冷蔵室
1
ナスティは目を覚ました。
青い空が見える。空気が綺麗だ。
地面は固い。寝台ではなく、岩だ。
手には、魚の目をくりぬいた紐を下げている。
「ぽこぉ……」
ポコチーがバッタを咥えて、ナスティの顔をのぞき込んだ。
「ぽこちー!」
「なすちー、おはぽこ!」
「ぽこちー、昨日は夜の森で大変だったね?」
「……なすちー。頭でも打ったぽこ?」
ポコチーが呆れて、口からバッタを逃した。
爪を立てて追いかけるが、バッタが一枚上手だった。
「えーんえーんえんえん。バッタが逃げたぽこぉ……」
岩から草むらに逃げたバッタを見て、ポコチーが泣いた。
「良かった、ぽこちー! わーん、怖い夢を見ちゃったよぉ。お母さんが夜盗で、変質者のマルギカに襲われそうになったけど、夢だったの」
ナスティはポコチーを抱きしめた。
「急になんだぽこぉ? なすちー、やめろぽこぉ」
ポコチーが両手でナスティの顔の接近を阻止した。
「え、えーと……」
後ろで男の子の声が聞こえる。
振り返ると、“耐火外套”で全身を隠した少年、ジョニーであった。「ジョニー!」
ナスティはジョニーに抱きつこうと思って両手を伸ばしたが、引っ込めた。
「姫も生きていたんだね……」
「うん……」
「さっきまで、俺たちは地下室にいたよね? あれって、夢だったのかな?」
ジョニーが探りを入れてくるような言葉を使ってきた。
「……うん。変な夢を見たね。ボクたち、二人とも同じ夢を見ていたのかな? そんな半紙ってある?」
だが、二人の会話は、打ち切られた。
「おい」
背の高い、肌の黒い少年に声を掛けられたからだ。
「タダラス!」
ナスティとジョニーは同時に叫んだ。
「どうして、俺の名前を知っているだか? ……魚泥棒が」
タダラスが驚く番だった。
「どうぞどうぞ!」
ナスティとジョニーは、持っている、すべての魚をタダラスに突き出した。
「え~? こんなにくれるだか? 会って数秒で魚をくれるとか、かえって怖いだか……」
タダラスが嬉しそうに頬を緩ませながら、困惑している。
「ねえ、キミ。殺されちゃうんだよ? 魚が獲れなくなってさ」
撲殺されたタダラスを思い返し、ナスティが騒いだ。
「バカな話だか。俺は、この村で一番の漁師だか?」
「お兄ちゃん……。最近、魚が獲れなくなってきただか。沼で魚が減ってきただか」
タダラスに似た小さな子どもが、タダラスの裾を引っ張った。
「弟。魚が獲れないのは、魚泥棒のせいだろうだか」
「泥棒なんていないだか。魚を取り尽くしたら、減るに決まっているだか」
タダラスの弟が論理的に反論する。ナスティももっともだ、と思った。
「……漁村なんだから、船に乗って、お魚を釣りに行けばいいのに」
ナスティは素朴な疑問を投げかけた。
「無理だよ」
「無理だか」
ジョニーとタダラスが同時に反論した。
「……どうして? ここは漁村でしょ? 船もあるし……」
「船なんて、あるっちゃあ、あるけど、もう誰も動かしていないよ」
「えっ?」
「魚釣りには、誰も行っていないよ! この村は、死体を焼いて、灰を海に流しすぎて、“腐れ潮”ができちゃったんだ。“腐れ潮”になると、海が死んで、赤くなるんだ。魚が息ができなくなって死んじゃうんだよ」
「赤潮? 勉強した記憶がある。海で魚が獲れなくなるのね。でも、お魚を獲らないで、どうやってお金を稼いでいるの?」
ナスティの質問に、タダラスは咳払いをした。
「この村には、死体を焼きに人々が集まるだか。誰も自分の村で死体を焼きたくないからだか。国は、金を払って、この村に死体焼きの仕事を押しつけてきているだか」
「この村はね、魚の干物を、別の村から仕入れているんだ。……漁村なのにね!」
ジョニーが笑った。
