“脳喰らい”
1
「“編笠”よ。行けい」
マグダレーナが命令をすると、後ろに控えていた緑色の頭巾が、前に進み出た。
自らの頭巾を剥ぎ取ると、異民族の男が現れた。
体格は細く、異国風の着物に身を包み、平たい顔には細い両眼があり、長い黒髪を後ろに束ねている。
マグダレーナが、ナディーンたちの前に踏み込んだ。
「ナディーン女王陛下に提案申し上げる! こちらのスローニン・カサハリが、一騎打ちを申し込みたいと申してきました。いかがだろう? もしこのカサハリを打ち倒せば、私たちは手を引きます。これ以上、お互い無駄な戦いをしても意味がありません」
“桜花騎士”ナディーンは、ジョルガーに同意を求めた。
ジョルガーは、頷いた。
ナディーンも、同意する。
敵味方、双方ともに戦いを中止した。
敵味方とも、ナディーンとカサハリを挟んで、二列になった。
「お母さんとあの人が一騎打ち……?」
ナスティは、木の上でジョニーと抱き合いながら、戦いを見守っていた。
「斬り捨て御免……!」
カサハリは印を組み、霊骸鎧“編笠”に変身した。
頭には、円形の盾が乗ってる。盾の中央は膨らんでいて、頭部の半分を隠している。
手を突き出すと、長刀“物干し竿”が現れた。
“物干し竿”は、“編笠”よりも二倍の長さはあった。
鞘ごと眼前で一回転させ、腰に下げる。
刀の柄を握り締め、腰を深く落とした。
「あの構えは?」
マグダレーナがサレトスに訊いた。
「“居合抜き”です。鞘に収めた剣を一気に引き抜いて、攻撃します」
「……どうして一回出した刃を、鞘に入れ戻した?」
マグダレーナが困惑した。
ナディーンは、スカートをたくし上げる動作をした。
「お母さん、本気だ……!」
ナディーンは剣をまっすぐ構え、“編笠”の正面に向かうと見せかけて、頭上に跳んだ。
木々の中に紛れ込んだ。
街道は、森に囲まれている。マグダレーナたちは、ナディーンを見失った。
枝と幹を蹴る音がする。
ナスティが眼を閉じると、木と木の間を、高速移動するナディーンの影が見えた。
「お母さんの“落花流水剣”だ……!」
“編笠”は“物干し竿”を構えたまま、微動だにしない。
「サレトス。カサハリが身動きをしないぞ?」
「問題ありません。ナディーンは“女詠剣”の使い手。“落花流水剣”を撃ってくるでしょう」
「“落花流水剣”? 知っているのか、サレトス?」
「子連れの女がつかう剣です。外敵に襲われたとき、子どもを木の上に隠し、自らも木の上に隠れます。木の上から攻撃する技です。……スカートをたくし上げる動作は、女の剣であった名残だと聞いてます」
サレトスの解説通り、ナディーンは木の上で、“編笠”の背後をとった。
全身を回転させ、一気に飛び降りる。
横回転するナディーンの持つ剣が、“編笠”の首を狙った。
だが、“編笠”のは反応は早かった。
すぐに向き直り、引き抜いた“物干し竿”で、下から上に斬り上げた。剣の軌道が雷光のように煌めき、ナディーンの胸を斬りつけ、火花を散らした。
ナディーンは、空中で錐もみして、地面に叩きつけられた。
(お母さん!)
