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ジョナァスティップ・インザルギーニの物語

        1

 朝になった。

 ナスティの肩に、“ビブス”少年の頭が当たっている。

「ジョニー、起きなさい。朝だよ」

 ナスティは、少年の頭を肩で押した。

「誰がジョニーだって? ……まさか、俺?」

 少年が、目をこすって、起きた。

「うん。長くて面倒くさいから、ジョニーって、呼ぶね」

「ふうん。ジョニーかぁ。……変な名前だなぁ。まあいいや、もう少しだけ寝させて」

 ジョニーが二度寝をしようとした。

「……もう朝だけど?」

 ナスティが伝えると、ジョニーは飛び上がった。

「いけない! 早く帰らないと、殺されちゃう! またね、姫!」

耐火外套ファイヤーマント”を慌てて身につけて、走り去った。

 ジョニーの姿が消えてから、ナスティは呟いた。

「ばいばい、ジョニー」

 なんだか嬉しい。ナスティの顔がほころんだ。

「何をしているの? 姫。早く支度をしなさい」

 家の扉から、ナディーンが顔を出した。

 用意された朝食……牛乳で煮込んだ野菜を食べさせられる。

「マルギカさんのとこに行くわよ」

「誰?」

「ここらで一番の金持ちよ。マルギカさんから、シグレナス行きの船を借ります。準備ができ次第、出発するからね」

 ナディーンは純白の甲冑で身を包み、化粧をしていた。金色の髪を編み込み、腰には、白い剣を下げていた。

 ジョルガーは、灰色の礼服ローブを身につけている。

 侍女のヤジョカーヌは、長い髪を後ろにまとめ、鼻にピアスを通している。肌が黒くて、胡桃くるみのような瞳をしていた。

 従者のガトスは、黒い髪は短く刈られ、棘のある冠を頭に載せている。

 服は腰巻きだけで、黒くて逞しい身体つきを見せていた。

 アジュリー王家の全員が揃った。

 ナスティを含めて、国民は五人である。

(ぽこちー?)

