“灰”と“汚れた”お姫様
1
ヴェルザンディは、雨が少ない。
地方にもよるが、大抵の地域は、雨が降ると、沼が貯水池になる。
人々は、飲み水や家庭用として、沼の水を杯で汲みあげていく。
沼地は、人間だけに生命の源を与えているのではなかった。
沼の周りには草木が生え、さらに森林となった。
魚が、沼の水面に口を出して、空気を吸っている。
「大漁、大漁……っと」
ナスティは、岩の上に登り、濡れた身体を乾かした。
木で編んだ篭を覗いて、獲れた魚を数える。
「いちにーさんしー」
四尾だ。
人数よりも少ないが、充分である。
「お母さん、喜んでくれるかな? ニヘヘ」
母親の喜ぶ様子を想像すると、自然にナスティの顔が緩んだ。
腹が鳴る。
「お腹が空いた……。家が貧乏だから、仕方ないね。……寝るしかないのだー」
空腹になったら、睡眠で紛らわせる。
ナスティの特技であった。
ナスティが岩の上で仰向けになった。
目を閉じようとすると、白い獣が、視界に飛び込んでいた。
ふわふわの毛で覆われている。白い尻尾は膨れ上がっていて、丸い耳は垂れ下がり、大きい瞳は、青色をしていた。
口に巨大バッタを咥えていた。
バッタは、ナスティの顔と同じくらい縦に長い。
「あ、ぽこちー」
ポコチーは、その場で回って、ふわふわの尻尾で円を描いた。
バッタを口から落とす。逃げようとするバッタの背中に、ポコチーは素早く爪を突き立てた。
「なすちー、おはぽこ!」
「ぽこちー、おはよう。昼ご飯を持ってきてくれたの?」
ナスティは、頬でバッタの羽ばたきを感じた。
バッタは、まだ生きている。
「そうぽこ~。なすちーがお腹空いた、えーんえんえんえんって泣く前に捕まえてきたぽこー」
「ぽこちー、えらい! ありがとう」
ナスティがポコチーの頭を撫でる。
「うれぽこぉ」
ポコチーは目を閉じて、ナスティの手に、自分の頭を擦りつけた。喉を鳴らしている。
ナスティは、巨大バッタを木の枝で串刺しにした。
起こした火で炙る。
小刀で真っ二つに分け、上半分をポコチーに投げ与えた。
「はぐ、はぐ、うめぇぽこ」
ナスティとポコチーはすぐに平らげた。
「美味しかった……。ありがとう、ぽこちー。捕まえてきてくれて」
「どいたまぽこ!」
ナスティが目を閉じた。
良い天気だ。
ポコチーが、前足を器用に使って、白い毛並みを整えている。
「ヴェルザンディも、そろそろお別れだね……。明日には、シグレナスに向けて出発かぁ。ボク、シグレナスの皇帝になってみたいなあ」
「なれねぇぽこだよ。そんな気軽になれるわけねぇぽこ。……どういう根拠でなれると思っているぽこな」
「えー、できるよう。シグレナスでは、皇帝の血を引いてなくても、皇帝になれるんだって。ボク、結婚したら、皇帝を目指してみるよぅ」
「いろんな条件をすっぽかしているぽこぉ……。なすちー、君は何歳になった?」
「一〇歳だよ。どうして、そんな質問するの?」
「お姫様生活が長かったとはいえ、もう少し、社会常識を身につけろぽこなあ」
「……ところで、ぽこちーは、シグレナスに行って何をしたいの?」
「ぽこぉ……?」
ポコチーが、毛繕いを止めた。前足を下ろし、身を低く構えて、警戒の姿勢を取った。
「どしたの? ぽこちー?」
「変な子どもが、ぽこちーたちを見ているぽこ?」
ポコチーが見る方向には、男の子が立っていた。