ナスティは、心の中で悲鳴をあげた。叫んで居場所を知らせる愚かな真似はしない。だが、ナディーンを助けようと、身体が反応した。
「姫……! 駄目だよ。じっとしていて」
ジョニーが静かにさせた。
「そんな……! お母さんの“落花流水剣”が破られるなんて」
どんな敵でも必ず倒してきた必殺技だったのに。
サレトスが、マグダレーナに耳打ちをする。
「あれは“燕返し”といい、飛んできた敵を打ち落とす、対空技です。“落花流水剣”は強力な技ですが、対空技の前では無力と、以外と弱点は多いのです」
「ふふん、“編笠”よ、やるおるわ」
マグダレーナが満足げに鼻を鳴らした。
ナディーンが、立ち上がった。
剣を杖代わりに、震える足を支えている。
ナディーンの剣が白く煌めいた。星のような光が、刀身に走る。
「奴の持っている剣は、“星白の剣”です」
サレトスが驚いた声を出した。
「あらゆる魔を断つという世界最強の武器か……。霊力の消費具合で強化する。そういえば、大昔に、こんな杖があったな。普段はただの杖だが、霊力を込めれば威力が向上する。支配者級であれば、地上最強の武器になるという」
「“理力の杖”ですね。ただ、霊力消費型の武器は、制御が難しいです。“星白の剣”は、どれだけ霊力を消耗するか、使用者には指定できません。一度振っただけで、すべての霊力と生命力を使い果たし、死んだ者がいます」
「ふむ、ナディーンにとっては賭けのような話だな。……あれほどの重傷だ。一度攻撃してしまえば、命が足らんて」
マグダレーナの分析とは違い、ナディーンは、両脚を広く構え、剣を右肩に担いだ。
「むっ。あれは、“片翼円舞剣”」
「知っているのか? サレトス。ナディーンは左肩が隙だらけだぞ?」
「わざと隙だらけにします。自分の左肩を攻撃させるのです。反撃で、敵の頭を叩き割ります。自分の半身が犠牲になりますが、その代わり、相手は確実に死にます。相打ち狙いの技です」
「……ある母鳥は、片方の翼が怪我をしたふりをして、自分の子どもを外敵の標的から外れさせるという。……まさに、“女詠剣”。女の剣だ。敵ながら、天晴れ」
マグダレーナは、ナディーンの剣技に感心した。
ナディーンと“編笠”は睨み合ったままだ。
ナディーンも、“編笠”も、反撃狙いなのである。
膠着状態が続くと、先に“編笠”は変身を解いた。
ナディーンに背を向けて立ち去った。
「どうした?」
マグダレーナが疑問を呈する。
「……これ以上の戦いは無益な話でござる。何度やっても拙者が勝ち申す。無駄に命を落とすまでもありません」
「戦え。戻れ」
「……くどい」
カサハリがあぐらを掻いて、腕を組んだ。
マグダレーナの命令を聞かない。カサハリは独自の美学を持っているのだ。
「ふん、カサハリは頑固だからな。あい分かった。ナディーン女王陛下。こちらは交代とさせていただく」
「卑怯だぞ。……一騎打ちを途中で放棄するのならば、我々の勝ちだ」
変身を解いていたジョルガーーが抗議した。
「ならば片腕……! 次の奴は片腕だけで勝負してやる」
マグダレーナが、指で合図を送る。
後ろに控えていた青い頭巾が進み出た。
「なんだ、アイツは……!? めちゃくちゃ強いよ?」
と、ジョニーが呻いた。ナスティは胸を殴られたような気になった。
あの青い頭巾は危険だ。“編笠”カサハリよりも、遙かに強い。
ナディーンが変身を解いて応えた。
「誰が出ても、私の勝ちは揺るがない。だが、約束を必ず守れ。私が勝っても負けても、子どもたちに手を出すな」
ナディーンは憔悴していた。顔は青ざめ、顔全体には、しわができている。まるで、数秒間のやり取りで、老化したかのようだ。
「良かろう。子どもたちには手を出さん。約束しよう」
マグダレーナが邪悪な笑みを浮かべた。罠に掛かった獲物を見るような目であった。
(約束を守る気はない、この女は絶対、約束を守る気はない。駄目、お母さん。マグダレーナの意見に従っちゃ駄目……!)
ナスティは、祈った。
「かまわん。早くしろ」
ナディーンが苦しげに応えた。
“星白の剣”に、霊力を吸い取られているのだ。さっきの“編笠”の攻撃を食らい、長時間の戦闘は不可能と判断したのだった。
いや、判断力そのものが落ちている。
「良かろう。では、史上最強の霊骸鎧をお見せしよう。……出でよ!“脳喰らい”!」
2
マグダレーナが勝ち誇った表情で、霊骸鎧の名前を呼んだ。
青頭巾は、マントを突き破った。
みるみる巨大化し、成人男性の二倍ほどの大きさになる。
“脳喰らい”は、法衣を身につけた僧侶のようであった。 だが、頭部が普通の僧侶と違っている。
蛸であった。
顎部分から、蛸の触手が髭のように生えている。
髭の隙間から、嘴が飛び出てきた。
嘴が開く。
(蛸なのに、霊骸鎧なのに、口があるの?)
