豚鼻
1
カレンは、通路に立った。
霧に覆われていた通路と構造がよく似ている。違いがあるとすれば、壁の一箇所に、梯子が上階に向かって伸びている点だ。
カレンは、梯子に手を掛けた。山中で迷ったときは、高い木に登る。高所に行けば、脱出経路を発見できるからだ。
霧の通路にも梯子があって、ただ霧で隠れていただけかもしれない。
梯子を昇りつつ、カレンは思った。
梯子を昇り終えると、建造物の屋上だった。
太陽の光に照らされる。
太陽?
見上げると、空は海だった。日を浴びた、青い海が広がっている。
鉄柵に囲まれており、中央には得体の知れない機械がいくつか、列をなしている。
機械の陰に隠れる。安全かどうか疑問であるが、少しでも時間を稼ぐためだ。
休息が必要だ。
その場に座り込み、目を閉じた。
遠く離れているが、青白い光が見えた。カレンが先ほどいた場所であった。
青白い光は、レミィだと感じた。
レミィが気になった。
自分は、レミィを置き去りにしている。レミィを思うと、胸が締めつけられるようだ。
だが、レミィはまだ生きている。
レミィの生存が、カレンにとっての安心材料となった。
レミィを観測していると、位置が微妙に移動していると、気づいた。
レミィに移動手段はない、と考えていたが、なんらかの方法で動いているのだろう。
カレンは、目を開いた。
疲労を覚えた。身体中が、休息が必要だと主張しているようだ。
だが、レミィの位置とは違う場所に、騒ぎが起こった。
カレンはまた、静かに目を閉じた。
肉眼では見れなかったが、黄色い光が見える。光は暖かく、カレンは額で熱を感じた。
「この感覚は、……ナスティ」
自然と口に出た。根拠はないが、分かった。
カレンは、目を開いて、ナスティの感覚に向かって走った。柵に遮られ、建造物は終わっていた。
空中を挟んで向こう側に、建造物があった。
向こう側の建造物は、カレンの現在地と同じく、屋上で終わっていた。
屋上の中心で貝殻頭が群がり、槍や斧を振り上げていた。
群がっていた貝殻頭たちは、金色に輝く煙と共に、一斉に吹き飛ばされた。
金色の煙が風に混ざって消えていく。
煙の中から、スカートをつけた霊骸鎧が、槍を構えた姿をして現れた。
ナスティの霊骸鎧だ。
ナスティがスカートの裾をたくしあげて、横に払った。
両足を強く踏みしめ、宙に飛ぶ。
滞空中に、ナスティの全身が横回転した。くるくると回転して、スカートが浮き上がる。舞い落ちる花びらのようだと、カレンには見えた。
ナスティが貝殻頭の背後に着地すると同時に、貝殻頭の首が横にはねていった。首と別れた胴体が、たたらを踏んで倒れる。
着地姿勢のナスティは槍を、翼のように広げていた。槍を重機関銃に持ち替え、掃射した。
放つ火力で、貝殻頭を穴だらけにしていく。
「強い……!」
カレンは息を呑んだ。たった一人で貝殻頭たちを殲滅していく。
ナスティが、寄り集まってくる貝殻頭を、一方的に虐殺している。
貝殻頭も愚かではなかった。数の優勢を利用して、ナスティを包囲した。
一体の貝殻頭が、ナスティの背後から斬りかかった。
だが、ナスティはお辞儀をするかのように上体を滑らかに倒し、敵の刃をかわした。空振りをして体勢を崩した貝殻頭の胸に、槍の石突きで打った。
貝殻頭が胸を押さえて後退する。ナスティは振り向き様に、槍で貝殻頭の首を薙払った。
「……僕が呼び出した霊骸鎧よりも強い」
カレンは驚嘆した。
カレンの霊骸鎧たちは、すぐに袋叩きになった。どんなに強くても、多勢に無勢であった。
だが、ナスティは、たとえ集団に囲まれても、一角を切り崩して突破していく。
ガルグの発言を思い返す。ナスティに対する評価だ。
「この子を連れてくるべきではなかった」
いやいや、とんでもない。
カレンは首を振って、空想上のガルグに反対した。
現に、貝殻頭の首が山積みになっていっている。
柵を握りしめ、ナスティの奮闘をただ眺めていた。
2
柵の下から、誰かが見ている。
カレンは視線の持ち主を見た。
カレンの現在地より、階下に連絡通路がある。貝殻頭の一群が連絡通路を走っている。
カレンを追いかけてきた貝殻頭たちだった。
何体がカレンに視線を送っている。
だが、貝殻頭はカレンに視線を送りつつも無視し、梯子を昇って、ナスティと対峙している仲間に加勢した。
カレンよりも、ナスティが殲滅対象として優先される、と判断したのだろう。
叫び声が聞こえる。
「こんなザムイッシュの出来損ないに手を焼くとは、何事か! このクルト様の目の前で、情けない戦いをした奴には、相応の罰を与えてくれる!」
どこからともなく、貝殻頭の一体が現れた。
喋った。
外見も、他の貝殻頭とかなり違う。
喋る貝殻頭クルトの頭部には、本来ある貝殻はなく、豚の頭部があった。豚顔のクルトは邪悪な形状をした甲冑を身につけており、黒いマントを羽織っていた。
普通の貝殻頭は、どちらかというと巨大な昆虫に近い印象をカレンは受けていた。
だが、カエル顔のイーザルトルといい、豚顔のクルトといい、人語を話し、人間に近い言動をとっていた。
(貝殻頭とは、一体なんなのだろう?)
