癒し
1
(シグレナスの大神殿に似ている)
と、ジョニーは、部屋の内壁を見て、思った。
壁は、大理石が敷き詰められている。無機質で、生命の鼓動を感じさせない冷たい空間であった。
部屋の中心には、セレスティナが寝台の上で眠っている。
寝台は、巨大な岩を立方体に切り分けて出来ている。セレスティナの金髪がほどけて、黄金のクリームをこぼしたかのように広がっていた。
首から下は裸だった。裸を隠している服は、いつの間にか毛布になっている。
だが、ジョニーは不思議に思わなかった。
"星幽界”は、夢の世界に似ている。
夢ならば、よくある展開だ。物理的な連続を平気で裏切る。
セレスティナは死人のようだった。顔色も、肌つやも、冷たい岩のようだ。寝息も聞こえない。
部屋が、遺体安置所にも見えてきた。
だが、ここは“星幽界”である。夢そのもので、夢は、直接的な表現を嫌う。比喩、暗喩の世界である。
セレスティナは、物理的に死んでいない。
心が死んでいるのである。
(夢の世界といえど、現実世界と連動している。心が死んでいるから、現実世界で、目覚めないのだ。セレスティナは、心の中で、兎の怪物となって、自分自身を殺していた。セレスティナは、自分自身を殺し続ける限り、目覚めない。……では、どうやって起こす? いや、自死を止めさせる?)
ジョニーの頭が素早く回転する。セレスティナの件になると、いつもより察しが良くなる気がした。
(“魔王”の装置にかかったときから、セレスティナの様子がおかしくなった)
アイシャは、“魔王”の装置を見て、母親に許しを請うていた。
サイクリークスは母親に謝罪をしていた。
(母親について、セレスティナは、自分を殺したいくらいの過去がある……?)
ジョニーはセレスティナを横目で見た。
セレスティナの頬に、触れたくなった。ジョニーは手を伸ばしたが、引っ込めた。
(ええい、どうせ夢の世界だ。照れている場合か。猥褻な行為だとしても、“星幽界”、夢の話だ。あとで咎められる謂われはない)
なんなら、頬以外でも行けそうな気がする。
爆発しそうな胸をおさえて、セレスティナの頬に触れる。
氷のような感触であった。
こちらの手まで冷たくなった。
いいや、手が凍りついていく。
凍った指は氷に覆われ、曲げるどころか、なにも感じられない。
氷の進行が、止まらない。指先から肩に向かって氷の柱が立っていく。
ジョニーは、両腕を動かせなくなった。巨大な鷹の爪で固定されたように動かない。
いつの間にか、両腕が凍っている。
ジョニーは叫びたくなったが、止めた。夢の中で叫んでも、意味がないからだ。
(決断しろ。早く決めろ。……時間がなくなる一方だ)
ジョニーの全身は凍結していた。まるで残り時間を使い切ったかのようだ。
脚の感覚がない。
水風呂を思い返す。
胸まで、氷水に浸かっているかのようだ。
(どうしてだ? いや、ここは“星幽界”だ。夢の世界。あらゆる物理法則が無視される。……連想の世界だ)
氷と化した全身。
(俺はセレスティナを恐れている……。凍りつくほどに、触れさえしても恐ろしい。……どうして俺は、セレスティナを怖がっている?)