赤黒い頭巾をかぶり、全身を隠している。
「霊落子の子かな?」
「霊落子にしては、着ている服に癖が強すぎるぽこ」
霊落子。不老不死の性質を持った、人間に近い生き物である。
身体は人間なのに、顔が動物に似ていて、ヴェルザンディでは、迫害の対象であった。
「おい」
後ろから、呼びかけられた。
声の主は、霊落子ではなく、肌の黒い子どもたちであった。
一番背の高い少年……ナスティよりも背が高い……が眉をつり上げている。
見覚えはない。
ナスティにとって、初めて来た場所だからだ。
「お前だか? ……最近、俺たちの魚を盗んでいる奴は?」
「ちがう……」
「嘘をつくなだか。お前の腰に下げている魚は、なんなんだか?」
ナスティに詰めかかる。
「やめろぽこ! なすちーには指一本触れさせないぽこ!」
ポコチーが毛を逆立てて威嚇する。
一番背の高い少年が、ポコチーを蹴った。
「ぽこぉ……」
軽く吹き飛ばされたが、身体を翻して、着地した。
「えーんえんえんえん、蹴られたぽこぉ」
どこかに逃げ去った。
「あ、ぽこちー! やめてください、ポコチーをいじめないでください」
ナスティが叫んだ。
「いじめないでください、じゃないんだだか。俺たちの漁場を荒らすとは、たいした度胸だか! ……俺は、ここら一帯を仕切っているタダラスだか」
「ちがう、誤解です。引っ越したばかりで、ここに来たのは、初めてです」
タダラスがナスティに掴みかかってくる。ナスティよりも、一回り、二回り大きい。
(……叩かれる!)
恐怖のあまり、ナスティは、顔を逸らして、目をつぶった。
ナスティの眉間に電流が走る。
「うわっ」
ナスティとタダラスが同時に呻いた。
「痛ぇだか。お前、何かしただか?」
タダラスがナスティから手を離して、手を振っている。
だが、何者かが、タダラスとナスティの間に入った。
「待て待て~。弱い者いじめは、やめなさい。さもないと、この俺が許さないぞ!」
霊落子であった。
「黙れ、魚泥棒の肩を持つ気だか?」
「魚泥棒だって? たしかに、泥棒はいけない。でも、集団で弱い者いじめをするのは、もっと駄目だぞ?」
霊落子が、タダラスを窘めたようとして、手にしていた魚の束を、振り上げる。
「……あ」
ナスティとタダラスは同時に、声を出した。
「お前だかな! お前がいつも、俺たちの魚を盗んでいる、魚泥棒だかな!」
タダラスが、霊落子の魚を指さして怒り狂っている。
「違う違う、魚が俺の手に飛び込んできたの。断ったんだけどさ、どうしても次の駅まで乗せてけってなんの」
「嘘をつけだか! ここは俺たちの漁場だか。勝手に荒らすなだか!」
「ここは天下の往来! お前たちの漁場でもないんだよーん。お前たちの沼だってんなら、証拠を見せなぁ」
霊落子が両手を振って、挑発する。
ナスティよりも、背が低い。
(年齢は、ボクと同じくらいかな……。男の子って、お猿さんみたいだなぁ)
ナスティは同年代の子どもと接する機会が少なかったので、新鮮さを感じた。
タダラスが、年長らしく、落ち着いた態度になった。
「漁業権といって、だか。ほれ、証拠記録もある。ほら、弟」
タダラスの弟が、筒を出して、中から書類を広げる。
「リョギョウ……ケンリショ?」
霊落子が、文字を読んでいる。
(この霊落子、字が読めるの?)
