死を呼ぶ名前
1
ナスティとジョニーは、木から跳び降りた。
葉が重なり、枝が裂き、音がした。ナスティは着地したが、脚を枝で擦りむいた。
「あっちだ!」
闇の向こうから、男の声が聞こえる。
「森に逃げるんだ!」
ジョニーに腕を引っ張られる。
「だめ、ジョニー、そっちには……!」
だが、すぐに取り囲まれた。
男たちが、距離を取っている。
マグダレーナが遅れてやってきた。サレトス、“脳喰らい”を伴っている。
「逃げるのが遅すぎたねえ。早くお母さんを見捨てれば良かったのに」
マグダレーナが、片方の眉毛を釣り上げて煽った。
「どうして酷い真似をするの? ボクたちが何かをしましたか?」
ナスティは、声を振り絞った。唇が乾いていた。歯が鳴る。
ジョニーの握る手が強くなった。ジョニーはナスティの前に立ち、マグダレーナを睨み付けている。
マグダレーナは笑顔になった。
優しい口調で諭すように話を始めた。
「アナタのお父さんのお父さん。お母さんのお母さん。ずっとずっと昔のご先祖様が、私たちに酷い仕打ちをしたの。その償いを、アナタが変わって支払ってもらうわ。さあ、おいで、私たちが良いところに連れて行ってあげる。……邪魔なガキは殺せ」
最後は、周りに吐き捨てるように命令した。
霊骸鎧に変身した大人たちが、子どものジョニーに近づいた。
「お願い、ジョニーを殺さないで!」
ナスティは叫んだ。
「うわっ」
ジョニーが顔を背けた。
ナスティの周りが光ったのである。
光は壁となり、敵の手をはね除けた。
張り詰めた空気が、緩くなる。
「この感じは、ジガージャ? それとも、ティーンさん……?」
ナスティは手で自分の両眼を覆った。
暗い森が、まるで朝になったかのように光り輝き、眩しい。
目が慣れてきた。
周りを見ると、マグダレーナもサレトスも、“脳喰らい”も動きを止めていた。
いや、時間そのものが停止したようだ。
ジョニーが上空を見て、驚いた。
鳥の影が空中で止まっている。
「時間が止まっている……?」
今、ナスティとジョニーだけが自由に動けるのだ。
(ティーンさんよりも、いや、マグダレーナよりも強い力が働いているの?)
光は一カ所に集約され、人間の姿になった。
白いマントを翻した、白い騎士である。
白い騎士は、自ら兜を取り、顔を振ると、銀色の髪が流れるようにこぼれ落ちてきた。
(マグダレーナと同じ銀髪……?)
だが、まったくの別人である。
ナスティは暖かい光に包まれた。
包まれた光だけではなく、振り向く顔も、朗らかで優しい。
(ボクは、ずっと昔から、この人を知っている……)
ナスティの疑問に気づいているのかどうかは謎だが、銀髪の白い騎士は、ナスティとジョニーに向き直った。
「あなたが好きにしろって……。だから、好きなようにやらせてもらいましたよ」
と、微笑んでいる。声は涼しげだったが、ナスティには、銀髪の白い騎士が男なのか女なのか見分けがつかなった。
「え……? なんの話?」
ナスティが動揺した。ジョニーと顔を見合わせる。
銀髪の白い騎士が手を広げて、肩をすくめた。
「このまま貴方たちを安全な場所まで連れて行けますけど。僕のところに来ますか?」
銀髪の白い騎士が少女のようで、少年のようにも見える。ただ、男でもない、女でもない、超越した存在である。
そもそも、実体がない。白色に輝く身体は、幽体で、向こうの森が透けて見えた。
どこか別世界か、今とは違う時間から話しかけている。ナスティは直感した。
「……行けない」
ナスティとジョニーは同時に応えた。打ち合わせをしたわけでもない。
「どうして?」
銀髪の白い騎士が首を傾げた。
「安全な場所って、ここではない、どこか別の場所……異世界でしょう?」
ジョニーが質問をした。ナスティは、ジョニーと同じ考えだった。
「よく分かりましたね。こんな小さい頃から、鋭かったんですね。さすがガルグになるだけあるなぁ」
銀髪の白い騎士が目を丸くして感心した。
「ここには、ボクたちが助けたい人たちがいます」
ナスティは、ジョニーの言葉を付け足した。
自分でも、どうしてこんな言葉が出たのか分からない。