ジョニーはセレスティナを見た。
こんなに可愛いのに、恐れる要素は一切ない。
だが、すぐに分かった。
夢の世界は、連想の世界だ。凍りつくほど動けなくなる。
凍りつく理由、それは、ためらっているからだ。
ジョニーの顔面に、突風が吹いた。突風は、白い吹雪となり、周囲を雪で積もらせた。
ジョニーの顔や肩に、セレスティナの全身も雪で覆われていく。
「駄目だ、セレスティナの生命が消えてなくなっていく……!」
セレスティナの内的世界、夢の世界が吹雪で閉ざされていった。
ジョニーの周囲は雪山になっていて、雪崩に飲み込まれていった。
衝撃に、ジョニーは片手を上げた。セレスティナの寝台は、そのままだった。セレスティナの寝台から、引き離されていく。
「チュウをしろ」
ボルテックスの囁き声が聞こえる。ボルテックスの姿が見えないが、ボルテックスがいたら、発言しそうな内容である。
「無理だ」
ジョニーは耳を塞いだ。動かせないはずの両腕が動いた。
「絶対に、セレスティナに拒否される。俺がセレスティナに愛されるはずがない」
「馬鹿野郎。分からねえのか? セレスティナは、お前の助けを求めている」
「そんなはずはない。誰も俺を、求めていない」
「あのなあ。誰が今のセレスティナを助けられる? ……お前しかいねえだろうが。さっさとやれ。ジョエル・リコ。本当に好きなら、やれるはずだ」
ジョニーは、頭に鉄槌で殴られたような気がした。痛みはない。ただ、目を覚まされた気がする。
「ボルテックスの幻に諭されるとは、な……」
ひょっとしてボルテックス本人が登場したのかもしれない。
ジョニーは、姿勢を正した。
いつの間にか、雪山も吹雪もなくなっていた。元の霊安室に戻っている。
動かせないはずの腕が自由に動く。
セレスティナの顔を見下ろした。
寝顔も可愛い。
だが、そんな思考をしている暇はない。
ジョニーは、寝台に両手を突いて、自分の顔をセレスティナの顔に近づけた。
「俺の体温をやる。起きろ、セレスティナ……!」
ジョニーは、ゆっくりと、自分の額を、セレスティナの額に合わせた。
目を閉じ、霊力を集中する。ジョニーは自分の体温が、煙となって、セレスティナに流れ込んでいく様子を想像した。
氷のように冷たかったセレスティナの顔に、熱が帯びてきた。
セレスティナの全身から放出される熱量を感じて、ジョニーの胸が高鳴る。
(だが待てよ、ここは、セレスティナの夢。そうだとすれば、頬を無断に触ったと夢の世界で気づかれてしまうかもしれない)
ジョニーは不安になった。
(だめだ、もう躊躇うな。たとえ嫌われても構わん。俺は、セレスティナを助けたい……!)
光はさらに膨れ上がった。無機質な遺体安置室が、光に包まれ、壁全体が輝きだした。
ジョニー自身も暖かくなってきた。
(セレスティナだけでなく、俺自身も癒やされている……?)
光の中から、セレスティナが現れた。
セレスティナは半透明になって、立ち上がっていた。
半透明のセレスティナは、涙を浮かべている。
だが、微笑んでもいる。
(無理矢理、作り笑いをしているのか?)
ジョニーの顔を見るなり、かぶりを振っている。
ジョニーが疑問を呈しようとすると、セレスティナの声が聞こえてきた。
「自分に生きていく資格なんてない。……多くの人々を傷つけた。母も、友だちも、愛する人も……!」
自分を責める声が聞こえる。
愛する人?
(やはり、俺以外にも好きな男がいるのだな……)
と、ジョニーは絶望した。光の中で、目眩をした。
ジョニーの心を知ってか知らずか、セレスティナは、静かに泣いている。
自分を殺す。
自分を責めている。
(セレスティナは、いつも自分を殺している……)
ジョニーはセレスティナがつっけんどんな態度をしている様子を思い返した。
誰かを傷つけたくないから、最初から相手にしなければ良い。
だが、自分を封じ込める行為は、自分を殺している夢と同じだ。
「だめだ。生きる資格とか、そんな戯言はやめろ。……生きろ、セレスティナ」
ジョニーは叫んだ。
やっと意味が分かった。セレスティナは、普段から、心を閉ざしているのだ。心の行き場がなくなったから、眠る、という行動で現実に戻らないようにしているのだ。
「目を覚ませ。起きろ」
「だめよ。無理よ。貴方まで傷つけてしまった」
貴方?
