罪人
1
宿に戻った。
部屋の中で、ナディーンは腕を組み、怒りに顔を歪ませながら、ナスティとジョニーを見下ろしている。
隣で、ジョルガーが申し訳なさそうな顔をしている。
「何をしていたって、その……」
ナスティは言葉を詰まらせた。
自分が罪人になったような気分である。
だが、ナディーンは受け入れる様子もない。
「姫、貴女はシグレナスに行って、マークカス王子と結婚するのよ。どうして嫁入り前の子が、奴隷の子どもと仲良くする理由があるの?」
「……だって、ジョニーが好きなんだもの」
ナスティは呟いた。
嘘偽りのない、本当の気持ちである。
「好きとか関係ない。姫、姫は結婚をするの。マークカス王子とね……」
「……マークカス王子は好きじゃない。結婚なんて、したくない。顔も知らないし」
「結婚に好きも嫌いもないの。家と家が決めた話です。個人の好き嫌いは関係ない」
「ボクはジョニーが好き。どうしてジョニーを好きになっちゃいけないの?」
「……好きになってはいけない子だからよ」
好きになってはいけない……。
ナスティの中で、自分の内側から崩れた気がした。
「この子は、セイシュリアに置いていきます。……もう、連れて行けません」
ナディーンは冷たい口調で命令した。
「お母さん、お願い。ジョニーを置いていかないで。連れて行って」
「いい加減にしなさい。この子のせいで、姫が結婚ができなくなったら、どうするの? 私たちには、帰る家もないのよ」
ナディーンは声を張り上げた。
(どうして、お母さんは、いつもいつもボクの邪魔ばかりするんだろう? ……ティーンさん、お願い。どうにかして)
ティーンから貰った“祈りの指輪”を懐から出す。 ティーンの顔を思い浮かべて、祈った。
沈黙が訪れた。
ジョニーが立ち上がり、頭を下げた。
「姫のお母さん……。俺、姫が好きです。……いつかは結婚をしたいと思っています」
ジョニーは、堂々としている。恐怖を感じない。
(どうしてこんなに堂々としているんだろう)
ナスティは、嬉しさの余り、涙が溢れた。
ナディーンは、ジョニーの迫力に気圧された。
動揺した両眼で、ジョニーを見ている。
だが、すぐに冷たく、厳しい口調で自分の感情を押し殺した。敵を見るかのような視線である。
「……貴様に何ができる? 姫を養う金があるのか?」
「……それは、働きます。頑張ります。どんな仕事でもやります」
「姫だけではない。我々の生活も、どうする気だ? 貴様はすべてをぶち壊しにするのか? 本当に愛しているのなら、責任を取れるか? 結婚とは、相手の人生に関わる話だ。子どもの遊びとは違うのだぞ?」
ナディーンがジョニーに詰め寄る。
「本当に愛しているんです」
だが、ジョニーは一歩も退かなかった。
「知ったことか」
ナスティはジョニーの言葉一つ一つが嬉しかった。
心が洗われるようだ。晴れ渡っていく気分になる。
「ジョルガー、鞭を持て」
ナディーンが、ジョルガーに手を突きだした。
「ガトス、此奴を取り押さえろ」
「何をするの? お母さん?」
「ヤジョカーヌ、姫をこの部屋から連れ出して」
「姫様……」
ヤジョカーヌが手を引いて、ナスティは部屋の外に出そうとする。
(お母さんだって、ジョルガーと仲いいじゃん。知っているんだから。どうしてボクだけダメなの?)
ナスティは、悔し涙を浮かべた。ヤジョカーヌの腕力に抵抗した。
(お嬢ちゃん。やらかしてしまったな)
疲れた声が聞こえる。ティーン老人の声である。
ナスティは周りを見渡した。ティーンはいない。
(ティーンさん? ……ボクに直接、語りかけているのね。どうしよう。ボクのせいで、ジョニーが鞭を打たれちゃう)
(やっちまったな。今回は、お前さんのヘマだ。嫁入り前なのに、他の男とチュッチュしてりゃあ、そりゃあ母ちゃんも怒るよ。とりま、あれだ、リア充爆発しろ)
ティーンにすべてを見られている、とナスティは気づき、顔が熱くなった。
個人情報が漏れているのだ。
(えーん。ボク、もう結婚とか姫とか嫌になってきた。もうどうでもいいよ。……ジョニーと二人だけで暮らせないかな)
(……無理だ。子ども二人だけでは生きていける世界じゃねえ。世知辛い世間だよ)
(そうだよね……。子どもでいる間は、お母さんたちに従わないといけない。厳しいけど、これが現実だよね)
(とりあえず、母ちゃんの機嫌を直さねえとな)
(どうすれば良いの?)
