Glowly
十万名以上の死者を出した関東大震災の震源地は、鎌倉にも面する相模湾だった。
マグニチュード七・九という強力な地震により、東京の街は壊滅状態に陥った。
ちょうど昼どきだったため、倒壊した建物から次々と火が上がり、街はおよそ四十二時間の長きにわたって炎に包まれた。
西洋風の建物の多かった横浜では、多くの圧死者が出た。数軒のホテルが崩壊して多くの外国人が亡くなり、煉瓦造りの二階建てだった横浜地方裁判所では、所内にいた約百名が圧死した。石造りや煉瓦造りの建造物には耐震性がほぼなく、特に被害が大きかった。
震源地である相模湾沿岸部の被害は、さらに深刻だった。建物の倒壊率が九割を超える地域もあった。
東京と同じく、炎が街を燃やし尽くしたうえ、海沿いでは津波も容赦なく襲いかかり、家屋や被災者をさらっていった。
鎌倉が津波に襲われたのは地震発生から約二十分後で、高さは約十メートルにも達した。
それは高徳院の大仏や倒壊した鶴岡八幡宮の一ノ鳥居にまで及び、海岸には何艇もの漁船が打ち上げられた。
大震災と火災、そして津波は、家屋のほかに役場や学校、鉄道といった公共施設や、神社仏閣をも破壊した。
鎌倉町にあった煉瓦造りの銀行も倒壊し、圧死者や怪我人を出した。
鎌倉警察署の管轄する地区では、五百八十三名の死者と、百五十四名の行方不明者が出た。その惨状は全国にも報道され、多くの支援物資が鎌倉へと届けられた。
町民の努力もあって鎌倉は復興を遂げたが、林立していた別荘の多くは震災後に発生した火災によって焼き払われ、姿を消していった。
なにが起こったのか一切理解できぬまま、知らぬ間にうずくまっていたひかりは、のろのろ身体を起こした。
頭の先から爪先まで、泥やほこりにまみれてざらざらしている。
先ほどまでぱらついていた小雨の作った泥濘が、足袋を土色に染めていた。
気に入りの矢絣の銘仙も薄汚れて、ところどころほつれている。
節々の鈍痛を無視して立ち上がり、辺りを見渡すと、目を疑う光景が広がっていた。
ついさっきまで買い物をしていた店は無残に崩れ落ち、店内を彩っていた商品があたりに散らばっている。
店だけではない。視界に入る全ての建物が無残に倒壊して、砂埃が世界を灰色に染めていた。
建物の崩れる音の合間に、子の泣き叫ぶ声や我が子の名を呼ぶ母親の声、無数の呻き声が聞こえた。
呆然と立ち尽くすひかりの手を掴む者があった。ハナだった。
髪は乱れ、ひかりと同じように全身汚れているが、見たところ怪我はなさそうだった。
「ハ、ハナ。だいじょうぶ? これは一体、なに……?」
「地震です、ひかりさま。早く逃げましょう」
ハナは口早にそう言うと、ひかりの手を取って、小走りに足を動かした。
「逃げるって、どこへ」
ひかりの問いに、ハナは振り向きもせずに答えた。
「高台です。津波が来ます」
損壊した道路は無数の瓦礫で覆われ、足場は最悪だったが、ハナは歩みを緩めなかった。
房総半島出身の彼女は、口伝えで聞かされた津波の恐ろしさを覚えていた。
「つなみ?」
「早く!」
その声と同時に、第二震が発生した。
第一震に勝るとも劣らない揺れは、歩くことはおろか、立つことも許さないほどに強力だった。
ひかりとハナは言葉もなく、抱き合うようにして路上に屈みこんだ。
人々の悲鳴や建物が破壊される音が響き、宙からは瓦礫が降ってくる。
こぶし大の石片がひかりの背を打ったが、不思議と痛みは感じなかった。恐怖に目を見開いて、この揺れはいつおさまるのか、ただそれだけを考えていた。
強烈な余震は数回にわたって大地を震わせ、完膚なきまでに街を叩きのめした。
幸いなことに、ひかりとハナのいた場所まで津波の害は及ばなかったが、損壊した建物からは次々と火があがった。
先ほどまで降っていた小雨のせいで燻るように燃え、煙がもうもうと立ち込めた。
雨の置き土産はそれだけではなかった。そこここにぬかるみを作り、逃げ惑う人々の足をもつれさせた。
数えきれぬほどつまづきながら、ひかりとハナは館を目指して歩いた。
常時であっても、婦女の足で歩きとおすのは困難なほどの距離があるうえ、道路は寸断され、地表は瓦礫で覆われている。それでも必死に歩いた。
途中、何体もの遺体を見た。
いずれもあまりに惨たらしい有様で衝撃を受けたが、徐々に無感覚になっていった。
二人は家屋や遺体の焼ける異臭の漂うなか、なにを見ても立ち止まることなく、一心不乱に足を動かし続けた。
火の手を避け、無数の遺体の脇を通り過ぎ、瓦礫の隙間を無言で歩きとおして、午後四時をまわるころ、ようやく館に辿りついた。
門扉や石垣は無残に崩れ、館は跡形もなく姿を消していた。代わりに無数の瓦礫が積み重なっていた。
「ひ、ひかりさま! ハナさんも! お二人ともご無事でしたか! よ、良かった!」
長く勤める下男の石井良吉が、大声で二人を出迎えた。
良吉は、戸籍上は透や明の父となっている庭師の末弟で、今年で四十五歳になる。
五年前に兄が鬼籍に入った後は、この一家に対し、さらに親身に尽くしてきた。
常ならば気さくで、日焼けした顔に笑みを絶やさない良吉の表情は今、硬く強張っている。両眼は血走ったように赤い。
「良吉さんもご無事で良かったです。奥さまと旦那さまはどちらですか?」
ハナの問いに、良吉は真一文字に口を閉じた。赤い目から、ぽたりと涙がこぼれた。
「お、お父様とお母様は? お怪我など、なさっていないですよね?」
なにか不吉なものの近づく気配に、ひかりは怯えた。どきどきと鼓動を打つたび、吐き気が込み上げてくる。
「どうして何も言わないのですか? お父様とお母様はどちらなの?」
掴みかからんばかりに詰め寄るひかりの両肩に、良吉はそっと両手を置いた。その手は土で汚れ、指先や手のひらには無数の細かい傷がある。
良吉は赤く濡れた目で、視線で庭の隅を見た。大木の下で、そこに瓦礫はひとつもない。
毛布が二枚、広げられていた。
両方とも、その下には、人の身体の大きさと同じくらいの膨らみがあった。
周囲には女中が二名、放心したように座り込んでいる。
ハナは息を呑んだ。
ひかりはよろよろと毛布へと近づいた。
そんなはずはない。そんなはずはない。
そんなことはあり得ないし、あってはならない。
ここへ戻る途中に目にした数多くの遺体を頭から振り払う。あんな恐ろしいことが、父母の身に降りかかるはずがない。
そう言い聞かせながら、毛布の横に屈みこみ、そっとめくる。
浴衣の袖が、まず目に入った。
こんな柄の浴衣を、父は好んで着ていた。なによりも、袖から覗く手の形に見覚えがある。なにかを考える前に全身が震えた。
駄目だ。自分はこれ以上、この毛布をめくることができない。
でもまさか。まさか隣の毛布の下は違う。
そんなわけはない。
ひかりは震える手で、もう一枚の毛布の端を、恐る恐るめくった。
そこには母の顔があった。眠っているのだろうか、両目を固くつむっている。肌の色がいつもと違う。血の気が全く感じられない。
