図書館
ジョニーが扉を押し開くと、湿気た空気に、顔を撫でられた。カビが混ざった臭いが通り抜ける。
扉をくぐり、部屋の中に入ると、仲間たちは、息を呑んだ。
書物が立ち並ぶ、図書館だった。
異国情緒の絨毯が敷き詰められていた。壁は本棚に覆われ、上を見上げると、三階建ての吹き抜けになっている。セレスティナやビジーが行きつけのシグレナス図書館よりも、巨大であった。
階層それぞれの本棚が、見上げるほど高い。本棚の近くには、梯子が用意されていた。梯子には車輪があって、移動式になっていた。
「ここで書物を調達します」
セレスティナは、仲間たちに説明をした。
「目標は、たった二冊です。私たちは、最低限、必要な本しか持ち帰りません。後から来る、知識を求める人たちのためです。皆さんは、ここで待機してください。本は私が探します」
セレスティナの事務的な口調が響き渡る。だが、ジョニーは、セレスティナから、熱量を感じた。熱量とは、書物、ひいては知識に対する愛情である。
セレスティナは、すぐに本棚に向き合った。
(目標の本が、どのような題名なのか教えてくれても良いのでは?)
と、ジョニーは思った。全員で探せば、時間の効率化になるのに。
ジョニーは周りを見渡した。仲間たちは疲れ果てていた。仲間たちには、休息が必要だ。
だが、一人だけ、元気な男がいた。
ボルテックスである。
頭部に巻かれていた包帯は、いつの間にか外され、いつもの覆面に戻っていた。
ボルテックスは、図書館の中央に向かって、大股で歩き出した。
図書室の中央に、植え込みがあった。植え込みには、巨大な木が生えていた。天窓から直接、日光が降り注いでいる。
「地下迷宮に太陽だと? どういう構造なのだ?」
仲間たちが驚いている。
「日当たりも抜群だ。ここなら、木を植えられるよなぁ? フィクス?」
と、脳天気な声を出しながら、ボルテックスが肩を鳴らした。
“光輝の鎧”に変身して、大木を抱きかかえて、引き抜いた。
ボルテックスは、大木を幾重にもへし折り、粉々に砕いた。
片眼のフィクスが、ダルテに肩を借りて、立ち上がる。全身の力を振り絞って、“無花果の騎士”に変身した。
フィクスが植え込みに手を触れると、“癒やしの木”が生えてきた。
フィクスは、“癒やしの木”に手を触れ続けている。手を掛ければ掛けるほど、“癒やしの木”は大きく育っていた。
「“癒やしの木”はな。一度、手を離すと、成長が止まるんだ」
ボルテックスは生身の姿に戻って、ジョニーの隣に立った。
「……フィクスは、最大限まで育てる気だ。……重傷なのに、申し訳ないが、仲間のためだ……」
久しぶりの回復である。
仲間たちが、嬉しげな表情で“癒やしの木”の成長を見届けている。
ジョニーは、木から目を逸らした。
ジョニーにとって、興味の対象は、セレスティナのみである。ジョニーは本に興味があるふりをして、セレスティナを探した。
二階の階段を上り終えると、セレスティナがいた。
梯子に足を掛け、本を開いて中身を確認している。
読書に没頭する後ろ姿から、セレスティナの高い知性が伝わってくる。
クリーム色の金髪が、天窓からの光を跳ね返して、輝いていた。
ジョニーは身を伏せて、本棚の陰に回り込んだ。
セレスティナの横顔を覗くと、真剣な表情には、強い意志を感じる。少しだけ怒ったかのような眉間が可愛い。
セレスティナは、ジョニーの視線に気づいた。
ジョニーは慌てて、物陰に身を隠した。
セレスティナを追いかけていたと思われるのが嫌だった。事実ではあるが。
「どうだ、リコ。セレスティナとの進捗状況は?」
後ろから、ボルテックスがジョニーの肩に手を掛けてくる。ジョニーは慌てたが、表情には出さなかった。
ボルテックスが大声で笑っている。この男は、いつもジョニーの恋愛事情に首を突っ込みたがる。
むしろ、邪魔されている気がする。
セレスティナに気づかれては困る。
もう一度、セレスティナを見ると、セレスティナが本棚に吸い込まれ、消えた。
「あれは、隠し扉だ。本棚の裏に、最重要の本が隠されている個室がある。セレスティナは無事だよ」
ボルテックスがジョニーを安心させるような口調で伝えた。
「で、セレスティナとの関係はどうなった?」
しつこい。
ジョニーは、ボルテックスを黙らせるために、口を開いた。
「……俺には、セレスティナの気持ちが分からない。俺を好きなのか、嫌いなのか、よく分からん。ときどき俺を蛇のように追い払う。だが、ときどき、俺に何かを伝えようとしているのは分かる。それがなんなのかよく分からん」
伝えていない事実がある……。
ジョニーは、二階から、吹き抜けを見下ろした。“癒やしの木”の周囲で、仲間たちが休んでいる。
足場のない空中にいるようだ。
心が不安定だった。