ただ、分かる。
自分たちには、自分たちを必要としている人たちが、この世界にいる。
「俺たちだけが助かるわけにはいかないんです」
ジョニーが続けた。
銀髪の白い騎士の提案はとても魅力的である。だが、自分たちを必要としている人たちを見捨てるなんてできない。
想いは同じだった。
銀髪の白い騎士は、首をかしげた。
呆れたような、感心したような表情をしている。
「やれやれ。まったく身勝手な人たちだ、貴方たちは。自分たちの都合ばかりで、僕たちの意向など、まるで無視ですよね。振り回されるこちら側の身にもなってくださいよ。貴方たちは昔から、……おっと、今の貴方たちからしてみれば、未来かぁ。まあ、自分たちだけが助かれば良いなんて考えませんよね。貴方たちらしいっちゃあ、貴方たちらしい」
銀髪の白い騎士は、腕を組んで頷いている。勝手に納得している。
ナスティもジョニーも反応ができなかった。
「気が変わったら、またお会いしましょう。また、ここでね……」
白い光が強まる。
ナスティは、眩しさから手で自分の目を守った。
2
目を開くと、暗い森の中だった。
マグダレーナたちの姿は、ない。
別の場所に移されたのだ。
「あのお兄さん、誰だったんだろう……? お姉さんにも見えたけど」
ジョニーが、夢から覚めたばかりの表情で、口を開いた。
「あの人だよ。あの人こそ、皆が追い求めている人だよ……」
ナスティは、思いついた言葉をそのまま口に出した。自分でも意味不明な言葉である。ジョニーは反応しなかった。
ジョニーは、ナスティの腕を取った。
「どんどん距離を離そう。行けるところまで逃げるんだ」
「うん」
ナスティとジョニーは暗闇の中を突っ切った。
ジョニーは草木を躱し、確実に敵から見当たらない場所を選んでいる。
真剣な表情だ。
何も考えていない。ただ、正解をすべて選んで進んでいる。
ナスティには分かった。
(マグダレーナはボクは生かしておきたいみたいだけど、ジョニーは殺される……だから、ボクを見捨てて自分だけで逃げるのが、ジョニーにとっては正解なのに。ああ、もうジョニーに従いていこう)
ジョニーが愛おしい。頼もしい。
どうすれば、ジョニーのためになれるのか……?
(お母さんたちが酷い目にあって、何を考えているんだ……ボクは)
自分が惨めになった。ジョニーには何もしてあげられないでいる一方、母親たちを見捨てようとしているのだ。
「待て、逃げるな。お前の母親がどうなっても良いのか?」
マグダレーナの声を張り上げる。ナディーンを人質に取っている。ナスティは胸が抉られる気持ちになった。
「行こう。どうせマグダレーナは約束を守らない」
ジョニーは吐き捨てるようにナスティに呼びかけた。ジョニーは怒っている。穏やかだが
怒っている度合いは、母親を傷つけられたナスティ以上である。
(卑怯な女……! 悪魔のよう)
ナスティは、心の中で毒づいた。だが、恐怖心が勝り、怒りが湧いてこない。
目の前に、明かりが現れた。火の玉が、二つ浮かんでいる。
(誰かが松明を持っている……?)
開けた場所に出た。
ナスティとジョニーは木の陰に隠れる。
二つの明かりが近づくにつれ、霊骸鎧が姿を現した。
全身が赤い霊骸鎧“炎の角”である。
“炎の角”は、全身が鳥の羽毛を思わせる紋様をしていた。
顔には目や口、鼻がない。顔無しの両耳の代わりに、穴があった。穴から絶え間なく炎と煙を立てている。左右から立ち上る火と煙は、角のようであった。
角が明かりの正体なのである。
“炎の角”が金棒を振り回し、邪魔する木や枝をなぎ払って、ナスティとジョニーに近づいてきた。
「気づかれている……! 逃げよう!」
ナスティとジョニーは手を取り合って、反対側に向かって走った。
ナスティは視線を感じた。
上からだ。
一本の木から、巨大な蜘蛛のような存在が這い降りてきた。
“炎の角”が放つ熱気に照らされ、黒い影を見せている。
ナスティとジョニーの前に這い出た。
手足が長い、“這う男”である。
地面を四つん這いにして、“這う男”は、威嚇するかのように、自分の首を捻った。
(挟み撃ちにされた! ど、どうしよう?)
