星空
1
ひんやりとした冷気に、ジョニーは、目を覚ました。
目の前に、鉄格子が見える。
周りを見渡すと、無機質な岩壁に覆われている。
「気を失っている間に、牢屋にぶち込まれたのか……」
“狗族”に連行されたのだ。
寒さに負けて、身震いをした。くるまっているマントを引き寄せた。
ジョニーは、裸である。
だが、一番大切な存在を忘れていた。
「……セレスティナ!?」
隣から、暖かい物体が、ジョニーの肩を打った。
セレスティナである。セレスティナが、ジョニーの肩に、自身の頭をもたれかからせて、小さな寝息を立てている。
ジョニーとマントを共有し、首だけを出していた。
クリーム色の金髪から、甘くて優しげな香りがする。
「良い匂い」
と、“狗族”のアヌビスが、評価していた。
特別な化粧や香水をしているわけではない。セレスティナそのものの匂いである。セレスティナの全身から、清らかな魂、つまり霊力が、香りとなってあふれ出ているのだった。
(セレスティナが、俺に身を預けている……)
夢にも思わなかった事態に、ジョニーの胸が高鳴った。
セレスティナを愛おしく見つめていると、緩い襟から、白い谷間が見えた。肌が白すぎて、青白い血管が透けて見える。
ジョニーは逃げようとしたが、共有されたマントが邪魔をして、逃げられない。
セレスティナに着させた服は、男性用サイズのTシャツにベルトを固定しているだけである。しかも、セレスティナは、下着を着けていないので、見る方向によっては、谷間の全景を確認できる恐れがあった。
ジョニーは、顔を逸らし、目を閉じた。
(馬鹿、やめろ。俺は何を考えているんだ? 眠っている女の、繊細な部分をのぞき見るとは、卑怯者の所業だ)
セレスティナが短く呻いた。
ジョニーは、悪事を働いていないのに、妙な罪悪感を抱いた。
(起きるときは、いちいち小さく唸る癖があるな)
と、ジョニーは内心で罪悪感を誤魔化した。
セレスティナの瞳が開く。長い睫毛が、ゆっくりと開く様子は、花が咲くようだ。
セレスティナが、寝ぼけた様子で、ジョニーの顔を何度も確認した。
顔色が青くなっていく。
「ぴゃっ」
と妙な悲鳴を上げて、後ずさった。草むらに生息する昆虫みたいな回避行動である。鉄格子に腰をぶつけて、痛がっている。
「大丈夫か……?」
ジョニーは手を差し出した。セレスティナはジョニーの手に見向きもせず、自分の腰をさすっている。
「え……いや、そのさむ……寒かったので……。マントがその……」
セレスティナが、目を真っ赤に潤ませて、小声でまくし立てた。一生懸命な弁解であるものの、言葉になっていない。
「牢屋の中が寒かったから、マントを使って、俺の体温を利用した。ゆえに、決して他意はない……と伝えたいのだな?」
と、ジョニーは持ち前の直感力を働かせて、セレスティナの言葉を翻訳した。
「そうそう」
と、セレスティナが早口で頷いた。面積の狭すぎるシャツの裾で、太ももを隠しきれず、不思議な脚の組み方をしている。
寒くて、脚が震えている。
「仕方ないな、これを使え」
ジョニーは、マントを外して、セレスティナに渡した。
だが、セレスティナは、受け取らなかった。代わりに、兎が跳ねるように、ジョニーの隣に、飛び座った。
定位置であるかのように、ジョニーに肩を寄せる。マントを広げて、ジョニーもろとも、くるまった。
(奇跡? ……これは奇跡だ)
ジョニーは嬉しさのあまり、涙で視界が揺らいだ。
セレスティナが鼻をすすっている。
(そうか、寒いから俺を利用しているだけだったな……)
ジョニーは残念がった。
セレスティナが鼻声で、話しかけてくる。
「……“狗族”たちは私たちを殺しませんでした。“魔王”の復活の手がかりになるから、審議するのだそうです」
ジョニーは、鉄格子の向こうを見た。
牢屋から直線的に道が進んでいる。光る壁は、通行者の霊力に反応して明るくなるが、この通路では無人でも、常に明るい。
