誘拐
1
(アンタなんか産むんじゃなかった……)
ナスティの中で何かが壊れた。
粉々に砕け散り、足下から崩れ去っていった。
「ごめんなさい、生まれてきてごめんなさい」
寝台の中に逃げ込み、泣いた。暗い部屋の中で、自分のすすり泣く声しか聞こえない。
「ぽこぉ……。なすちー、ぽこちーも一緒に寝るぽこぉ……」
ポコチーが寝台に潜り込んでくる。
ナスティは少しだけ心が晴れるようになった。
「ぽこちー……。ごめんねぇ、ボク、生まれてきてごめんねぇ」
ポコチーを抱きしめて泣いた。
「なすちーは、とっても良い子だぽこぉ。良い子良い子ぽこぉ……」
ポコチーがざらざらした舌で腕をなめてくる。
もっと泣いた。
(ぽこちーがいなかったら、ボク、どうにかなっていたのかもしれないよぉ)
朝になった。
だが、ナスティの気分は晴れない。
虚無の中で朝食を済ませる。
出発の準備は済んでいる。借りていた家も、中身は空っぽで、出発をより実感させた。
「生まれてこなきゃ良かった……」
ナスティは呟いた。空室が、自分と重ね合った気がする。
朝だというのに、世界が灰色に満ちている。
マルギカたちがいた頃と比べれば、遙かに村の雰囲気は良い。
村に行く途中、死体焼き場があった場所に、死体焼き場の壁がなかった。
その代わり、小舟が並んでいた。
小舟には、船頭や利用者以外に、白い布があった。
(遺体を白い布で巻いている……?)
と、ナスティは気づいた。
沖に向かって、遺体を載せた小舟が進み出した。
沖には、小さな島があった。小さな島には白い建物があった。建物には煙突がある。
「あれは、なんですか……?」
ナディーンが台車で死体を運ぶ中年の男に話しかけた。
「あれは、死体焼き場です。船に遺体を載せて、今から、母親を見送りにいきます」
帰ってくる小舟には、遺体はなかった。
死体焼きの労働環境が改善されている!
「我が村では、働き改革が成功したのです」
広場に着いた。
柱に少年が縛り付けら得れている。
「ジョニー?」
ジョニーではなかった。もし、ジョニーだったら、発狂する自信がある。
「この者は、脱走しようとした。よって、死罪とする!」
大人たちが棒で殴り始めた。
子どもの顔が腫れあがっていく。
「もしもあの子を、ジョニーを、この村から連れ出したら、あんな風に殺されるのよ?」
ナディーンが耳打ちをしてくる。ナスティは泣いた。
(ジョニーが殺されるなんて、酷い……)
恐ろしい想像をさせる。
声を上げて泣いた。腹を立てた母親は容赦ない。
漁村、というよりも立派な港町になっていた。
桟橋にたどり着く。
ジガージャと挨拶を済ませ、最後の打ち合わせになった。
「予定よりも早く出発になりました。私たち家族も同伴致しますので、ご安心を!」
ガラシャやマドゥの姿もある。
「一度、セイシュリアに寄港して、それからシグレナスの港町バスティアンに到着します」
ジガージャがナディーンに説明をしている。ジガージャは陽気で、話の途中でナディーンを笑わせた。
長年の友人のようである。ジガージャは、何度もやり直しているので、ナディーンをよく知っている。ナディーンが喜ぶ事柄など、すべて知り尽くしているのだ。
「シグレナスになんか、行きたくない……」
ナスティは、まったく楽しくない。
不機嫌な態度を取って、ナスティなりに抗議の意思表示をした。
海鳥の鳴く声が聞こえる。漁船から獲れた、魚のおこぼれに預かろうとしているのだ。
籠に入れたポコチーが起き上がる。
海鳥の動きに反応して、短い鳴き声を断続的に出している。
「この村の名前は、皆で決めて、サルドバサールと名乗るようにしました。名もなき村でしたが、皆の力を合わせてここまで発展できたのです! これも、すべてナディーン女王陛下が悪人を討伐していただいたお陰です」
「いいえ、私たちだけの働きではありません。ジガージャ様のお陰で、私たち家族も安心して船に乗れました」
ナディーンとジガージャが、お互いを褒め称えている。
(どんなに村が発展しても、奴隷の子たちを殺すのね)
ナスティは、心の中で悪態をついた。
声が聞こえる。
(そうだ。それは、この村の掟だ。村の風習はそうは変わらないものだ。人の思い込みは変わらない。でも、どんなに豊かになっても、心には時間がかかるのだ)
声は男であった。
(幻聴……?)