自分に軸がない。
「お前はどうしたいんだ? 恋愛相談してくる奴って、基本的に自分がどうしたいのか分からないんだよな」
「分からん……」
「じゃあ、チュウしろよ。手っ取り早い」
「あのなあ、ボルテックス。セレスティナの気持ちを見極められない限り、俺には何もできん。もし、俺がセレスティナに嫌われていたら、いくら好意を伝えても無意味だろうが」
「ちがう。それは間違いだ。結局のところ、相手の気持ちなんて分かりようがないんだよ。分からなくて、当たり前。でもな、自分が何をしたいのかは、自分で決められるだろう? ほら、人生は決断の連続だ。……リコ。お前は、セレスティナとチュウしたいのかしたくないのかはっきりしろ」
ボルテックスは、優しい声で圧力をかけてくる。
「したいです……」
と、ジョニーは答えられなかった。
セレスティナの顔が近づく情景を想像しただけで、意識を失いかけたからだ。
「分かりやすい奴だな、顔が真っ赤だぞ。……いてて」
ボルテックスが笑いながら、怪我の痛みで苦しんだ。
(笑ったり痛がったり忙しい奴だな。……俺は、セレスティナと何をしたいのだ?)
セレスティナの艶やかになった唇を想像しただけで、悪い気はしない。むしろ、歓迎したい。
(だが、本当にそれだけなのだろうか……?)
ジョニーの逡巡は終わった。
どこからともなく、セレスティナが現れたからだ。姿勢を伸ばして颯爽とジョニーたちの前を通り過ぎ、一階に向かって、階段を降りていく。
ボルテックスがセレスティナを追いかける。
ジョニーも追いかけた。あくまでも、自分が追いかけている対象は、ボルテックスだと言い訳をしながら。
セレスティナは近くの椅子に座り、机の上に本を広げた。
ジョニーの存在を確認すると、眉間にしわを寄せて、ジョニーを睨んできた。
どうして怒られているのか、ジョニーには理解できない。
「レディ・セレスティナ。目当ての本は見つかりましたか?」
と、ボルテックスが恭しい口調で質問した。
「ボルテックス。……見つかりました。ただ、偽書であるかもしれません。内容をすべて確認しますので、しばらく時間をください」
机の上には、古ぼけた本と、奇妙な本があった。
古ぼけた本は、茶色く変色をしていて、砂埃のような粉を吹き出している。所々に小さな穴が開いている。
もう一つの奇妙な本は、全体的に黒塗りであったものの、白い骨で装丁されていた。
(鳥の骨……? いや、人骨か?)
ジョニーは、異様な感覚に包まれた。
本の形をした危険物である。
ボルテックスが骨の本に近づき、観察した。
「ほえー、異国どころか、異世界から来たような本ですなあ。……こりゃあ、禁断の魔道書だ。魔王の図書館には、やばい魔道書が蔵書されているって噂だったが、本当だったな」
セレスティナは、ボルテックスの感想に反応しなかった。
熱心な表情で、骨の本を広げた。用意された美食を貪るように、頁を捲っていく。
紙面から、どす黒い霊力が煙のように立ち上った。
煙が伸びて、セレスティナの口と鼻に侵入していった。
「セレスティナ。その本は危険だ。今すぐ捨てろ」
ジョニーが叫んだ。だが、セレスティナは手でジョニーを制した。
(あの本は、間違いなく“呪いの物品”だ。……セレスティナは、危険を承知の上だ。それほど重要な本なのか)
セレスティナは、時折、文面から目を離し、文章を口ずさんでいた。暗唱している。
本に棲む魔性に、取り憑かれているどころか、暗記しているのだ。
「リコ。心配は、よせ。レディ・セレスティナを信頼しようぜ。俺たちは俺たちの仕事をするんだ。せっかくの休憩時間だ。次の戦いは、強敵が待っている。体力と霊力を回復させておけよ」
と、ボルテックスは、ジョニーの肩に手を置いた。ボルテックスは、安心している。黒い煙が、セレスティナを取り込んでいる状況が見えないのだ。
ボルテックスは仰向けになって、自分の腕で枕を作り、寝息を立て始めた。
仲間たちは、休息を始めている。
“癒やしの木”は育ちきった。植え込みの広さを限界まで利用して、伸びた木は、図書館の二階部分を越えていたのである。
木の実を分配し、仲間たちが生気を取り戻していった。
特に、クルトとダルテ、フィクスの重傷三人組は、回復ぶりが目覚ましかった。
クルトはフリーダと談笑し、ダルテとフィクスは率先して、実の分配をしている。
「……武器の手入れでもするか」
ジョニーは“鎖鉄球”を取り出した。
鎖につながれた鉄球。
鎖の一つ部分が外れかかっている。
ジョニーは短刀を駆使して、外れかかった鎖を排除した。無事な鎖同士で、つなぎ合わせた。
(見た目は悪いが、優秀な武器だ)
ジョニーは、これまでに多くの武器を壊していた。ジョニーの動きについて行けないのである。