嘴から、煙が放出された。煙は空気に混ざる。
「臭ぇ……」
敵の一人が、苦しげな声を出した。次々と鼻を押させた。
血の臭いだ。
魚の腐った、生臭い血……。
ナスティは、咳を我慢した。
マグダレーナに従う人間たちは、苦しんでいた。ジョルガーも、ガトスも、ヤジョカーヌの身体から煙が出て、“脳喰らい”に集まっている。
ジョニーも苦しげな表情をしている。
(ジョニー?)
(大丈夫だから……)
ジョニーが強がった。ナスティよりも明らかに辛そうな表情をしている。
(皆の霊力を吸い取っている……?)
どういう原理か分からないが、臭いを嗅いだ者から霊力を奪い取っている。
“脳喰らい”は唐突に、顎を上空に向けて、叫んだ。
犬や狼の遠吠えを思わせる咆哮は、ドス黒くも重たい金属音が混ざっていて、この世界が終わりであるかのような絶望と怒りとなり、周囲に響き渡った。
ナスティは、腹の奥底を押し潰されているかのような苦しみを受けた。
聞いた者は皆、恐怖している。
霊骸鎧を身につけている者たちは、耳を押さえている。生身よりも、聴覚が過敏になっているためだ。
貝肉の霊落子、サレトスも耳を押さえている。どこに耳が付いているのか分からないが。
咆哮が長く響く。
(霊骸鎧なのに、口から音を発するなんて……! こんな霊骸鎧、初めて見た!)
ナスティは恐怖に震えた。
抱きしめ合うジョニーから、優しい霊力を感じた。
ナスティは安心感を得た。台風に巻き込まれて、安全な場所を見つけたかのようだ。
咆哮が終わった。
「素晴らしい音色だ。ザムイッシュ……人類に対する怒り、憎悪、軽蔑、嫉妬……。すべてが詰まっている。最高の調和である」
マグダレーナだけが、心地よい音楽を聞いているかのように、うっとりとしている。
“脳喰らい”は、何事もなかったかのように、動き出した。
ナディーンを睨み付けて、ゆっくりと大股に歩き出す。
ナディーンは、剣を横に振った。斬撃が光の軌道を残して、“脳喰らい”の首を刎ねる。
頭を失った胴体は、音を立てて倒れた。
「やった……?」
ナスティの呟きを、周りの人間が、どよめいてかき消した。
“脳喰らい”の胴体はしばらく動かなかった。
「おい、あれぇ……?」
誰かが指摘すると、細い腕が、動きだした。
人間の骨ほど細長い指が地面を這う。
転がった頭部に手が届くまで、“脳喰らい”の胴体は匍匐前進をした。
自分の頭部をつかみ取り、自分の首に据え付ける。
だが、なかなか接着しない。
何度か試してみたが、面倒くさくなって、自分の頭を小脇に抱えた。
蛸のような頭部から、憎悪に満ちた眼差しをナディーンに送っている。
マグダレーナが勝ち誇った笑い方をした。
「ふふん、普通の霊骸鎧であれば、首を斬り落とされては生きてはいけまい。だが、“脳喰らい”は“不死身”なのだ。行け、“脳喰らい”。史上最強の霊骸鎧よ。お前の能力、“精神破壊”を喰らわせてやるのだ」
“脳喰らい”は、右腕を突き出した。
手のひらを眼前に突き立てられて、ナディーンは自分の頭を押さえ、苦しんだ。
弾け飛ぶ音がした。
ナディーンの“桜花騎士”から煙が出る。生身のナディーンが現れた。
普段の、ナディーンではなかった。
ナスティには、ナディーンがいつも限界で追い詰められたような表情をしている、と思っていた。
だが、今は、すべての悩みから解放されたような表情をしている。
「なにこれ……? どうして私、ここはどこ……? 痛い……。あれ、怪我をしている」
剣を見て、不思議がっている。
「ふふふ。ナディーンめ。もう私たちを忘れたな」
マグダレーナが笑っている。
「貴方たちは、どなたですか? ……早く家に帰って、お夕飯の準備をしないと。急いでいるので、帰らせてください」
ナディーンの様子がおかしい。声色も若く、まるで娘時代に戻ったかのようだ。
“脳喰らい”が、ナディーンに近づく。手を広げ、誘拐犯のような怪しい動きである。
(お母さん……? どうしたの? 逃げて、早く!)