ナスティは納得した。
死体焼き場は、どの街でも村でも嫌われる。
気温が高く、死体が腐りやすいヴェルザンディであれば、なおさらだ。
漁村の朝が早いと相場だが、昼間から人々は働いていない。
「死体焼きの村……」
ナスティは、この名も無き漁村を、そう評価した。
「姫。ほらほら、タダラスたちは、魚捕りに忙しそうだから、俺たちはお暇しようね」
ジョニーが片目をつぶって、ナスティに合図を送った。茶目っ気のある笑いで、ナスティはジョニーの笑い方が好きになった。
「……お前ら、名前は、なんなんだか?」
タダラスが、ナスティとジョニーに興味を持ち始めた。
「ジョニー」
「ナスティ」
「ぷっ。二人とも変な名前だな。ははは、覚えておいてやるだか」
ナスティはジョニーとポコチーと一緒に、沼を離れた。
「あの“虚空”とかいう霊骸鎧のせいかなぁ? ……多分、過去に遡っていたのだと思う」
ジョニーが青空を仰いだ。
「多分、そうだと思う……」
霊骸鎧の攻撃。不可思議な現象は、すべて霊骸鎧のせいだと説明ができる。
「ねえ、姫、どうするの……? 今から明後日に、マルギカのところに行くんでしょ?」
ジョニーが質問してきた。
「どうするって……。お母さんに相談しないと」
「お母さんは、いつから夜盗を始めたの?」
「夜盗じゃないけど。……人攫い退治」
「そう、鬼退治」
「おととい? うーん、今日を基準にすると、明日かなぁ。ややこしい」
「……それまでにさあ。マルギカの地下室に、もう一度忍び込んでみない?」
ジョニーが提案をした。ナスティは胸を射抜かれるほど、動揺した。
「どうして?」
「何があるのか知りたい。冒険してみたい。忍び込んで、マルギカの邪魔をしちゃえばいいんだよ」
「危ないよ。とりあえず、お母さんたちに相談しよ?」
ジョニーがわくわくした表情をして、釣り竿を振り回している。絵巻物に出てくる、英雄にでもなったつもりなのだろうか?
(怖くないの……? 男の子って、頭のネジが一本吹っ飛んでいるんじゃ……)
ナスティは、ナディーンたちが、マルギカの“茸頭”の胞子に全滅させられている様子を思い返した。
「明日、マルギカに初めて会うんだけど、お母さんに伝えて、マルギカは悪者って伝えればいいんじゃないかな?」
ナスティが反論する。
「信用してくれないと思う。会ってもいない人の悪口なんて! とか、初対面の人でしょ! とか。君のお母さんだったら、怒り狂いそう」
と、ジョニーが答えた。
ナスティは、容易に母親の反応が想像できた。
「だからさ、マルギカに先手を打っておけば、姫のお母さんたちも、助かると思う」
お母さんが助かる!
ナスティの背中が伸びた気がする。
母親の力になりたい。母親に褒められたい。
「行く……」
ナスティは、ジョニーに伝えた。
ジョニーが嬉しそうに頷いた。
「ぽこぉ? なすちー、どうしたぽこ? お腹が空いて、えーんえんえんえんぽこかぁ?」
ポコチーが、ナスティの足下にすり寄った。
尻尾をナスティの脛に絡ませている。
「ぽこちー。今から、ボクたちは、悪い人たちを懲らしめに行くの」
ナスティはポコチーを抱き上げた。ポコチーが全身をくねらせている。
「悪い奴がいるぽこ? 正義の味方ぽこちー仮面が、ぽこちーぱんち、ぽこちーきっく、ぽこちークラスター爆弾をお見舞いしてやるぽこ!」
ポコチーは、ナスティの腕を噛むふりをして、足で蹴った。
2
ジョニーが先行して、森の中を進む。
ジョニーの動きに一糸も乱れがない。迷うそぶりも見せない。
ナスティは自分たちがどこにいるのかも分からない。
広い場所に出た。
ナディーンたちが戦っていた場所でもある。
(深夜の森で通った道を、一つも間違えないで進むなんて……! 凄い記憶力!)