「お、お母様? こんな所で眠っては……」
そう言いながら触れた頬は、はっとするほど冷たい。なにもせずとも汗が滲むほど蒸し暑いのに、なぜ母は冷え切っているのだろう。
ひかりは途方に暮れて、良吉とハナを振り返った。そしてハナの目から涙の溢れる瞬間を見た。両手で口元を覆うようにして、地面に座り込んでいる。
どうして、良吉もハナも泣いたりするのだろう。
戸惑いながら母の顔を見る。土埃や煤で汚れた自分の手と対照的に白い。髪もきちんと撫でつけられていた。
「ひかりさま。申し訳ありませんでした」
座り込んでいた女中の一人がぽつりと言った。もう一人の女中の目から涙が溢れた。
「最初の地震のとき、私どもは咄嗟に外へと出ました。二階の寝室でお休みになっていた旦那さまと奥さまをお助けにあがろうとしたとき、もう一度大きな揺れがありました。館が崩れたのは、その直後です」
これ以上聞きたくない。耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、ひかりは冷たく硬い母の頬をそっと撫でた。
「良吉さんが、お二人を見つけました。旦那さまは、奥さまの上に覆いかぶさるようにしていたそうです。きっとお守りしようと……」
そこまで言うと両手で口を押さえた。言葉の代わりに嗚咽と、大粒の涙が溢れ出す。
ひかりは、もう一枚の毛布に、再び手を掛けた。
母と同じように綺麗に拭き清められた、父の寝顔が現れた。
違う。これは寝顔ではなく死に顔だ。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸の中がよじれるように、激しく痙攣するのを感じた。
慌てて立ち上がり、足早に庭の隅に向かう。
それから屈みこんで、胃の中身を全てもどした。
朝食を摂ってから、ずいぶん時間が経っている。吐くものはほとんど残っておらず、胃液ばかりが出た。
えずきは、吐ききった後も止まらなかった。ひかりはうずくまったまま、苦しそうに何度も身体を震わせた。
「大丈夫ですか、ひかりさま」
愚問と知りつつそう尋ねながら、ハナはひかりに歩み寄り、そっと背をさすった。
大丈夫なはずがないのに、そんな間の抜けた問いかけしか思いつけない自分を嫌悪した。
半生をともにしたみつと、その伴侶の死は、信じられないほどの痛みと喪失感をハナにも与えた。ここにいる使用人たちも、きっと自分と同じだろう。
みな長く仕え、みつと透、それからひかりを、家族のように思っている人たちだ。
特殊な環境にあっても捻じ曲がることなく、精一杯に日々を過ごしていたこの一家を、みな愛していた。
「ハ、ハナ……」
振り返ったひかりは幼子のようだった。土埃で汚れた顔を、涙が濡らしている。
ハナは屈みこむと、がたがた震えるひかりの身体をきつく抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫ですよ、ひかりさま。ハナがおります。ハナはいつまでも、ひかりさまと一緒におりますから」
ひかりはハナに強くしがみつき、大声を上げて泣いた。息が詰まって、何度も咳こんだ。
ハナはそんなひかりをずっと抱きかかえ、背中を撫で続けた。みつがいれば、きっとこうして慰めたであろうと思いながら。
斎藤診療所に住みこんでいる書生が館に着いたのは、夕暮れ迫る午後五時ごろだった。
女中二人はハナの指示で、それぞれの自宅へと戻っていた。
ひかりはハナにしがみついたまま、虚脱状態に陥っていた。ときたま嗚咽が漏れるが、涙はもうない。ただ目を開いて、ぼんやりと視線を彷徨わせている。
ハナはそんなひかりをずっと抱きしめていた。
その様子を心配そうに見守っていた良吉は、書生に気付くと大股で歩み寄った。
「わざわざ来て下さったのですか。ありがとうございます。診療所はどうなりましたか」
「全壊です。怪我人もなく、みな無事だったのが、不幸中の幸いでした。先生が、こちらのご様子を心配されているのですが……」
そう言いながら、辺りの様子に目をやる。何が起こったのか察した書生は、ゆっくりと顔を強張らせた。
目線で良吉に問い掛け、頷きを返されると沈痛な面持ちになった。
多くの患者を抱える斎藤診療所だが、透は産まれたばかりの頃からかかっていた。ずっと診てきた斎藤医師にとって、思い入れの深い患者だった。
診療所の職員や書生も、この一家を気にかけていた。
「とにかく、ここにいてはいけません。夜になれば気温が下がるし、余震もまだまだ続きそうです。一緒に来て下さい」
「どこへ行くのです」
「御用邸が開放されていて、皆そこに避難しております。どこからかテントが持ち込まれていますし、ここより凌ぎやすいでしょう。完全に日が落ちる前に参りましょう」
そう言って、ハナとひかりを見た。
「ひかりさま。歩けますか?」
会話の一部始終を聞いていたハナは、幼子に語りかけるように優しく尋ねた。
ひかりは呆然と首を振った。
「歩けないのなら、良吉さんに背負っていただきますか」
ひかりが何事か呟いた。
「え?」
泣き叫んで嗄れた声は聞き取りづらく、ハナはひかりの顔を覗きこんだ。
「お父様と、お母様は?」
表情のない顔と声だった。ハナは胸を突かれる思いだった。
「……あとで、迎えに参りましょう。さあ、参りますよ。ひかりさまに何かあったらハナは、奥さまに顔向けできません」
みつを残していくのはハナとて心苦しいが、遺体を担いで山を下りるのは不可能だ。心の中でみつと透に手を合わせながら、ハナはひかりの手を掴んだ。
「厭です。お父様とお母様を置いてはいけません。わたくしはずっと、ここにおります」
ひかりは宙に視線を定めたまま、淡々と応じた。普段の闊達な姿からは想像もつかない、呆然自失の態だった。
「ここは危険です。斎藤先生も、心配しておいでだそうですよ」
ハナはゆっくりした口調で、ひかりを説得した。
「わたくしは参りません。ここに残ります」
「ひかりさま!」
あまりに頑なな様子に、ハナは声を上げた。
ひかりの心中は察するに余りあるが、だからといってここに残していけるわけもない。
「そして、お父様とお母様のいる場所へと参ります」
そう言って自分を見上げる焦点の定まらないその眼に、ハナは背筋が冷えるのを感じた。
ここに着くまで、数多くの遺体を目にした。
目を開けたまま亡くなっている人も、何名もいた。今のひかりの眼は、そんな人々を想起させた。
このままではいけない。
このままでは愛すべきこの娘は、死の淵へと引きずり込まれてしまう。
そう思った瞬間、手を上げていた。
今まで幾度となくひかりを叱ってきたが、手を上げたことなど一度もない。
しかし今のハナは、そうせずにはいられないほどに追いつめられていた。
強く頬を叩かれたひかりは、驚いたようにハナを見た。
