躊躇
1
硝子の破片が飛び散る中、ジョニーの変身が解けていった。黒い煙に包まれていく。
「目くらましには、ちょうど良い」
煙の隙間から、仲間たちと“毛深き獣”の驚いた顔が、一瞬だけ見えた。
ジョニーは、着地と同時に前転をして、着地の衝撃を和らげる。
視界が悪さは、自分も同じである。目を閉じたまま、意識を集中する。寝台に横たわる、セレスティナの輪郭が浮かび上がった。
ジョニーは、セレスティナを抱き起こした。セレスティナは拘束されておらず、簡単に救出できる。
“毛深き獣”たちの騒ぎ声が、煙の向こう側から聞こえてきた。
(矢を放ってくる!)
と、ジョニーは予測した。矢が空を切る音を耳にしたまま、セレスティナを抱きかかえて、飛んだ。
目指すは、魔王像の眉間にある、白い菱形のスイッチだ。
だが、跳躍力が足りない。眉間どころか、胸元までしか届かない。
ジョニーは、もう一度、目を閉じた。
映像が切り替わる。
そこは、青い空と海が広がる、砂浜であった。
どこかで見た記憶がある。
(俺は子どもの頃、海に出た経験があるぞ……)
海水……。霊骸鎧は海水、つまり、塩水に弱い。
霊骸鎧は、塩に似ている、とジョニーは思った。塩の入った皿に、水を注ぐと、塩は溶けて塩水になる。反対に、塩を乾燥させると、固くなる。
(霊骸鎧は、水にかかっても溶けない。霊骸鎧が塩水に溶ける理由は、霊骸鎧は、塩を、自分の仲間と誤認としているからだ)
と、ジョニーは仮説を立てた。
変身禁止区域の白い光には、霊骸鎧を誤認させる力が含まれている。どういう原理なのかジョニーには分からない。
経緯は不明だが、過去に魔王は原理を突き止めたに違いない。
目の前に、霊力が発生した。円形をしていて、固まった塩のように固い。
(これだ!)
ジョニーは、塩の円盤を片足で踏みつけた。耐久力がある。踏んでも割れない。
だが、長持ちはしない。固まった塩が、風に少しずつ削られているようだ。変身禁止区域の影響である。
ジョニーは、さらに跳んだ。
味方からも、“毛深き獣”からも、驚きの声が上がった。
「ニンゲンが、トンダ?」
「踏み台を作った、だと?」
魔王像の顔面が、近づく。
衝突の瞬間に、ジョニーは、魔王像の眉毛に、クルトの手斧を突き刺した。
白いスイッチを見据える位置に引っかかった。手を伸ばせば届く距離だ。一瞬だけ、手斧にジョニーとセレスティナの全体重が乗っかった。このままでは、落ちる。
目の下……涙袋に足を乗せ、踏ん張って身体を安定させる。
セレスティナを引き寄せ、ジョニーは叫んだ。
「セレスティナ! 動力源だ! 押せ!」
セレスティナは、呆気にとられている。
いきなりジョニーが現れて、魔王像の顔に連れ出されたのである。状況を把握できなくて、当然であった。
ジョニーは両足で踏ん張り、片方の腕でセレスティナの腰を抱えた。
「……手に触れるぞ!」
セレスティナの手をとり、魔王像のスイッチに近づけた。不思議と躊躇わなかった。
この瞬間、セレスティナは我に返った。ジョニーの意図を理解し、スイッチに自ら手を添える。
セレスティナの白い手に、ジョニーの手が重なった。
セレスティナの顔が、一気に下から上に真っ赤に染まっていく。セレスティナの、蒸気にでも煽られたかのような変化を最後に、ジョニーの見えている世界は、切り替わった。
2
そこは、夜であった。だが、夜にしては明るかった。
なぜなら、ジョニーの周囲には、輝く小さな光……星々が流れていたからだ。
星と星がすれ違う夜の空中に、ジョニーは、突き進んでいたのである。
歩いているのでもなく、走っているのでもない。空を飛ぶ鳥のように羽ばたくのでもない。自分の意思関係なく、ただ前に進んでいるのである。
ジョニーは、自分の手を見た。
手がない。いや、肉体すべてが存在していない。知らぬ間に、消滅している。
ジョニーは、光そのものになっていた。夜空に浮かぶ星々と同じ仲間になったのだ。
星々は、無数にあるにもかかわらず、ジョニーにぶつかったり、行き先を妨害衝突したりしなかった。まるで輝く星々の門をくぐり抜けていくようだった。
ジョニーは、遠くにある、巨大な球体に気がついた。
他の星と違って、光を放っていない。白い煙に覆われた、青と緑に配色された星であった。
「あれは、なんだ……?」