ナスティは、驚いた。
霊落子の中には、高い教育を受けている者がいるのだ。
「最近の若者は、やだなあ。小難しい法律の知識を振りかざして、自分たちの権利ばかり主張するんだから……」
霊落子は、動揺している。自分に非があると、理解しているのだ。
黒い肌の子どもが一人、タダラスの肩を叩いた。
「兄貴、こいつは霊落子じゃないよ。この着物は、“灰”だ」
「“灰”だか……? 死体焼き場の奴隷か……。どうして死体焼き場の奴隷が、俺たちの領地まで来ただか?」
タダラスが不思議そうに首を捻った。
「兄貴、やっちまおうぜ。汚らわしい“灰”め、俺たちの縄張りから出て行け!」
弟たちが煽る。
「お~い、こっちだか~」
タダラスが、手を振った。遠くにいる、仲間らしき少年たちが、タダラスに気がついて近づいてきた。タダラスの口元に狡い笑みが浮かんだ。
「うわ、ずるいぞ、逃げろ!」
霊落子、いや“灰”が、ナスティの手を握った。
「?」
ナスティは、状況を飲み込めていない。
ただ、顔が一気に熱くなった。
知らない人にいきなり手を掴まれて、熱を帯びてきた。
「ねえ、君。逃げないと、君もやられるよ」
“灰”が言葉を掛けてくる。ナスティを引く力が強まった。
ナスティは、自然と走り出した。
「ねえ、君の名前は?」
“灰”が話しかけてくる。
ナスティは躊躇った。
「名無しかな?」
ナスティは自分の名前が嫌いだった。
いつも馬鹿にされていた。笑う子もいた。
「ちがう……。ボクは“汚れた子ども”」
馬鹿にされる。
そう思っていた。
「ふーん。……ところで、ねえ、君。木登りできる?」
“灰”の反応は、以外にも、薄かった。
沼を抜けると、林に出くわした。
木を目の前に、ナスティは答えられない。
「木登りができないの? ああん、しょうがないなあ。俺が囮になってあげるから、早く逃げなよ」
“灰”が手を離し、ナスティに背を向けた。
追いかけてくるタダラスたちに向き直った。
自分よりも小さい背中が逞しく見えた。
「ほら、早く帰りな」
「命令しないで。キミのせいで、追いかけられているんだよ?」
ナスティは頬を膨らませた。
“灰”が振り返った。頭巾の中から、鋭い目が見えた。
ナスティは、“灰”の視線に、胸を貫かれた気がした。
(でも、悪い気はしない……。むしろ暖かい……。優しい目をしている)
ナスティの胸が暖かくなった。こんな気分に、初めてなった。
「石を投げろだか、石を。死神を追い払うには、石だか!」
タダラスがわめき散らす。
少年たちが石を探し出した。
「“灰”! “灰”! 死神“灰”!」
少年たちが投石を仕掛けてきた。
突然降りかかってきた石の雨に、“灰”は釣り竿を振り回した。
「俺は、無実だ。濡れ衣だ。やめろ、お前たちっ!」
石を打ち返した。
黒い肌の少年に当たり、少年は倒れた。
「オータニサァーン!」
“灰”が、石を打ち返す。そのたびに、もう一人、倒れる。
「投石やめ! 奴に飛び道具は効かんだか!」
タダラスの命令に従う者はいなかった。酸欠した魚のように、沼に浮いていたからだ。
タダラスの前に、“灰”は頭巾を投げ捨て、上半身が裸になった。
「ヒャッ」
ナスティは、手で両眼を塞いだ。裸の男子は、ヴェルザンディでは珍しくないが、この“灰”の裸を見ると、不思議な気持ちになった。
“灰”少年の背中と、黒い髪が見える。
釣り竿で、タダラスの頭部や胴体を殴打した。
「面! 面! 胴! 小手ばっかり仕掛けてちゃ、淡泊すぎて見破られちゃう!」
意味不明の奇声を上げている。
「なすちー! 一緒に逃げるぽこぉ」
白い獣ポコチーが、ナスティの前に躍り出た。
「あ、ポコチー」
ポコチーが森の中に入っていった。ナスティはポコチーを追いかける。
「変な子……。焼き場奴隷の“灰”……」