先ほどまで感じられなかった感情の気配に安堵しつつも、ハナはひかりを睨みつけた。
「なんて情けない! 今のご様子を奥さまがご覧になったら、どれほど心配なさるか、そんなこともお解りにならないのですか! ひかりさまが後を追うことをお喜びになるなど、本気で思ってらっしゃるのですか!」
ハナの言葉を受けて、ひかりの眼に少しずつ光が戻ってきた。
「生きるのです。お辛いのはわかります。それでも死んではなりません。今のひかりさまが奥さまと旦那さまのためにできることは、ただそれだけです。生きるのです」
口調を和らげて、ハナはそう言い聞かせた。
「……でも」
それ以上の言葉を思いつけず、ひかりは黙ってハナを見上げた。
「納得されていなくとも、お父様やお母様から引き離すハナをお嫌いになっても構いません。恨み言なら、あとでたっぷり伺います。ですから、さあ。早く参りましょう」
ハナの懇願に、ひかりは痛みをこらえるようにきつく目をつむり、深々と息をついた。
「ひかりさま」
ハナの呼びかけに、ゆっくりと目をひらく。
ひかりの大きな瞳に感情が満ちているのを、ハナは見た。
それは天真爛漫なひかりに似つかわしくない悲哀と諦めだったが、先ほどまでの死を予感させる眼と比べれば、遙かにマシだった。
ひかりはのろのろ立ち上がり、重い足取りで、ゆっくりと歩き始めた。
その日、御用邸には皇族は滞在しておらず、人的な被害はほとんど出なかった。建物はおよそ全壊だった。
震災直後に御用邸は開放され、鎌倉警察の巡査たちが敷地内に三十張ほどのテントを運びこんで次々に設置した。
余震の続くなか、三百名を越える被災者が続々と避難してきて、身を寄せ合いながら不安な夜を過ごした。
そんな中、町医者や軍医たちは、組織立って負傷した避難民の手当てや世話をしていた。
斎藤医師も怪我人の治療に忙殺されていた。医療器具などなきに等しいが、できる限りの手は尽くした。
老骨に鞭打つように次から次へと診ていたが、夜半に入ってようやく手が空いた。
地面に座って、炊き出された塩むすびを食べ終えるころ、使いに出した書生の姿をみとめた。医師は咀嚼しながら立ち上がった。
その傍にひかりやハナ、下男の良吉の姿を見てとって安堵する。しかし、透とみつの姿はそこになかった。
ひかりの顔つきで、医師は全てを察した。
これほどの災害に遭遇した上、長い道のりを歩き通したのだから、疲弊し、憔悴するのは当たり前だ。
しかし、こんなひかりは初めてだった。
心の中身を全て落としてきたような、表情の欠落した彼女を見ていると、痛ましさに胸が締めつけられた。
「先生、お連れしました」
書生は長い道行きにも疲れをみせずに、溌溂としている。
「ああ。ご苦労だったな。少し休みなさい」
医師のねぎらいに書生はぺこりと頭を下げ、避難民の合間を縫うように喜久のいるテントへと歩いて行った。
「お怪我はありませんか、ひかりさん」
医師の声に、ひかりはぎこちなく頷いた。いつもなら聞こえるはずの、少女らしく澄んだ明るい声はない。
代わりにハナが礼を述べた。
「ご心配いただき、ありがとうございました。お恥ずかしい話ですが、私どもだけでは、どうすべきかわかりませんでした」
ハナがみつとともに鎌倉へと越してきたのは、もう十五年も昔のことだ。医師とも長い付き合いになる。
「無理もありません。こんな非常事態です。ましてやあの山奥では、色々と立ちゆかないこともあるでしょう」
医師はそう言いながら、確かめるように目線でハナに尋ねる。ハナは小さく頷いた。医師の目にも悲しみが浮かんだ。
「ご無事でなによりです。お互い、大変な目にあいましたね」
やや巻き舌の歯切れの良い声に、ハナは振り返った。
こんな状況にあっても、喜久はきりっとしている。真っ直ぐひかりに歩み寄ると、そっとその手を取った。
「すっかり汚れてしまいましたね。私どもが使わせてもらっているテントに、お湯を用意してあります。たらい一杯しかありませんが、身体を清めるには充分です」
そう言って、ひかりの手を引く。
喜久の優しい心遣いに、ハナは感謝の眼差しを向けた。ハナの視線を受けた喜久は、黙って微笑んだ。
ひかりは一言も口にすることなく、手を引かれるまま、喜久についていった。
テントは小ぶりだったが、診療所の看護婦二名と、負傷した女性二名を収容してなお、わずかな余裕があった。
豆ランプがひとつ置かれて、テント内を淡く照らしている。
怪我人の一名は右腕と肋骨を骨折するという重傷で、もう一名は両腕に軽傷を負っただけだが、産み月に入っていた。今はどちらも目を閉じて、静かに身体を休めている。
「さ、そこにお掛けなさい」
ひかりは素直に従い、地面に座った。
なにも考えられず、言われるままに動くことしかできなかった。
ひかりを知る看護婦たちは、その様子に驚きを隠せなかった。
はきはき喋り、よく笑い、弾む足取りで歩く、いつものひかりはそこにない。
みつと透の不幸を書生から聞いていなければ、何ごとが起こったか訝しんだことだろう。
喜久は湯に浸した手拭いをぎゅっと絞り、ひかりの顔や腕を丁寧に清めていった。
瓦礫の中を歩いたためか、膝下や足の先に細かい傷や痣がたくさんあったけれど、幸いにして大きな怪我はないようだった。
問題は心だった。
ひかりは依然として口を開くことも自発的に動くこともなく、人形のようにただ茫然と座り込んでいる。
無理もないことと喜久は思った。ひかりがいかに両親から愛され、両親を愛していたのか知っていた。
おおよその汚れを拭き取ると、喜久はひかりに白湯を与えた。ひかりは茶碗を拒むように身を強張らせていたので、くちびるにあてて飲ませた。
「なにか召し上がりますか? と言っても、炊き出されたお握りしかありませんが」
喜久の問いかけに、ひかりはぎこちなく首を振った。
「そんなら少しお休みなさい。こんな場所では眠りづらいでしょうが、夜露はしのげます」
ひかりの身体を支えるようにして横たえると、喜久はそっと毛布を掛けた。
ひかりは相変わらず、なされるがままだった。
横になっても暫く目を見開いていたが、やがてゆっくり閉じて、静かな寝息をたてはじめた。
耐えがたい現実から逃れるように、ひかりは丸々一昼夜、昏々と眠った。
大きな余震が何度も発生したが、一度も目を覚まさなかった。
死んでいるのではないかと案じた医師が、何度も様子を見に来るほど身じろぎもせず、ただただ眠り続けていた。
ようやく目を覚ましたのは九月三日の昼過ぎだった。
喜久や看護婦は避難民の世話に奔走しており、テントの中にいたのはずっと付き添っていたハナと、負傷した女性二名のみだった。
ぽっかり開いたひかりの目に気付いたハナは息を呑み、それからそっと声をかけた。
「ひかりさま? 痛いところはありませんか」
ひかりは微かにくちびるを動したが、乾ききった喉からは掠れ声すら出ない。
ハナが湯呑みに湯冷ましを入れて渡すと、ぎこちなく受け取って一口飲んだ。