他の霊骸鎧と比べて、“影の騎士”は、非力な分類である。それでも、高い武器破壊率は、必殺技の“落花流水剣”が原因であった。
今回の冒険において、“落花流水剣”を疲労していないが、鎖鉄球は、未だに壊れていない。
鎖部分が柔軟で、攻撃の衝撃を和らげてくれているのだ。
「どうだ。俺様が選んだ武器は、お前に似合っているだろう?」
と、ボルテックスが、寝ながら自慢した。
「さあな。悪くはないぞ。俺ほど器用でなければ、鉄球を自分にぶつけてしまうだろう」
とジョニーは素っ気なく答えた。ジョニーなりに感謝の意を伝えたつもりである。
「リコ。さっきの技は凄かったな。毒ガスの罠で、お前がまさか霊骸鎧をレディ・セレスティナに履かせるとは、思えなかったぞ。お前は本当の天才だ。毒ガスに抵抗できる霊力を全身に貼り付けて、毒ガスをやり過ごす。……お前は天才だ。お前みたいな奴、初めてだ」
「生き残りたい一心でやったまでだ。……運が良かっただけだ。だが、どうして罠が作動したのだろう?」
だが、ボルテックスは返事をしなかった。興味がなくなったのか、寝息を立てて眠っている。
「寝言か。寝言で会話をするとは、器用な奴だ」
ジョニーは笑った。つかの間の平和を取り戻したかのような気分である。
仲間たちの様子を見た。
ゲインは、胡座をかいて、一人遊びをしていた、賽子を指で弾いている。出た目にしたがって、いくつかの石ころを動かす。思案に明け暮れ、忙しなく、自分の顎ひげに触れている。
ダルテとフィクスは肩を寄せ合って休んでいた。熟年夫婦のようだ、とジョニーは微笑んだ。
フリーダとクルトは立ち話をしていた。フリーダは腕組みをして、クルトは残った片腕で自分の胸を押さえている。二人とも、厳しげな表情をしていた。ジョニーには、話の内容が分からなかったが、意外と、二人は良く会話をする仲ではある。
サイクリークスが、倒木から木を削り出し、器用な手つきで短刀で細工をしている。
サイクリークスの隣に、シズカが立っていた。プリムが地べたに寝転がって、足を鳴らしてサイクリークスの仕事ぶりを眺めていた。
(ぽんこつ……)
ジョニーは、プリムのセレスティナに対する評価を思い返した。セレスティナの失策だったのだろうか?
「分からん。セレスティナが間違えるとは思えん」
セルトガイナーは、フリーダとクルトの会話を遠巻きで見ていた。悔しげに、歯を食いしばっている。
「セルトガイナー。妬いているのか?」
と、ジョニーは話しかけた。自分の恋愛事情が上手くいかないと、他人の恋愛事情が気になる。
「妬いていませんよ」
セルトガイナーが面倒くさそうに応えた。セルトガイナーはフリーダから目を離さない。ジョニーよりも、フリーダとクルトの会話が気になっているのだ、とジョニーは笑った。
「おい、セルトガイナー。さっきのガス室だが、俺たちが閉じ込められていたとき、貴様は、どこにいた? 部屋の中に見かけなかったが」
と、ジョニーは、話題を変えた。ガス室の話で頭がいっぱいだったからだ。
「えっ? えっ? 俺は、ガス室の外にいましたよ」
セルトガイナーの顔が青ざめた。震えだした。
セルトガイナーの目が泳いでいる。
「どうした? セルトガイナー。何かを知っているのか?」
ジョニーはすかさずセルトガイナーに問いかけた。セルトガイナーは何か秘密を隠している。
「いいえ、なんでもないっすよ。リコさん。本当です」
「それにしては、声が震えているぞ?」
「な、なんでもないっすよ。いやだなあ、俺を疑って」
明らかに動揺している。
ジョニーはこれ以上の追求は無駄だと考えた。話を続ける材料が見当たらなかったからである。
ジョニーは目を閉じた。
“星幽界”に連れて行かれる。
暗い小部屋で、小さな黒い輪郭が見えた。黒い輪郭は、子どもほどの背丈である。
セルトガイナーである。
目を剥いて、怯えていた。
「どうしてそんなに怯えている?」
ジョニーが、子どもセルトガイナーを問いただした。
セルトガイナーが、部屋の壁を指さしている。
指さした先の壁はなくなっていて、光輝いていった。光の中で、仲間たちが談笑している様子が見える。
セルトガイナーが震えだした。両手を合わせて、許しを請う仕草をしている。
「……どういう意味だ?」
ジョニーは目を覚ました。
セルトガイナーは、静かに仲間たちを見ていた。落ち着きを払っている風に見えるが、内心は怯えているのだ。
「誰かに怯えている……? 仲間の誰かに脅されているのか……?」
“星幽界”で見えた映像の辻褄合わせをしていると、疑問が湧いてくる。
ジョニーは、気分を変えて、セレスティナに視線を移した。
セレスティナは本を二冊目を読んでいた。古ぼけた本だ。
(セレスティナは何を考えているのだろう……?)
