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“皇帝”

        1

「大神官様、怪我をされたのですか?」

 巫女たちが、どよめく。

「心配には及ばないよ。野原の上で転んだのだ。神々のおかげで私は無事だ。君たちの祈りが神々に届いたのだ」

と、セロンは歌でも歌うかのように手を広げた。

「セロン様ーっ」

「素敵-!」

 巫女たちが、甘い声で歓声をあげる。

「ただ、旅では注意は必要だと学んだよ。旅先では何が起きるか分からないからね。不運が起こる。いや、常に起こると考えて旅をするべきだ」

 セロンと目が合う。

 ナスティは、自分の話をされているかのような気持ちになった。

 セロンはナスティから視線を外し、さらわれてきた子どもたちに呼びかけた。

「新しく来た子たち。君たちは導かれし者たちだ。シグレナスの神々に、選ばれたのだ。もう泣くのはお止めなさい。私たちとともに生きよう」

 セロンは両腕を広げて、天を仰いだ。硝子ガラス細工のように透き通った声が、広間に響く。

 子どもたちの顔が明るくなった。

 セロンは、目を細めて、包帯の隙間から、子どもたちに優しい視線を送っている。

(……誘拐された子どもたちって、女の子ばかり……。男の子はどうなるんだろう?)

 今になって気づいた。

 ジョニーの姿が、頭によぎる。胸が締め付けられるように辛い。

 ナスティの苦悩をよそに、巫女たちが賛美歌を歌い始めた。

 高く響く声が折り重なって、シグレナスの神々を讃えている。

 セロンは、祭壇の上に座っていた。女神像……セレスティアの隣である。

 眼を閉じ、賛美歌に合わせて、律動リズムをとって手を叩く。ときには声を出して、賛美歌に参加した。

 ナスティの周りで、子どもたちが、前のめりになって、セロンの所作に見蕩れていた。誘拐された事実を忘れたかのようである。

「なんだか気分が良い。今日は、私が歌を歌おう」

 最後に、セロンは立ち上がった。

 巫女たちから拍手と歓声が起こる。

(人気者なんだねぇ)

 セロンの声が、大神殿が響き渡る。


 三柱みはしらの神々よ

 我が身を捧ぐ


 セレスティア

 アクオリオス

 ゲーテルライン


 身を焦がそうとも

 御身のため

 裂かれても

 御身のため


 三柱みはしらの神々よ

 我が身を捧ぐ


 愛を奪われても

 三柱のため

 我が身は、

 三柱のため


 拍手が巻き起こった。

 巫女たちだけでなく、誘拐された子どもたちも、熱狂的に拍手をした。

 セロンは、歌い終えて、満足げに座った。

(お歌が上手な人だね。聞き惚れちゃったよ)