ナスティはジョニーを驚異の視線で眺めた。ジョニーは辺りを見回した。
「ここが、アジトかあ」
巨大な木の根っこは、木の板で封じられていたが、ジョニーは簡単に取り外した。
階段が下に伸びている。
不気味な臭いが吹き抜けて、ナスティに鳥肌を立たさせた。
「ぽこぉ……!」
ポコチーが気合いとともに地面に降り立つ。
「ぽこちーは、ここで待っているぽこ! ぽこちーある限り、何人たりとも、ここは通さないぽこ! 後顧の憂いなし、ぽこ!」
ポコチーを置き去りに、ジョニーは、階段を降り始めた。
(ジョニーって、本当に躊躇いがない……)
怖い場所に飛び込むにも、勇気が必要である。ナスティの事情など気にしていないように見えた。
中は薄暗かった。
「どうして、中は明るいんだろう?」
ナスティは、光源の謎を口にした。
「壁や階段に生えているカビや菌類が光っているんじゃないかなあ」
ジョニーは、分析した。興味がなさそうである。容赦なく階段を降りてくる。
「ジョニーは勇気がありすぎるよ……!」
ナスティがジョニーの背中を追った。堂々と降りていく後ろ姿には、勇気が溢れていて、反対に心配になってくる。
「木の蓋なんだけどさぁ、閉めといて?」
ジョニーが振り返った。
「そんな怖い真似できない……」
ナスティは肩を震わせた。
「出入り口が開いていたら、俺たちが入ってきたと気づかれちゃうよ」
ナスティは、慌てて、出入り口を内側から閉めた。
「ひゃあ」
部屋が暗くなった。
辛うじて、ジョニーの後ろ姿と、目の前にある段差は視認できる。
(ジョニーがいなかったら、ボク、気絶していただろうなぁ。ジョニーがいてくれてよかったよ。……でも、怖い思いをしている原因はジョニーにあるけどね)
ジョニーと一緒に、階段を降り終える。
鉄の扉があった。
ナスティの心臓が激しく鳴った。
「……マルギカは今、自分の店にいるはず」
ナスティは自分に言い聞かせるように呟いた。
ジョニーと二人掛かりで押し開けると、簡単に開いた。
部屋の明かりがついた。
ナスティは小さく悲鳴をあげた。慌てて口を押さえる。
ジョニーはナスティの手を引っ張って、机の影に隠れた。
「実験室……」
部屋は明るいものの、人の気配を感じない。
薬品、試験管が泡を吹いて、音を立てている。
「誰もいないようだね」
ジョニーが、机の影から飛び出し、辺りを調べ始めた。
目を輝かせている。
試験管を動かしたり、レバーを蹴っている。
(お猿さんみたい)
ジョニーが年相応の子どもっぽい動作をしていて、ナスティは呆れた。
一通り見て回ると、ジョニーは奥の壺に気づいた。壺には、硝子がはめ込まれた窓があった。
ジョニーはつま先立ちをするが、届かない。
ジョニーは軽く跳んで壺にしがみつく。壁にひっつく爬虫類か昆虫かのようだ。
「ねえ、凄いよ」
ジョニーが夢中になって覗いている。ナスティは好奇心をそそられた。
「何があるの~? ボクにも見せてよお」
ジョニーの周りを飛び跳ねる。
「凄いよ、見てみる?」
ジョニーはひっつき状態を解除して、地面に降り立った。
ナスティはジョニーに入れ替わり、跳んでみたが、硝子窓まで届かない。
「届かない……。ボクには、ジョニーみたく張り付きなんてできないよ」
「仕方ないなぁ。持ち上げてあげる」
ジョニーは、ナスティの腰に手を回した。
ジョニーの骨っぽい手がくすぐったい。
(え、なにをするの?)