(お前さんは、母ちゃんに愛している、と思え。念じろ。後は、おじさんがなんとかするから)
(愛情を示せ? 愛しているとか好きとか、お母さんに伝えれば良いの? 意味が分からない)
(お母さん、愛している、愛しているって……)
(気持ち悪いなぁ。やだなぁ。……ティーンさんて、宇宙からやってきた人みたい)
(良いからやれ。お前さん、散々、ジョニーに伝えてやっただろう? 同じ感じでやるんだよ。リア充だからそれくらいできるだろう? 早くしねえと、ジョニーが鞭でキズモノになっちまうぞ)
ナスティは指輪に向かって、祈った。
覚悟を決めるしかない。
(お母さん、愛している、お母さん、愛している……。こんなんでいいのかなぁ?)
ジョルガーの声が聞こえる。
「女王陛下、所詮は子どもの遊びでございます。私に免じて、許してやってはいただけませんか?」
ナスティは目を開いた。ジョニーはまだ鞭を打たれていない。
(ティーンさんとお話をしている間、時間が止まっていたの?)
緊張した空気が、ほどけた気がする。
「ジョルガー。いつも貴様が甘やかしているから、姫の我が儘は、治らぬのだ」
「では、こうしては? 姫とジョニーを引き離しましょう。婚礼の日まで、二人だけの行動をさせなければ良いのです。ジョニーは、私どもで見張ります。もし、また問題を起こしたのなら、そのときに鞭打ちをするのです」
「……ぬるい。ジョルガー。今すぐこんな田舎くさい孤島に置いておけば良いのだ」
ナディーンは吐き捨てるように応えた。
田舎くさい……。
ナスティは、ナディーンの発言が引っかかった。
セイシュリアは、自分たちの故郷よりも遙かに栄えている。
(お母さんは、セイシュリアが嫌いになった? 晩餐会で何かあったのかな?)
母親ナディーンが、晩餐会の席で、孤独に過ごしている映像が見えた。
周りに打ち解けず、料理の盛られた皿と見つめ合っている。
急に金持ちの世界に飛び込んで、田舎での貧乏暮らしを恥じているのだ。
同行者のジガージャが、他の招待客と話に熱中して、ナディーンにまで気を遣う余力がなかった。
(え、八つ当たり? 酷い……)
ナスティは腹が立った。だが、母親ナディーンの無念さも理解できた。セイシュリアでは、アジュリー家など無名である。
誰にも相手にされない、没落した王家なのだ。
真っ当な王家として他者に相手にしてもらうためには、ナスティが結婚して、マークカス王家として復興する。
唯一の解決策なのであった。
母親の気持ちは分からなくもない。
むしろ、ナスティは母親に同情していた。
(でも、でも……!)
ナスティの希望は、母親の期待とは反対に位置していたのである。
「女王陛下。姫もいずれ大人になります。子どもの頃にやった恋愛の真似事など、すぐに忘れてしまいますでしょう。今の姫にとっても、女王陛下にとっても、お辛いかもしれませんが、ここは時間が解決してくれるまで待ちましょう」
ジョルガーの発言に、ナスティは感心した。
大人の考えである。
(でも、マークカス王子とは結婚しないかな)
ナスティに不思議と実感が湧いてきた。
(うん、しないと思う)
マークカス王子とは結婚しない。そう考えるだけで、心の中が暖かくなった。
つまらない見栄など捨てて、みんなで働けば、生活はできる。王家再興など、してもしなくても良いし、マークカス王子と結婚しなくても、幸せになれる。
「わかった。では、今後、ジョニーは姫に近づくな。もし近づいたら、その場に置いていく」
ナディーンが、ジョニーに命令をした。怒りを押し殺した声であった。
「分かりました……」
ジョニーが頷いた。
ジョニーはナスティに目配せをしている。ナディーンには神妙な表情を見せているのに、ナスティには違う表情を見せているのだ。
(ジョニー……)
解散して、それぞれが寝台で眠りに入った。
いつも母親から大事な者を取り上げられていた気がする。そんな夜は、いつも泣いていた。 だが、今回は、不思議と泣かなかった。
(待っていよう。ジョルガーじゃないけど、時間が解決してくれそうだよ)
ポコチーが来なかった。寒い日は必ず来るのに。
2
次の日になった。
無言に宿を出て、港を目指す。
朝早くから、セイシュリアの地下海港から、多くの船が出航していた。