走りながら、“灰”の後ろ姿を思い浮かべた。
2
帰り道は、迷った。
初めての場所で、土地勘がない。
家にたどり着くと、辺りは真っ暗になっていた。
家といっても、長期滞在するために借りている、仮住まいの家である。
村は石積みの壁に覆われ、囲いの中には、石造りの家があった。風は小さな砂を巻き込んで、村に入ってくる。
ナスティの家には、人だかりができていた。
「姫……」
老人が立っていた。黒い肌とは対照的に、白髪である。厳しそうな顔つきが決まりの悪そうな表情になっている。
「ジョルガー爺……」
ジョルガー老人の隣に、母親ナディーンが必死に謝っていた。
母親の前で、タダラスが弟たちと一緒に、ナスティを指さした。
顔が腫れ上がっている。
後ろに逞しい男が両腕を組んで立っていた。
「姫っ。アンタって子は! この土地の人たちまでに迷惑を掛けて? もう、あんたは何時まで遊んでいたのよ!」
ナディーンが、血相を変えて世界の終わりであるかのように叫んだ。
「……みんなのために、魚を獲ってきたの……」
ナスティは、下を向いて震え上がった。
母親の怒鳴り声が恐ろしい。
「その魚はね、ここに住んでいる人たちの魚なのよ。沼の魚を集めて、魚屋さんに納める仕事をしているの」
ナディーンの怒りは収まらない。
「平民様に怒られるだか……。俺たち奴隷は、鞭で打たれるだか」
平民様……。
タダラスは平民よりも身分の低い子どもだった。ヴェルザンディのごく貧しい地方では、奴隷は、平民たちの共有財産であった。
「これ以上、平民様に殴られたくないだか」
タダラスたちの怪我は、平民たちからの制裁だった。
「姫。……魚を返しなさい。それと、ちゃんと謝るのです」
ナスティは気圧されて、タダラスに魚を渡した。
「ごめんなさい……」
ナディーンに頭を押さえられて、頭を下げる。
タダラスが帰るまで、頭を押さえつけられていた。
「姫。たとえ奴隷の子どもでも、物を奪ってはいけないのよ。後ろには平民や貴族がいるんだから」
「でも、そんな話は知らなかったの。誰も教えてくれなかったのに」
ナスティが答えると、ナディーンが腕を組んで、口を結んだ。
ナディーンが、ナスティを見た。
ナスティは、母親の無言が怖かった。
「……ペンダントは、どうしたの?」
「ペンダント……?」
ナスティは懐を探した。ナスティは全身が冷える感覚になった。
「あれ、おかしいな、どこかで落とした……?」
沼地で魚を捕まえているときに、落とした?
タダラスから逃げるときに落とした?
ナスティは記憶を張り巡らせた。
「あんな家宝を落とすなんて、そんな子は、うちの子じゃありません。出て行きなさい!」
勢いよく扉が閉められた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。もうしませんから! 良い子でいますから!」
叫びながら、扉を叩く。
周りの家に、灯りがともっている。住人たちは、何事かと顔を出す者もいたが、結局はナスティを無視して、それぞれの家に引っ込んだ。
ナスティは、家の壁にもたれて、座り込んだ。
砂に寒い風が通る。
「寒いよぉ……。お腹空いたよぉ」
砂漠でも、夜になると寒い。
「ぽこぉ……」
向かいの家の影から、白い毛玉の塊が現れた。二つの光を放っている。
「ぽこちー……」
「なすちー。こんぽこ! ……閉め出されたぽこか?」
ポコチーが、ナスティの脚に纏わり付いた。
毛がくすぐったい。
「そうなの。お母さんを怒らせちゃって……ボク。もう死んじゃうかも」
ナスティーはポコチーを抱っこした。
ポコチーの毛が暖かい。
「えーんえんえんえん。なすちーが、ちんじゃうぽこぉ」
ポコチーが、手を伸ばして、ナスティの頬に触れた。