カレンの内部で、貝殻頭の定義が崩れ去ってきている。
ナスティは、貝殻頭の隙間をぬって、重機関銃を撃ち放った。弾丸が空中に軌跡を描いて、豚顔クルトの顔面に向かった。
豚顔クルトは右手で顔を守った。軌道から逸れた弾丸とともに、豚顔の太い指が数本、後方に千切れ飛んだ。
豚顔クルトが慌てふためく。
「小癪な……! あのザムイッシュめ。高速移動で戦闘しながら、俺様を精密射撃するだと? なんて味な真似を」
手のひらの中心にできた穴を見て、唾を吐くように言った。残った太い指には、細長い爪がある。爪は赤黒く塗りつぶされていた。
クルトは右手を握りしめた。
「できそこないのザムイッシュ。俺たちは貴様らの弱点を知っておるぞ」
目を閉じ、鼻から息を吸い込んだ。
息を体内に留め、ゆっくりと口から吐く。
「……長時間では戦えないことだ」
クルトの右手から、黒い煙が立った。黒い煙は、紫色を帯びていた。煙がたち消えた後は、右手の穴は塞がり、太い指も戻っていた。
3
ナスティは最後の貝殻頭に止めを刺し、死骸から槍を引き抜いた。
残ったクルトが、静かに声を放った。
「だいぶお疲れのようだな……できそこないのザムイッシュよ」
黒いマントを広げ、風になびかせた。
ナスティとは距離があった。ナスティは槍を低く構えた。
豚顔は、マントをひるがえし、意気揚々と名乗りを上げた。
「俺の名前はクルト。これから我らアポストルの恐ろしさを、貴様に叩きつけて……ふぐわぁ」
すべてを言い終わる前に、クルトは悲鳴を上げた。
ナスティは、空中から渾身の力で、槍の穂先をクルトの豚顔に深々と叩きつけていた。
クルトは眼球が飛び出すほど、顔の半分を潰れている。
ナスティのハイヒールが、屋上の堅いタイルに着地する。
地面を蹴って、後方に距離をとり、槍を重機関銃に持ち替えて、クルトの胴に向かって乱射した。
無数の弾丸が、多数の軍勢となって、クルトの全身を揺るがせた。
口から血のような黒い体液が吹き出た。クルト自身は、音を立てて、背後に倒れた。
両腕を広げて、動かなくなった。口から黒い体液を滝のように流している。
ナスティは首をひねった。
武器を槍に変え、クルトに近づく。足取りはどこか重かった。多数の貝殻頭を虐殺したため、疲れ切っているのだろう、とカレンは推測した。
ナスティはクルトの豚顔をハイヒールのつま先で踏みつけ、槍を目の前で一回転させた。槍の穂先が、クルトの首に向く。
クルトの首をはねて、止めを刺す気だ。
クルトの全身から、黒い煙が立った。
ナスティは視界をやられ、一瞬、たじろく。
「危ない!」
カレンは叫んだ。クルトは何かを企んでいる。
だが、距離がありすぎて、声が届かない。
ナスティの全身が、破裂音と共に、青い電流に包まれた。火花を散らし、ナスティが激しく揺れる。
ナスティは足下から崩れた。
クルトはナスティを投げ捨てるように太い指を離し、悠然と起きあがった。
クルトの両手から、青白い火花が散っている。
霊骸鎧は黄色い煙とともに消え、生身のナスティが残った。地面に伏して、動かない。
「俺様が何も武器をもっていないことに、疑問を抱かなかったのか? 昔から言うだろう? 武器を持たぬ奴が、一番強いとな」
クルトは、豚鼻を鳴らした。カレンには侮蔑しているように見えた。
クルトはナスティの肩を、つま先で軽く蹴った。ナスティは無抵抗に転がり、仰向けになった。
クルトは目を丸くして驚いた。
「美しい……」
クルトはその場でしゃがみ、ナスティをなめ尽くすように観察した。
細い爪で、ナスティの衣服……襟元を切り裂いた。ナスティの胸から、光るものがこぼれた。
クルトの豚顔が、邪悪で残忍な笑みで満たされた。
「我らが神に捧げる前に、俺様が楽しませてもらうとしよう。我らが神は寛大であられるからな……!」
太い指で、ナスティの足首を掴み、歩き出した。
ナスティは完全に気を失っている。抵抗もせず、ただクルトに引きずられるだけだ。
クルトは、天を仰いで叫んだ。
「特上の獲物をいただきまして、感謝いたします。我らアポストルが神、インザルギーン!」