「身体の、節々が痛いわ。とくに腰が痛い」
まだ目が覚めきっていないようで、ぼんやりとした声だった。
「ずっと横になっておられたから、仕方がありません。少し体を動かせば、腰の痛みは治まるでしょう。他には?」
ハナの問いに、ひかりは身体を起こすと、ゆっくり肩を回し、背を伸ばした。日頃の彼女からすると、かなり緩慢な動きだった。
「たぶん平気だと思うわ。ねぇ、ハナ」
「はい」
「ここは、どこ?」
「御用邸です。……ここに来たのは、覚えておいでですか」
ハナは慎重に問い返した。
ここを訪れた経緯と両親の死は、密接に結びついている。両親を失い、悲しみにくれるひかりを、忘れることなどできない。
後を追ってしまうのではないかという恐怖が、今も胸に巣食ったまま離れなかった。
「そう。やっぱりあれは、夢じゃなかったのね。お父様とお母様は、もういないのね」
冷静な口調だった。あまりに静かなその声は、ハナを不安にさせた。
かける言葉もなく、黙って白湯を継ぎ足していると、喜久が戻ってきた。
「まぁ、ひかりさん! お目覚めでしたか。具合はいかがです?」
喜久の問いかけに、ひかりは頭を下げた。
「おかげさまで、なんとか。色々と、ご迷惑をお掛けしました」
ひかりの落ち着き払った様子に、喜久も違和感を覚えた。
被災前の闊達さが鳴りを潜めるのは当然としても、ひかりがこれほどまで感情を表さないのは不自然だった。
悲しみに心を閉ざしていた姿は痛々しかったが、まだしも自然ではあった。
目覚めた後も、ひかりは蒸し暑いテントから一歩も出ず、ただ座り込んでいた。
辛うじて水だけは口にしたが、差し出される食べ物は、首を振って拒んだ。
水分さえ摂れていれば差し当たりは大丈夫だろうという斎藤医師の判断で、ハナも食事を強要しなかった。
ひかりはじっとテントに閉じこもり、ほとんど動かずにすごした。
話しかけられれば最小限の言葉で応じるが、それ以外は喋ることなく、座り込んで俯いていた。
ほんの数日でみるみる痩せて、ふくよかだった頬はこけた。身体は、ひと回り小さくなったようだった。昏い色を湛えた眼だけが、異様に大きくなった。
ひかりの口をこじ開けて食べ物を押し込みたいという衝動に、ハナは何度も駆られたが、なんとか踏みとどまった。
無理強いしたところで、ひかり自身が気力と食思を取り戻さなければ意味がない。
この状況がさらに続くようであれば、どんな強引な手段も辞さないが、ぎりぎりのことろまでは斎藤医師の判断に従おうと思った。
地震から五日経った九月六日の昼過ぎも、ひかりはテントの中で、ぼんやりと宙を眺めていた。
テント内にいるのは、ひかりとハナ、それから妊婦だけだった。骨折した女性は、家族に引き取られていた。
斎藤医師や看護婦は、鎌倉町医師会によって結成された救護団に加わり、町内の民家や避難所を飛び回っていた。
喜久や書生たちは、怪我人や病人の世話のほか、炊き出しなどの雑事にも追われていた。
鉄道などの交通網が破壊されたため、食糧の調達は困難となったが、様々な人々の尽力で、配給はなんとか滞らず行われていた。
震災直後は町内の米屋から提供された米を使っていたが、その後は海軍から割譲された糧食や県からの無料配給もあり、食料は徐々に行きわたるようになった。
炊き出し以外にも、三百数十名もの避難民に対して、なすべきことはきりがなかった。
それでもひかりを気にかけて、喜久は合間をみてはテントを覗き、声をかけていた。
「ひかりさん、今日はいい天気ですよ。少し外の空気を吸ってみませんか」
今も炊き出しの合間に戻り、ひかりに話しかけていた。ひかりは黙って首を振った。
喜久がさらになにか言おうと口を開きかけたとき、テント内の妊婦が呻いた。
皆の視線が妊婦へ集まった。
「どうしたの?」
喜久が素早く近寄ると、妊婦は呻き声の合間に囁いた。
「あ、あの、なにか変な感じです。お腹が痛いのと、その……」
言いかけて、悲鳴のような声を上げる。ハナも妊婦に近づいた。
「破水しているようです」
そう言いながら、喜久を見る。テント内に緊張が走った。追い打ちをかけるように、妊婦が再び声を上げた。
「ハナさん。お使い立てして申し訳ありませんが、外に行って、できるだけたくさん湯を沸かしてきてください。ひかりさま、動けますか?」
「は、はい」
「では、うちの人か看護婦を探して、呼んできていただけますか」
「わかりました」
ひかりは短く応じた。
ハナとひかりは同時に立ちあがってテントを出た。
「ひかりさま。歩けますか?」
「ええ」
案じ顔のハナに、ひかりはしっかりと頷いた。相変わらず表情のない顔だったけれど、その眼には意志が窺えた。
ハナは頷き返すと、炊事場へと足早に向かっていった。
久々に浴びる陽光はまるで突き刺さるようで、ひかりは目線を落とした。
身体のふらつきを感じたが、歩けないほどではない。目をしばかせながら避難民の間をすり抜け、医師や看護婦の姿を探した。
こうして歩いていても、夢の中にいるようで、意識は掴みどころなく頼りない。
目に映るもの全てが薄い膜に遮られている気がして、どこか現実味がなかった。
ふわふわとした足取りで歩きながら、自分は一体どうしてしまったのだろうと自問した。
父母が圧死してしまったのは、悲しいけれど、無理からぬことだ。
あの館が建てられたのは数十年も前のことで、手入れはされていても、ところどころが古びてきていた。
一人きりになってしまった今となっては、自分の身は自分でなんとかしなければならない。ハナや喜久に、これ以上の心配や迷惑もかけられない。
一刻も早く、元通りの自分に戻らなければ。
頭ではそう思っても、心や身体が付いてこない。
なぜ父と母が命を落とさねばならなかったのか、どうしても理解できない。考えると涙が出るので、思考を止めた。
こうなってみて初めて、自分がいかに大切に父母から庇護されていたのか思い知った。
楽しくも場違いな女学校生活も、胸が破れるほどの大失恋も、父母の元に戻れば自然と癒された。
皮肉な口調で、からかうように自分を慰める父や、どんな小さな変化も見逃さない母の深い愛情に気付かされた。
どんな自分でも無条件に愛し、守ってくれる人がいるのは、決して当たり前のことではなかった。
失ったのは両親だけではない。
幸せだった日々や、これから訪れると信じていた未来、これまでの自分を作り上げてきた全てだった。
幸福な日常は、一瞬にして叩き壊された。この先たった一人でどうやって生きていけばいいのか、見当もつかない。
無力感が胸を占めている。父母の元にいきたいという願いが、心にまとわりついて離れない。
それは難しいことではなかった。建物に押し潰されなくとも、食べなければ人は死ぬ。
このままずっと食べ物を受け付けずにいれば、遠からず願いは叶うだろう。
自分が消えてしまえば、これ以上、ハナや喜久を煩わすこともなくなるはずだ。