ナスティは宙に浮いた。ナスティは、ポコチーをよく抱き上げるが、今度は自分が持ち上げられる立場になった。
ナスティは顔が熱くなった。
(男の子に抱っこされるなんて、生まれて初めて……)
だが、嫌な気分ではない。胸が熱く、激しく高鳴る。
「ヒッ」
だが、硝子の中身を見て、ナスティの全身から血の気が引いた。
中に、男の死体があった。
いや、人間の男ではない。体毛が一切なく、人間とは違う肌質を持っている。男性的な身体つきをしているので、ナスティは男だと思った。
壺の中は、青白い水で満たされていた。男の口から、小さな泡が出ている。
(この人、生きている……?)
部屋全体を見回すと、部屋中の管が、一度天井に集まっていた。
一本の管が、この男の壺めがけて走っていた。
ジョニーのナスティを支える腕が震えてきた。ゆっくりと降ろしてもらう。
「ねえ、ジョニー。この人は誰なの? まるで別世界から来た生き物みたいだけど」
「分からない。知り合いのおじさんに似た人がいたけど、知り合いのおじさんは、もっと毛があった……」
「……壺のおじさんは、どうして壺に入っているんだろう?」
「さあ? 人攫いとか実験とか騒いでたよね? 俺の予測だけど、人をさらって、この壺おじさんに食べさせていたんだと思う」
ジョニーが頭を掻いた。
(なんて鋭い人なんだろう……)
ナスティは、ジョニーの仮説が、正しいと直感した。
「食べさせてどうするんだろう?」
「世界征服、かなあ? 壺おじって、無骨な武器……人間を武器にしましたって感じだね。ショッカーの改造人間みたいな」
「世界征服とか、男の子って浪漫がないよね」
「……こんなツルツルな壺おじに、どうやって浪漫は感じればいいのさ?」
ジョニーは笑った。
ナスティは、声を上げて笑うジョニーを見た。
ジョニーの直感は的確だ、と思った。世界征服の意味が分からないが。
「姫、奥に行ってみようよ」
「……ジョニー。キミは本当に勇気があるのね」
「気になって仕方が無いんだ」
興奮気味に、ジョニーが話をした。好奇心が強すぎて、早死にしそう、とナスティは思った。
「青いあの障壁みたいな奴、あれさえ封じてしまえば、ナスティのお母さんたちが、マルギカたちに攻撃ができるようになるよね?」
ナスティは、ジョニーを見た。
(なんて賢いのかしら、この人……!)
母親ナディーンの喜ぶ顔を想像すると、ナスティは思わず微笑んだ。ジョニーに抱きつきたくなったが、我慢した。
「スイッチを壊してしまえばいいんだよね……。えーと、スイッチはここだ……!」
ジョニーがスイッチを押した。
壁がせり上がり、倉庫が現れた。死体が吊り下げられている。
死体が食肉であるかのように、天井からぶら下がっていた。
部屋の片隅には、木材が置かれている。実験室、というよりも、工場である。
冷たい空気が、ナスティの肌に触れた。
「怖い」
死体と目を合わせたくない。
「こっちじゃなかった。このスイッチだ」
ジョニーがもう一つのスイッチに指を伸ばした瞬間、物音が聞こえた。
巨大な影が伸びてきた。
「誰だ!」
男の影が、鋭い声を放った。ナスティは、ジョニーに腕を引っ張られる。
吊り下げられた死体の陰に隠れた。
「冷蔵室を誰かが開けっぱなしにしやがったな……。誰だよ」
男が独り言を吐き捨てて、近づいてくる。
(どうしよう?)