と、興味がわいた。セルトガイナーに向けたやり方を、セレスティナにやってみる。
目を閉じて、セレスティナの“星幽界”に行った。
セレスティナが、背もたれのない椅子に座っている。猫背で足を投げ出し、顔つきは疲れ果てていた。
「チュウをしろ」
ボルテックスの声が、天井から聞こえる。
「ボルテックスめ、直接、俺に命令をしやがって」
ジョニーが文句を垂れる。
だが、当のセレスティナはジョニーの姿を確認するなり、椅子から立ち上がった。
ゆっくりと、ジョニーに向かって近づいてくる。
“動く死体”のようだ。
セレスティナは涙を浮かべている。微風でも、こぼれ落ちてしまいそうな儚げな量であったが。
(チュウをしろ……)
ジョニーはボルテックスの言葉を反芻した。セレスティナは、手の届く位置まで立った。
ジョニーとセレスティナは見つめ合った。
腕を掴んで、セレスティナを引き寄せれば、できる。
ジョニーは、セレスティナの唇を前に、躊躇った。
潤った唇が、半開きになっている。
甘くて吸い込まれそうな感覚に、ジョニーは唾を飲んだ。
だが、ジョニーは首を振った。
「セレスティナの姿をして、俺を惑わすな」
と、ジョニーは“星幽界”のセレスティナを突き放した。
(たとえ“星幽界”であっても、セレスティナの意思を確認せずに決行するなど、公平ではない。このセレスティナは、俺の勝手な願望を見せているにすぎん)
星々の世界が、光で裂かれていく。引き裂かれた世界の隙間から、セレスティナが驚く表情を垣間見せていた。
目を開く。
ここは、図書館だ。
ジョニーは立ち上がっている。
ジョニーは咳払いをして、座り直した。
セレスティナは、読書を止めていた。机から離れて、聞き慣れない言葉を暗唱している。地獄の底から響くような音に聞こえる。
ジョニーは、もう一度、“星幽界”に入る。
セレスティナやセルトガイナーの“星幽界”ではない。
「俺自身を見れば良い。俺自身はどうしたいのだ?」
自分自身、暗い暗転した世界……“星幽界”に飛び込む。
(お前は、どうしたいんだ?)
ボルテックスの問いかけを思い返す。セレスティナを追いかけてばかりで、ジョニーは自分自身の気持ちに向き合っていなかった。
ジョニーは下に向かって落下していく。飛び降りる夢を思い返した。
黒い穴に落ちていく。
穴は正方形で、レンガに似た物体が積み重なられていた。
途中、ガラスの壁……床が行く手を遮った。
だが、ジョニーは足で蹴破る。ガラスは幾層にもなっており、割れる音を小気味よく立てて、光沢を放つ破片を蹴り散らかしていった。
向こうに、人影が見える。
セレスティナだった。
「覗かないで!」
と、セレスティナが怒っている。
ジョニーは申し訳なく思った。
(だが、この世界は、俺の世界なのだ)
怒ったセレスティナは消滅した。幻覚だったのだ。
流れ星が見える。
流れ星は、一筋だけだったが、もう一筋、増えた。さらに、もう一筋……。
流れ星が雨のように降り注いでいく。
「流れ星……」
ジョニーの耳元に囁く声が聞こえる。
「流れ星が見たい……俺……」
覚えのある声であった。
(俺だ……。俺の声だ)
流れ星を見ている。
「君と……」
ジョニーは、涙を流していた。
(どうして、俺は……?)
だが、ジョニーの疑問は、すぐに中断された。
「わああああああああ!」
叫び声が聞こえて、ジョニーは現実の世界に引き戻された。
絨毯の上でセルトガイナーが悶えていた。