「ごめんね、ぽこちー。どうしていつもボクはこうなんだろう?」
ナスティは、すすり泣いた。
母親を喜ばせる行為が、自分を苦しめた結果になった。
「なすちー。元気を出すぽこ。こういうときは、ぽこちーだんすを踊るぽこ!」
「うん」
「ぽこちーだーんす、ぽこちーだだーんす」
ポコチーが立ち上がって、お腹を揺らす。
「うー! はー! うー! はー!」
ポコチーが右左と交互に正拳突きを繰り出した。
「あれ、何をしているの?」
気づくと、“灰”の少年が立っていた。
「……ぽこちーだんす。ぽこちーと二人で踊っていたの」
ナスティがポコチーから手を離した。
「俺には、嫌がる猫を無理矢理踊らせているようにしか見えないけどなあ」
“灰”が呆れたような声を出した。
「ううん。ぽこちーは、言葉を喋るの。ボクには分かる」
「へえ、ぽこちーかぁ」
“灰”がポコチーの喉を優しく撫でた。だが、ポコチーは顔を逸らし、ナスティの膝上から降りて、夜に消えていった。
「ほら。普通の猫だよ」
“灰”が肩をすくめて、笑った。
「……キミが、ぽこちーに嫌われているだけだよ」
ナスティは不機嫌な声を出した。
(嫌な人。ボクの気持ちも境遇も知らないで……)
だが、胸が鳴る。
「隣、座っていいかい?」
“灰”が提案する。
「馬鹿、なにを……」
「はい、これ。焼き魚。食べな~」
“灰”から串で貫かれた焼き魚を渡された。
(不味……)
内臓も鱗もそのまま残っていた。だが、空腹のナスティにとっては、我慢できない。
「貴重なタンパク源……!」
“灰”も笑って、串焼きの魚を口に入れた。
「不味……。こりゃあ不味いや。見よう見まねで魚を焼いたんだけど」
“灰”が笑った。ナスティも釣られて、笑った。
だが、ナスティは冷静になった。
「ねえ、なんでボクにかまうの? 君のせいで怒られたんだよ?」
「……どうして怒られたの?」
「タダラスのお魚を獲ったから」
「盗んだわけじゃないよね。俺たちは、沼から魚を獲っただけで」
「よく分からない。タダラスは奴隷で、平民に魚を捕まえる仕事をしていたみたい。その邪魔をしたって」
「邪魔してないよね? 俺たちが魚を獲ったって、沼から魚がいなくなるのかな?」
「そりゃ、そうだけど……」
「じゃあ、別に、俺たちは悪くないよね? タダラスは、俺たちを追いかけるより、魚を捕まえれば良かったんだ」
「……だって、お母さんがボクを悪い子だって」
「君が良い子か、悪い子かだなんて、お母さんが決める話なの? どうして君のせいなのか、俺には、よく分からないな」
「うるさいな、ボクが悪い。それで話が済むの。……大体、キミは何をしに来たの?」
「なんか可愛い子がいるなって思って追いかけて来ちゃった」
“灰”が臆せず呟いた。
「ボクを好きなの?」
ナスティは、質問をした。口が震える。
「そうみたい。好きだよ」
“灰”が当然のように応えた。
「どうしたの? 姫? 誰かいるの?」
ナディーンが怒鳴る。
「だ、誰もいないよ」
ナスティは返事をした。
顔が熱い。
外は寒いというのに。
「あのね、ボクには許嫁がいます」
ナスティが伝えた。
「イイナヅケ?」
「結婚相手だよ。だから、キミを好きには、なれません」
「ふーん」
「なんとも思わないんだ? 普通は、そこはしょんぼりするのかと思っていた」
「いいや、どうして俺がしょんぼりするの?」
「どうしてって……」
「姫。姫はその人を好きなの?」
「姫? ボクを姫って呼ぶんだね」
「うん。だって皆が姫って呼んでいたから。で、その人が好き?」
「……分からない。まだ顔も見ていない。シグレナスに住んでいるんだって。明日にはシグレナス行きの船に乗るんだけど」
「知らないんだ。知りもしないし、好きでもないのに、どうして結婚なんてするの?」