ナスティがジョニーを横目で見た。
後ろから“炎の角”が、歩みを止めた。金棒を地面に突き立て、肩を鳴らす動作をしている。
ジョニーが胸を張って進み出た。
「どっちかの奴、俺と一騎打ちをしろ!」
“炎の角”と、“這う男”とが、同時に変身を解いた。
“炎の角”は、頭を丸めた逞しい身体付きの男で、“這う男”は髪の長い、不健康そうな若者であった。
“炎の角”であった男が、進み出た。
「おい、子ども。俺様は“炎の角”ニコラス・バッドボーン様だ。このバッドボーン様は、ガキの頃、よく弟や妹の面倒を見ていたから、子どもの世話が得意だ。……まさか育児の経験がここで活かされるとは思ってもいなかったぞ」
と、金棒をしごいて近づいてきた。
(ジョニー、無理だよ。逃げよう)
ナスティがジョニーの裾を引っ張った。
だが、ジョニーはナスティに反応せず、釣り竿を投げ捨てた。
「武器なんか、いらない。お前なんて、素手で充分だ」
ジョニーは、両腕を振り上げて、戦いの構えをした。
「はは、子どもに素手の喧嘩を挑まれて、俺様が武器を持つなどできるだろうか? 恥の恥よ」
バッドボーンも、ジョニーにならって、金棒を捨て、豪快に笑った。
捨てた瞬間、ジョニーが、飛びかかった。
バッドボーンは、まるで子どもの遊びに付き合う父親のような余裕の表情であった。
「ジョニー!」
ナスティの心配をよそに、ジョニーは、バックボーンの前でしゃがんだ。しゃがんだ先には、大きな石が落ちていた。
動物的な雄叫びで、石を持ち上げ、バッドボーンに向かって投げつけた。
不意を突かれたバッドボーンは、顔に石の直撃を受けた。
崩れるように、脚から倒れる。
ジョニーは、バッドボーンに馬乗りになった。
拾い上げた石をバッドボーンの顔に叩きつける。
何度も石で殴った。
ナスティはジョニーの蛮行に目を覆いつつも、身体の底から湧き上がる熱い温度を感じた。(油断させて、有利な状況に、バックボーンを誘導したのね。……ジョニーは諦めない。凄いよ、ジョニー。どうしてキミは、そんなに強いの?)
ジョニーは、今に、世界で名を轟かすような人物になる。
ナスティは、感じた。
当のジョニーは、気が狂ったかのように、石を叩きつけている。
「もういいよ、ジョニー。大丈夫だから」
ナスティはジョニーを後ろから抱きしめた。愛おしい。自分のために、命を投げ出してくれた。考えてくれた。それだけでも嬉しい。
「うん……」
獰猛だったジョニーが、普段の優しさを取り戻した。
バッドボーンから離れ、ナスティの手を掴む。
“這う男”は途方に暮れていた。自分の同輩が、いきなり身体の細い少年に倒されたからである。
ジョニーの顔は返り血を浴びて、赤く染まっていた。何かに取り憑かれていたように、喋っている。
「ジョニー、逃げよう」
今まではジョニーが手を引いていたが、今度はナスティが手を引く番だ。
「どこに?」
ジョニーが力なく応えた。錯乱している。無理もない。人生で初めての殺人を犯したのだから。
「分からない。遠くに行こう」
ナスティはジョニーの腕を強引に引っ張った。
森の中を走る。
暗闇の中、何も見えない。木にぶつかりそうになった。
どこをどう走っているのか分からなくなってきた。
「ジョニー、ごめんなさい、これ以上、走れない」
ナスティが息を切らした。
「じゃあ、少し休もうか」
ジョニーがいつもの落ち着きを取り戻していた。
夜行性の動物の叫びが聞こえる。ナスティは、ジョニーの胸に逃げた。
不気味である。
夜の森など怖くて、近づくのも怖かったが、森の怪物よりも、マグダレーナが“脳喰らい”が恐ろしい。
あれほど恐ろしい霊骸鎧を見た記憶がない。
寒い。
冷たい風が、森の中に吹き込む。
木と枝の風の音に、ナスティは怯えた。
(このまま、どうすればいいんだろう? 皆殺されちゃった……。お母さんも、あれじゃ助からないよ)
ジョニーに身を任せて、ナスティは、すすり泣いた。
ジョニーが抱きしめてくる。
「姫。このまま逃げて、どこか農村に、かくまってもらおう」
ジョニーの身体が暖かい。抱きしめられると、ナスティは泣き止んだ。
「……マークカス王子を探してもらうのね?」
「違う。農村で働いて、お金を貯めて、どこかで畑を買おう。畑を耕して、二人で暮らすんだ」
ジョニーは明るい声を出した。わざと明るい声にしていると分かった。
ナスティはジョニーを見た。