ナスティは、自分の心臓が突き破るほど激しく動いた。
「姫、静かに。大丈夫だから」
ジョニーは、まったく動揺していない。
(こんな緊急事態に、どうして落ち着いてられるのだろう?)
腹が立つ。
だが、ジョニーの冷静さを見ていると、ナスティも落ち着いてきた。
「ちっ、いつも俺ばかり、余計な仕事を押しつけやがって……」
男は、愚痴をこぼしながら、スイッチに手を出した。
壁がずり下がり、冷蔵室が暗くなった。
3
「閉じ込められちゃった!」
ナスティは小さく悲鳴を上げた。男に声を聞かれたか心配になって口を押さえた。
完全に明るさが消えていない。
閉じた壁と床に、わずかな隙間があった。隙間から外の部屋の光が差し込んでいる。
だが、外の部屋から明かりが消えると、完全に暗くなった。
「ジョニー、ど、ど、どうしよう?」
ナスティは慌てた。暗さが余計に恐怖を煽る。
「寒い……」
ナスティは全身をさすった。
死体を保管する場所である。仕組みは分からないが、なんらかの仕掛けで低温を維持している。
(この冷蔵室に閉じ込められたまま、凍えて死んじゃうの?)
ナスティは自分の身体を抱きしめて震えた。
(死体と一緒に死体になっちゃう?)
ナスティは不安になってきた。震えは寒さだけではない。
「しっ。必ずここから出られる仕掛けがあるはずだ。こういう事故を前提に作られていると思うよ」
ジョニーは落ち着いていた。
ナスティは、意外な気持ちになった。
母親の声が聞こえる。
「アンタのせいよ」
なにか問題が発生するたびに、母親にいつも責められていた。ナスティが悪くなくても、怒られていた。
ジョニーは怒らない。ジョニーは、常に解決していこうとする。
“耐火外套”を掛けられた。ジョニーのマントだ。
ナスティは、くるまった。
「暖かい……。ジョニーの匂いがする……えへへ」
ナスティは優しさに包まれた。生まれて初めて誰かの優しさに触れた気がした。
一国のお姫様なのに、お金も愛もない、物乞いの子ども以下だった気がする。
「ないなあ」
ジョニーの白い背中が見える。ジョニーは腰巻きしか身につけていない。目が暗闇に慣れてきた。ジョニーの吐く息が白い。
「……あった!」
声が聞こえる。ナスティは手を振り回したが、死体に触れるだけだ。
部屋が明るくなった。
「だめだ、違った」
死体が吊り下げられている。
凍死する危険性の前では、死体を見ても怖くなくなってきた。
部屋を明るくさせるだけのスイッチ……。
ナスティは、“上下する”壁を見た。
裏側から見ると、鉄板を重ね合わせた、鎧戸である。表からは、壁に見えるよう偽装されていたのだ。
「こっちから出て行く用のスイッチはないんだね。これって、下請けいじめの欠陥住宅だよね」
ジョニーが毒づいた。唇が紫になっている。ジョニーは、腰巻きがなければ、裸なのだ。「どうすればいいんだろう? ……これは?」
台の上に、先の尖った鉄の棒があった。ジョニーが興味を持っている。
(宝石……?)
ナスティは、先の尖った鉄の棒よりも、ジョニーの胸に興味が惹かれた。
ジョニーの胸には、菱形の宝石が埋め込まれているのである。
ジョニーは先の尖った鉄の棒を取って、鎧戸に叩きつけたが、跳ね返された。
「だめだ、俺の力では、この壁を壊せない」
ジョニーの全身から、力が抜けていく。部屋の冷気が、じわじわと、ジョニーの体温を奪っていく。
「力……? そうだ」
ナスティは閃いた。
ナスティは、部屋の隅にある木材を引きずって、壁の前に落とした。
「姫、どうする気?」
「ジョニー、壁と床には、隙間があるんだよ。テコの原理をつかってみようよ」
ナスティが提案した。
「テコの原理?」
「うーん、キミは賢いけど、知識がないんだね。大丈夫、ボクがなんとかするから」
ナスティは先の尖った鉄の棒を、鎧戸と床の隙間に差し込んだ。
浮いた先の尖った鉄の棒と床の間に、木材をいれる。
「わかった、そういう作戦ね。力仕事は、俺がやるから。姫は下がっていて」
もう一度、部屋の明かりを消す。
ジョニーが浮き上がった先の尖った鉄の棒を腕で押す。だが、鎧戸も先の尖った鉄の棒もビクともしない。
「違うよ、ジョニーが先の尖った鉄の棒の上に乗れば良いんだよ!」
ジョニーが乗ると、鎧戸が揺れ出した。
ジョニーが青白い顔をして、力を込めている。寒さに耐え、必死になっていた。
(ボクのために……?)