 ポコチーを探したが、姿は見えない。今朝は帰っていない。

 ナスティたちは、壁に囲まれた砂の集落を離れ、道を歩く。

 道は舗装されておらず、砂が草履サンダルに入り込み、歩きづらい。

 しばらくすると、小さな漁村に着いた。

 岩を積んでできた建物がいくらか並んだ、貧相な村だった。

 広場があったが、歩く人間の姿はない。

 広場の中心には、像があった。像とは一手も、全体が崩壊して、足下のみを残している。

 ナスティは鼻を押さえた。

 港から見える海岸から、魚の死臭が潮風に乗って漂ってくるのである。

 何隻か小さな漁船があるが、朽ち果てた小舟が、砂浜に捨てられている。

「船を借りるの? こんな貧しい村から、どうしたら立派な船が出てくるんだろう?」

 ナスティはまったく理解できないでいた。

 漁村の奥に進むと、頭巾をかぶった男たちが路上に腰を掛け、骨の突いた肉をしゃぶっていた。腕のしわを見て、ナスティは老人だと思った。

 ナスティたちを不審物であるかのように、上下と見ている。

 嫌な匂いがする。

 ナスティは吐き気に負けまいと、口を押さえた。

「頼もう」

 ジョルガーが貧相な家……それでも漁港では一番立派な家の前に立って、叫んだ。

 顔色の悪い痩せた男が、出てきてた。

 顔にあざができている。制裁を受けた痕跡だと、ナスティには分かった。

 ジョルガーが要件を伝えると、ナスティたちは奥に通された。

 部屋と部屋の間には扉がない。

 悲鳴が聞こえる。

 女の悲鳴だ。

 殴る音が聞こえる。

「肉だ、どこに肉をやった?」

 通された奥には、太った男が痩せた女の襟首を掴んで、女の顔を殴っている。

 黒い肌に、黒いひげを生やしている。白い帽子をかぶっていて、帽子には、赤と緑の混じった羽根が着いていた。

 女は骸骨のように白く、白髪の所々が抜けきっていた。

「そちらが、マルギカ殿か?」

 ジョルガーが話しかける。

「さよう。お客様はどちら様で?」

 マルギカが冷たい視線を送ってくる。

 ナスティは、マルギカがあまり好人物には見えなかった。

 女は解放され、自分の胸元を隠しながら、ナスティたちを素通りして逃げていった。

「私の名前は、ジョルガーと申します。こちらは我が主君、アジュリー王家のナディーン女王陛下です」

 ジョルガーと聞いて、マルギカの表情が青ざめた。

「ジョルガー……。もしや、“衝撃ショック”ジョルガーですか?」

 ジョルガーは顔が渋くなった。明らかに、気分を害した表情をしている。

「これは失礼! ただの同姓でしたな。ヴェルザンディを震え上がらせた、悪名高き夜盗の“衝撃”ジョルガーが、まさか宮仕えをするはずがありますまい」

 マルギカが口元を歪めて笑った。

(“衝撃”ジョルガー? 夜盗?)

 普段の優しいジョルガーが、夜盗だったとは想像できない。マルギカの妄言だとナスティは考えた。

 ナディーンが、船の手配をマルギカに申し込んだ。

 事情を説明する。

 シグレナスに向かい、マークカス家に、自分の娘ナスティを嫁がせる。

「不可解ですな」

 マルギカが、興味がなさげな態度で、自分の爪と指の間に詰まった垢を眺めた。

「何が不可解なのでしょう?」

 ナディーンは、感情を押し殺した声を出した。ナスティの胸に、恐怖が走った。母親ナディーンは怒っている。母親の怒りに、ナスティは人一倍、敏感であった。

 マルギカが刺すような視線をナディーンに向けた。

「シグレナスに向かう港は、他にも、いくらでもあります。どうして我が村を選んだのでしょう?」

「それは……」

 ナディーンが言葉を詰まらせた。

「分かりますよ。私どもの村は、国内でも随一の貧乏な村。この国で、もっともお安く船が出る村でもありますからね」

「話が早くて助かります。当方としては、安価な船を所望しております」

 ナディーンが落ち着いて応えた。

 マルギカは鼻を鳴らした。不機嫌な表情をしている。

「マークカスといえば、シグレナスで一番の大金持ち。帝国中の衣服を精算していると聞きます。マークカスが倒れたら、シグレナスは全裸になる、と伝えられるほどですな。……そうですよね、奥方様、いや女王陛下とお呼びすべきか」

「マルギカ殿は、我らの結婚を疑っているのですか? 我らのような没落した王家に、シグレナスの大国から、縁談を持ちかけられるはずがないと?」

「……言葉ではいくらでも説明できます。私マルギカは、伊達に何十年も商人をやっておりません。これまでに、いろんなホラ話を聞かされております」

「証書はあります」

 ナディーンが懐から巻物をだし、広げて見せる。

「ふむふむ……」

 マルギカが証書とナスティを見比べた。

 ナスティは、値踏みされている。ナスティは背中に冷えを感じた。まるで、自分が家畜になって、値札をつけられているのかようであった。

「三倍の金額でお受けしましょう」

 マルギカの眼光が鋭く光った。

「な……それは不当です」

 ナディーンは言葉を失った。

「最近、罪人が、高貴なる身分を偽って、我らの船でシグレナスに亡命する事態が多くありましてな。漁師は殺され、船を奪われ、村人たちは怯えて暮らしております」

「私どもは、罪人ではありません。ヴェルザンディ王国にも認められた、れっきとした王家でございます」

「身分証明の偽造など、いくらでもできますぞ」

「……ヴェルザンディ王国に認められた婚約契約書が偽造であるとでも?」

「そうは申していません。冗談でございますよ。ただ、私は、この村の庄屋として、村の漁師たちの命と船を守る義務がございます。見知らぬ人たちには、最大限の警戒が必要なのです。たとえ、ヴェルザンディに認められた王家であろうとね」

「最大限の警戒を、私どもに行う根拠は?」

 ナディーンが眉間にしわを寄せた。低姿勢だったが、我慢できずに腹を立てている。

 マルギカは、罠にかかった動物を見たかのような視線を、ナディーンに送った。

「ご息女は、シグレナスで最大のお金持ちと結婚されるのですよね? それならば、どうして、マークカス家は、そちら様に旅費の資金援助をなされないのですか?」

「旅費や、結婚に関するすべての負担は、当方が受け持つ、それが結婚の条件です」

 ナディーンは静かに応えた。

「それが、不可解、と申しているのです。失礼ながら、そちら様は、資金援助がない時点で、結婚先から信頼されていないとお見受けします。結婚先にすら信用されない相手に、どうして、赤の他人である私が、信用できるのでしょうか?」