“灰”の声が明るくなった。
「政略結婚ってやつよ。未来の旦那様は、シグレナスで一番のお金持ち。マークカス家の王子様なの」
「王子様かあ。セイリャクケッコンの意味が分からないけど、貧乏な君のおうちが、お金持ちと結婚するために、シグレナスに行くんだね?」
「うち、めっちゃ貧乏だから魚を獲らないと、ご飯を食べられないの」
「好きでもない人と、お金のために結婚しないといけないの?」
「好きかどうかなんて関係ない。ボクたちの家は、お金が必要なの。ボクが結婚して、お家にお金を入れないといけないの」
「どうして、お金が必要なの?」
「お金がないと生きていけないよ」
「……無くても、姫は生きているよね?」
「お金がないと幸せになれない」
「そうなんだ。でも、お金を手に入れるために結婚しようとしているのに、ちっとも幸せそうじゃないよ」
「……キミの話は、よく分かんない。もういい、帰って。もう夜だよ? キミはお家に帰らなくて良いの?」
「……朝までに帰らないと、平民様たちに殺されちゃう」
ナスティは、“灰”を見た。
この子も、奴隷なのだ。
「じゃあ早く帰って」
「朝までいる」
「え?」
「姫を一人でこんなところに置いていけない」
「……いやだ。さっさと帰って。あっち行って」
ナスティは村の外を指さした。
“灰”は頭を振った。
「夜は死者が活発になるから、俺たち“灰”は、じっとしていないといけないの。闇夜の中を動いたら、死者に連れて行かれちゃう」
「幽霊?」
ナスティは幽霊を想像した。
ときどき、暗い空間に、白い影が立ち上っているのを見える。。
「あ、そうだ! これを渡すの忘れてた!」
“灰”が叫んだ。唐突に叫んだものだから、ナスティはひっくり返りそうになった。
ナスティのペンダントであった。
「どうしてキミが持っているの?」
「……姫が落としている所を見たんだ。それを拾って、ここまで従いてきた」
鎖の部分が千切れていた。
「わざわざ渡しに来てくれたの?」
店に売れば、価値の高いペンダントである。奴隷の子どもにとって、手に余るほどの銀貨が手に入る。
「ちょっと待って。直すから」
“灰”は破損した鎖の部分を捨てて、無事な部分を付け直した。
突風が吹いた。
「寒い……」
ナスティが凍えて、ポコチーがいれば、暖まるのに。
「待って……」
“灰”が頭巾付きのマントを脱いだ。
「これを来なよ。“耐火外套”……本来なら焼き場に着ていくんだけどね」
頭の上に被せられた。
「良い匂い……」
ナスティは、“耐火外套”を嗅いだ。“灰”少年の匂いがする。
「そう? 死体焼き場の匂いだよ?」
「え? 焼き場って、死体を焼く場所だったの?」
「そうだよ。俺は、親方の手伝いで死体を運んだり、焼いたりする仕事をしているの」
ナスティは、“灰”の少年を見した。
凜とした顔つき。
鋭い目は意志が強く、優しさで溢れている。
黒い髪をなびかせている。
風と光がナスティの両頬を撫でた気がする。
(……めっちゃイケメン。タイプなんですけど……)
ナスティは、“灰”に興味が出てきた。
“灰”と“耐火外套”を共有する。“灰”の肩が、ナスティの肩に当たる。
「キミ、名前は?」
“灰”が首を振る。
「恋人とかいるの?」
“灰”が何も答えない。
「そっか、そうなんだ。名前がないんだね。そうだ、ボクがつけてあげよう」
ナスティは嬉しかった。
この子には、恋人がいない。
「キミは、死体焼きの奴隷だよね?」
「そうだよ」
「このヴェルザンディでは、“ジョナァスティップ”は、墓守を意味するんだよね」
「そうなの……? 知らないなぁ。ハカモリって何?」
「お墓を守る人だよ……。だから、キミは……ジョナァスティップ・インザルギーニと名乗るが良い!」