顔に血を拭った跡がある。さっきの男……バッドボーンを殺しかけたときの血だ。
(ジョニーは凄い。さっきまで殺し合いをしていたのに、明るくなれるような未来を考えてくれる。……本当に凄い人だ)
少年の薄い胸板に、ナスティは顔を埋めた。
「姫……?」
「怖いよ……」
嘘をついた。
嬉しかった。ジョニーは、自分のためだけに考えてくれる。
ジョニーが存在するだけで、ジョニーを感じるだけで、ナスティの恐怖が吹き飛んでいく。
「大丈夫、俺がなんとかする。命に代えても、姫を守る。遠くに逃げよう。誰にも知られない場所で、二人で暮らすんだ」
ジョニーに髪を撫でられた。
ナスティは涙が溢れた。言葉を返せない。
「俺とじゃ、いやかい……?」
ジョニーが残念そうに訊く。
これ以上、ジョニーを悲しませたくない。
「うん。二人で暮らそう。ボクも頑張る。頑張って農家になる。ついでに、羊も飼おう? 動物たちに囲まれたい」
ナスティは顔を上げて、ジョニーに笑顔を見せた。涙で情けない顔になっている、と自分でも分かった。
「姫、俺たち、結婚……うわっ」
突然、ジョニーとナスティが吹き飛んだ。
3
何者かが、後ろからジョニーを蹴り殴り飛ばしたのだ。
ジョニーが、肩を押さえ、うずくまる。
「ジョニー?」
ナスティはジョニーに手を伸ばす。
蹴った相手は、マグダレーナであった。
「ようやく見つけたぞ。あまり手こずらせるな。子どもが、見知らぬ森で、どうやって逃げおおせると思ったのだ?」
煽るような口調で、マグダレーナが、ジョニーの頭を踏みにじった。
隣で頭に包帯を巻いたバックボーンがジョニーを睨み付けている。
「やめて、ジョニーを殺さないで」
ナスティは悲鳴を上げた。背後から男たちに腕を絡め取られた。
「よせ、姫に手を出すな。姫を解放しろ」
地面の泥に顔を汚し、ジョニーは叫んだ。怒気がこもっている。
「ふん、小僧。お前は奴隷だろう? ……金をやる。命が欲しければ、さっさと消えろ。おい」
マグダレーナが合図をすると、部下の一人が、小袋を投げた。
ジョニーの目前に金属音を鳴らして、落ちた。ナスティの代金にしては、安すぎる。
「こんな端金なんて受け取らないぞ! それに、俺は、姫の奴隷じゃない。……結婚するんだ。一生、一緒にいるって、心から誓ったんだ」
ジョニーが叫んだ。
ナスティは涙を流していた。
嬉しさと悲しさが同時に溢れ出る。
「お前らは何がしたいのか、俺には分からない。でも、姫を、姫の家族を苦しませるようなら、お前らは悪い奴らだ。絶対に許さない!」
ジョニーが続けた。ジョニーの声が森に鳴り響く。
誰もが、ジョニーの言葉に、迫力に圧倒されていた。
「ふふん、姫の恋人だとして、お前は何者なのだ?」
マグダレーナが妖艶な声で問い詰める。
「俺の名前は、ジョニー」
「ふん、妙な名前だな」
「笑うな。ジョナァスティップ・インザルギーニ。姫がつけてくれた名前だ」
マグダレーナの顔が引きつった。怒りが、冷たい陶器に入ったヒビのように、みるみる広がった。
「……なんと恐れ多い名前なのだ? 我らが神を、インザルギーンを、墓に入れるだと? 誰か、このガキを殺せ! いいや、待てよ。殺すよりも良い方法がある。……おい、誰か、母親の指を切り落とせ」
マグダレーナが命令した。
首輪をつけられたナディーンが、引き出された。
四つん這いで、動物のような唸り声を出している。表情は憎しみに溢れ、知性のかけらもない、ただの野獣に成り下がっていたのである。
(お母さん……! 酷い……)
ナスティは涙が吹き出そうになった。
人の尊厳を踏みにじる。これほど邪悪な意思を持った存在は、ナスティにとって初めてであった。
霊骸鎧の一人に左腕を掴まれ、地面に叩きつけられた。
短刀を、ナディーンの小指にあてがう。
「いや……! お母さんを傷つけないで」
ナスティが懇願した。
「……お前の返答次第だ。もちろん、無料では止めるわけにはいかん」
マグダレーナが勝ち誇った表情を浮かべた。悪魔を体現したかのような、邪悪な笑みを添えている。
「なんでもします。謝るから、お母さんを許してあげて!」
「ほほう。ならば、出でよ、“脳喰らい”! あの忌々しいガキを好きにしていいぞ」
“脳喰らい”は地面に手を突き、ジョニーに這い寄る。細い指でジョニーの頬をなぞった。
ナスティには、性的な仕草だと分かった。
(中身は女……?)