 マルギカの圧に、ナディーンは反論できなかった。

 金がない。

 いくら法的な証明ができても、金銭がなければ人は動かない。

 ナスティは、母親ナディーンが打ちのめされている姿を見て、大人の世界を垣間見せられた気がした。

 マルギカの視線が、ナディーンの太ももに注がれた。

 マルギカが舌なめずりをしている。

 ナディーンは、白い鞘に入った剣を、背中に回した。

「ふむ、そちらの剣は立派ですな。その剣を売れば、豪華客船を三隻は買えましょうぞ」

「家宝です。お譲りできません」

 ナディーンは剣を背中に回した。

 マルギカは大げさな身振りで、首を振った。

「やれやれ、王家の方たちは、どうしてこうも難しい人たちばかりなのだろう? アジュリー家のナディーン女王陛下。今日は、お引き取りください。料金をご準備いただけましたら、いつでも船の手配をさせていただきます故」

「料金が三倍は不当です。どうかご再考を」

 ナディーンの申し入れをマルギカは無視した。

「おい、ジガージャ、お客さんがお帰りだ!」

 マルギカが怒鳴った。歯をむき出しにした、暴れ猿のように、ナスティには感じた。

 顔にあざを作ったジガージャが、ナスティたちを出口まで誘導する。

 追い払われた。

 帰り道に、ナディーンとジョルガーが肩を並べて歩いた。

「ジョルガー、どう思う? 三倍の金額を払う金も、別の港を探す金も、今の我々には残っていない。マルギカが我らを疑うのであれば、奴を信用させる方法はあるのか?」

 ナディーンが、苦々しい表情で、隣を歩くジョルガー老人に話かけた。

「今思えば、ヴェルザンディには、嫁側が結婚費用を負担する地方があります。ですので、当家とマークカス家の婚姻が必ずしも不可解ではない、となり、マルギカの信用できない云々は、まるで嘘となります。ですが、マルギカは、欲深い男です。たとえ我々の身分を認めても、それはそれで値段をふっかけられるでしょう」

「どちらにしても、我らの足下を見るのだな?」

「そうです。ですが、欲深い人間は、ときとして臆病でございます。威信に弱いのです。強い者の前では、腰を低くし、媚びへつらいます。自分よりも強い者に逆らえば、自分の儲けが減ると考えているからです」

「なるほど。我々を敵に回すと危険である、と示せば良いのだな? ……ならば、どうする?」

「……金を稼ぐしかありませんな」

「では、例の件をやるか?」

「……はっ」

 ジョルガーが頭を下げる。ジョルガーの目つきが、鋭く光った。

(“衝撃ショック”ジョルガー……)