と、ナスティは感心した。

 フィディが鈴を鳴らした。

「可愛い子たち。大神官様の前に並びなさい」

 いつもとは違う、優しい口調だった。

 セロンの前では、態度と口調を使い分けているのだ。

 子どもたちは喜々として、セロンの前で一列になった。

「君は、掃除当番」

 セロンが名簿を前にして、子どもたちの仕事を決める。

「君は、ゴミ収集当番」

 セロンが一人ずつ、仕事を取り決めていく。

 子どもたちは嬉しそうな表情を見せた。

 ナスティの番になった。

「君の名前は、“うんこちゃん(ナスティ)”?」

 セロンが名簿とナスティを見比べた。

 周りの巫女たちが爆笑した。

 ナスティは恥ずかしく、うつむいた。慣れているとはいえ、馬鹿にされると辛い。

「君たち、人の名前を笑っちゃいけないよ……ケホッケホ。名前よりも、仕事の話だ。君は何が得意なのかね……ケホッ」

 セロン咳をして笑いをごまかしている。

 ナスティは腹が立った。

 セロンは、名簿を見て、眉間にしわを寄せている。他の子どもはすぐに決めていたのに、ナスティの番になると、考え込んでいるのだ。

 沈黙に耐えきれず、フィディが耳打ちをした。

「この者は、分数の計算ができます。あと料理が得意とか……」

 だが、セロンはフィディの助言を無視した。フィディは気まずそうな表情をした。セロンのフィディに普段の扱いが垣間見える。

「炊事場の担当は満員だ。……鶏小屋に一人、欠員が出ているね。ナスティ。君には、鶏のお世話をしてもらおう」

 セロンは、名簿から目を離さず応えた。

 ナスティには、素直に首肯できなかった。なによりも、今の境遇、対応が気に食わない。

「ボクのお母さんや家族が、悪い人たちから酷い目に遭わされたんです。結果、ボクは、ここに誘拐されてきて……」

「大丈夫、ここにいれば安全だよ。皆で悪い人から、私たちが君を守ってあげるからね。もう安心だよ」

 セロンは、気のない口調で返事をした。

 ナスティは拍子抜けした。この人物なら、素直に聞き入れてもらえると思っていた。

「だから、ボクは誘拐されたの……!」

「何も怖くないよ」

 同じ言葉を繰り返すだけだ。

 ナスティは唖然とした。会話になっていない。

 フィディが間に入る。

「貴方みたいに嘘をついて、親元に帰すよう訴える子どもは、沢山いるの。いちいち対応していては、切りがないの。だから、大神官様はあえて無視されておられるのよ」

 フィディがセロンの心情を代弁した。

 ナスティは打ちのめされた。

 セロンなら分かってくれる。期待をしていたからだ。

「次の子、おいで」

 セロンは、次の名簿を見た。名前を呼ばれた女の子が眼を輝かせて、セロンの前に駆けてきた。

 ナスティの中で、何かが燃え上がった。

(証拠を見せれば良いんだ。証拠……ペンダント……!)

 フィディに取り上げられたペンダント。

 マグダレーナたちに襲われている映像は撮影していない。

 だが、母親のナディーンたちと一緒にいる様子を見せれば、自分がアジュリー家の人間だと証明できる。

「フィディ、ペンダントを返してください。大神官様に証拠を見せます」

 フィディに話しかける。

「次の子」

と、フィディもナスティの発言を無視した。

 セロンもフィディにとって、ナスティなど、誘拐された、と「嘘」をついて大騒ぎしているだけで、自分たちの仕事を邪魔しているに過ぎない。

「さあ、仕事が決まったら、早速取りかかってくれたまえ。神々に対するご奉仕が、この大神殿では、万金まんきんに値するのだよ」

 セロンが、手を叩く。

 舞台ステージに幕が下りてくる。巫女たちの拍手に見送られて、セロンの姿は、消えていった。

         2

 かくして、ナスティは鶏のお世話係なる大役を仰せつかったのである。

(……鶏のお世話なんて、初めてだよ)

 ナスティは愕然とした。鶏小屋から発せられる、独特な臭いの前に立ち尽くした。

 だが、ナスティは、胸の奥から、希望が湧き上がってきた。

「ペンダントを取り返す……!」

 鶏のお世話をする。お世話をして、褒められる。褒められたら、ペンダントを返してもらう。ペンダントの画像をセロンに見せる。

 目標ができた。

「ナスティです。よろしくお願いします」

 ナスティは、二人の巫女に挨拶をした。

 一人は肌が白く、長い髪は黒い。両眼の下に隈があって、疲れ切った顔をしている。

 もう一人は、背が低く、収まりきらない癖っ毛をしている。すました顔で、奇妙な模型を頭に乗せている。

「ごきげんよう、私はセルデ。野菜を切って、鶏を小屋から出して、ご飯を食べている間に、小屋の掃除よ」

 暗い顔をしたセルデが、自己紹介をした。

「わかりました。セルデさん」

「……セルデお姉さん、でしょ。ここでは、先輩の人には、お姉さんをつけるの。分かった?」

 早速、叱られた。

「あらまあ、セルデさん。そんなに怒らないで。レディーらしからぬわよ。このプロペラに免じて、お許しなさい」

 頭にプロペラを載せた巫女が、すました顔でたしなめた。

(この子は、プリム。ちょっと頭がおかしいの)

 セルデに耳打ちをされた。

 ナスティとセルデ、そしてプリムは、食堂から野菜の切れ端が入ったバケツを受け取り、小屋まで運ぶ。冷たい風で指がかじかむ。

 三人で並んで、包丁で野菜を切っていく。

(あれ、この包丁、切れないなぁ)

 錆びている。

 包丁立てから、綺麗な包丁を探したが、どれも使い古されて、黒ずんでいる。

 セルデの包丁もプリムの包丁も、錆付いているが、比較的、金属部分が多い。綺麗な包丁を自分たちで独り占めして、使えない包丁をナスティに押しつけているのである。

 ナスティは、砥石を見つけた。

 砥石で包丁を研ぐ。

「早くしなさい。仕事が遅いわよ」

 セルデが野菜を切りながら、怒った。切った野菜を皿に盛るのだが、セルデの仕事ぶりもまあまあ遅い。あまり包丁を握った経験がない。

 プリムに至っては、まったく手を動かしていない。すました顔で鼻歌でも歌っている。

(誰が、こんな錆びた包丁をくれたの?)

