり出されると分かった。二三年ごとに同じ問題が出てきた。
ただ、数学だけは難しかった。
毎年毎年、違う問題が出題されている。しかも、よく練られた問題を作られている。数学の出題者には、職人気質を感じた。
(数学が、上位陣と差をつける勝負どころだね)
ナスティは試験の傾向と対策を身につけていった。
授業中に、ベルザたちには笑われなくなった。ナスティが教室内で最も優秀な生徒になったからだ。
試験は、卒業試験だけではない。中間試験もあるのだ。
当然、成績が良かった。
ベルザやその取り巻きたちとは、圧倒的に点差をつけた。
巫女長のフィディに呼び出された。
「……よくやった」
フィディが退屈そうな表情で、労いの言葉をかけてくれる。
教室に戻れば、ベルザたちが待っていた。
「調子に乗りすぎ……」
わざと聞こえる声で、冷たい視線を送ってきた。
(どうにかして、ボクを悪者にしないと死んじゃう病気なのかな?)
ナスティは理解できなかった。だが、意地悪な連中を実力で黙らせる状況は、気分が良かった。
(ボクよりも二歳年上なんだよなぁ。この人たち)
卒業試験が近づいてくる。
セルデは両眼の下に黒い隈を作り、乾燥した髪は、乱れきっていた。
取り憑かれたかのように、問題集を解いている。
「カタカタカタ……」
と、意味不明の言葉をあげている。
「セルデお姉さん、そこまで根を詰めなくても……」
ナスティが心配するが、セルデは勉強を続けた。
卒業試験が終わった。
寒い季節が過ぎて、暖かくなる。
セルデは仕事もせずに、虚空を見上げていた。
(燃え尽きている……?)
ナスティはセルデを横目に、鶏に餌をやっている。
セルデは、フィディに呼び出された。
セルデは怯えた小動物のように、歯を食いしばり、両眼を見開いていた。
拒否するセルデを教師役の巫女が連れ去っていった。
「お姉さん、大丈夫かなぁ……」
ナスティは小屋の掃除をしながら、春の陽気を感じていた。
しばらくすると、セルデが暗い顔で戻ってきた。
髪は手入れが行き届いておらず、肌も荒れている。紙を握りしめ、涙を流しながら、両脚を引きずっていた。
ナスティはどう言葉をかけて良いのか分からなかった。
「お前みたいな落第生が……どうしてこんなに成績を伸ばしたのかだって……!」
セルデが口から唾を飛ばしながら喋った。
「褒められたんですか?」
「六位よ、六位。私、六位になれたの。ありがとう、あなたと一緒に勉強したから……!」
セルデに抱きつかれた。
「私、図書館で働いていいって! 長年の夢だったの……!」
号泣している。
ナスティも釣られて泣いた。