ナスティとジョニーの間には、ヤジョカーヌとガトスが立っていた。意図的に遠ざけられている。
ナスティは、ジョニーに目配せをした。
ジョニーは笑顔で返した。
(えへへへ……)
ナスティは俯いて、笑いをごまかした。何も心配する要素がない。
船は静まりかえっていた。
(牢獄みたい……)
ジガージャも、ナドゥも、何かを感じ取ったようだ。ナスティたちの普段とは違う雰囲気を前に、話しかけてこない。
ポコチーは、籠から出てこようとはしない。
餌を一口二口食べて、籠に戻る。
二日ほど経過した。
ジョニーとは会話をしていない。
だが、遠く目が合うと、お互い笑顔を見せた。
ナスティには充分だった。
船は暗くなった海を突き進んでいる。
船乗りたちが一斉に騒いでいる。歓喜の声だ。
ナスティは、目を覚ました。
船旅の最終目的地、港町バスティアンに到着したのだ。
「ありがとう、ジガージャ。このご恩は忘れません」
「こちらこそ。ナディーン女王陛下」
ナディーンとジガージャは強く手を取り合った。
ナスティは白い肌のナドゥと軽く抱き合った。ナドゥは女の子みたいで、異性とは思えない。
「ナドゥ。またね。もう二度と会えない気する。タダラスも……」
「そうかな、僕は何度も会えそうな気がする。僕は、いつでもサルドバサールにいますよ、お姫様」
ナドゥが笑顔を見せた。
商品の搬出をしているジガージャたちに手を振って、別れを惜しんだ。
港町バスティアンを出た。
朝なのに、シグレナスは肌寒い。
シグレナスの人間たちは厚着をしていた。
シグレナスは、ヴェルザンディと違って、冬の季節がある。
ナスティは、ナディーンに上着を着せられた。あらかじめ、港町の店で買っていたのだ。
馬車に乗った。
経済的に余裕がある。
ナスティは、窓から顔を出して、外を見た。
ヴェルザンディと違い、緑色の山脈が見える。木々が豊かで、優しげな風の音を鳴らしていた。
山々の冠は、白い。
「あれって、雪だよね。雪とか見れるといいなあ。シグレナスにも雪が降るんだよね」
街道の両脇に、支柱があった。
支柱は、橋を支えていた。空中に架かる橋である。
「ジョルガー、あの橋は何?」
ナスティは、馬車から顔を出して、馬車の外を歩いているジョルガーに訊いた。
「あれは、水道橋です。シグレナスは、山間から水を引き、それぞれの都市に配分するのです」
「水が豊かなんだね、シグレナスって。しかも、技術まで最新なんだ」
ナスティは驚かされた。
ヴェルザンディにはない学びがある。
街道には直方体に削り取られた岩が規則正しく、敷き詰められていた。
道の端に、岩を削って作られた、人工の轍があった。馬車は、人工の轍に車輪を引っかけて、進んでいる。
「ヴェルザンディとは違う……」
舗装されていない道を思い返した。
砂や土に濫造された轍ができて、馬車や荷車は、いつも車輪を絡め取られていた。
「シグレナスの街道って、歩行者だけでなく、馬車のためにもあるんだね」
ナスティは異国の知恵に、感心した。
だが、ナスティには浮かなかった。
(ジョニーと全然お話ししていないよう。嫌われていたら、どうしよう?)
セイシュリアで獲得した安心感は消え失せていた。見慣れない土地に、結婚を目前に控え、ナスティの不安は、日増しに大きくなっていた。
馬車の外で、ジョニーがつまらなそうに歩いている。
視線を合わせてくれない。
(遠くから見ても、ラブラブ作戦だ。わーん、ジョニー見て見てぇ)
ジョニーがナスティの視線に気づき、目を合わせる。
すかさず、ナスティは笑顔を見せた。
だが、目を逸らされた。
(あ、ジョニーの奴、ボクが合図を送ったのに無視した。ティーンさん、助けて……)
指輪に祈っても、反応がない。
(ティーンさん、薄情だ)
ジョニーが手を振っている。
ナスティは腹が立った。
(ジョニーの馬鹿。みんなが見ているときに手なんて振っちゃダメだよ。ボクも手を振り返せないじゃないか)
ナスティは視線を逸らした。ジョニーが悲しげな横顔を見せた。
(ふーんだ、さっきボクが仕掛けたのに、無視したくせに……! それに、それに……)
頬を膨らませた。
(ボクたち、急速に仲が悪くなっている……?)