ナスティは辺りを見回した。騒がしい港である。
人通りが多く、ナスティに話しかけた男の姿は見えない。
「ひょっとしてティーンさん? 熱いっ……」
腰に下げた布袋が熱くなっている。
熱源は、緑色の指輪だ。
ナスティは取り出して身につけた。少しチクチクする。
ナスティは映像が移り変わった。砂煙の中、若者の後ろ姿が見えた。
若者は、若い頃のティーンであった。
「ティーンさんなのね? お願い、ジョニーを連れてきて」
ティーンの後ろ姿に向かって話しかけた。ティーンの姿がぼやける。
(それで良いのか? ジョニーが殺されるかもしれないのだぞ?)
ティーンの声がかすれて聞こえる。声は今よりもずっと若い。だが、後ろ向きのままで、どんな顔をしているのか分からない。
(いやだ、ジョニーには死なないでほしい)
(死なずに、どうしてほしい?)
(一緒に、シグレナスに行きたい!)
ナスティは心の中で叫んだ。まるで、自分の中にある火山が噴火したかのような勢い出会った。
(分かった。それが、お嬢ちゃんのお望みだな? 少し待て。俺がなんとかする……)
ティーンの声が途絶えた。
目を開く。
ナスティは、喧噪にまみれた港町に戻ってきた。
村ではなく、町になった。行き交う人々の身なりが豪華になっていく。
(ジガージャが頻繁に歴史を繰り返しているのかな? でも、ティーンさんだったら、なんとかしてくれそう)
不思議な期待感がある。ティーンには、どこか信頼できるものがあるとナスティは感じ取った。
「よう、だか」
釣り竿が見える。
「ジョニー?」
顔をあげる。
肌の黒い少年タダラスとタダラスの弟が荷物を背負っている。
「あれれ、タダラス、どうしたの?」
「俺たち兄弟も、この船に乗るだか! ……セイシュリアの金持ちが、釣りと契約書の奴隷が欲しいんだと、だか。……おい、アギ」
タダラスが隣の弟アギを肘で突っつく。
「これが売買契約書の写しです」
アギが筒から契約書を取り出して、見せる。
ナスティは興味がなかった。
「どうしただか、がっかりした表情をして?」
タダラスがナスティの顔をのぞき込んだ。
(ティーンさん、間違っているよぉ、タダラスじゃなくて、ジョニーに来て欲しいの!)
ナスティは、タダラスの前では平静を装いながらも、心の中で地団駄を踏んだ。人違いも甚だしい。
「ねえ、タダラス。ジョニーを見なかった?」
「……あの小っこい“灰”だか? うーん、姿は見えなかっただかなぁ。俺たち奴隷同士だから、急な別れは、よくあるだか。だから、あまり別れとか惜しまないだかな。アイツには俺たちがセイシュリアまで行くとは、伝えていないだか」
伝えていない!
ナスティもジョニーに今日、出発するとは伝えていない。
ナスティの胸に不安が広がった。
ジョニーの影も見えない。
(ひょっとして、森の中で“落花流水剣”の練習をしているのかな?)