 普段とは違う、表情を垣間見て、ナスティは意外に思った。

 ナディーンとジョルガーが肩を寄せ合い、小声で話をしている。

 ナスティはそれ以降は聞こえなかった。

        2

 広場に入った。

 広場の中央には、丸太に、子どもが縛られていた。 

 縛られている子どもは、顔が赤と青の痣を作っていた。

 死骸である。

 独特な色合いの“耐火外套ファイヤーマント”に身を包んだ集団……“灰”たちが、子どもを下ろす。子どもは力なく、地面に崩れた。

「姫、見てはいけません」

 ジョルガーが、ナスティの顔を隠した。

「ジョルガー爺、あの子は誰……?」

「奴隷の子どもです。たとえ子どもでも、約束を守らなかった奴隷は殺されるのです」

「殺される……? 遅刻すると殺される……?」

 ナスティはジョニーの言葉を思い返した。

 比喩表現ではなかった。本当に殺されるのだ。

「だめぇ!」

 ナスティはジョルガーを振り払って、子どもの死骸に駆け寄った。

 顔を見た。

 赤と青のあざで顔が腫れあがり、誰だか分からなかった。

耐火外套ファイヤーマント”を身につけた少年たち……死体焼き場の“ビブス”たちが、子どもの死骸に集まり、台車に載せる。

「ジョニー?」

 ナスティが、死体に声を掛けた。

「はーい」

“灰”の一人が振り返った。

 ジョニーだった。

「え……。生きてたの?」

 ナスティは、呆気にとられた。

「だめよ、姫。こんな穢らわしい子たちと一緒にいてはいけません」

 ナスティはナディーンに腕を引っ張られた。

 ジョニーたちが引く台車は、海辺に向かった。海辺の一角が、壁で覆われており、常に煙を立てている。

 壁には、馬車と台車が一台ずつ並んでいた。

 風が強まり、煙がナスティたちの方向に流れてきた。

 ナスティは小さく叫んだ。

 腐った魚を焼き魚にしたような臭いである。

「あそこは、死体焼き場。死んだ人を焼きに、他の街や村から人々が来るの。危ないから、近寄っちゃだめよ」

 ナディーンが注意する。

 ナスティは、掴まれた腕が痛かった。母親ナディーンは怒っている。

「はぁい」

 ナスティは素直に応えた。

(良かった、ジョニーは殺されていなかったのね……)

 安心した。

 胸の奥がくすぐったくなる。

 ジョニーが振り返り、ナスティに手を振った。

 心を読まれたような気がして、腹が立ってきた。

(たしかに見た目は良いけど、なんか問題トラブルを巻き起こすし、お猿さんみたいだし、やっぱり嫌い)

 ナスティはそっぽを向いて、無視をした。

        3

 家に戻り、勉強が始まった。

 庭で、教科書を木箱の上に広げた。ナディーンが教える。

「ほら、ちゃんと通分して! 分数の計算もできないの?」

 ナスティは勉強が嫌いだった。

 母親の、ナディーンの機嫌が悪くなる。

 母親が冷たい視線で、無言の圧力を掛けてくる。

 できなければ、徹底的に怒られる。

 ナスティが涙目になった。

 本当に分からない。

(なんで分数の計算をしないと行けないのだろう?)

 また間違えた。

「本当、アナタって子は!」

 ナディーンの怒りが爆発した。

「待て待てぽこぉ!」

 いきなりポコチーが現れて、机の上に飛び乗った。

「言葉のDVDはゆるせんぽこ!」

 四つ足でしっかりと、教科書を踏みしめる。

「こら、ぽこちゃん」

 ナディーンがポコチーの頭を撫でた。

「やめろぽこ。触るなぽこ!」

 ポコチーがナディーンの指から逃げて、噛みつこうとする。

「お姉ちゃんのお勉強を邪魔しちゃ駄目でしょ?」

「なすちーをいじめるなら、ぽこちーが許さんぽこ。座り込んでやるぽこ」

 ポコチーが教科書の上で丸まった。

「もう、ぽこちゃんたら……」

 ナディーンの顔が緩くなる。

(ボクよりもぽこちーが可愛いんだ……)

 ナスティは悲しくなった。でも、守ってくれたポコチーを憎めなかった。

「女王陛下……。準備ができました」

 ジョルガー、ヤジョカーヌ、ガトスが家から出てきた。

 普段の雰囲気ではなかった。三人から物々しさを感じる。

「姫。お母さんたちは夜遅くまで戻らないから、家の戸締まりをしておいてね。晩ご飯は机の上にあるから、勝手に食べておいてね」

 ナスティは、ナディーンから鍵を受け取った。

 ナディーンは、白い剣を腰に下げた。

「行くぞ……」

 ナディーンは目配せして、ジョルガーら三人とともに、出かけていった。

「ぽこぉ……。ぽこちーのパゥワーで去ったぽこぉ」

 ポコチーが前足を組んで、座り直した。目を細めて勝ち誇っている。

「ありがとう、ぽこちー。助けてくれて」

 ナスティがポコチーの喉を撫でる。

「うっとりぽこぉ……」

と、ポコチーは喉を鳴らして、恍惚こうこつの表情を見せた。

「ぽこちーだんす、ぽこちーだだーんす、うー! はー! うー! はー!」

 ポコチーとダンスを踊っていると、ジョニーが大きな魚と小魚を抱えてやってきた。

「やあ。仕事が早く終わったんだ。これを食べよう」

「え……っ」

「どうしたの?」

 ナスティは、ジョニーに見蕩れていた。ジョニーが首を捻る。

「……ヤダ。イラナイ」

 ナスティは、そっぽを向く。

「冷たいね。せっかく獲ったのに」

「いりません」

「姫。さっき、お腹が鳴ってたよ……?」

「鳴ってないよ! それって、キミの空耳。ボクは今、勉強に忙しいんです」

「勉強?」

「うちは貧乏だけど、勉強だけはできるようにってご先祖様からの教えなの。勉強さえできれば、何でもできるって。……ボクは、勉強が大嫌いだ。勉強したって、お金儲けになんかならないのに」