そこまで考えて、昏い淵に引きずり込まれそうになっていることに気付いた。
嘆き悲しみ、思い悩むのは、助けを求める妊婦のいる今でなくてもよい。
ひかりはぶるんと頭を振り、改めて医師と看護婦を探しはじめた。
どれだけ探しても、医師や看護師の姿は見当たらない。付近の民家かどこかへと赴いているようだった。
代わりに女学校の友人たちや、美代の母に行きあった。
ひかりは言葉少なに先を急ぐことを告げ、再会を喜ぶ人たちから離れていった。
自分はもう、あの人たちが知っていたひかりではない。どういうふうに喋って、どうやって笑っていたのか、思い出せない。
医師を探すことを諦めてテントに戻ると、湯を張ったたらいを運ぶハナとぶつかりそうになった。
「ひかりさま。先生は?」
「いなかったわ。看護婦さんたちも、外に行かれているみたい」
「そうですか」
ハナの嘆息をかき消すように、テントの中から悲鳴が漏れた。ついで喜久の声がした。
「ひかりさん? ちょっと手をお借りしてもいいですか」
ひかりは少し戸惑ったが、テントに手をかけて、するりと中に入った。
テント内にいるのは妊婦と喜久だけだった。
喜久はきりりと襷をかけて、甲斐甲斐しく妊婦の世話をしている。
「私が子どもを取り上げます。ひかりさんは、この人の手を握って励ましてください」
顔も上げずに指示する喜久に従って、ひかりは妊婦の枕元にまわりこんで座った。
胸の上で固く組んだ妊婦の手にそっと触れ、握り合わさった指をほどく。
代わりに自分の手指を両手のひらに絡めるようにして握り、両腕をやわらかく折り曲げさせて身体の両脇に置いた。妊婦の手のひらは湿って、首筋も汗に濡れている。
少し腰を浮かせ、前かがみになって妊婦の顔を見る。額には脂汗がびっしりと浮き、眉の間には深い皺が刻まれている。
見るからに苦しそうな姿を前にし、母もこんなに大変な思いをして自分を産んだのかと、ひかりは思った。
「辛いでしょうが、もう少しですよ。もう少しすれば、赤ちゃんに会えますからね」
喜久の励ましを耳にしながら、ひかりは握る手に力をこめた。
なにか言わねばと思っても、この状況で、どうやって励ませばいいのかわからない。
ふいに、妊婦がなにか呟いた。
「なにか、おっしゃいましたか?」
訊きかえすと、妊婦は涙目でひかりを見上げた。
「だけど、もう、うちの人に会わせてあげることはできないのに……」
ひかりははっとした。
自分の両親と同じく、彼女の良人も、この災禍に呑み込まれてしまったということを、うっすらと思い出した。
「い、いっそのこと、あたしも赤ちゃんも、あのとき一緒に死んでしまえば良かった。そ、そうすれば……」
妊婦の両目から涙が溢れて、汗と混じりあう。それ以上の言葉はなく、代わりに嗚咽が漏れた。
「そんなこと、おっしゃらないで」
考える前に口が動いていた。
「生きてさえいれば、いつかきっと良いことがあります。どんな物事にだって必ず、良いことがあるのです。あなたのお辛いお気持ちは、よくわかります。ですが、生きなければ。赤ちゃんとともに生きて、生き抜いて、どうぞお幸せになって下さい」
妊婦に目を注いでいた喜久が、驚いたようにひかりをちらりと見た。
言ったひかり本人が、一番驚いていた。
自分のどこにこんな言葉があったかと訝しみ、遠い日に父から与えられたものだったことを思い出した。
あるいは亡き父が、自分の口を借りたのかもしれなかった。
父の言葉は、そして父の生きた証は、今もここに、自分の心の中に確かにある。
自分の生きている限り、父と母が消えることはない。それが、はっきりとわかった。
大粒のしずくが妊婦の頬にかかって、初めて自分が泣いていると知った。
涙を拭おうとして、強く手を握っていたことに気付いた。
妊婦は、喪った哀しみと産み出す痛みのさなかで、心を揺さぶられるのを感じた。
彼女の知るひかりは生ける屍のような姿だけだ。
両親を亡くし、打ちひしがれていたむすめの口からこぼれた希望の言葉には、無視できない重みがある。
「もう一回がんばって! いきむんですよ! ほら! 頭が出てきていますよ!」
喜久の励ましに応じるかのように、妊婦は声を絞り出しつつ、身を震わせた。
赤子の泣き声が響き渡ったのは、その直後だった。
建物の崩落する音や、人々の悲哀の合間に咲いた新しい生命の声は、暗闇に差し込む光のようだった。
ひかりは全身の力が抜けるのを感じた。
そっと手をほどくと、テントの壁に寄り掛かるようにして、へなへなとへたり込む。
そんなひかりに、喜久が微笑みかけた。
「お疲れ様でした、ひかりさん。よい励ましでしたよ」
ひかりは力なく頭を振った。なにもしていないのに、おそろしく疲れていた。
産声を聞いたハナは、たらいを手に、テントへと入ってきた。
「まあ、愛らしい。それに、なんて可愛い声でしょう」
そう言って相好を崩した。
震災後、ずっと眉を曇らせていたハナが、久々に浮かべた笑みだった。
喜久はたらいに指を入れて温度を確かめてから、赤子をそっと浸からせた。
「ほんとうに。可愛い女のお子さんですよ。あなたもご覧なさい」
荒い息で横たわっていた女は、わずかに顔を上げた。
「あ、あたしの赤ちゃん……?」
「そうですよ。抱いてみますか」
喜久は清潔な手拭いで赤子の身体を手早く拭くと、木綿のおくるみにくるんだ。
女は半身を起して手を伸ばした。
壊れ物を扱うような優しい手つきで、喜久は妊婦の胸に赤子を抱かせる。
「ああ、あたしの赤ちゃん。あたしと、あの人の……」
それ以上は声にならないようだった。
身を震わせながら赤子を抱きしめる女の顔は汗と涙にまみれ、紅潮しきっている。
今まで見た誰より、どんな表情よりも美しいとひかりは思った。
ひかりは産声と祝福で満ちるテントからふらりと出て、空を見上げた。
晩夏の太陽から、まばゆい光が燦々と降り注いでいる。
あの空の上から、父や、自分を産み出してくれた母が見守っていてくれると感じるのは、あまりに感傷的すぎるだろうか。
そんなことを考えながら、ひかりは目の淵に涙を滲ませながら蒼天を見上げた。
瞳の奥に、光彩が弾けては消えていった。
その日を境に、ひかりは喜久や看護婦たちを手伝いはじめ、食事を摂るようになった。
そのころには、御用邸へ避難してきた人々は四百名近くにまで及び、ハナもその世話に追われていた。
ひかりはおもに、新たに母となった女性のそばにいて、こまごまと雑事をしていた。
数日に渡って同じテントですごしてきたのに、彼女の名が和子であると知ったのは、出産後のことだ。
幸いなことに、和子は産後の肥立ちが良い。
今は授乳を終え、穏やかな顔つきで、抱きかかえた愛し児を見下ろしている。
「和子さん。お身体を拭きましょうか」
濡れ手拭いを手に、ひかりは和子に尋ねた。
日の光は遮られていても、空気の通らないテント内は、じっとりと蒸し暑かった。ただ座っていても、汗が染み出てくる。