ナスティは心の中で願った。
“脳喰らい”の後ろから、大きな影が飛んできた。
“円盤投げ”のガトスである。
“脳喰らい”を羽交い締めにしようとしたが、“脳喰らい”はまた“精神破壊”を放った。
ガトスは煙に包まれ、生身の姿に戻った。変身が解除されたのだ。
「何が起きているの?」
ナスティの疑問をそのままに、ガトスが慌てて、変身をしよう、と印を組む。
だが、何も起こらない。
マグダレーナが笑った。
「残念だったな、蛮族の男。お前は、変身のやり方を永遠に忘れてしまったのだ。喰らった者の記憶を破壊する。……これが“脳喰らい”の能力、“精神破壊”なのだ! これぞ、私が研究を重ねて開発した最高傑作の霊骸鎧、“脳喰らい”。究極の霊骸鎧……世界最凶にして、世界最恐の霊骸鎧なのだ」
マグダレーナの高笑いが、森に響く。
敵味方ともに、“脳喰らい”の能力に驚愕した。
(お母さんも、ガトスも、記憶喪失になったの?)
“脳喰らい”の首から、骨が飛び出ている。自分の頭部を王冠のように、高々と持ち上げる。頭部の下部……首を飛び出た骨に、突き刺した。
首を両手で左右から叩いたり、回したりして、調整している。
首が据わらないまま、跳んだ。性格は大雑把なのだ。
骨のように細長い両腕両脚が法衣から飛び出して、生身のガトスに飛びつき、絡みつく。
ガトスが、野太い声で、悲鳴を上げた。太い筋肉質の腕で、“脳喰らい”を引き剥がそうとするが、無意味であった。
“脳喰らい”の嘴が開いた。いや、嘴が裂けて、顔が横半分に開いた。
ガトスの頭に食いつく。
頭を包まれたガトスは、首から上が見えなかった。“脳喰らい”の顔を叩いている。
だが、骨や肉が噛み砕かれるような音がすると、糸の切れた人形のように、手足をだらしなく垂れ下がっていた。
“脳喰らい”が、ガトスを放り捨てた。ガトスの首はなかった。首を失った胴体から、止めどなく血が溢れ、吹き出す。
ナスティは胃液が込み上げてきた。
兄のような存在だったガトスが、あっけなく死んだ。一瞬で、ただの肉塊となった。
“脳喰らい”は満足げに月に向けて、身体を反らした。
首から青い煙を出している。
首の傷が修復していった。顔を左右、横にして、首を鳴らしている。
「“脳喰らい”の能力は、“精神破壊”だけではないぞ。お前らザムイッシュの脳を食らうのだ。脳を食らえば、力を取り戻し、さらに強くなる」
マグダレーナが笑った。敵味方問わず、笑っている者はいなかった。全員が、この規格外の霊骸鎧に恐れていた。
「もはや霊骸鎧じゃねえ。霊骸鎧の姿をした、化け物じゃ……」
「一体だけで、どれくらい能力をもっているんだ……?」
マグダレーナ配下の人間たちは口々に評価した。
“脳喰らい”に、“脱皮”ヤジョカーヌが飛びかかった。
倍の身体もある相手に馬乗りになった。
ヤジョカーヌは怒っていた。たとえどんなに力量差があろうと、ひるまない。
何度も短刀を胸に突き立てた。
ヤジョカーヌはガトスを愛していた。その相手を殺したとなると……。
「無駄な足掻きを……。“脳喰らい”、“精神破壊”だ」
マグダレーナの命令を受けて、すぐに“脳喰らい”は手を突きだした。ヤジョカーヌが脱皮して、逃げる。充分に距離をとった。
だが、すぐに変身が解けた。生身の姿になり、足をもつらせて倒れる。
「そんな……! 離れていても、“精神破壊”が通用するなんて……!」
ナスティは苦しくなった。
“精神破壊”の有効範囲が広い……。
“脳喰らい”が、憎悪に満ちた赤い目を淫らに緩ませて、静かにヤジョカーヌに近づく。
「やだ……。やめて……」
ヤジョカーヌが涙を溢れて懇願する。子どもに戻ったかのようである。
ナスティは眼を閉じ、耳を塞いだ。
つんざくほどの悲鳴が、森中に響き渡る。
3
(逃げよう、逃げるんだ。姫……!)
ジョニーがナスティを抱きしめ、小声で促す。
(でも、お母さんが……!))