 ナスティは、マルギカとナディーンの会話を思い返した。

(我が家は、マークカス家に信用されていない)

 マルギカの言葉に、ナスティは不安になった。

(家族ともども、捨てられるちゃう……? マークカスがどんな人か知らないけど、結婚できなかったら、どうすればいいんだろう?)

 ナスティは不安になった。

「大丈夫? 体調が悪いの?」

 ジョニーが聞く。

「うちの国はね、お母さんたち四人と、僕しかいないの。家族まとめてマークカス家に面倒を見てもらおうの」

「……じゃあ、君たちのお城はどうなったの?」

「お家は全部、捨てちゃった。もう誰も住んでいないの」

 お城と言っても、切り立った崖に横穴を開けて、建物を建てたものだ。

「もう戻る気はないんだね」

 ジョニーの分析に、ナスティは気分を害した。

(男の子と話をしていると、イライラする)

 戻る場所もない。このまま、この貧しい村に、縛り付けられていくのか……。

「お金持ちになりたければ、勉強しなさい」

 母親の言葉を、ナスティは思い返した。

「勉強したら、マークカスの王子に気に入られるかな?」

 ナスティは教科書に立ち向かった。ポコチーは、教科書から降りた。石の上で丸まり、眠り始めた。

「でも、分数って難しい」

 自分の頭脳が追いつかない。ナスティは一瞬にして、力尽きた。

「二分の一足す、三分の一は……?」

 ジョニーが文章を読み上げる。

「分かんない。分かんないんだよぉ」

 ナスティは叫んだ。脚を地面に叩きつける。

「六分の三、足す、六分の二だから、六分の五だ」

と、ジョニーが答える。

「算数が分かるの……? どこで勉強したの?」

「勉強していないよ。でも、答えが書いてあったから」

 ジョニーが、ページの裏を見せた。

「それは、答えを見れば、誰も分かるよ」

 ナスティは呆れた。

「ちょっと読み込んでもいいかな?」

 ジョニーが、頁をめくり始めた。

 口で何かを呟いている。

 頁を捲る動きが速い。ジョニーは凜とした目つきを頭巾から覗かせている。

(かっこいい……)

 ジョニーの真剣な眼差しに、ナスティは吸い込まれていった。

「だいたい分かった」

 ジョニーが、教科書を閉じた。すっきりとした表情をしている。

「何が分かったの?」

「これってつまりさあ、単位を合わせろって話だよね」

「単位? どういう意味?」

「……一〇メルタと五グノンを足したら、いくらになる?」

「は? 何を急に? そんなの無理だよ。メルタは長さ。グノンは重さ。だから、長さと重さは足せないよ」

「そうだよね、単位が違うからね。じゃあ一キノメルタと一〇メルタは、何メルタになる?」

「……一キノメルタは一〇〇〇メルタだから、一〇メルタを足すと、一〇一〇メルタ。それが、なんなの?」

「だよね。姫は、キノメルタとメルタ、無意識に単位を合わせた。メルタとグノンは単位が違うから、合わせられない。重さと長さは足し算できない。でも、メルタとキノメルタ、長さは長さ同士、単位が同じであれば、どちらかに合わせれば良いんだよ。分数の計算だって同じだよ。通分は、単位を合わせるっていう意味」

「それが、どういう……?」

 ナスティはひらめいた。

「分数だと、分母は、“単位”なのね。メルタやグノンと同じ。通分をして、単位を合わせるのね」

「そうだよ、それが分かるなら、もう解けるでしょう」

 ナスティは分数の計算を解いた。面白いほど解ける。

 意味さえ分かってしまえば簡単であった。

「すごい、答も合っている」

 ジョニーが喜んだ。

「いやいや、ボクよりもキミが凄いよ。……ジョニーは、どこで勉強をしたの?」

「……していないよ。ただ、教科書を見ただけで分かっちゃったんだ」

 ジョニーが頭を掻いた。

 ナスティの頬を、暖かな風が吹いた。

(誰にも教わってもいないのに。天才……?)