しばらく待った。
積み荷作業が終わり、乗客が乗り始める。
ナディーンたちも、タダラスたちも船に乗り込んだ。
ナスティは無言で、桟橋から動かなかった。
最後の一人になっても乗船拒否する所存である。
「さあ、参りましょう」
だが、陽気な、歌声のような声で、ジガージャに背中を押された。
ナスティは、甲板の上に押し出される。
港では、多くの人々が見送りに出ている。笑顔で手を振っている老人がいた。その隣には、中年の女が泣いていた。
「どうしてあの人は悲しんでいるのだろう? 一生のお別れなのかな……?」
ナスティの頬を、涼しい潮風が撫ぜた。
波は穏やかで、日光も煌めいている。
出港するには最高の天候なのに、ナスティは静かに涙を流していた。
船から身を乗り出して、寂しさと悲しさに身を震わせている。
ナスティの涙は、陽光に包まれ、輝いた宝石のように、海に吸い込まれていった。
2
「捕まえろ」
「そっちに行ったぞ?」
港では、大人たちが騒いでいる。
「ネズミかイノシシでも暴れているだか?」
タダラスが、間の抜けた声で呟く。
大人たちの隙間から、ジョニーが出てきた。
「ジョニー?」
「姫ぇ! これ、これを忘れているよぉお」
ジョニーが叫ぶ。叫びながら、桟橋に飛び乗って、走り込んできた。銀色に輝く、何かを持っている。
「ボクのペンダント! 」
ナスティは自分の首回りに触れた。いつの間にか、いつも身につけていたペンダントがなくなっている。
ナスティには、映像が見えた。
ナスティが脚を組んで座っている。
(昨日の映像?)
ティーンがナスティの首に手を回し、ペンダントを外して、自分の懐に入れていた。
(ティーンさん? ティーンさんが盗んだの? こうなると分かっていて、ジョニーに渡したのね?)
ジョニーは、大人の頭を飛び越え、甲板に転がり込んだ。
転がって、ナスティの真正面で立ち上がった。
「姫!」
「ジョニー!」
二人は両手を伸ばした。
「そいつは村から脱走するつもりだ、船から降ろせ!」
船乗りたちが集まって、ジョニーを取り押さえた。
「どうしよう、ティーンさん」
ナスティは、焦った。ジョニーは、叫びながら、団子状態になった船乗りの中から、片腕だけを伸ばしている。
「どうすればいいの?」
ティーンの指輪に話しかける。
(お嬢ちゃんのやりたいようにやりなさい……)
ティーンの返事に、ナスティはさらに混乱した。
やりたいように?
どういう意味?
だが、ナスティは、一歩を踏み出した。
「どきなさい!」
ナスティは声を張り上げた。
自分の意思ではないかのように、誰かに操られているかのように、身体が勝手に動いた。
自分でも驚くほど、威厳のある声だった。
「その人は、私の友人です。手を離しなさい」
晴天の中、ナスティの声が響いた。誰もが話を止め、ナスティに振り向いた。
船乗りたちが、すごすごと身を退いた。
ナスティは自分でも驚いていた。
自分ではない誰かが、自分を動かしている?
いいや、あくまでも、自分だ。自分が自分の気持ちに従って、動いているだけだ。
ジョニーが嬉しそうな顔をしている。
暖かい。
ナスティは、ジョニーの笑顔に心を暖かく照らされているような気がしてきた。
(どうしてジョニーは、こんなに太陽のように明るい笑顔をするんだろう?)
ナスティは涙が溢れた。
俯いて、ジョニーから視線を逸らした。
顔を見せないでおこう。酷い顔は見せられない。
「姫。驚いたよ。今日、出発するんだって? ああ、先に渡しておくね。はい、ペンダント」
ジョニーが、早口に喋り出す。
「ありがとう……」
ペンダントを受け取ると、ナスティは急に腹が立ってきた。
「あのさあ、ジョニー。仕事に遅れたり、途中で抜け出したりしたら、殺されるんだよ? それなのに、わざわざ忘れ物を届けに来るなんて、馬鹿なの?」
説教口調になった。母親の叱り方と同じだった。自分がやられている方法で、ジョニーを責めて立てている。その構造に気づいて、ナスティは余計に罪悪感を持った。
だが、ナスティはジョニーに冷たい視線を送り続けた。
「……姫に会えなくなるなら、殺されてもいい」
ジョニーが微笑んだ。
ジョニーの思わぬ反撃に、ナスティは腰が砕けそうになった。
ジョニーには、どこにも邪心がない。ただ、純粋な気持ちだけが残っていた。
(……眩しい。キミは眩しいよ、ジョニー。どうしてキミはそんなに心が美しいの……?)