ナスティは不安になった。
3
街道を挟んで、宿屋が並ぶ街に入った。
馬車から下ろされた。
御者が無人の馬車を馬小屋に収納している。金を払っても、駅ごとにしか運んでくれないのだ。
「今日は、ここで宿を探すわよ」
夕焼けだというのに、人通りが少ない。
寒い風が吹いた。
「ぽこぉ……」
籠の中から、ポコチーの弱々しい鳴き声が聞こえた。
「ぽこちー、大丈夫?」
ナスティが籠のポコチーをのぞき込んだ。
ポコチーは、元気がない。
「ポコチー、病気なのかな?」
ナスティたちは一軒の宿屋に入った。
「宿が取れない?」
ジョルガーが驚いた。
「申し訳ございません。今夜は、満室でして」
店長が、脂ぎった額の汗を拭って応えた。
「そんなはずがないだろう。客数が少ないように見えるが?」
ナディーンは室内を見回して、反論した。
宿は二階建てで、個室は二階にあり、一階は、食堂となっている。
食堂は、空席ばかりだった。
目に付いた客と言えば、親子連れが一組、身体の細い老人くらいである。
静かにスープをすすっている。
「それがですね、団体様が、深夜遅くに来るってんで、いつでも泊まれるようにしたいって、全室を予約をしたんです。来れても来れなくても、料金の二倍を支払うって、仰っていましたから」
「ならば、我らは、その上に金額を乗せて、お支払いしよう」
ナディーンが強気に出た。
「それがですね、もしも上乗せをしてくるお客がでてきたらですね、三倍にするって。もう二倍の料金は頂いとるんですよ」
「……奇特な客であるな」
ナディーンが苦々しげな表情を見せた。
なすすべなく、ナスティたちは宿から出て行った。
「今日は、泊まれないの?」
ナスティは、嫌な想像をした。
寒空で天幕を張り、野宿する様子である。
「この宿だけよ。宿場町なんだから、全体が宿屋なの」
ナディーンが応えた。街道は、宿屋で埋め尽くされている。
次の宿に当たった。
「泊まれないの?」
同じように満室だった。いや、客の数自体は少なかったが、先客に取り押さえられているのである。
ナディーンたちは、不穏さを感じ取った。手分けをして、宿を回ったが、どれも反応は同じだった。
「すべての部屋を買い占められているのか?」
「そんな馬鹿な話があるのですか?」
最後の宿を断られ、ナディーンとジョルガーが顔を見合わせた。
「あの……。そのお客さんが来るまで、ここにいさせてください」
と、ジョニーが宿の主人に話しかける。
「余計な口を挟むな」
ナディーンが厳しく吐き捨てた。母親ナディーンにとって、ジョニーは憎たらしい存在なのだ。
「……そのお客さん、来ないと思いますよ。俺たちの妨害でなければ」
ジョニーが応えた。落ち着いた口調である。
ナスティは、ジョニーが大人に見えた。
なにより、ジョニーの意見が正しく感じた。
「お母さん。ジョニーが正しいと思う。……本当にお客さんが来たら、ボクたちは出て行けばいい。食堂でも寝泊まりはできるはず」
ナスティは、ジョニーの直感に驚きながらも、ジョニーの意見に賛成した。
露骨なほど、ナスティたちに部屋を渡したくない何者かがいる……気がしてきた。
「誰が、私たちの邪魔をするの? 変な想像はしていないで、次の街を目指しましょう。日暮れまで、まだ時間があります」
宿を出る。
「もう夜になりますよ。どこも引き受けてくれませんよ」
御者を呼んだが、馬車を断られた。
「次の駅まで歩いて行きましょう」
ナディーンの提案に、ナスティはポコチーの籠を抱えて、渋々歩き出した。
ガトスが大きな荷物を抱えている。馬車がないので、持ち歩くしかない。
ジョニーもガトスの手伝いをして、自分の身体よりも大きい荷物を背負っていた。
寒い風が、ナスティたちを鞭打った。
年中暑いヴェルザンディとは、環境が違いすぎる。
「ぽこちー、もうちょっと待ってね。すぐに暖かいお部屋を用意するよ?」
籠の中のポコチーが何も返事をしない。