ジョニーは命を削って、ここから出してくれようとしている。ナスティは胸が高鳴った。
「分かった。キミだけの重さじゃ足りないんだね……!」
ナスティは、先の尖った鉄の棒の上に飛び乗った。
棒の上に両足で立つとなると、姿勢が安定しない。
ナスティは、包み込むように、ジョニーを後ろから抱きしめた。
「……!」
ジョニーが呑む息の音が聞こえた。
ジョニーの首筋に、ナスティは自分の頬を、垂れ掛かった。全体重を、ジョニーに掛ける。
ジョニーが発火したように赤くなった。密かに抵抗しようと身体をくねらせている。
(油に入れたトウモロコシのように弾けそう……。逃げようたって、そうはさせないぞ)
ナスティはジョニーのおへそに手を回して固定する。
ナスティは、自分の内側から、光が湧いてきた。
光は目が眩むほど輝き、冷蔵室の闇と冷たさを吹き飛ばしていった。
ジョニーが、急激に体温を上げてきた。
部屋の寒さに負けていたのに、ナスティの光を浴びて、生気を取り戻していく。
ジョニーは酸欠した魚のように口を開け閉めして、汗をかいた。
汗からは、ナスティが溶けるほど甘い香りがする。
二人を乗せた先の尖った鉄の棒が、重さに負け、地面を鳴らすと、鎧戸が勢いよく巻き上がった。
巻き上げる音が大きかった。
ナスティはジョニーから手を離して、慌てて先の尖った鉄の棒から、飛び降りた。
部屋がジョニーたちを感知し、灯りを点けた。
暖かい空気が流れ込んで、ナスティを優しく包む。
ナスティは頭が冴えてきた。視界が広がったような気がする。
ジョニーを見た。恥ずかしがっているが、全身から霊力を放出している。
床にスイッチがあった。ナスティが脚で踏むと、青白い障壁が発生した。もう一度、踏むと、障壁が消失した。
「早速だけど、スイッチを壊すよ?」
ジョニーが先の尖った鉄の棒を振り上げる。
全身の筋肉がしなり、振り下ろす。以前のジョニーと違って、さらに力強くなった。
先の尖った鉄の棒がスイッチに突き刺さる。
ジョニーは何度も、振り下ろして、スイッチを破裂させた。
黒い影が伸びた。
見知らぬ中年の男が、顎髭を伸ばし、乱杭歯をした口を開いている。
「ガキども、何をしていやがる!」
やぶにらみの両眼が怒りに燃える。
大股で近寄ってきた。
「ジョニー?」
ナスティは絶叫した。
だが、ジョニーは軽々と身を躱し、机の上にあった薬品を男にぶつけた。
男の顔から、焼き焦げるような音と匂いを立てて、煙を上げた。
悲鳴をあげる男の脛に、先の尖った鉄の棒を叩きつけた。
「逃げるよ、姫!」
先の尖った鉄の棒を捨てて、ナスティの腕をつかみ、走り出した。
「凄い……」
ナスティは、ジョニーに見蕩れた。
階段を駆け上がる。
「ぽこぉ……!」
出口には、ポコチーが香箱座りをして待っていた。
「ぽこちー、逃げるよ?」
ナスティの姿を見るや、飛び上がって逃げた。
「ぽこちー。違うよ、ボクだよ? どうして逃げるの?」
「誰だぽこぉ? 怖いぽこー」
ポコチーは草むらの中に逃げた。一目散に逃げた。背中と尻尾を見せて、
「えー? ぽこちー、ボクが分からないの? “耐火外套”を着ているから?」
「とにかく、逃げよう!」