ナスティがナディーンを見た。ナディーンは子どものように、殺戮現場を見て慌てふためいている。
ジョルガーが、ナディーンの前に立ち塞がった。
「おい、ジジイ。子どもたちを差し出せ。そうすれば命だけは助けてやる」
マグダレーナが、ジョルガーに命令する。横柄な口調であった。
「子どもたちには手を出さないという約束であろう? なぜ差し出せと申すのだ?」
変身を解いていたジョルガーが怒った。
「知ったことか。小うるさいジジイめ。……やれ」
マグダレーナは口の片方を引きつらせて笑った。
ジョルガーは“精神破壊”を食らった。
“脳喰らい”が横を通って、ナディーンに近づいるのに、視線の焦点が合わない、呆けた表情で夜空を見上げている。
「ティーンさん……!助けて、ティーンさん」
ナスティは祈った。
(お嬢ちゃん、かなりやべー奴に捕まったな。待っていろ、助けてやるから)
ティーンの声が聞こえた。いつもと違い、動揺している。
「その声は、ティーン! 貴様、見ているな?」
マグダレーナが天に向かって叫んだ。
「“聖母”。ティーンとは誰ですか?」
サレトスが驚いた声を出す。
「うむ。サレトスよ。ティーンとは“異世界転生者”だ」
「“異世界転生者”ですって? “異世界転生者”は無双する……。“異世界転生者”に勝てる者は、この世にいません」
サレトスが動揺した。
「ティーンさんって、“異世界転生者”だったんだ……!」
ナスティは驚いた。“異世界転生者”の物語を聞いた記憶がある。無数の物語に登場し、絶対に負けた試しがない。
(やった、ティーンさんなら、マグダレーナに勝てる……! あの“脳喰らい”にも……!)
ナスティは安堵した。
マグダレーナが印を組んだ。
マグダレーナの顔が二つに割れた。中から触手が飛び出てきた。触手は硬質化し、木の根を逆さまにしたような形状になった。
「ティーン……奴と私は、何度も何度も異世界に生まれ変わり、気が遠くなるほど、戦いを繰り返してきた。ときには勝ち、ときには負けた。いわば、私と奴とは旧知の仲よ。だがな。サレトスよ。“異世界転生者”は、ティーンだけではないぞ……!」
マグダレーナが、いや、マグダレーナの胴体部分が手を広げた。
禍々しい風が、嵐のようにマグダレーナから吹き出してきた。
焦るティーンの表情が、ナスティの脳裏に思い浮かんだ。
(まずい、マグダレーナに、おじさんの居場所が知られた。まもなく、マグダレーナの配下がこっちに来るだろう。……すまない、お嬢ちゃん。すべて、おじさんの力不足だ。おじさんが、損害を、最低限に抑えるから、早く逃げろ……なんとかして生き延びてくれ)
ティーンの悲痛な言葉が、ナスティの頭に響く。
「今回の私は、これまでに何度も準備をしてきた。だが、今回の彼奴は……無力な老人にすぎん。……ほれ」
マグダレーナが印を組んだ。
ナスティの指の中で、“祈りの指輪”が砕け散った。
同時に、ティーンが呻く声が聞こえた。
その代わり、映像が見えた。
鼻から血を出して、倒れているティーンであった。
マグダレーナが、ティーンを見下し、笑っている。不倶戴天の敵を圧倒した自分の強さに酔いしれているのだ。
「ティーンさんが負けた……? ティーンさん、あなたは最高の人物じゃなかったの? “異世界転生者”なんでしょ……? マグダレーナには敵わないの……?」
ナスティの悲痛な叫びに、ティーンからの応答は、なかった。
マグダレーナが人間の顔に戻っていた。長年の宿敵を打ち破って、小躍りをして喜んでいる。
「おい、“脳喰らい”。ナディーンの精神を徹底的に破壊しろ。獣並みの知能にするのだ。生きたまま、知能のない愛玩動物として飼ってやる」
だが、ジョルガーが歩み出た。
“脳喰らい”の腕を掴んだ。
朦朧とした表情であったが、掴む力は強い。
「ほほう。ナディーンを忘れても、ナディーンを守る気持ちは忘れていなかったか。おい、ジョルガー。その女の名前を覚えているか?」
「……知らない」
ジョルガーが空虚な視線でナディーンを見ている。