明るさ故に遠くまで見えるが、気が狂うくらい先には、何も見えない。
「見張りの姿がいない……ずいぶん不用心だな。俺たちが脱獄をしないとでも思っているだろうのか?」
「おそらく誰も戻って来ないでしょう」
「どうしてそう思う?」
驚くジョニーに、セレスティナは、人骨で補填された本を突き出した。
「“魔王”復活の手がかりを、私に突き返しました。審議する、と伝えながらも、最初から、本の中身を検証する気がないのです」
本だけでなく、荷物も奪われていない。
ジョニーは腰巻きにつけた袋を確認した。セレスティナのペンダントが残っている。短刀だけがなくなっていた。
「どうしてだ? “魔王”の復活は、連中の悲願なのだろう? わらにもすがる気分だったろうに」
ジョニーはセレスティナのペンダントを手で隠した。隠す必要はないのに、いや、盗んだと思われるのも、困る。
「……おそらく、“魔王”は復活しないでしょう。死人は生き返ったりしません。“狗族”たちは、不都合な真実から、目を逸らしています」
セレスティナは、断言した。
セレスティナの語気に合わせて、谷間が揺れる。ジョニーは目を逸らした。
“狗族”たちは、“魔王”の復活が唯一の希望なのに、復活しないまま、長い月日が経った。人間たちが支配している外の世界を、“魔王”なしでは生きていけないのだ。
来ないと分かっていても、待つしかない。
“狗族”は、死んだ主人を待ち続ける、忠犬のようであった。
ジョニーは“狗族”たちの感情を想像すると居たたまれなくなってきた。
「たしか、ボルテックスも奇妙な宗教にのめり込んでいたな。救世主がどうとか……。世界を救ってくれるのだとか。“魔王”が世界を滅ぼして、どうのこうのとか。頭と心の弱い奴が、宗教にのめり込むのだな」
「アーガス教ですね。セイシュリアでは、国教になりました。最近になって、シグレナスでも急速に広がっています」
「新興宗教は恐ろしいな。気づかない間に浸食してきやがる」
「アーガス教は、もともとは、ヴェルザンディの宗教でした。“光り輝く者”とは、創始者の名前です。アーガス教の信徒たちは、彼らの主張する救世主を“光り輝く者”と呼んでいます」
「……ボルテックスといい、“狗族”といい、“魔王”が生き返ったり、“救世主”が現れたり、誰かに頼らないと生きていけないとは、ご苦労な話だな」
ジョニーは、呆れた。呆れながらも、セレスティナの胸元に目をやる。やっぱり駄目だと、視線を外す。一度気づいてしまうと、何度も見る癖が付く。
セレスティナは息を吸い込んだ。
「……私は、見た経験があります」
「なに……?」
そのとき、ジョニーの周囲に、森が広がった。
2
輝く森の中で、一人の騎士が、立っていた。
霊骸鎧……白く輝く鎧には、ジョニーがこれまで見た経験のない装飾が施されていて、全身から、これまでに見た経験のない霊力と、比類なき強さに満ち溢れていた。
白い霊骸鎧は、自分の顎と首に手をかけ、兜を外す。
脱いだ兜から、長い銀髪があふれ出る。
(霊骸鎧の兜は、外せる構造だったのか)
と、驚きながらも、ジョニーは、変身者に対して畏敬の念が湧いてきた。
霊骸鎧の中身は、森に差し込む太陽の光が邪魔をして、どんな顔で、どんな表情なのかは、分からない。
ただ、声が聞こえた。
「好きにしろって……」
男でも女でもない声が聞こえる。困り果てたような声でもある。だが、どこかに親しみを感じる。
霊骸鎧は、白い光とともに消えていった。
目を開くと、牢屋に戻っていた。
隣で、すっきりとした表情のセレスティナが、優しげに微笑んでいる。
ジョニーは夢から覚めたように、見えた映像を説明した。
「髪が銀色で、男でもない、女でもない……。大人のようにも見えるし、子どものようにも見える……そんな奴の姿が、夢の中で見たぞ」
「そうそう、可愛い感じの人でしたね。でも、とても強い……。」
セレスティナが嬉しそうに話す。初めて、ジョニーの意見に賛同してくれた。
(あれが“救世主”だったのか……!)
