“狗族”
1
ジョニーは、セレスティナに覆い被さった。
熱風が、ジョニーの背後を通り過ぎていく。爆散した、人間の頭蓋骨やら、焼けた子蜘蛛の死骸やら、扉の欠片やらを道連れに、溜めきった汚物を吐き出すようだ。
ジョニーの頬に、セレスティナの吐息が掛かった。
唇と唇が近い。
(顔を少しでも動かせば……)
ジョニーは可能性を想像すると、セレスティナの厳しい視線に気づいた。
だが、どこか困惑している気配がする。触れるか触れない程度の距離で、二人は見つめ合った。
ジョニーの背中に、光が差し込んできた。
夜から朝になったように、光が、ジョニーたちのいる洞穴の階段を照らす。
「ん……」
セレスティナが小さく呻いた。ジョニーは慌てて、身を引く。
「すまん、すぐに離れる……」
だが、ジョニーは動けなかった。
自分の首筋が、優しい光に包まれていたからだ。
光は、セレスティナの指だった。細くて柔らかな指が、ジョニーの首を絡め取って、離さない。
首筋をそっと撫でられ、広がる甘い感覚に、ジョニーは全身を震わせた。
荒々しい不良の腕を振り切っていたジョニーだが、セレスティナの優しい手つきには抵抗できい。
いや、いつも誰かに何かに抵抗してきた。
素直に従う。
受け入れる。
そんな感情はなかった。
これまでは、誰に対しても素直になれず、自分の意見が正しいと思っていた。気に食わない奴は殴り倒せば良いと思っていた。だが、セレスティナの触れた指先で、自分の意固地さ加減が消え去ったような気がする。……初めからなかったかのように。
扉から差し込む光が、セレスティナを後光のよう包み込む。
子蜘蛛たちが集まっていた。だが、セレスティナの前で立ち往生している。
セレスティナの後光を嫌がっている……? いいや、畏れ多くて踏み込めないようにも見える。
ジョニーは手で払う仕草をすると、子蜘蛛たちは退散していった。
セレスティナは、ジョニーから手を離した。
ジョニーは名残惜しく感じたが、セレスティナは、両腕を、両肩よりも高く掲げた。降参の姿勢をした小動物のようである。
(防御しない……? どうして?)
セレスティナの表情は凜としていた。
いつもジョニーに対して怒っているセレスティナが、ジョニーに身体を開いている。
ジョニーは意固地だった。だが、さっきの爆発とともに、心を塞いでいた、余計な岩も爆砕した。それは、セレスティナも同じだったのだ。追い詰められた犬が吠えるように、怒りは防御の現れである。
怒りとともに、防御も崩れ去ったとしたら……。
セレスティナは、真剣な表情で、ジョニーを見ている。さっきとは違い、困惑がとれて、決意が固まったような気がする。
瞳に散りばめられた夜空の星々が、お互いの輝きを照らし合っている。セレスティナの瞳に、ジョニーは吸い込まれるかのような感覚に陥った。
このまま、重なり合いたい……。
ジョニーは、息を呑んだ。
セレスティナの視線に、すべてを見透かされているようだ。
(俺には、淫らな感情がある……!)
ジョニーは顔を逸らした。このままでは、頭が変になる。
(相手は、セレスティンは保護対象なんだぞ? 危害を加えてはならない……。危害? 俺が妄想している行為は、本当に危害か? 俺にとって? セレスティナにとって?)
セレスティナの視線を、ジョニーは自分の頬で感じた。眼光に真剣で切りつけらているような鋭さだ。
(耐えきれない)
ジョニーは心の中で叫んだ。
(どうしてだ? どうして、貴様は拒む? これを貴様は望んでいたはずだぞ?)