と、ナスティは頬を膨らませた。理不尽に対する怒りは抑えて、包丁を研ぎ終えた。

 錆はすぐに落ちた。

 野菜の千切りを始める。切れ味の良さに加え、ナスティの手際によって、次々と皿に盛っていく。

「速い……! どうして、そんなに速く切れるの?」

 セルデが驚いた。

 包丁の切れ味を良くしただけである。驚くような話ではない。

「これだけあれば充分ね。……ナスティ、鶏たちを小屋の外に出して、餌をあげて。あ、金色の首輪をしている子は、皇帝陛下から御下賜おかしされた鶏だから。失礼があってはいけないわよ」

 セルデから、皿を受け取った。

(ボクたちは、鶏以下なのね)

 ナスティは、苦笑した。

 小屋の扉を開けて、皿を外に置く。

 鶏たちが出てきて、皿の餌を奪い合うように食いついた。

 食事にありつけなかった食べられなかった鶏は、ナスティの顔を見る。

 催促しているのだ。

「はいはい、まだまだありますよぉ」

 皿を運ぶ。

 皿に群がる鶏をさておいて、小屋の掃除を始めた。

 だが、一羽だけ、小屋から出てこない。眼を閉じて、眠っている。

「ご飯の時間だよぉ?」

 ナスティが、起床を催促すると、起き上がった。

 金の首輪をしている。

「この子が皇帝の鶏……!」

 一発で分かった。帝から賜れた鶏は、他の鶏と違ってひときわ大きく、堂々とした態度をしている。

「おいでぇ、“皇帝”。一緒に皆で食べよ?」

 勝手に命名し、野菜の切れ端を持って、帝の鶏……“皇帝”の顔に近づける。

“皇帝”は、ナスティの手をかいくぐった。

 ナスティのつま先を、くちばしで突こうとした。

 ナスティが後ろに逃げると、追ってくる。

「わー! わー! つっつかないでぇ」

 切れ端を突き出したまま、後ろ向きに逃げる。“皇帝”も追いかけてくる。

「あの子、なに鶏と追いかけごっこしているの?」

 セルデが呆れている。

「あらら、あの子ったら、ポンコツねえ」

と、プリムが自分の口を押さえて笑っている。

 小一時間ほど逃げ回っていると、“皇帝”は、動きを止めた。疲れたのか、飽きたのか、怒りが収まったのか、背中を見せて、小屋に引きこもった。

(鶏って、結構凶暴なんだ……)

 ナスティは汗を拭き、小屋の掃除を終わらせる。

「疲れた……」

 ナスティは、疲労感で箒にもたれかかった。慣れない仕事に加え、主に“皇帝”との追いかけごっこで疲れた。

 セルデとプリムは、壁の陰にいて、風を避けている。

 仕事をナスティに押しつけて、サボっているのだ。

(なに、この人たち? 仕事をしないとか、信じられない)

 ナスティは腹が立ってきた。 

 鐘が鳴る。

 セルデとプリムは素早く起き上がった。同時である。

 鐘の鳴り響く音に合わせて、駆けていった。

 巫女たちは一列になっている。最後列にセルデとプリムが加わった。ナスティもその列に並んだ。

 行列の行き先は、礼拝堂だった。

 礼拝堂にはセレスティア像が飾られている。

 巫女たちは、奥の部屋から机と椅子を引き出し、並べていた。

 ナスティも加わる。

 席が完成すると、巫女たちが並んで席に着き、竈の女神と農業の神に祈りを捧げ、食事を取った。

 野菜のスープと固いパンだった。

 セルデは、つまらなさそうな態度でパンを食いちぎっている。

 プリムは、すました表情でナイフとフォークを駆使してパンを小分けに切って口にしている。

 フィディは、一番良い席で、スープをスプーンですすっていた。

 セロンの姿はない。

(ご飯を食べさせてもらっている。ボクたち、鶏と変わらないや。金の首輪をしているかしていないかくらいかな)