いや、ジョニーは知っている。
「この星は、俺たちがいる場所だ……!」
自分たちの住んでいる世界が、青と緑の球体だと分かった。球体なのに、なぜ下にいる連中は滑り落ちないか、疑問が生じた。だが、ジョニーは持ち前の直感で、滑り落ちない理屈をなんとなく納得した。
青と緑の星から放たれる霊力に、ジョニーは息を呑んだ。飲み込んだ空気が、胸の中に広がる。
シグレナスもヴェルザンディも、ちっぽけな存在にすぎない。こんな広大な世界に、隣人同士の喧嘩など、些細な問題にすぎないのだ。ジョニーの胸が、果てなく広がった気がした。 ジョニーは、これまでに感じた体験のない感覚に心地よさを覚えていると、視線を感じた。 星……光の一つが、ジョニーを見ている。
まるで興味の対象を見つけた子どものような視線である。
視線の主は、ジョニーの隣に陣取っていた。
「セレスティナ?」
顔は光に覆われていたので、全く見えなかったが、誰だか分かった。
ふと、予感がした。向こうから、光が迎えに来る。その光と自分が結びつけば、魔王像の仕掛けが起動する。
「そうか、ここは、セレスティナが見えている世界なのだな」
セレスティナの世界に、ジョニーは脚を踏み入れたのである。
ジョニーの、暗転した世界と違いすぎる!
光となったセレスティナは、人間の姿に見えてきた。
髪の長い少女となって、ジョニーに向かって手を差し出してくる。手つきは柔らかく、優しかった。指の先まで、しなやかな動きであった。
ジョニーは手を伸ばす。
いつの間にか、ジョニーも、人間の姿に戻っていた。セレスティナの手に、自分の手を重ねた。二人の手から、心地の良い光が解き放たれた。
光が増量する。手をつないだジョニーたちの速さが増した。
輝く星々の流れも加速する。ジョニーとセレスティナは、強い力で引かれていく。
夜空の遙か向こうから、一つの光が、向かってきた。ジョニーの予測通りである。
ジョニーとセレスティナは、向かってくる光に衝突した。
全身を光に包み込まれると、爆発するような爽快感が、胸の中心から広がった。隣で、セレスティナが、暑い日に水しぶきを浴びたかのように喜んでいる。
光の輪郭だけしか姿は見えないが、ジョニーには分かった。
セレスティナは、ジョニーに笑顔を向けている。
ジョニーは、自分の内側から浄化されているような気分になった。
こんなに清々しい気持ちは、久しぶりだった。いや、記憶が霞むほど、遙か昔の話だ。
3
ジョニーは、音で目を覚ました。
岩と岩が擦れている音だ。擦れる音は、次第に大きくなっていき、部屋の内部に轟いた。
地面が揺れる。天井から、砂と埃が降ってきた。
魔王像の中で、仕掛が起動しているのだ。
ジョニーは、クルトの手斧で自分とセレスティナを支えていた。部屋が揺れる中、セレスティナを抱きしめ、魔王像にしがみついた。ジョニーもセレスティナも、元の生身に戻っていた。
突然の異変に、“毛深き獣”たちが、慌てふためいている。
部屋の白い光が消え、誰かの驚く声とともに、一瞬だけ、部屋が真っ暗になった。
緑色の灯りが部屋中に点いた。
ボルテックスの叫び声が聞こえた。
「変身禁止区域でなくなったぞ! やっちまえ!」
全身の筋肉を震わせて、自分の手錠をねじ切った。素早く“光輝の鎧”に変身する。
光を残して、手始めに身近な“毛深き獣”の顔面に膝蹴りを食らわせた。下顎を揺らし、“毛深き獣”は、空中に吹き飛んだ。
ボルテックスは、敵に背を向け、サイクリークスを解放した。サイクリークスは、ボルテックスに護られながら、隠し持っていた短刀で、セルトガイナーや仲間たちの拘束を次々と解いていった。
仲間たちが、霊骸鎧に変身していく。悠然とした態度で、反撃に出た。
変身してしまえば、たいした相手ではない。
ジョニーは戦いに参加したくなった。やられっぱなしでは気分が悪い。
しわがれ声が足下から聞こえる。
長老がジョニーたちを指さし、毒針散弾銃を構えた“毛深き獣”たちに指示を出している。
セレスティナが、不安定な足場に覚束ない足取りをしていた。
「ここは危険だ。早く移動しよう」
と、ジョニーは、片腕で抱いたセレスティナを促した。
セレスティナの顔が近い。
上気したセレスティナの唇から、息づかいを感じる。
(俺は、何をしている……?)