ナディーンもジョルガーが誰か分からない素振りを見せている。
「知りたいか?」
マグダレーナがおどけた声を出す。
ジョルガーの呆けた顔が、急に真剣な表情になった。生き血の通った、いつものジョルガーである。
「ならば、教えてやる。その女の名前はナディーンだ」
「ナディーン……!」
ジョルガーの呆けた顔に、血色が戻ってきた。
「思い出しましたぞ、女王陛下! ジョルガーは、ここにおります……ぐふっ」
ジョルガーは、口から赤い塊を吐いた。
「なんだと……? なんだこれは?」
ジョルガーは口を拭った。目から涙を流している。涙は赤く、血そのものであった。
鼻と耳から、血がが噴水のように出てくる。
ジョルガーは、顔面のあらゆる場所から血を噴き、前のめりに倒れた。
「ジョルガー爺?」
優しかったジョルガーが死んだ。いや、ガトスも、ヤジョカーヌも、あっけなく死んだ。もう三人と思い出を作る機会が亡くなったのだ。
ナスティは、泣けなかった。泣くよりも、恐怖が勝っていた。
マグダレーナが高らかに笑った。
「サレトスよ。“脳喰らい”の“精神破壊”は、究極にして最強の攻撃方法だ。相手の記憶そのものを破壊してしまうからな。だが、弱点がある。何か分かるか?」
「……周りの者に教わったら、記憶喪失が治るのでしょうか?」
「そうだ。周りの奴らは覚えていては、記憶喪失など無意味なのだ。だが、“脳喰らい”の“精神破壊”には“返し”がある。“死の覚え書”が設定されている」
「“死の覚え書”?」
「“精神破壊”を喰らい、“死の覚え書”を自ら口に出した者は、血を吹き出して死ぬ。“精神破壊”が発生すると同時に、特定の言葉を設定できる」
「さきほどのジョルガーにとって、“ナディーン”は大切な言葉だったので、その言葉を吐いたジョルガーは死んだのですね」
サレトスは納得した口調で応えた。
(そんな! ジョルガーにとって一番大切なお母さんが、死を呼ぶ言葉になるなんて! 残酷すぎるよ)
ナスティはマグダレーナと“脳喰らい”の残酷さに恐怖した。……人を人間を、まるでゴミのように扱っているのだ。
「おら、降りてこい。いるのは分かっているんだぞ?」
マグダレーナがナスティたちに声を掛けた。
「……降りてこなければ、お前の母親はますます記憶を失うぞ? もっとも、今では廃人だがな」
“脳喰らい”がナディーンに“精神破壊”を向けた。
ナディーンは、動物のような悲鳴をあげた。死にかけている昆虫のように、背中を地面につけ、手足を地面に叩きつけて転げ回った。
「痛かろう、辛かろう。記憶を失うのだからな、頭を金槌で殴られるような痛みだ」
マグダレーナが笑う。
「逃げよう、姫」
ジョニーが手を引っ張る。
「だめ、お母さんを見捨てられない」
「もう無理だ。俺たちでは助けられないよ……!」
「だって……!」
ナスティは、ジョニーの手を振り払った。
ポコチーの籠を落とした。地面にぶつかって、木製の籠は砕けた。
中からポコチーが力なく、震える前足を出して、這い出てきた。
「ぽこちー、逃げて」
ナスティが叫ぶ。ポコチーは片足を引きずって、茂みの中に逃げ込んだ。
「はは、猫なんぞどうでもいい。子どもを狙え。女のガキだ。生け捕りにしろ。男のガキは殺しても構わん」
マグダレーナが笑いながら、周りに命令をする。
“脳喰らい”が、片手をナスティとジョニーに向けた。
だが、ナディーンが“脳喰らい”の脚にしがみついた。
動物のようなうめき声を出している。恫喝するような、威嚇するような声である。
言葉すらなかった。
人間性すら失ってしまったのである。
だが、ナディーンは髪と髪の隙間から、ナスティを見た。
悲痛ながらも、愛情のある視線だった。
「逃げて」
目が感情を表現するのなら、ナスティにはそう聞こえた。
「逃げよう、姫! とにかくここから離れるんだ」
ジョニーに腕を引っ張られる
ジョニーは木の枝と枝の間を飛んだ。隣の木に移った
「ほら、早く」
ジョニーが催促する。
「さあ、鬼ごっこの始まりだ」
と、マグダレーナが笑った。