 午後は授業だった。

 場所は、中庭の木陰だった。

 ナスティは、同期の巫女たちと、教師の講義を聴いていた。

 教師役の巫女は、肌の黒いセトラであった。肌の黒い人種はシグレナスでは珍しく、ヴェルザンディ出身だとすぐに分かる。

 ナスティは、ジョニーを思い返して、寂しく思った。

 だが、授業は、つまらなかった。どれも知っている内容である。ナスティがもっと小さい頃に解いた問題ばかりだ。

 教師の話を無視し、与えられた問題集を解いていった。

 鐘が鳴る。

 高齢の巫女が塔の下で、紐を引っ張って鳴らしていた。

 巫女たちは、それぞれの教科書をそれぞれの部屋に投げ込み、列を作った。列がたくさんある。

 目的地は、湯気のある部屋……風呂場である。

「あんたはこっち」

 先輩の巫女に腕を引っ張られる。一番遠い列に並ばされた。

 長い時間を待つと、浴槽には、巫女たちがすし詰め状態になっていた。あぶれた巫女たちは、桶に湯を汲み、器用な手つきで配分しながら身体を洗っている。近い列ほど浴槽に入れる仕組みだ。

 ナスティの列は最も遠く、浴槽に入れなかった。

 ナスティも、自分の順番になると、前の真似をした。桶に湯を汲む。桶は自由に持っていても問題ない。

 与えられた湯は、桶一杯分である。

 お湯にタオルを浸し、外で身体を拭いた。

 ナスティはすぐにお湯を使い切った。

 入浴後は、夕食だった。

 礼拝堂では、席が並び、授業をし終えた跡だと分かった。

(礼拝堂でも授業があるのね)

 席を設置し、祈りの言葉を捧げて、パンとスープに手を出す。

 シグレナスの味付けは香辛料がなく、味がしない。だが、食は進んだ。労働したので、腹が減っているのである。

 雑談をする者などいない。

(めっちゃくちゃ厳しいんだね……)

 セロンの姿はなかった。

 就寝の時間だ。

 巫女たちで詰まった部屋で寝る。

 幸運にも、寒さはない。人口密度のお陰で、むしろ息苦しい。

 脚を伸ばすにも、他の巫女に当たる。ナスティの頬を、誰かのつま先が突っついた。

 ナスティは、丸まって寝ていたが、目を覚ますと、わりと綺麗に収まっていた。

        3

 次の日になった。

 餌を作り、鶏たちを小屋の外に誘導する。鶏不在の小屋を掃除する。

 昨日と同じく“皇帝”だけが餌に反応しない。

 眼を閉じて、倒れたままだ。

「寝ているのかな……? “皇帝”、ごめんね、掃除するよ」

“皇帝”には触れないで、周りの糞や羽毛を箒で除く。

 藁の間に、白い玉子を見つけた。いくつも落ちている。

 収穫する瞬間が楽しかった。だんだん鶏が可愛く見えてきた。

 それにしても、“皇帝”が大人しすぎる。

 ナスティは屈んで、“皇帝”を箒の先で突っついた。

 手で触れた。

 冷たい。予想以上の冷たさだ。

「……いや、死んでる-? ボク、皇帝陛下の鶏を殺しちゃったの-?」

 セルデを見る。

 脚を放り出して、空を見ている。

 ナスティに仕事を押しつけて、仕事をサボっているのだ。

(どうしよう、素直に伝えるべき? それとも、このまま無視して……)