ジョニーは自分を認知されたようで、喜びの感情に沸き立った。だが、セレスティナがジョニーを傷つけている自覚があったとは、意外であった。
「俺は、君に何をされても構わない。俺は傷つかない。だから、君の気が済むまで、傷つけてくれても構わん」
半分私利私欲であったものの、心から思っているので、なんら恥ずかしい話ではない。
「喧嘩を通して、俺たちは分かり合えるのだ。だから、喧嘩上等だ。だから、傷つけ合えば良い」
ジョニーは声が荒げていた。喉が可笑しくなる。
サイクリークス、セルトガイナー、フリーダ……。どいつも喧嘩の後に仲直りをした。今では命を託し合う、仲間だ。
クルトは微妙だが、少なくとも初対面の頃よりも、仲は良くなった気がする。
そういえば、小さい頃、ビジーとは食い物の件で、よく喧嘩になっていた。普段のビジーは大人しいが、食事になると性格が変わる。
「傷つけ合って、当たり前だ! 傷つけ合いは、途中の話だ。仲が良くなるために必要な過程にすぎん。途中の話に、誰かが文句を言いに来たら、俺がぶちのめしてやる。罪は、俺が背負う! 俺が君を守る! だから、自分を許せ! 許してやってくれ!」
セレスティナの目が開いた。
矢を貫かれたような、驚いた顔をしている。だが、どこかすっきりともしている。
ジョニーは異変に気づいた。
いつの間にか、セレスティナと手が絡め合っている。
ジョニーは許可なくセレスティナの手を握ったりはしない。セレスティナから腕を伸ばしてきたのである。
ジョニーの内部で何かがほぐれたような、溶け出すような感情が沸き起こった。
ジョニーの腕から暖かい水が流れている。いや、セレスティナも同じ感情だ。
セレスティナの顔が、目の前から消えていた。
代わりに、黒い影が見えた。
背の低い、影である。
子どもの影だと分かった。
(この子どもは誰だ? ……俺は、こいつが嫌いだ)
気分が悪くなってきた。腹が立つ。
瞬時に敵だと分かった。ジョニーは基本的には敵と認識した相手を見て暴力で解決してきたので、嫌いな相手はいない。だが、暴力で解決できない相手に対しては、嫌いだった。例えば、子どもの頃、菓子を取り合ったビジーが憎たらしくて仕方がなかった。
だが、影の正体は、ビジーではない。
この子どもは、セレスティナに愛されたがっている。
セレスティナが、瞳を潤ませて見ている。
顔が微笑んでいる。セレスティナは、明らかに情愛を感じている。普段、感情を表に出さない氷の美女なのにも関わらず。
子ども?
ジョニーが知っている間に、セレスティナと関連している子どもなど、いたのだろうか?
セレスティナは子どもたちに勉強を教えていた。
教え子?
いや、もっと絆が深い感じがする。兄弟、肉親にに近い。
セレスティナが産んだ子ども……? 隠し子がいるのか?
だが、セレスティナは経産婦には見えない。
ジョニーは心臓を冷たい爪で握りしめられたような感覚になった。
「つまり、セレスティナが傷つけた相手、という意味か?」
目眩を起こした。まるで空中回転軌道に乗っている事実を思い出したかのようだ。
ジョニーは空中に吸い込まれていった。
セレスティナと、影の子どもが地上に取り残されていて、向かい合っている。
セレスティナは、子どもから目を離さない。
「愛する人……?」
2
ジョニーが現実世界に目を覚ますと、ジョニーの服は汗で濡れていた。
だが、空中回転軌道が巻き起こす風が、汗を乾かしてくれて、気分は爽快だった。
隣で、ゲインが、両腕を振り上げ、懸命に戦っていた。
(ゲインの奴、俺が気を失っている間に……よく無事だったな)
セレスティナが、席から身を乗り出して、ゲインの背中に触れた。ジョニーはゲインが羨ましかった。
ゲインは、感電でもしたかのように、背筋を伸ばした。
背中から、黄金の霊力が湧き上がった。
(金色……? セレスティナの霊力は、“光”なのだな?)
かぐわしい香りがする。
金色の煙は、セレスティナの霊力は、牛乳を甘く溶かしたような、良い匂いがする。
ゲインの動きが良くなった。普段は、鈍重な両腕が全身が軽くなったようだ。
黒い霊力を背中に溜めている。
“溜め撃ち”!
前回よりも、溜まる速度が速い。
ジョニーは目を閉じなくても分かった。セレスティナの霊力が、ゲインに流れ込んでいく。ゲインの中で、セレスティナの霊力が、黒い“闇”の霊力に変換しているのだ。
ヴェルザンディの車体から、動揺が走る。
「サロメ! 奴の攻撃を封じろ!」
アイシャが命令した。ゲインの霊力が急激に増強している様子は、アイシャたちにとって脅威である。
サロメ・グルステルス……“十字”が唇に指を当て、白い煙を発生した。
白い煙は飛び、ゲインの周りにまとわりつく。だが、ゲインの黒い煙にかき消されていった。
「“沈黙”を無効化した?」