「ええ。あ、いえ、先にこの子を拭いてあげてもいいかしら」
「もちろんです」
和子はひかりの手から濡れ手拭いを受け取り、優しい手つきで我が子の身体を拭いた。
やわらかい光の中で、母子は幸せに満ちた空気を放っている。
「この子の名前、どうしようかしら」
ふと漏れた呟きに、ひかりは首を傾げた。
「まだ、決めてらっしゃらなかったのですか」
和子は、赤子の身体を木綿の布にくるみながら静かに答えた。
「うちの人が、産まれた子の顔を見てから決めると言っていて。それなのに、顔を見る前に逝ってしまうものだから……」
ひかりは頭を垂れた。
「申し訳ありません。無神経に、お辛いことを訊いてしまいました」
和子は顔を上げ、子を抱えていないほうの手を、ひかりの手のひらに重ねた。
ひかりも顔を上げた。優しく、慈愛に満ちた視線に突き当たった。
「いいえ、いいのよ。不思議なんだけど、この子を見ていると、あの人を傍に感じるの。それに、この子を育てていかなきゃいけないのに、いつまでもめそめそしていられないわ」
そう言うと、にっこり笑った。
力強く確かな、暖かな笑みだった。
「落ち着いたら、この子を連れて郷に帰るつもりよ。それまでに名を付けてあげないと」
「そうですね」
ひかりは微かに口角をあげた。
笑うことなど忘れたつもりだったのに、顔の筋はきちんと覚えているようだった。
「ひかりさま? 今、よろしいですか?」
和んだ空気に、ハナの声が差し込んだ。
「ええ」
ひかりの返答と同時に、ハナが入ってきた。
「重文様が見えました」
「え?」
思いもかけないことだった。
ひかりは弾かれたように立ちあがり、急いでテントから出た。数メートル先の叔父の姿に瞠目する。
鉄道が分断されていることは、喜久から聞き及んでいた。
「叔父さま。どうやってここへ」
重文はいつもどおりの穏やかな顔つきだったが、その目には隠しようもない哀しみが映っていた。
「鉄道で来たよ。昨日までは軍艦を乗り継がなければならなかったが、ようやく今日になって、鉄道が全面復旧したからね」
答えながら重文は、げっそり痩せた姪の姿に衝撃を受けた。
えくぼの似合うふっくらした頬も、心と直結するように感情豊かな眼も、そこにはない。
「軍艦?」
今のひかりは、研ぎ澄まされた輪郭の上に奇妙なほど静かな表情を浮かべて、かすかに首を傾げるのみだ。
「ああ。海軍が人民の輸送を行っていたんだ」
海軍の艦艇は、震災直後から被災者の輸送にあたっていた。
壊滅状態に陥っていた鉄道も、陸軍工兵隊の夜を徹しての作業の甲斐あり、九月八日には品川~大船間、九日には大船~鎌倉間が開通していた。
「わたくしがここにいると、よくおわかりになりましたね」
ひかりの疑問に、重文は事もなげに応じた。
「館に行ったら、良吉さんが片付けをしていて、ここにいると教えてくれた。そのとき、話は聞いた。大変だったな」
短くとも労わりのこもった言葉に、ひかりは俯いた。
この非常事態のさなかでは、東京から鎌倉まで訪れるだけでも大変だったことは想像に難くない。そのうえ山を登って館まで行ったという。
さぞ疲れただろうに、そんな様子は気振りにも出さない。
父母や自分のために、家従や供も連れず、一人で鎌倉まで足を運んでくれた叔父に感謝した。そして、父母に会わせられないことを心から悔いた。
「わたくし一人が、おめおめと生き残ってしまいました。外出などしなければ、お助けすることができたやもしれないのに……」
重文は手を伸ばし、ひかりの肩に置いた。
「そんな風に自分を責めるのはよしなさい。人は誰しも全能ではないし、なにが起こるかなど、知りようもないのだから」
真摯な眼差しでそう言うと、手のひらをひかりの頭にぽんと置いた。
「それに、君は一人ではないよ。私がいる。いず美も君を案じているし、さやかとしづかも君を助けに行きたいと言ってきかなかった」
「では、皆さまは……?」
「ああ、無事だ。屋敷はほとんど壊れなかったし、みな怪我なく、元気にしているよ」
「なによりのことです」
ひかりは胸を撫で下ろした。このうえ叔父一家にまでなにかあったとしたら、もう耐えられない。
「とりあえず、私の家に来なさい。先のことは、これからゆっくり考えればいい」
叔父の申し出に、ひかりはかぶりを振った。ここを訪れてくれただけで充分だった。
重文は眉根を寄せた。
「なぜだね?」
「わたくしは、色々な人を煩わせてしまいました。この上さらに叔父さまにまで、ご迷惑をかけたくありません」
「馬鹿なことを。そんなふうに考える必要は全くない」
ひかりの細い声をかき消すような、重文にしては珍しく大きな声だった。
「君はまだ子どもだ。誰かが面倒をみるのは当然だろう。それに、私が君を放っておけると思うか。君は、私がそんな人間だと思っていたのか」
そう言うと、少し声を落とした。
「みつや透兄さんになにもできなかったのは、私も同じだ。時を巻き戻せるのならなんでもしよう。そうできない以上、せめて君の面倒くらい見させてほしい。それが、私にできるせめてものことだ」
叔父の目尻に光るものに気付いて、ひかりは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「叔父さま。ありがとうございます」
迷惑をかけるのは心苦しいが、叔父の好意を無下にはできない。当面の間、三田の屋敷に身を寄せることを決めた。
「鉄道は復旧したが、汽車は混み合っている。できるだけ早くここを出よう。なにか支度はあるかな」
重文は右手で自らの顔をさりげなくこすって涙を拭いながら、ひかりに尋ねた。
「いえ、とくには」
震災で全てを失ってしまったので、荷造りの必要はない。持っていけるものは、この身ひとつだけだ。
「あの、旦那様。わたくしもご一緒してもよろしいでしょうか」
ずっとひかりのそばに控えていたハナが、遠慮がちに尋ねた。重文は鷹揚に頷いた。
「おお、もちろんだとも。ハナがいれば、ひかりも心強いだろう」
「ありがとう存じます」
ハナは深々と頭を下げた。
「汽車は何時ごろ出るのでしょうか」
頭を上げながら重ねて問うハナに、重文は首を傾げた。
「さて。この非常時だから、定刻通りには動かないだろうが。なぜだね」
「いったん館へ戻りたいのです。しばらくは戻れないでしょうから、良吉さんにご挨拶をしていかないと」
もっともなことだった。良吉は今も、館の瓦礫を片づけているはずだ。
「叔父さま。わたくしも館に戻ってもよろしいでしょうか。良吉さんにお礼を申し上げたいのです」
そして父と母に、しばしの別れを告げてこなければ。そう思ったが、それは言葉にできなかった。
みつと透は、良吉の手配によって、すでに荼毘に付されていた。
気鬱に襲われてその場に立ち会えなかったひかりは、心から良吉に感謝していた。彼がいなければ、どうすることもできなかった。
重文は金の懐中時計を取り出して眺めた。文字盤は午前十一時を指している。