空虚な表情で力なく項垂れている。
急に、ポコチーは、吐いた。
籠の中が汚物で汚れる。
「どうしよう、ぽこちーって病気なんじゃ……?」
ナスティは籠を開いて、布で汚物を拭き取った。
慣れない船旅に、寒いシグレナスである。急激な環境の変化に、ポコチーが対応できていないのだ。
「ねえ、お母さん、引き返そう。ぽこちー、お病気みたい。ジョニーの言う通りだよ。宿で一休みさせてもらおう?」
ナスティは、ポコチーの籠を身体で覆って、寒い風から守った。
「歩きます」
ナディーンはナスティの提案を無視した。
(ダメだ、お母さんは、一度おへそを曲げちゃうと、もう何も聞かなくなるんだった)
シグレナスの街道は、森の中に向かっていった。
森の中央を切り開いて、敷設された道路だ。
森の中に入る。左右は木々が密集し、視界は暗くなった。鳥の鳴き声や、獣の遠吠えが聞こえる。
ガトスやジョルガーが松明に火を点ける。火を起こす音が、たった一つだけの希望のようだ。
周りには、人の姿が見えない。
(ダメだ。多分、ここは現地の人なら、夜に踏み入れない場所なんだ)
ナスティは、暗い森の不気味さに飲み込まれていった。
母親ナディーンは無言で歩いている。
意見を述べる者はいない。ただ、誰もがナディーンに盲従していた。
「あれ……?」
ナスティは、まがまがしい空気を感じ取った。
安全地帯と、危険地帯を隔てる、境界線を踏み越えたような感覚だ。
森そのものが、恐怖の対象ではない。
森の中に、邪悪なる存在が潜んでいるのだ。
存在する領域に、ナスティたちは、足を踏み入れた。
何者かがナスティたちを狙っている。
獲物を狙う、肉食動物……ではない。もっと危険な存在である。
(お母さん……)
ナスティは、ナディーンの背中から、異様さを感じ取った。
まるで、自分の意思がない、操り人形のようだ。
普段の慎重さを感じられない。
何かに取り憑かれたかのように、一人で先頭を切って歩いている。
「お母さん、これ以上、先に行ってはダメ。安全な場所まで引き返して、野宿をしよう」
冷たい風が吹く。
ナディーンが立ち止まった。
頭巾をかぶった者たちが、森の陰から現れた。
4
ゆらめく影のように、実体のない存在であるかのように。
全身から醸し出す得体の知れなさに、友好的な存在には見えなかった。
「……貴様たち、何者だ?」
ナディーンが、質問をした。
「アジュリー家のナディーン女王陛下。お初にお目に掛かります。……私は、マグダレーナ。アポストルたちからは、“聖母”と呼ばれていますの」
と、頭巾の一人が進み出る。
マグダレーナが頭巾を外すと、顔がなかった。
代わりに、蛸か烏賊か、軟体動物を思わせる触手があった。
「霊落子か……。穢らわしい奴め」
月明かりに照らされると、マグダレーナの頭部は、木の根のように硬質化した。
質量が縮み、徐々に、人間の形を成していく。
人間の女になった。
銀色に輝く髪を靡かせ、扇情的な眼差しを送ってくる。
銀髪を、ナスティは生まれて初めて見た。ヴェルザンディでは見かけない、珍しい髪色である。
神々しさと、説明のできない恐怖が、喉の奥から込み上げてくる。
「霊落子……? 酷いわ。うふふ、天使とお呼びください。私たちは、神の御遣い。神の御意志を伝えに、地上に遣わされた者たち」
マグダレーナは芝居のような仕草で、両腕を広げ、その場に一回転した。
笑いながら、ナディーンに近づく。
ナスティの全身から、汗が噴き出てきた。
汗は冷たく、寒空のもとでは、さらに寒く感じた。
「お母さん、ダメ、この人、怖いよ。逃げようよ……」
ナスティはナディーンの裾を掴む。
マグダレーナは、ナディーンに危害を加える気だ。
だが、ナディーンは聞き入れてくれない。
自分の内臓が低温で、じわじわと炙られているような、拷問を受けているような感じである。
(この女は、危険すぎるよ……!)