ジョニーは、“救世主”の存在を一瞬だけ信じた。
“救世主”……そんなものは、心の弱い人間のよりどころだと思っていた。
だが、この“救世主”は、昔から知っていたような、懐かしい感情を引き起こしてくれる。ジョニーの動きをずっと見守ってくれているような気がする。
ひょっとして、自分の人生が物語だとすれば、今もこうして自分の物語を読んでくれているのかもしれない。
ジョニーは自分の身体に、心地の良い霊力が流れた。
霊力が回復している証拠だ。
霊力の回復は、精神的なものに影響されやすい。セレスティナと一緒にいるだけで霊力が回復する。ただ、今回のように夢を見ただけで回復する状況は、初めてであった。
それほど、この人物の霊力が優れているのである。
「“魔王”が世界を滅ぼし、世界を救うために、“救世主”が現れて“魔王”を倒す……」
黒い影が、ジョニーの目の前を通りすぎた去った。ジョニーはもう一度見たが、何もなかった。
“救世主”の登場が必然であれば、“魔王”の復活も必然でなければならない。
「結局、世界が救われるなら、わざわざ“魔王”を甦らせる意味があるか? 甦らせない努力をすればいいものを」
「いいえ、“魔王”そのものではなく“魔王”の意識を引き継いだ人は出てくるとは思います。“魔王”と考えが似た人が、世界を滅ぼすのではないか、アーガス教は主張していますね」
「人?」
「“魔王”は人間でした……」
「人間なのか? 人類の裏切り者だな」
ジョニーは、“毛深き獣”たちが崇拝していた、コウモリ男の巨像を思い返した。
ジョニーの発言に、セレスティナは目を見開いた。
「縁もゆかりもない奴が、勝手に“魔王”を名乗って、世界を滅ぼす……あり得る話だな。……それにしても、アーガス教の信徒が、“魔王”が世界を滅ぼす未来を望んでいるとは、本末転倒だな」
ジョニーがセレスティナに冗談っぽく伝えたが、セレスティナは反応しなかった。
「裏切り者……」
セレスティナは、口ごもったが、意を決した様子で、考えを口に出した。
「……私たちの中に、裏切り者がいます。敵……ヴェルザンディとの内通者です」
「どうしてそう思う?」
ジョニーは、思い当たる節がある。だが、あえて疑問を呈した。セレスティナは、下を向いている。ジョニーも下を向いたら、セレスティナの谷間が見えた。
「名簿の存在です。アイシャ王女が私たちの名前と霊骸鎧を確認しました」
「たしか、ヒルダが送ったのだろう?」
ジョニーは頭を捻った。かなり昔の話であるかのようだ。
「いいえ、ロンドガネス女史が送った書類は、指示書です。食事を私たちに渡さないという内容でした。名簿に関しては、誰からの贈り物だったかまでは、アイシャ王女はロンドガネス女史だと限定していません」
「クルトも、この中で誰かが個人情報を流した奴がいる、と疑っていた。名簿を送るだけなら、別にわざわざ内通者を俺たちの中に紛れ込ませる必要があるか?」
「それは私も考えました。ですが、ガス室で疑いが深まりました」
ガス室。
床板に示された信号通りに歩かなければ、毒ガスが放出される罠があった。
「あのガス室には、扉の開閉に、外から操作できます。……ジョエル・リコ。扉のそばにあった操作盤覚えていますか?」
ジョニーは金属製の操作盤に触れようとして、セレスティナに怒られていた。
「あれが操作盤だったのか? ……とすれば、誰かが部屋に入らず、操作盤を動かして、外から扉を閉めた奴がいるのか……」
ジョニーは扉が閉まる瞬間を思い返した。
シズカの驚く顔を見た。背後には、セルトガイナーの姿があった。
「……シズカとセルトガイナーに絞られるな。扉が閉まる直前、あの二人は、外にいたぞ」
セレスティナは肯定も否定もしなかった。ただ、黙って聞いている。
「あの二人に、俺たちを裏切る理由があるか? ……動機が分からん」
シズカは、ボルテックスに頼まれてやってきた。最近の話で、それほど関係は深くない。(そもそも、シズカが、ヴェルザンディから送り込まれた工作員である可能性もある)
だが、ジョニーはその可能性を否定した。
ヴェルザンディの“火車”ハバナ・ゲンロクサイとは、恋仲だった。幼なじみで、再会をして喜んでいた。工作員であれば、そんな疑われる行動はとらないはずだ。
(だが、それも演技で、自分が工作員である事実を隠すためにやっていたとしたら?)