セレスティナの腰に手を回して身体に密着していた状況に気づき、ジョニーは動揺した。セレスティナの手が離れる。だが、ジョニーは握って、結果的には、セレスティナの落下を阻止した。
ジョニーはセレスティナを見た。セレスティナが見返す。儚げな全身とは対照的に、星空が広がった蒼い瞳の中に、力強い意思を宿していた。
ジョニーは、目をそらした。セレスティナが尊すぎて、正視できない。
(このまま、見つめ合っても、セレスティナに拒絶されるだけだ。セレスティナに拒絶されても、俺はセレスティナを守る。それが、俺の仕事だ)
ジョニーは、両足に地が付いていない。宙に浮いている。下を見て、着地点を探した。魔王像の首回りに、高い襟が立っていて、襟と首の隙間から、浮き出た鎖骨が見える。
「セレスティナ、こっちだ。あの鎖骨を足場とする」
ジョニーはセレスティナの手に触れ、優しく握る。クルトの手斧から手を離して、飛び降りた。
ジョニーは魔王像の首に足裏を引っかけながら、落下速度を落とし、静かに着地した。
魔王像の襟が落下防止柵の役割を果たしている。セレスティナが足を滑らせて落下する危険がなくなった。ジョニーは、セレスティナの手を引いて、魔王像の後頭部に向かう。
セレスティナから、手を握り返してきた。突然の出来事に、ジョニーは脚をもつれさせた。意外だった。嫌がられると思っていた。
(セレスティナが俺を拒否しているのではない。俺がセレスティナを拒否しているのだ。俺は心の中で、どこか自分はセレスティナにふさわしくないと思っている。……だが、努力はしたか? セレスティナにふさわしい男になろうとしたか? セレスティナの気持ちに寄り添おうとしていたか? 最初から諦めているから、自分からセレスティナを拒絶しているから、セレスティナに拒絶されるのだ)
ジョニーは視線を戻して、セレスティナを見つめた。セレスティナは雷に打たれ方のような目つきで、ジョニーを見つめ返している。
ジョニーの背後で、殺気を感じた。“毛深き獣”たちが、矢を構えている。
鎖鉄球は見張り廊下に置いてきた。ジョニーは、まったくの丸腰である。
ジョニーは、セレスティナの腰に腕を回し、力を込めて自分に引き寄せた。
近い。
セレスティナは、両の瞳を見開き、ジョニーを見た。
セレスティナの耳が真っ赤になった。何かの測定器のように、温度が上昇している。
ジョニーは、セレスティナを先に行かせて、自らを盾とした。魔王像の襟首に回った。
(身を挺してでも、セレスティナを守る。セレスティナを安全な場所に避難させるまで、背中にいくら毒針を撃たれても、俺は死なん)
だが、“毛深き獣”たちが、矢を放ってこない。むしろ、長老が、“毛深き獣”たち弓兵を遮っている。
(そうか、やはり、魔王像は、“毛深き獣”たちにとって、神聖な存在なのだ。たとえ像であっても、敬愛している対象に弓矢を向ける真似はできないのだ。……魔王像を盾にしてやる)
魔王像は、首周りが自由に移動できる。セレスティナを、陰に隠した。
セレスティナの金髪は、汗で首に張り付いていた。セレスティナ自身は全身を、激しく痙攣させている。鉄の鍋から飛び跳ねる煎った豆であるかのようだ。
「毒か……? クルトと同じ、毒にやられたのか?」
ジョニーはセレスティナの腕を取り、脈を測った。いつもより激しく動悸している。セレスティナはジョニーの手を振り払い、激しく首を振った。
「大丈夫か? どこか怪我をしたのか?」
と、ジョニーはセレスティナを問い詰めた。
最初、熱病に罹ったのか思った。セレスティナは熱を持った。全身が淡紅色に染まっている。
だが、毒を食らって、全身から体力と霊力を失ったクルトと違って、セレスティナには力を感じる。
異変の原因は、毒ではない。
「無事なのだな……?」
ジョニーの質問に、セレスティナは何度も頷いた。
(……なに? なにが起きている……?)