もう一人のジョニーが問い詰めた。
(そうだけど、“今”じゃない。“こんな場所”は駄目だ……)
どこか決心ができた。
「俺は、いつまでもこの姿勢なんだ……」
独り言をわざと声で出して、ジョニーは立ち上がった。セレスティナの瞳から光が消えた。拘束は解除されたのだ。
ジョニーは何事もなかったかのように、全身の埃を払った。セレスティナも無言でジョニーと同じ動作をしている。
二人は目を合わさず、言葉も交わさなかった。
だが、ジョニーは、自分の首に触れた。セレスティナの感触を思い返す。
不可解な状況を理解できない悶々とした気持ちと、幸せな気持ちの感触が混ざり合って、ジョニーは困惑した。
セレスティナの視線を感じ、咳払いをした。
ジョニーは光に向かって歩き出した。セレスティナが少し遅れて従いてくる。
ジョニーは、無言でセレスティナの手を掴もうとしたが、避けられた。
足下の、粉々になった人骨や子蜘蛛の死骸を踏み越えて、光り輝く扉をくぐった。
扉の向こうには、見覚えのある、無機質な廊下が広がっていた。
「発光する壁……!」
ジョニーのつぶやきに答え合わせをするかのように、壁が光り出した。
道幅が狭いが、天井は高い。
地下道を抜け、遺跡に戻ってきたのだ。
道は左右に走っている。ジョニーとセレスティナが出てきた場所は、長い通路の隠し扉であった。
右側から、光の間を縫うかのように、三つの影が立ち上った。
「味方か……?」
だが、ジョニーの希望はすぐに打ち砕かれた。
人間の形をしていなかった。開放型兜の顔面部分からは、黒くて、毛深い、外に向かって、口が細く突き出ている。
左右の奥にある光は、両目であった。
「犬……! いや、犬面か」
「あれは、“狗族”といって、人間型怪物です。人間型の中では、頭脳は高く、温厚で、“魔王”が生きていた時代では、“魔王”のお世話をしていました」
「“魔王”の親衛隊、というわけか。とすれば、ここは、“魔王”の居住区域なのだな」
ジョニーは、“狗族”を盗み見した。
“狗族”の毛色には、それぞれ個性があった。黒い“狗族”の隣には、白い毛皮がいる。三体目は赤褐色の毛をしていた。
「どうすればいい? 一戦交わるか? ……倒しても倒しても、無限に湧いてきそうだが……」
ジョニーは、疲れていた。
霊力を消費しつづけ、休んでいない。
手持ちの武器を眺める。短刀と、短刀に突き刺さった“燃える手”だけだ。“燃える手”には、“燃える指”……中指だけが一本、残っていた。
あと一発しか撃てないのである。ジョニーは奥歯を噛みしめた。
セレスティナは、“狗族”のいる場所とは、反対方向を走り出した。
ジョニーは訳も分からず、従いていく。
“狗族”たちが、ジョニーたちに気づいて、追いかけてくる。
一体が、笛を吹いた。
「仲間を呼んでいる……?」
ジョニーは脚を引きずるように走った。
セレスティナは息を切らしている。顎が上がり、肩が浮いている。セレスティナも疲れているのだ。
壁には下り階段がある。セレスティナは、階段に目もくれず、隣にしゃがみ込んだ。
壁に手を当て、目を閉じ、精神を集中させている。
ジョニーは“燃える手”を構え、“狗族”の攻撃に備えた。
霊力を溜めると、立ちくらみがする。霊力が尽きかけているのだ。
2
セレスティナが触れていた壁に大きな穴が開いた。隠し扉だ。
「早く中に……!」
セレスティナが促す。
ジョニーたちがくぐると、突風に煽られた。
そこは、建物の外……露台に出た。落下防止の欄干がなく、むき出しになっている。目の前には、切り立った岩山の表面が見える。
上を見ると、霧が掛かって、よく見えない。
「ガレリオス遺跡は、どういう構造になっているんだ……?」
洞窟の中身をくり抜いて、強引に高層建築物を建てた……それが、ガレリオスなのだ。
「ここから上ります」
ジョニーの疑問に答えず、セレスティナは、近くにある梯子に脚をかけた。
だが、セレスティナは、脚をかけたかと思うと、また降りた。
「どうした、なぜ行かないのだ? 先に行け。俺たちは“狗族”に見られている。追いつかれたら、俺が追っ手を食い止める」
「いいえ、ジョエル・リコ。……貴方が先に行ってください」
ジョニーは、セレスティナの意図が理解できない。視線を落とした。
セレスティナが、反射的に内股気味に脚を閉じている。
健康的な脚に、ジョニーは引き込まれた。視線を上げると、セレスティナの服装に目が行く。長目のTシャツを履いて、腰部分をベルトで固定しているのである。
普段のジョニーと同じ格好だが、一点だけ違う要素がある。
「あ……」
下着である腰巻きはジョニーが履いているのだ。
セレスティナは下着も燃やした。
下には何も履いていない。
ジョニーはすべてを理解した。
突風が下から舞い上がる。ジョニーは自分の前髪を押さえた。セレスティナはミニのスカートを手で押さえている。
「俺が先に行く……!」
議論をしている暇はない。ジョニーは“燃える手”を突き刺した短刀を口に咥え、梯子を握った。
ジョニーは梯子を駆け上がった。