ナスティは胸の中から何かが爆発した。甘い空気だった。
(やりたいようにやりなさい……)
ティーンの声が聞こえた。と同時に、海鳥が鳴く。それ以外は静まりかえっていた。
(オ、オータニサーン!)
ナスティは、一歩踏み出した。
そのまま眼を閉じて、ジョニーを抱きしめた。捨て身の攻撃である。
ジョニーは困惑している。
「え……? なに? 急に」
ジョニーの胸の中で、ナスティは涙を流した。ジョニーは抵抗しない。ただ、黙ってナスティを見ている。
(こんなに泣かされているのは、キミのせいだ。責任をとってもらう……!)
涙をジョニーの身体に擦りつけた。
何度も、何度も……。
「姫、その子から離れなさい」
ナディーンが鋭い声で、注意をした。
ナディーンの命令をかき消すかのように、ナスティは、さらに力を込めた。
「いちちち……」
ジョニーが、痛がっている。これも、ジョニーの責任問題、とナスティは勝手に決めた。
「ジョルガー。あの子を姫から引き離して」
ジョルガーがジョニーに近づくと、ナスティは自分の背中をジョルガーに向けた。
ナスティの全身から、甘い匂いが溢れだした。
「ジョルガー?」
ナディーンがジョルガーを咎めるかのような声を出した。
「恐れながら、私では姫の御身に触れられませぬ」
ジョルガーは引き下がった。
邪魔する者はいない。
ナスティはジョニーを抱きしめ続けた。
「船が出るぞぉ……!」
船乗りが声を張り上げた。
「ねえ、俺、もう行かないと……。船が出発しちゃうよ?」
ジョニーが申し訳なさそうな声を出した。
ナスティは無視した。無視をして、抱きしめる。
この際、誰の意見も異論も許さない。
この世界で唯一、自分にだけ正当性があるとナスティは思った。
(早く出しなさい、このおたんこなす!)
船乗りに毒づいた。
船が動き出した。
「ああ、船が出ちゃった……」
ジョニーが気の抜けたような声を出した。
ナスティは、港に視線をやった。
港が遠ざかっていく。
「帰れなくなっちゃったよ」
「このまま、シグレナスまで一緒に行きましょう」
かくして、ナスティのジョニー誘拐は成功したのである。
3
「姫。これは、何が起きたの?」
ナディーンが腕を組んでいた。
ナスティとジョニーは、離れた。
だが、タダラスの弟、アギが進み出た。
「ちょっと待ってください。……預かっていた契約書があります」
筒から契約書を取り出し、読み上げた。
「漁村サルドバサールは、共有財産である奴隷ジョニーを、アジュリー家に譲渡する、これは両者の同意は確認済みである……という契約書です。譲渡契約書ですね。見事な文体だ。惚れ惚れします」
アギは契約書を甘いお菓子かなにかのように見ている。
契約書愛好家であった。
「ジョニーはナスティ姫の護衛兼、家庭教師として扱うべし、とありますね」
アギがさらに読み続ける。
「そんな、馬鹿な……!」
ナディーンが抗議の声を上げる。
「やったぁ! ジョニーって、ティーンさんと同じくらい教え方が上手なの。ぴったりの仕事!」
ナスティは飛び上がって喜んだ。ジョニーは瞬きをしている。状況の変化に従いてこれなくなっている。
「いつ契約をしたのでしょうか……あ、でも、そんな風に話が決まったような気がしてきました……」
ナディーンが夢遊病患者のように納得した。
(ジガージャ?)
ナスティはジガージャを見た。ジガージャが親指を立てて白い歯を見せた。
(ジガージャとティーンさんって、強すぎる。ジョニーじゃないけど、二人がいれば、世界でも何でも救えそう)
ナスティはティーンの指輪を見た。
「ティーンさん。貴方がなんとかしてくれたんですね。ありがとう。……ものすごく雑だったけど」
ナスティは、ティーンの指輪を愛おしく撫でた。