あらかじめ、ゲンロクサイとシズカが打ち合わせをしていた……?
(……切りがない。やめておこう)
恋仲、でジョニーは思いついた。
「セルトガイナーは、フリーダが好きだ。そのフリーダは、ボルテックスと愛人関係にあった。最近分かれたと聞いたがな」
今回の冒険が始まって、ボルテックスとフリーダが話をしている様子を見た記憶がない。二人の関係は破綻している。
「セルトガイナーは発狂する前は、ひどく怯えていた」
誰に? ボルテックスに?
まさか、ボルテックスの命を狙っていたとしたら?
その動機が、ボルテックスに露見したと、セルトガイナーが気づいたのだとしたら?
「ちょっと待って」
セレスティナは、人差し指をジョニーの口元に当てて黙らせた。
ジョニーに微笑みを投げかけている。
セレスティナの指に口づけをしてしまった。もう一生、口を洗わない、とジョニーは決意した。
「彼女たちは、仲間です。今はむやみにお互いを疑う段階ではありません。これ以上の核心を突いて、仲間同士を分断させては、使命に差し障りがでてきます。今は、裏切り行為をさせず、力を発揮してもらう環境を作ってあげましょう」
セレスティナは誰が裏切り者なのか、答を知っている。答を知っていても、仲間は仲間である。仲間の協力は必要なのだ。
犯人捜しよりも、使命に集中すべきだ。
「……協力してもらえますか? ジョエル・リコ?」
セレスティナが、困ったような表情で、上目遣いをした。
(この人は、人の上に立つべき人物だ)
ジョニーは、セレスティナから、力強い意志を感じた。
皇帝の愛人、と馬鹿にされているが、ジョニーがこれまで会ってきた人物の中で、もっとも優しく、愛に満ちた、偉大なる人物なのであった。
「……もちろんだ」
ジョニーはそっけなく答えた。
セレスティナが笑顔を見せている。
これほど美しい笑顔は存在しなかった。ジョニーは正視できず、天を見上げた。
鉄板の天井が途中で終わり、鉄格子になっている。
風が入り込んでくる。
よく観察すると、鉄格子の一部分が欠落している。あそこを通れば、この場所を脱出できる。こんな脆弱でいいのか、とジョニーは思ったが、通気口の代わりになるし、すべてを鉄板で覆うくらいなら、鉄格子にしてしまえ、という趣旨だと分かる。
外は暗く、夜空のようだ。違いは、巨大な洞窟の中にあるため、何も見えない。
普通の天井であれば、隙間から星が見えるだろう。
(星空だったら良かったのに)
声が聞こえた。
隣のセレスティナからだ。上空を見上げている。
口から出る言葉ではない。セレスティナの思考、感情が“星幽界”を経由して、ジョニーに伝わったのだ。
セレスティナの瞳には、無数の星々が煌めいていた。
(俺にとって、セレスティナが星空だ……)
ジョニーは、涙が浮かんできた。嬉しさと悲しさが同時に湧き起こってきた。唾を飲み込んだふりをして、誤魔化した。
この景色、見た記憶がある。
「セレスティナ……?」
名前を呼ぶと、セレスティナは、不思議そうに顔を見た。
「セレスティナ……。俺たちは大昔に一度だけ、会っている?」