 ナスティはジョニーを見た。

 読んだ文章を暗記するのではなく、読んだ内容を応用して、分かりやすく説明できる。

 この人物は、とてつもなく賢い。

 ナスティは勉強の本を解いていった。

 分からなくなると、ジョニーに聞いた。

 ジョニーは問題文と答えを呼んだだけで、説明ができた。

 瞬時に理解できるのである。

 だが、時折、ジョニーでも分からない内容があった。

 ジョニーは立ち止まり、少し考えて、再度、分かりやすく教えてくれた。

「ジョニーって、すごく良い先生になれると思う。難しい問題を、分かりやすく教えてくれる。ガルグだよ」

「ガルグって?」

「先生? ハカセ? かな。すごいなあ、それに比べてボクは、なんて駄目なんだ……」

 ナスティは落ち込んだ。

「どうして、姫は俺と比べるの? 勉強の理解なんて、足の速さなんて、人それぞれなのに」

「だって、お母さんに怒られるし」

「それは失礼かもしれないけど、お母さんの教え方が上手じゃないから。俺が姫に怒ったかい? 分かっている人は、怒らないんだよ。怒っている奴は、自分の都合で怒っているんじゃないかな?」

「そうだけど、でも、だって……」

「姫はすぐ自分のせいにする。たぶん、お母さんは焦っている。理由は分からないけど、いつも焦っている。焦って、姫に、変な言葉をぶつけてくる」

 ジョニーの発言に、ナスティは思い当たる節がある。

「だって、ボクがいつもヘマをするから。いつもお母さんを怒らせて……」

「ヘマなんて誰もがするよ。ヘマを怒っても、何も良くならない。お母さんの怒りは、お母さんの勝手でしょ」

「だって……」

 ナスティは反論を試みた。だが、ジョニーの意見は正しいと思った。いや、むしろ自分の気持ちを言語化してくれて、むしろ気分が良かった。

「ジョニーは凄いな、大人みたい」

「死体焼き場の親方にね、いつもこんな話をしてもらえるんだ」

「親方って偉い人? ……親方が凄い人なのね。今度会ってみたい気がする」

「……変な人だよ」

 ジョニーが笑う。お腹を鳴らした。二人は笑った。

「お腹が空いたんだね。ボクが料理をするから、任せて」

 ナスティは台所に向かった。

 もう夕方だ。

 包丁を使って、大きな魚の鱗や内臓をとり、輪切りにした。小さな魚があったので、小さな魚はそのままポコチーにあげる。

 香辛料を振りかけて、火に掛ける。庭には、焼き場があった。

 ナスティは、ジョニーは肩を並べて、ナディーンの用意した夕食を並べる。

「美味しい。姫、料理が上手なんだね」

 ジョニーが驚いた顔をした。

「これでも花嫁修業中だから。……ねえ、“衝撃”ジョルガーって知っている? ここらへんで有名だったらしいんだけど」

 ジョニーに質問した。

「さあ?」

 ジョニーは、首を捻った。

 お猿さんみたい、とナスティは思った。年相応の反応ではある。

「ぽこぉ……」

 ポコチーが、焼き魚に鼻を寄せた。香辛料の香りに不快な表情を見せて、どこかに走り去っていった。

 暗くなってきた。

「もう帰って。お母さんたちも帰ってくる」

「まだいたい」

「だめ、早く帰って。……遅刻したら、殺されるんでしょ? 今日は大丈夫だったみたいだけど」

「俺は滑り込みで殺されずに済んだ。俺よりも遅れてきた他の子が、殺されちゃった……」

 ジョニーが、沈んだ言葉を出した。

「ジョニー元気出して。明日も、ここで会えるよ……。お金がないから、まだここにいるから」

「え? どういう意味?」

「うん、お母さんたちが帰ってくるから。早く帰りなさい。ばいばい」

 ジョニーに手を振ると、ジョニーは、闇の中に消えた。

 ナスティは、一人、暗い家に戻った。

 灯りを点ける燃料を買う金もなく、寝台に潜り込む。

 すぐに眠りについたが、すぐに中断された。

 夜更けに、ナディーンたちが帰ってきた音が聞こえたのである。

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