ときには立ち止まり、セレスティナの様子を確認する。
細腕で耐えきれるか心配になったが、普通の女子よりも身体能力が高いので、確実に従いて来ている。
ときどき、片方の手でマントの端を押さえている。
“狗族”が露台に雪崩れ込んできた。
甲冑と兜に身を包み、槍を手にしている。
地下街で出てきた“骸骨兵士”たちと同じく、前時代的であるものの、上半身の胸を開いた、異国風の甲冑を身につけている。
槍を構え、ジョニーたちを指さして騒いでいる。
“狗族”の一体が、梯子を上がると、もう一人が続いてきた。
セレスティナの顔つきに、不安がよぎっている。
「大丈夫だ、俺が“空中二段跳び”でセレスティナの下に着く。いつでも交代できるぞ」
ジョニーは、短刀を片手に、セレスティナを励ました。
突然の提案に、セレスティナは顔を真っ赤にして怒りの表情を見せる。ジョニーは自分の余計な発言を後悔した。
梯子が終わる。
ジョニーは踊り場に手をかけ、一気に這い上がった。
ジョニーは梯子から踊り場から身を乗り出し、セレスティナの腕を引っ張った。
セレスティナは、目を見開いて、肩で息をしている。
踊り場には梯子がさらに上に伸び、他には扉があった。
「あの扉は、行けないか?」
とジョニーが質問すると、セレスティナは首を振った。疲れているのに、余計な質問をするな、とばかり、嫌な表情を浮かべている。
露台から、下界を覗き込むと、“狗族”たちが槍や盾を背負って、梯子を登っている。ジョニーを獲物であるかのように睨む眼光は、調教された猟犬のようであった。
「このまま焼き落としてやる……!」
ジョニーは“燃える手”を構えて、梯子を上っている“狗族”たちに向かって、霊力を込めた。
だが、最後に残った中指は、何も動いてくれない。
「霊力不足だ……!」
ジョニーの視界が、かすんでいる。変身はおろか、“燃える手”すら反応しなくなった。
「セレスティナ、まだ行けるか?」
確認をとると、セレスティナが、疲労からようやく体力を絞り出すように頷いた。
「無理はするな……。俺が下になろうか?」
セレスティナが、信じられない物体を見るかのような表情をした。
「違う、誤解をするな。セレスティナが落ちたとき、俺が支える。それに、敵に追いつかれたとき、俺が対応できる」
と、ジョニーは慌てて訂正する。
「いや……」
セレスティナが力なく首を振った。
「命よりも大事なの?」
と思ったが、口には出さなかった。
「ならば、少しでも早く先に行くぞ。……追いつかれる前に、な」
上を見た。梯子はまだある。ジョニーは梯子を掴んだ。
だが、セレスティナが梯子に触れると、力なく崩れ、露台に倒れ込んだ。
ジョニーの不安は的中したのである。
冷たい水中に晒され、蘇生をしたばかりである。本来であれば、安静するべき容態なのだ。
ジョニーは、梯子から滑り降りた。
セレスティナの髪をかき分け、頬を軽く突っついた。
「大丈夫か、骨が折れていないか?」
ジョニーが質問をすると、セレスティナが力なく頷いた。
下の梯子から、槍の穂先が見えてくる。
ジョニーは、“燃える手”を床に放り捨てた。暗闇を抜け、“燃える指”を放てなくなった今、ただのお荷物に成り下がった。
ジョニーは、身を乗り出してきた“狗族”の顔を蹴り上げた。
だが、茶と白の斑点模様をした“狗族”は、手を離さなかった。梯子に摑まったまま、槍で、ジョニーの脚に向かって突きをくり出した。
ジョニーは太ももと、ふくらはぎで槍の穂先を挟み込んだ。身体をひねって槍を絡め取り、奪い取った。
槍の穂先で“狗族”の頭を強打した。
“狗族”は白目を向いて、梯子から手を離した。よく見ると、手の形状が、人間より短めの指をしていた。身体の構造が、人間と犬の中間なのである。
「動物虐待だな」
一体が落ちると、真下の奴を巻き添えにして落ちる。
だが、それほど巻き添えにできなかった。一番最初の奴が一番上るのが得意だったのか、二番目の奴とは距離がある。
「犬は梯子登りが苦手だったな」
ジョニーが後ろを振り返ると、セレスティナが、その場に座り込み、足を閉じて、瞑想をしていた。
体力と霊力の回復を試みている。
「時間稼ぎなら任せろ……!」
ジョニーは梯子の金属部分を踏んだ。裸足なので、金属の冷たさが伝わる。
前に陣取り、槍を構えた。
“狗族”が一体、怒り狂った表情で登ってきたので、ジョニーは槍の穂先を頭に一発、振り下ろした。
“狗族”の反応は良く、両手に構えた槍で受けた。だが、両手を使った結果、奈落の底に落ちていった。
「高所作業は注意が必要だな」
後続の“狗族”は頭頂部を強打させて、叩き落とした。相手は頭という弱点を露出しているのである。数体を叩き落とすと、“狗族”たちは登って来なくなった。
“狗族”たちは露台に集まって、ジョニーを恨めしそうに見上げている。
セレスティナを見ると、セレスティナは立ち上がった。顔つきから生気が甦っている。
(回復が早い……! 俺よりも瞑想の技術が高いのか……)
ジョニーの全身に、金属を入れ込まれたような痛みが走る。
(狙撃された……?)