セレスティナが明らかにおかしい。ジョニーは、セレスティナの異常事態には理解できなかった。決して悪い状態には見えない。
不意に、魔王像の下から、つんざくような叫び声が聞こえた。
ジョニーは外の様子を窺った。“毛深き獣”たちは、ジョニーたちを諦め、ボルテックスたちと戦っている。
三体の霊骸鎧……ボルテックス、セルトガイナーを構えたサイクリークス、ゲインが背中合わせになって、ダルテやフィクス、シズカを守っていた。
ダルテは、全身から血を流して地面に倒れている。“毛深き獣”に殴られ、重傷を負い、変身どころではない。
シズカは弓矢を持っておらず、生身の姿で、ダルテを介抱している。
フィクスは、変身したものの、シズカと同じく武器を持っていない。負傷した右目を手で抑えて、蹲っている。
霊骸鎧が有利とはいえ、味方の保護を優先しているボルテックスたちは、積極的な行動に出れなかった。
ボルテックスは、“毛深き獣”の死体をかき集めて、防壁を築いている。
サイクリークスは、近づいた“毛深き獣”を射殺し、ゲインは力任せに地面を殴りつけ、衝撃波を走らせていた。
防御態勢から、飛び道具で、“毛深き獣”の数を減らしていくしかない。
だが、“毛深き獣”も戦い方を心得ていた。遠巻きから、矢を放ってくる。“毛深き獣”からしてみれば、霊骸鎧とは接近戦では勝ち目がない。
だが、霊骸鎧は長時間の戦闘はできない。“毛深き獣”は消耗戦に持ち込み、霊力が尽きた一角を崩していく作戦なのだ、とジョニーは分析した。
サイクリークスは毒針散弾銃の矢を脚に受け、苦痛に身を歪ませた。霊骸鎧に変身していたおかげで貫通はしなかったものの、打たれ弱いサイクリークスにとって、確実に霊力を削られていた。
“毛深き獣”の死体は引きずられ、部屋の隅に山積みとなっている。代わりに、増援部隊が、部屋に入ってきた。
“毛深き獣”の一体が、魔王像によじ登ってくる。
ジョニーと目が合った。口に棍棒を咥えて、邪悪な笑みを浮かべている。
ジョニーは、片腕を広げて、セレスティナを守った。
「告白しろ」
と、ボルテックスの言葉が思い浮かんだ。
今ですか? とジョニーは思ったが、二人きりである。こんな機会は来ないかもしれない。
ジョニーは、セレスティナに向き合った。
「セレスティナ……。俺は……」
セレスティナが、顔を上げた。大きな瞳を見開き、ジョニーの発言をまったく予測できないような表情であった。
ジョニーは喉の渇きを覚えた。残った水分でジョニーはどうにか声を出そうとした。だが、次の言葉が出ない。
(なんでもない……)
ジョニーは口ごもった。
背後から、殺気を感じる。
ジョニーは“影の騎士”に変身した。棍棒を振り回す“毛深き獣”に向かっていった。
(くそ、俺は情けない男だ。女に告白をするだけで、躊躇してしまうとは……)
“毛深き獣”の棍棒をかいくぐり、お返しに拳を顔面にくれてやった。“毛深き獣”は、倒れて、ひっくり返った。告白より、拳は躊躇しない。
魔王像の下から、“毛深き獣”が、列をなしてよじ登ってくる。
ジョニーは、“毛深き獣”の手を容赦なく踏みつけ、鼻先を蹴った。“毛深き獣”が、地面に吸い込まれていく。激しく背中を打ち、長い舌を出して死んだ。
最初に倒した奴の棍棒を拾い上げ、よじ登ってくる“毛深き獣”の頭を叩き潰していった。落ちた奴が、後続者を巻き添えにするので、仕事が効率的であった。
棍棒が折れると、最初に倒した奴が背負っていた毒針散弾銃を奪い取り、ジョニーは高所から、引き金である木製の箱を叩いて、毒の雨を降らせた。
矢を受けた“毛深き獣”たちが、毒の苦しみで、床にのたうち回った。
形勢不利とみて、“毛深き獣”たちが、魔王像の周りを避けだした。
だが、入れ替わりに“毛深き獣”たちが、台車を部屋に持ち込んできた。
台車には、槍に似た機械が搭載されている。
「あれは、変身禁止区域発生装置……!」