ナスティの直感は、そう伝えた。
「して、天使のマグダレーナよ。なんの用だ?」
ナディーンは女王としての威厳を保ったまま、問い詰めた。
「……今回の婚姻……王女陛下とマークカス王子との婚姻ですが、取りやめにしていただきたいのです。この地は、そちら様にとって、無用の大地でございます。アジュリー家の女王陛下」
「どこで聞いたかは知らないが、婚姻の話は、当方の問題である。そなたらには関係のない話だ。……道を空けなさい」
ナディーンは堂々とした態度を崩さない。
(どうしてこの人は邪魔をするの?)
ナスティには、マグダレーナの行動原理が理解できなかった。
だが、マグダレーナは笑い出した。
長い笑いが続く。
急に怒気に変わった。
「どくものか! ……この恥知らず! いくら名前を変えようと、お前らの祖先が重ねてきた罪と罰はなくならないのだ。罪人どもめ、どうしておめおめと、この地に戻ってきたのか?」
「……私たちは罪人ではない。貴様らに指図される謂われはない。私たちは、アジュリー家。……王家の者だ。どきなさい」
「これほど丁寧に伝えたのに、どうして今更、王家を名乗る? それに、何が霊落子だ。我々からしてみれば、お前らは、ただの猿だ。猿に譲る道などあるか。笑わせるな」
ナディーンとマグダレーナがお互いを一歩も退かない。
「ならば、無理をしてでも押し通るまで。マグなんたらよ」
「よかろう、その愚考、後悔するが良い。お前らの見苦しい死体を、この森に晒してやる。我らが神、インザルギーンの供物……ザムイッシュになるのだ。有り難く思え」
マグダレーナが背後に合図をした。
控えている頭巾の集団が、次々と霊骸鎧に変身していく。
(罪人……? どうしてボクたちに襲いかかってくるの?)
ナスティの困惑を無視して、戦闘が始まった。
「貴様らは何者なのだ? どうして我らを襲う?」
ナディーンは激高した。だが、身の危険から、自分や自分たちを守る必要がある。
霊骸鎧“桜花騎士”に変身した。素早い動きで、ナスティとジョニーを抱き抱えた。
木の上に運び、ナディーンは手で合図をした。
(ここにいろ)
相変わらず高い位置に放置してくれる。
ナスティは、ポコチーの籠を、腹で抱えて支えた。ナスティはジョニーを抱き寄せた。
ジョニーと抱き合う。
「別にジョニーが好きで抱きしめ合っているわけじゃないんだから……」
ナスティは言い訳をした。
ヤジョカーヌが“脱皮”となった。
攻撃をすべて脱皮で回避していった。
ガトスが“円盤投げ”となって、円盤を投げつける。
ガトスが倒せなかった相手を、ショック・ジョルガー“暗黒天”が“暗黒物質”を足下につくり、敵の足を削っていった。
ナディーンが指を指し、指示をしている。
ナディーンたち四体の霊骸鎧に対して、マグダレーナは倍以上の数を送り出している。
だが、マグダレーナの霊骸鎧たちが仕掛け、ナディーンたちがはね除けている。
戦況は、優位であった。
マグダレーナを見る。
マグダレーナの周りには、頭巾をかぶった者が三人いる。
(あの人たち、何を話しているのだろう?)
ナスティは、興味が出てきた。
眼を閉じて、へその奥にある光を感じた。光が集まってくる。
ナスティは一瞬にして、マグダレーナの隣に立っていた。
いや、肉体は持っていない。
ナスティの意識だけが移動しているのだ。
「どうして、我々の霊骸鎧が苦戦しているのだ?」
マグダレーナが解せない表情で、不満の声を出した。
「ヴェルザンディでは、霊骸鎧の性能が、シグレナスよりも強固なのです」
と、頭巾の一人が応えた。
頭巾は桃色に染め上げられていた。
「何故だ? 何故、ヴェルザンディが強いのだ?」
「霊骸鎧は変身する者の願望が形になっているのです。ヴェルザンディは、シグレナスよりも環境が過酷なのです。その過酷さに耐え抜く願望が、霊骸鎧の強さとなっているのです」
「ふん。シグレナスのザムイッシュどもは軟弱なのだな。……どうすれば勝てる? サレトスよ」
マグダレーナが問いかける。
「一騎打ちを申し込みましょう。我らの中から剣の達人を選び出し、ナディーンを倒すのです」
サレトスは、桃色の頭巾を自ら外した。
すると、貝の中身を思わせる頭部が現れた。