霧
1
外から冷たくて白い空気が、小部屋に流れ込んでくる。カレンの顔を撫でた。
冷気から、危険な気配を感じた。
カレンは一瞬、外に出るべきかどうか迷った。状況がつかめず、呆然として時間を過ごす。
間の抜けた音が鳴り、扉が閉まり始めた。
外部の刺激によって、カレンは正気を取り戻した。
レミィを抱えて、扉の隙間を抜けた。
外は白い霧に覆われていて、視界が悪い。
「冷たいっ」
と、カレンは、自分の足裏を見た。
通路の床が金属の網目になっていて、カレンの素足に食い込む。空中に浮かんでいるようだ。
前に数歩進むと、鉄でできた柵にぶつかった。柵はカレンの背丈より少し高い。柵の向こうは、空中であった。霧に包まれた空をのぞきこむと、霧のせいなのと、高度がありすぎるのとで、地面が見えない。
カレンは、小部屋の扉に振り返った。
今では完全に閉まりきっている扉から、映像が見えた。
貝殻頭たちの後頭部だった。カレンは、自分自身が貝殻頭の一体となった、と気づいた。貝殻頭たちが、小部屋に押し入る。入れなかった何体かは、外で待機した。
次に扉が開いた瞬間、カレンの背中が見えた。貝殻頭たちの槍が、カレンの背中に突き立ていく。
カレンは、いつの間にか閉じていた目を開いた。
貝殻頭がやってくる!
カレンは逃走経路を探した。
扉を出て狭い通路が左右、壁づたいに走っている。
左右の道どちらに進むか思案するところだが、カレンには選択肢の基準がなかった。
敵は多勢である。どちらを選んでも、二手に分かれて追ってくる。カレンは予測した。
周囲は、霧の世界である。敵の目から逃れる点では優位かもしれない。
「行こう、今必要なことは、迷うことじゃない。立ち止まらないことだ」
カレンは、自分に言い聞かせた。
2
レミィの手を引く。
何かが手の中で砕ける音がした。
水分を含んだ土を握りつぶした感触だった。
レミィの包帯から、黒い砂が床に落ちて散らばった。砂の一部が網目の隙間を通って、空中にこぼれ落ちていった。
カレンは息を呑み、悲鳴をあげた。
「レミィ! 君の手を壊しちゃったよ!」
レミィの左手に巻かれていた包帯がたわんでいた。包帯の隙間から、黒い砂がこぼれる。
(大丈夫。……僕の身体はね、力を使うたびに壊死していくんだ)
レミィから穏やかな声が聞こえた。悲しみも諦めもなく、ありのままを受け入れている口調だった。
「全然、大丈夫じゃないよ! 手が無くなるんだよ? 痛いでしょ?」
カレンは喚いた。
(……そんな顔をしないで。もう痛みは、もうとっくの昔から感じないから)
レミィにとっては、日常の出来事であった。
「何も知らず、力を使わせて、ごめんね……」
誰かを治療するたびに、レミィは身体を失っていく。
(謝ることじゃない)
レミィは、さほど困っていない口調で応えた。
カレンは、これ以上ないくらい大切な宝物のようにレミィを優しく抱えた。走り出す。
カレンは、自責の念に耐えきれない。
霊骸鎧の力を使えば使うほど、人体に何らかの影響を及ぼす。
カレンは、気づいていた。
事実、現在のカレン自身も疲れている。疲労感は、霊骸鎧を呼び出しすぎが原因だと体感的に理解している。
ナスティを思い返した。転移魔術の影響で意識混濁に陥っていた。
疲労を通り越すと、意識を失ってしまう、とカレンは閃いた。
船の中での記憶が甦った。レミィに治療をしてもらっているときだ。ナスティに投げかけられた言葉を思い返した。
「こんな奴に力を使うな」
本当にそうだ!
カレンの頬に、涙が伝った。僕なんかのために、レミィが犠牲になることなんてない。
カレンは、右手の道を選んだ。根拠はない。
左側に鉄柵、右側に壁、前方は白い霧に覆われている。
走り出した。いや、霧の中に飛び込んだ、というべきだ。
目眩がする。力が出ない。さらに空腹の追い打ちで、もう走りたくない。このまま貝殻頭に殺されたら、楽なのに、とすら思い始めた。
ただ、せめてレミィだけでも守ろう。自分が死んでも、レミィだけは助けたい。
レミィに対する気持ちが、カレンの原動力となった。
白い霧が濃さを深め、視界が悪くなっていく。
突如、鉄の柵が目の前に現れたので、カレンは止まった。
行き止まりである。
壁には、扉がある。
先ほどの扉と同じ、取っ手のない扉である。
押しても開かない。壁を調べると、突起物を見つけた。
カレンは手で触れた。
間の抜けた音を期待したが、反応がない。突起物の内部には、微妙な光がいくつか、漂っている。
遠く後方から、間の抜けた音が聞こえた。
3
貝殻頭が武器の音を鳴らして、迫ってくる。白い霧が邪魔をして、どこまで近づいているのかは目視できない。
音だけが近づいてくる。カレンにとっては、死の接近を意味している。さっき死んだほうが楽だと思っていたが、武器の音が、カレンの内部に、生に対する渇望を惹き起こした。
逃げる場所はないだろうか?
必死に探す。
レミィの声が聞こえる。
(僕を置いて、君だけでも逃げて)
レミィの声はいつもと同じ、穏やかだ。カレンには、レミィが心の静けさを保てるのか不思議でならなかった。
「レミィ、妙なことを言わないで。君は死んではいけない。絶対に助けるから。僕の命に賭けても、君を守るから」
(僕のことは心配しなくていい。……たとえ離ればなれになっても、また会えるから)
会えるから。
カレンにはどこかレミィの言葉に、確信を感じた。理由は分からないが、必ず会える気がしてきた。
だが、敵は迫っている事実が、カレンにとっては実感できた。
壁は鉄板で、できている。扉は一枚の鉄板でできている。扉の上に、の上に長方形の空洞があった。空洞の出入り口には、網が破られた跡がある。
カレンは迷わなかった。レミィを抱えて、跳んだ。高さが足りなかったが、滑る壁の面を蹴って、さらに高く跳んだ。
レミィをそっと、空洞に置いた。カレンは、壁に足裏を当てて、自身が落ちる速度を調整した。
空洞からレミィの下半身がはみ出ている。
カレンはもう一度跳び、壁を蹴って、優しくレミィを空洞に押し込んだ。
「そこで待っててね」
カレンは空洞に向かって小声で話しかけた。
レミィの後に続く。
カレンはしゃがんだ。空洞に向かって飛び乗る体勢である。だが、カレンは、飛べなかった。貝殻頭の気配を感じたからである。