全身が痺れ、意識が薄まっていく。ジョニーは踊り場に倒れ込んだ。
セレスティナが涙を浮かべて駆け寄ってくる。
しゃがみ込んで、何かを叫んでいる。
(何をやっている? 俺の心配は良いから、さっさと逃げろ)
ジョニーは心の中で叫んだ。
全身が動かない。
ジョニーは片腕で地面を這い進んだ。
「動くな!」
“狗族”たちが踏み込んできた。
すぐにジョニーとセレスティナを取り囲み、ジョニーの眼前に、槍の穂先が煌めかせた。
黒くて面長の“狗族”が、梯子から登ってくると、他の“狗族”たちが敬礼をした。
「私はガレリオス警備隊隊長、“狗族”のアヌビスだ。君たちは何者だ。邪悪な匂いはしていない……」
アヌビスは、ガレリオス遺跡の怪物にしては、理知的な話し方をする。
アヌビスがセレスティナに近づき、セレスティナの髪をかき上げた。首元に鼻を近づけた。(止せ! セレスティナに触れるな!)
ジョニーは一喝した。だが、声が出ない。
「良い匂いだ。……優しくて、賢くて、とてもかぐわしい匂いがする。安心できて、まるで母親のようだ」
アヌビスが、目を閉じ、陶酔したかのように、セレスティナの香りに身を委ねている。
(セレスティナは女だ。これ以上のくだらない辱めは、やめろ)
ジョニーは怒った。羨ましい感情もある。
「女? 私に、やましい気持ちなどない。私も雌だからな」
アヌビスは、セレスティナから離れ、自分の胸に触れる仕草をした。女らしい曲線がある。(俺の気持ちが分かるのか……?)
ジョニーは不思議がった。
「アヌビス隊長閣下。私たちは、シグレナスの調査隊です。私は、シグレナス皇帝ゾルダー・ボルデン陛下の名代セレスティナ」
“狗族”たが、ざわついた。威嚇をする者もいる。
「シグレナスの僭称皇帝だと? “魔王”陛下の仇敵が、なんの用なのかね?」
アヌビスが、冷たい視線を送ってくる。
「皆様もご存じのとおり、“魔王”は復活します」
「……それがどうした? 君たちが“魔王”陛下の復活を祝ってくれるとでも?」
「私たちは、それを阻止しに参りました」
「ふん、であれば君たちは、我々の敵になるな。残念だが。ここで死んでもらおう。誰か、槍だ。槍を喰らわせてやれ」
アヌビスが手を挙げ、“狗族”に命令する。
だが、セレスティナがアヌビスに慌てて近寄った。
「誤解しないでください。私たちは取引をしに来ました」
「取引だと? ……申してみろ」
「多くの予言者たちは、“魔王”は内側から呼び出される、と伝えていますね」
セレスティナは、落ち着いていた。
「“魔王”陛下の復活はもうすぐだ。私たちが生きている間に必ず起こる……。ただ、予言の指す“内側”が何なのか、誰も分からないのだ」
アヌビスは腕を組んで、片目だけをつぶっている。
「私には分かります。ここです」
と、セレスティナは、地面を指さした。
「どういう意味だ」
「この、ガレリオスです。ガレリオスで“魔王”が復活します。……ガレリオスは、ただの要塞ではない……ですよね? アヌビス閣下。“魔王”が復活して、ここから世界に覇を唱えるための、世界の中心になるために作られた、新たな城なのですよね? ……違いますか?」
「よく知っているね。君は人間にしては、勉強ができるのだな」
と、アヌビスが自分の顎を指で触れていた。よく見ると、アヌビスの両腕は、頑強な籠手で覆われていた。アヌビスは、槍や盾を持たず、腰に剣すら下げていない。
「博識のセレスティナ。……どうすれば“魔王”陛下が復活するのだ?」
「この本を読めば復活できます……。“魔王”の図書館で見つけました」
セレスティナは、アヌビスに人骨の本を渡した。
本を開くなり、アヌビスの表情が曇ってくる。
(“魔王”復活だと……? 流石に、はったりだろう)
ジョニーは疑問に思った。
アヌビスの顔つきに汗がまみれ、苦渋の表情に埋め尽くされる。桃色の舌で口の周りを拭いた。