しばらく考え込んだ後、重文は口を開いた。
「今は午前十一時だが、午後三時までに鎌倉駅に来られそうかな」
ハナは宙を見上げて思案し、それから頷いた。四時間もあればなんとかなるだろう。
「ええ。間に合うと思います」
「わかった。では午後三時に鎌倉駅で会おう。私はそれまで、鎌倉にいる知己の消息を調べている」
古都鎌倉は上流階級の別荘地でもあり、この地を気に入って住みつく者もいた。重文の知人にも、ここに居を構えているものが数名いる。彼らの安否も気にかかっていた。
「かしこまりました。重文様には様々なお手数をお掛けして、大変申し訳ありません」
ハナは再び深く頭を下げた。ひかりもそれにならった。重文は無言でかぶりを振った。
重文とひかりが話している最中に、喜久がテントに戻ってきた。重文は姪が世話になった礼を丁重に述べ、引き取る旨を伝えた。
「まぁ、そうですか。寂しくなりますが、ひかりさんにとってはそのほうが宜しいのでしょうね」
そう言ってひかりに手を伸ばすと、両腕を優しくさすった。
「辛いこともあるでしょうが、ひかりさんなら絶対に乗り越えられます。なにかあったら、いつでも鎌倉においでなさい」
「ありがとう存じます。本当に、色々とご面倒をおかけして、申し訳ありませんでした。先生にお礼を申し上げることもできぬまま、立ち去る無礼をお許しください」
館から鎌倉駅に直行するので、ここに戻ることはもうない。医師は相変わらず、忙しく飛び回っていた。
深々と頭を垂れるひかりに、喜久は明るく笑いかけた。
「落ち着いたら顔を見せに来てくれれば、それでいいんですよ。どうぞ、お元気で」
「ありがとうございます。奥さまも、ご自愛ください」
ひかりは潤んだ目を悟られぬよう、俯いたまま応じた。
テント内の和子にも別れを告げた。
和子は別れを惜しんだが、笑顔で送り出してくれた。
いとまを告げ、テントを出ようとしたひかりを、和子はふいに呼び止めた。
「ねぇ。この子の名前、さっき思いついたの。ひかりさんにあやかって光子。どうかしら」
「みつこ、ですか」
亡き母との名の相似に、ひかりは驚いて振り返った。和子は母の名など知らぬはずだ。
ひかりの胸中など知る由もない和子は、微笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。ひかりのこ、と書いて光子」
ふたたび涙が込み上げるのを感じたが、ひかりは必死にこらえて口角をあげた。
「とても、素敵なお名前と存じます。どうぞ、お身体ご自愛ください」
「ありがとう。あなたも」
「はい」
ハナと並び立って館へ向かう道中、ひかりは和子に与えられたものについて考えていた。
人が人を産み出す瞬間に立ち会わせてもらえた。
そして、命は繋がっているのかもしれないと思わせてくれた。
輪廻転生と言う言葉を思い出した。
命を終えた人間はいつかまた生まれ変わるという、仏教の思想だ。
もしそれが本当だとしたら、いつの日か、父母も再び産まれくるのだろうか。
ひかりは、和子の子が母の生まれ変わりであればと思った。
そして光子の人生が幸せなものであるよう祈った。
ひかりとハナが館に着いたのは、午後一時を少し回った頃だった。
良吉は持参した握り飯を食べ終え、他の下男と瓦礫の片づけを再開しようとしていた。
二人の姿をみとめると驚いたように動きを止め、それから早足で歩み寄ってきた。
「どうなさったのですか?」
尋ねる良吉に、ハナは、しばらくのあいだ三田の屋敷に世話になる旨を伝えた。
「そうですか、本家の旦那様がそんなことを。わかりました。ここは私に任せて、安心して行ってらしてください」
良吉はそう応じてから、ひかりを見た。
数日にして驚くほど痩せた姿は痛ましく、目にするのが辛いほどだった。
ひかりは良吉に頭を下げた。
「良吉さんには、なんとお礼を申し上げればよいか。本当に、本当にありがとうございました」
「とんでもない。どうぞ頭を上げてください」
慌てる良吉に、ひかりは言葉を重ねる。
「しばらく留守を致しますが、落ち着いたら戻って参ります。それまでどうぞ、宜しくお願いいたします」
そう言うと、ようやく顔を上げた。
産まれてから、良吉はずっとひかりを見てきた。天真爛漫だったひかりも、震災直後の悲嘆に暮れるひかりも知っている。
いま目の前に立っているのは、良吉の知らないひかりだった。
見慣れたえくぼは消え、かわりに静かな表情を浮かべている。過酷な体験は、ひかりを変えてしまったようだった。
良吉は、ひかりの屈託のない笑顔を思い出して、いつかまた見られるよう願った。
「ひかりさま。そろそろ行かなければ」
立ちつくすひかりに、ハナはそっと声をかけた。名残惜しい気持ちはわかるが、重文を待たせるわけにはいかない。
ひかりは崩落した館に目を向けてから、黙って頷いた。
両親を失い、帰る場所はなくなった。
この先どうなるのか、ここに戻ってこられるのかすらわからない。
自分が去ったら父母が寂しがるような気もして、後ろ髪をひかれた。
ずっとここに留まりたいという気持ちや、父母の後を追いたいという秘めた願いは、今も心のどこかに残っている。
それでも、ハナや重文の思いを無にすることはできない。
離れ難い心に逆らって足を踏み出そうとしたとき、ふいに良吉が声をあげた。
「ああそうだ、ひかりさま。少しお待ちください」
そう言い残すと、被害の少なかった蔵へと向かっていく。しばらくして戻った良吉の手には風呂敷包みがあった。ひかりが通学時に使っていた風呂敷だった。
「ひかりさまの持ち物を見つけたので、まとめておきました。明様の絵画も何点かあるのですが、ひかりさまがお戻りになるまで、私が管理させていただいても宜しいですか」
「ええ、もちろんです。お手間をお掛けして、申し訳ありません。なにからなにまで、本当にありがとうございました」
押し頂くようにして風呂敷包みを受け取りながら、ひかりは改めて礼を述べた。
何が入っているのかと、ひかりは屈みこんで風呂敷を地面に置き、結び目をほどいた。
赤い革張りの日記帳がまず目に入った。
この中には幸せだった日々が綴られている。
そう思うと胸が一杯になった。今は失われてしまっても、それは確かに存在したのだ。
他には学用品や裁縫道具の一部、それから銀座で買った粉白粉が入っていた。
父と東京へ行った日を思い出した。
遙か昔のように感じられたが、ほんの一年前のことだった。あのときはこんな未来が訪れるなど、想像だにしなかった。
風呂敷の中身に、祖母から与えられた着物はない。大切にしまいこんでいたことが仇となり、崩れた館と運命を共にしてしまった。
「さ、ひかりさま。そろそろ参りますよ」
ハナに急かされ、風呂敷を結びなおそうとしたとき、裁縫用の裁ちばさみに気が付いた。
武骨なほど大きいそのはさみは切れ味鋭く、厚手の生地でも小気味よく裁断できる。