 ナスティは狼狽うろたえた。帝は、シグレナスの最高権威でおわせられる。帝の鶏を死なせたとすれば、自分にどのような処遇が与えられるか、想像できなかった。

「あら、どうしたの?」

 プリムが入ってきた。

 ナスティは“皇帝”を隠そうとしたが、プリムの視線は、見逃さなかった。

「あら、その子……!」

「皇帝陛下の鶏が、死んじゃってたんです」

 ナスティは観念して、白状した。

「あらあらポンコツさんねえ。初日で皇帝陛下の鶏を殺すなんて、前代未聞ですわ。あなた、鶏を死なせたとなると、打ち首獄門ですわ」

 プリムが笑った。

「そんなぁ……」

「連帯責任で、ワタクシたちも打ち首ですわ……」

 プリムの笑いが止まった。表情が暗くなる。

 プリムの反応を見ていて、急にナスティは冷静になった。

 ナスティは少し考えて、“皇帝”から金の首輪を外す。

 簡単に外せた。

 近くにいる鶏を探した。

「……どうする気ですの?」

「同じくらいの鶏を探しているんです。大人しい子が良いなあ」

 一羽を捕まえた。羽をばたつかせたが、すぐに大人しくなった。簡単に、金の首輪をはめた。はめている途中、抵抗しなかった。

「“皇帝”。キミは、これから“皇帝”だ」

 大人しい一羽に話しかけた。

「別の鶏を、替え玉にするんですの?」

「プリムお姉さん、これ、ボクたちの間で内緒ですよ」

 ナスティは振り返った。

 セルデが背後に立っていた。

「ん……? どうしたの? 皇帝陛下の鶏がどうかした? 内緒って……?」

 セルデが不思議そうにしている。

 ナスティの心臓は張り裂けそうになった。

「……なんでもありませんわ、普通の鶏が死んでいただけですの。それでビックリしちゃって……」

 プリムが助け船を出してくれた。すました口調で、動揺を隠している。プリムも打ち首獄門を避けたかったのだ。

「そうなんだ。死んだ鶏は、炊事場に持って行くね」

 セルデには、本物の“皇帝”だと分からないのだ。本物“皇帝”の首根っこを捕まえて、炊事場まで歩いて行った。

「よかったぁ……。バレていないみたい」

 ナスティは、今の“皇帝”を見た。

 この“皇帝”が死んだら、別の“皇帝”に変えれ良い。できればあまり頭の良くなく、温厚な鶏を選ぶべきだ。

「誰も鶏の見分け方なんて分からないから」

 小屋の掃除を終わらせた。

「疲れた……」

 ナスティは箒に寄りかかった。セルデは帰ってこない。どこかで道草を食っているのだ。プリムも手伝ってくれない。

(最悪の労働環境だよぉ……)

 ナスティは悲しくなってきた。

 午後から授業が始まった。

 やはり、授業がつまらない。“皇帝”の死と、自分に集中する仕事からくる心労に、ナスティは目が回ってきた。

「駄目だ、寝ちゃおう」

 ナスティは眼を閉じた。

「ほら、起きて。何寝ているのよ」

「ふにゃぁ?」

 ナスティが寝ぼけていると、周りの巫女たちに笑われた。

「だって簡単すぎます」

 ナスティは小声で返した。問題集の問題はすべて解いてある。

 教師セトラが、バケツと雑巾を突き出した。

「これで廊下を拭きなさい」

 大神殿の入り口から礼拝堂までの廊下であった。

「ここをボクだけで拭くの?」

「……寝ていた罰です。綺麗にしなければ、ご飯抜きです」

 薄暗い、通路を拭く。自分の水を絞る音しか聞こえない。

 だが、やるしかない。

 サボっている暇はない。食事がすべてに優先される。次に入浴である。

「うぉおおおおおお」」

 雑巾掛けをする。

(頑張るんだ……! ジョニーの顔を見たい。ペンダントを取り返すぞ。取り返して、ジョニーの画像を見るぞぉ!)

 無心に拭く。

 バケツに雑巾を絞った。

 絞る音が通路に響き渡る。

 ジョニーを思い返すと、涙が溢れてきた。

(ごめんね、ジョニー。ボクが、シグレナスに連れてこなければ良かった。誘わなければよかった。好きになってはいけなかったんだ……)

 ナスティは泣いていた。

 泣きながら、床を拭くと、床に、自分の涙が跳ね返った。

 自分の顔を腕で拭い、自分の涙で濡れた床を雑巾で拭いた。

 後ろで、バケツがひっくり返る音がした。汚水がまき散らされている。

「あ~ら、ごめんなさい。暗くて」

 巫女の集団だった。集団の先頭が、謝っている。周りの巫女たちが、笑っている。

 ナスティよりも少しだけ年上である。

「あ、いえ、大丈夫ですよぉ」

 ナスティは汚水を雑巾で拭き取り、絞って回収した。

 鐘が鳴る。

 セルデは来なかった。許された、と自己解釈して、風呂を済ませ、食卓に着く。

 今夜のスープには、鶏肉の切れ端が入っていた。


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