「この本は……強力すぎて、私の手に余る。“魔王”様の復活の手助けになるかもしれない。サラマー、頼む」
と、震える手で、本を閉じる。
隣の“狗族”サラマーに手渡した。
サラマーは金色の毛をして、前髪が瞳を隠すほどの長さをしている。甲冑を着ておらず、学者然とした外衣を羽織っていた。
ジョニーには、この“狗族”サラマーを、立ち振る舞いから老人、いや老犬だと思った。
サラマーが人骨の本を広げると、毛が逆立ち、前髪の隙間から、怯えた黒目が見えた。
「サラマー!」
アヌビスが同僚の異変に気づいた。
セレスティナがすかさず本を奪い返し、本を閉じた。
今度は、自分自身で頁を捲った。まったく影響がないと、首を捻って、アヌビスに合図を送った。
「シグレナス図書館で研究を積んだ私であれば、解読ができます。私たちを、“魔王”の部屋まで連れて行ってください」
「どうしてだ?」
「そうすれば、“魔王”復活の儀式をして差し上げます」
「……なんだと?」
アヌビスが片目を釣り上げて驚いた。
セレスティナは、優しい作り笑いを見せている。
(……うまい! “魔王”復活が奴ら怪物どもの悲願であれば、復活させる技術を持った俺たちを殺せるはずがない)
ジョニーは、セレスティナの意図を理解し、驚嘆した。
人骨の本はが、読む者に精神的な異常を引き起こす。人間ばかりか、“魔王”に近しい存在であるはずの“狗族”にすら、効果がある。
“狗族”の中に、精神異常を起こさずに人骨の本を解読できる者はいない以上、“狗族”たちに、セレスティナの発言が正しいかどうか確かめる方法はない。
セレスティナは“狗族”たちにペテンを仕掛けたのだ。
「セレスティナ、君は“魔王”陛下と匹敵するほどの魔力を持っているのだね。そんな君が、どうして“魔王”陛下の復活を手伝ってくれるんだ……? そうか、命乞いをしているのだね」
アヌビスが尊敬と軽蔑が混じった視線を送った。
アヌビスは長い顎に手をやって、目を閉じた。雌と聞いて、たしかに睫毛が長い。
「セレスティナ。了解した。君は生かしておこう。是非、私たちを“魔王”様に合わせて欲しい。……だが、もう一人のそこにいる人間……。お前は生かしておけない。……ここで始末させてもらう」
アヌビスが親指で合図をすると、部下たちがジョニーに槍を向ける。
「どうして?」
セレスティナが抗議の声を上げた。声には、怒りと失望が入り混じっている。
「私の部下……ケルベロスに危害を加えたからだ」
“狗族”の中から、白と茶の“狗族”ケルベロスが出てきた。頭に包帯を巻かれて、半泣きになっている。ジョニーに頭を殴られ、梯子から叩き落とされた奴である。
セレスティナは短刀……“燃える手”を構えた。ジョニーが梯子を登っている間に、拾い上げていたのだ。
(セレスティナ、掌と手の甲が逆になっている……)
“燃える手”の甲を見せていた。なんらかの理由で“燃える手”と短刀が分離したのだ。セレスティナは、掌に短刀を突き刺したから、手の甲を見せている結果になった。
「だめ! この人にも、私と同じくらいの敬意を払いなさい。そうでなければ、私が許しません」
大蜘蛛との戦いで、指を失い、中指だけが残っている。
「そんな面白い玩具で、何をする気かね?」
アヌビスは笑った。“狗族”たちも釣られて笑う。
セレスティナが目を閉じ、“燃える手”に霊力を込めた。
「ふん……!」
爆発は起きなかった。
残った中指が、ただ、天に向かって、突き立てられていた。
強い糸で引っ張られたかのようだ。
“狗族”たちはざわめき、顔を合わせている。訝しげな表情が、次第に、怒りに満ちていった。
セレスティナは、眉をひそめて、首を傾げた。自分のやった行いの、意味が分かっていない。
(セレスティナ、それは挑発行為だ……)
取り押さえられるセレスティナを見て、ジョニーは奥歯を噛みしめた。