ナスティは気色の悪さに嗚咽をした。
「さあ、お姫様。今から、このジョニーの記憶を奪おうと思うの。お姫様が命令するだけで、“脳喰らい”は指示に従うわ」
マグダレーナがまるで侍女であるかのように振る舞った。
「……ジョニーの記憶を奪う?」
ナスティは全身に冷気が吹き抜けた。歯が鳴った。外気の寒さが原因ではない。
「ジョニーは姫を忘れるの。跡形もなく、ね」
「無理です。止めてください」
「生意気を申すでない。穢れた血を引く、浅ましき咎人の分際が、この私に刃向かおうとでも?」
「本当にボクたちは何も罪なんて犯していません」
「では、母親の指を切り落とすぞ? どちらかを選べ。愛する男の記憶か、母親の指か」
「……選べません」
「ならば、死ね。おい、“脳喰らい”。女のガキを喰っても構わんぞ。生きたまま脳みそを喰われるが良い」
“脳喰らい”がジョニーからナスティに狙いを変えた。
「止めろ、姫に手を出すな!」
ジョニーは暴れた。
“脳喰らい”が細長い指を、ナスティの頭に食い込ませた。
「痛い、痛い……割れちゃう」
鋸で頭を引かれているような痛みが走る。
「やめろ、いっそ、俺を殺せ」
ジョニーが叫んだ。
「聞こえんなぁ」
マグダレーナが聞こえないふりをした。笑っている。
「おい、マグダレーナ。いいよ。やれよ。俺の記憶を奪いたいんだろ? だったら、やれよ」
ジョニーが諦めた口調で応えた。
ナスティは解放された。痛みでナスティは泣いていた。
“脳喰らい”はナスティなど眼中にないかのように、ジョニーに向き合った。
「ほらほら、愛しのジョニーくんもお願いしているわよ? あなたもお願いしなきゃ?」
マグダレーナが容赦なく詰めてくる。
解放されたナスティは息も絶え絶えだった。
「……ジョニーの記憶を消して」
「偉そうに命令するな。ザムイッシュのメスガキが。消してください、お願いしますだろう?」
マグダレーナが爆発したかのように怒った。
「ジョニーの記憶を消してください、お願いします」
「はい、良くできました。さあ、“脳喰らい”。早くジョニーくんの記憶を消してあげてね」
マグダレーナが明るく手を広げて、小躍りをした。
周りにいた男たちは、ジョニーから離れた。巻き添えを食らわないためだ。
“脳喰らい”は大好物を見つけた軟体生物のように、ジョニーに、近づいた。
ジョニーの顔は恐怖で包まれていた。
「ごめんなさい、ジョニー。ごめん……! ボクなんかのために……」
ナスティを守るために、自ら生け贄になったのだ。
「いいんだよ、姫が無事なら、俺、何もいらない……。姫、愛しているよ。俺は絶対に絶対に忘れない。大丈夫、大丈夫だから……!」
ジョニーが笑顔になった。無理矢理に笑顔を作った。
(ナスティを心配させないため……? ボクを恨んでも良いのに)
“脳喰らい”は、ジョニーに手を突きつけた。
ジョニーが悲鳴を上げた。
その場でのたうち回る。
この場に居合わせた者誰もが、耳を塞ぎ、眼を閉じた。ジョニーに殴られ、頭から血を吹き出しているバックボーンですら、絶望的な表情になっている。
だが、マグダレーナだけが笑っていた。
「はっはっは。“精神破壊”は、記憶を削る。頭を金槌で殴られるような痛みなのだ。見るが良い。賤しいアジュリー家の醜い子どもナスティよ。お前のせいだ。お前のせいで、お前の最も愛する男が悶え苦しむのだ」
「やめて、お願い……。そんな、ボクのせいで、ジョニーが苦しむなんて……!」
ナスティは耳を塞ぎ、眼を閉じた。
ジョニーが叫んでいる。
「いやだ、俺は姫を……姫を忘れたくない。俺は君を……ナスティ……!」
体温をすべて振り絞ったような声で、最後の言葉を発した。
(ボクが一番呼んで欲しかった名前……!)
ナスティは、ジョニーを見た。
「はっはっはっは。“ナスティ”か。良い言葉を聞いたぞ。おい、“脳喰らい”。“ナスティ”を、“死の覚え書”にしろ」
マグダレーナが“脳喰らい”に命令した。
「だめ、その言葉を“死の覚え書”にしないでぇ!」
ナスティの悲鳴とは反対に、ジョニーは、静かになった。
地面に伏せたまま、起き上がらなかった。