“砲拳”には、火炎放射器が効かなかった。霊骸鎧には、それぞれ耐性がある。
「……セレスティナから霊力を分けてもらった分、ゲインは“沈黙”の耐性を身につけたのか?」
ジョニーは、合点した。霊力が向上すれば、耐性も向上する。
力任せの敵よりも、“十字”のような状態異常攻撃をしてくる敵は、さらに危険だ。より少ない力で、味方を無力化してくる。
だが、無力化を無力化できれば、恐ろしい相手ではない。
ジョニーは、セレスティナに腕を掴まれた。
「手伝って!」
細い指が、ジョニーの腕に食い込んで、嬉しい。
セレスティナは、ジョニーの手を、ゲインの背中に打ち付けた。
強引である。
意外と握力が強い。爪が食い込んでいる。
(キミは、なんでも自分だけでやろうとする)
苛立った声が聞こえた。
(この声は、心の声だ。しかも、セレスティナの声……)
ジョニーにはすぐに分かった。
セレスティナを見ていると、凜とした佇まいで口を結んでいるが、意外にも、男の子みたいな口調だった。お淑やかな態度とは裏腹に、内面は男っぽいのかもしれない。
セレスティナの横顔を見る。目を合わせようとはしない。ただ、敵を見つめる瞳には、必死さが彩っていて、ジョニーはいじらしく思った。
ジョニーは、ゲインの背中に触れた。
目を閉じ、“星幽界”を呼び出す。
夢の世界で、半透明のセレスティナが、生身のゲインに霊力を送っている。
ゲインは、生身の姿で、動揺していた。
(ゲインは野蛮人のくせに、心配性なのだな。セレスティナにしろ、ゲインにしろ、わりと人間は、心とは反対の内容を外見で見せているのかもしれない)
と、ジョニーは思った。意外な発見である。
「落ち着け、ゲイン。なんとかなる」
ジョニーは落ち着いた。落ち着いた心が、黒い光……霊力となって、ゲインに伝わる。
「霊力の本質は、伝導だ。受け渡すのだ……」
怖がるゲインから、恐怖が取れてきた。
書物で得た知識と、現実が混じり合った。
(どうやらキミには、人を癒やす力があるらしい……。いつも強いのに、心の中は、反対だね)
セレスティナの囁く声が聞こえる。セレスティナが微笑んでいる様子が、一瞬だけ垣間見た。
“自動二輪”の爆音で、ジョニーは現実に戻された。
ジョニーは振り返った。
“火車”が、進行方向に立っている。威嚇をしているかのように、操作棒をしごいていた。
「大丈夫……! 心配ありません」
セレスティナの声は、落ち着いている。
「もうすでに、“火車”は、こちらの仕掛けた罠にかかっています……!」
勢いよく“自動二輪”が走り出した。
車輪は、炎に包まれ、線路を焦がしている。発動機の放つ爆走音が、世界のすべてを焼き尽くすかのように威圧していた。
ジョニーは身構えた。
だが、すべては、杞憂に終わった。
緑色の霊骸鎧が、いきなり空中から現れた。上空から垂れ下がった蔦に、掴まり、振り子のように“火車”の真横まで飛んだ。
“火車”を蹴り飛ばす。
“火車”は、身体を曲げ、線路の外に弾き飛ばされていった。主人を失った“自動二輪”は、反対側に生き別れとなった。
「あれは、“蔦走り”……! サイクリークス!」
サイクリークスの霊骸鎧“蔦走り”は、手首から蔦を発射する。
“砲拳”に線路外に落とされたふりをしていた。蔦を“振り子移動”しながら、線路と線路の間を移動していたのだ。
セレスティナは力強く頷いた。
「まだ終わっていません。次……!」
セレスティナの声に、ジョニーは気持ちを切り替えた。
アイシャたちを見る。
車体の上で、“砲拳”が、自らを発射台であるかのように、腰を落として、両腕を構えている。隣で、腕組みをしたアイシャが、怒った表情を見せていた。
「撃ち合いをする気ね。かかってきなさい……!」
セレスティナから勝ち気な声が出る。ジョニーはセレスティナが興奮する様子を、初めて見た。
「……ジョエル・リコ。皇帝陛下の御名において、命ずる。敵を撃ちなさい……!」
セレスティナが威厳に満ちた声を出した。こんな声を出すとは、ジョニーは意外だった。だが、セレスティナは、皇帝の代理人であって、公人なのである。ジョニーが知らない、公的な場面で声色を使い分けていても、おかしくない。
「撃つ方向と、撃つ瞬間は、俺が決めて良いのだな?」
セレスティナは応えなかった。だが、無言は、肯定である。
ジョニーは目を閉じた。“星幽界”に移動する。
だが、見えている映像は、目を閉じていても、そのままだった。敵の車体と、アイシャたちが見える。
違いがあるとすれば、若干、世界が薄暗くなっていて、視界の中央には、赤い円、照準が現れたぐらいだ。
“砲拳”から、両腕が切り離された。謎の推進力に乗って、こちらに向かってくる。
両腕を落とすか?
いいや、狙いは、そこではない。
「ゲイン。撃てぇ!」
ジョニーは、赤い照準を、アイシャたちの車体に合わせた。