ジョニーに手を引かれて逃げる。
茂みの中に隠れた。
「このまま夕暮れになるまで、ずっと隠れていよう。暗くなったら帰るんだ」
ナスティはジョニーの姿を見た。
ジョニーは片手でナスティをかばうように守り、辺りを窺っている。
鷹のように真剣な目つきをしている。
ナスティは見蕩れた。
いつも“耐火外套”で隠れているが、ジョニーの素顔はなかなかお目にかかれない。
ヴェルザンディには珍しい、白い肌。黒髪で凜々しい目つき。腰巻きを身につけている。
裸足なので、ほぼ裸である。
ナスティは“耐火外套”の中からジョニーの身体をのぞき見した。
(うへへ……)
笑いがこぼれる。ジョニーは、ナスティよりも一回り小さかった。“耐火外套”のせいで、身体が、本体よりも大きく見える。
(ジョニーは、ボクよりも身体が小さいのに、ボクを守ってくれている……)
ジョニーが愛おしくなった。
胸の中央に、菱形の宝石が埋め込まれている。
さっきから気になっていた。
「これ、なあに?」
胸に埋め込まれた宝石を指さすふりをして、ジョニーの胸に触れた。肌がすべすべしている。
「俺が生まれてきた頃から、あったんだ」
「宝石を埋め込むなんて、ジョニーのお父さんやお母さんはお金持ちだったのね」
「うーん、俺に両親がいたとか一切記憶がないんだよね。生まれてきてずっとこんな感じだった」
「じゃあ、いつ埋められたとか記憶にないんだ」
ナスティは、ジョニーの胸を凝視した。いや、宝石を見た。
宝石は、赤く輝いている。
内部では、赤い煙が循環している。
「この宝石が、イヤなんだ」
「どうして? ……綺麗だと思うよ」
「他の誰かと違っていて、受け入れそうにもない」
「他の子と違うって、そんなにおかしい? ボクは大好きだよ」
ナスティは遠回しに告白をした。
「取り外せるなら、外したいよ」
「……だめ。綺麗だから取らないで」
ナスティは、ジョニーの宝石をなぞって、バツ印をつくった。
肌を指で触れられ、ジョニーが恥ずかしそうにしている。
(ジョニーには、告白が通じたかな? 通じていないなら、キミはバツだ)
ナスティは笑った。
夕暮れになった。
「そろそろ帰ろうか……」
「うん」
「このマント、欲しい。ちょうだい」
“耐火外套”が愛おしく思った。
「えー、だめだよ。怒られちゃう。親方たちに怒られちゃうよ」
「だったら、ボクが着ている服と交換しよう」
「試合が終わったサッカーじゃないんだから……。仕事に使うんだから、返してよ」
「えー。ジョニーのケチィ!」
ナスティは抗議しながらも、“耐火外套”を返す。
「ぽこぉ!」
いきなり、茂みからポコチーが飛び込んできた。
「ぽっこちー、ぽっこちー、ぽっこぽこちー。……これが、ぽこちー応援歌ぽこ!」
ナスティの肩に飛び乗り、丸くなった。
森の出口で二人は別れた。
「明日の午後、また会おう。……作戦会議しようね」
ジョニーが提案する。
「どこで?」
作戦会議、ナスティは胸が高鳴った。
「姫の家。勉強したでしょ? 分数」
「あ、そうだっけ」
ナスティは、ジョニーと別れ、家に帰った。
この日は、タダラスはナスティの家に怒鳴り込んでこなかった。