引きつけられるように、ひかりははさみを手に取った。刃は陽光を受けて鈍く光っている。ある考えが閃いた。
ここに留まることが許されないのなら、せめて一部だけでも父母の元へ残していきたい。
ひかりは重いはさみを右手でしっかり持つと、左手で長いお下げをつかんだ。
ひかりの動きに気付いたハナが、止めるいとまもなかった。
数秒後には長いお下げ髪が二束、ひかりの左手から、くたりと垂れ下がっていた。
「ひ、ひかりさま……。いったい何を……」
ハナは腰を抜かさんばかりだった。
夫と死別した人妻が二夫にまみえずという誓いを立て、髪を切り落として出家することはあったが、未婚の娘が断髪するなど、尋常なことではない。
近年出現したモダンガールなる女性たちも、黒髪を切り落として斬新な化粧を施し、洋装に身を包んだ。
それは男性に頼らず自らの足で立とうという強い意志の表れで、ともすれば周囲から白眼視されがちだった。男性本位の社会に対する挑戦とも受け止められたからだ。
当時の女性たちにとって断髪とは、それほどまでに重大な、意味あることだった。
驚倒せんばかりのハナをかえりみず、ひかりはすっと立ち上がった。目を見開いている良吉に歩み寄り、髪の束を差し出す。
「さらにお手間をかけて申し訳ないのだけれど、これをお父様とお母様の墓所に納めていただけませんか」
ここに来る途中、両親はこの館の建つ山の頂に眠っていると、ハナから聞かされた。
そこには桜の森がある。桜花の咲き乱れる季節、何度も両親と訪れた。ひかりにとって、大切な思い出の地だった。
幸福な記憶の残る森に、自分の欠片を置いていく。そうして、新しい日々を歩き出さなければならない。そう思った。失った黒髪を惜しむ気持ちは、不思議なほど湧いてこなかった。
良吉は絶句しながらも髪の束を受け取って、しっかり頷いた。
ひかりは良吉に対し、深く頭を下げた。
それから館を後にした。一度も振り返らなかった。
甚大な被害をもたらした震災に際しても、鎌倉駅の駅舎は生き延びていた。
それは奇跡によるものではない。ひとえに駅員たちの努力のたまものだった。
彼らは初めて体験する天変地異に怯むことなく、慌てふためく乗客たちを誘導し、傷ついた人々を救助した。
周辺の民家から上がった炎は駅舎にまで飛び火したが、駅員たちの根気強い消火活動によって、類焼は食い止められた。
駅舎の壁は剥落し、窓ガラスは砕け散ったが、死者も重傷者も出さずにすんだのは、統率のとれた駅員たちの働きあってこそだった。
駅舎の前でひかりとハナを待っていた重文は懐中時計を取り出して文字盤を眺めた。
もうじき約束の三時になるが、二人の姿はまだないようだった。
もっとも、駅舎や駅前の広場には、ここから逃れようとする被災民であふれている。そこに紛れている可能性もあった。
重文は目を細め、注意深く人ごみを見た。
駅員によると、次の汽車は三時半頃に発車する見込みとのことだったが、早めに合流するに越したことはない。
目を凝らしてまもなく、見慣れた顔を見つけた。ひかりだった。後ろにハナもいる。
発見できて胸を撫で下ろした直後、姪の変化に気付いた。重文は顎が外れそうなほど口を開いた。
ひかりも重文に気付いて、まっすぐ歩み寄ってくる。
「大変お待たせして申し訳ありませんでした、叔父さま」
重文は慌てて口を閉じた。それからおそるおそる尋ねた。
「い、いや。間に合って何よりだ。ええと、髪は、どうかしたのかね?」
どうかしたも何も、ひと目見れば誰にでもわかる。それでも問わずにいられなかった。
ひかりの髪は、耳の下あたりで、ばっさり切り落とされていた。
「父と母の元へ、残してまいりました」
ひかりの答えに、重文は「そうか」とだけ呟いた。
なにを言うべきかわからなかったので、それ以上触れなかった。
「汽車は三時半ごろ出るそうだ。早めにホームへ行こう」
そう言って駅舎へと歩き出す。
「はい」
ひかりは短く応じて、叔父のあとを付いていった。
被災民を食糧事情や衛生状態の悪い被災地から地方へと分散させるため、鉄道省は鉄道輸送を無賃とする策をとっていた。
被害の大きかった東京市や横浜から地方へと避難する者が大多数で、下りの汽車は恐ろしく混雑した。
乗車するにも、駅の周辺で数日間待機しなければならない線もあったほどだ。
汽車は連結器に至るまで避難民で溢れかえり、屋根に登る者が現れるほどだった。
上りの汽車はそこまでの混雑はなかったものの、身内や知人を案じる人々の他、被害が軽微だった地方から、興味本位で被災地を見に行こうという物見高い人々が上京するという事態が発生した。
ひかりたちは幸いにして席に座ることはできたが、発車直前に飛び乗った者などは、東京までの数時間、ずっと立ったままでいた。
汽車が徐行運転を行ったため、東京駅へと到着したのは夜七時をまわった頃だった。
駅前には難を逃れた人力車と車夫の姿があった。
戦争中にも市が立つように、壊滅的な被害にあっても、このように強かに商売を再開する者もいた。
かつてひかりの訪れた資生堂もそうだった。
震災時に発生した猛火のため、銀座の店は二店舗とも焼失したが、郊外の工場は事なきを得た。
従業員たちは工場に残っていた大量の石鹸を大八車に積み、二人一組で売り歩いた。
物資が欠乏しているうえ、残暑厳しい折のことだ。石鹸は飛ぶように売れ、それが当座の資金となったという。
人力車を使っても、三田の屋敷に到着したのは深夜十時を過ぎた頃だった。従妹のしづかとさやかはとっくに眠っていた。
いず美は不安な面持ちで、夫の帰りを待っていた。
屋敷のある山の手一帯は比較的被害が少なかったといえ、下町を中心に多くの建物が崩れて焼き尽くされ、街は荒れ果てている。
大震災の日、東京は本所にあった日本陸軍に被服類を供給していた施設、被服廠の跡地では、酸鼻を極める光景が広がった。
低気圧の影響で突如吹き荒れた旋風によって瞬く間に火が広がり、避難してきた人々を焼き尽くしたのだ。
地震発生から四時間後、三回に渡って巻き起こった旋風は、震災と同じくらいに強力で破壊的だった。多くの人がつむじ風に巻き上げられ、地面に叩きつけられた。
それからあれよあれよという間に、避難民の持ち込んだ家財や避難民自身に炎が燃え移って、みるみるうちに広がった。
二万坪を越える広大な敷地とはいえ、四万人もの避難民や家財が密集していたため、逃げ出すことなど不可能に等しかった。
諸説あるものの、三万名以上、四万名以下という、にわかには信じ難い数の人間を焼き殺した被服廠跡の火災は、約二時間後の午後六時頃にようやく鎮火した。
前代未聞の惨禍は、人心をも乱した。
中国人や朝鮮人、朝鮮人に間違われた日本人や社会主義者などが、民衆の手によって虐殺された。
夫の無事な戻りを祈るように待っていたいず美は、家従が重文の帰りを告げる声に、急いで立ち上がった。
親しく付き合っているみつや透、ひかりのことも案じていた。何事もないと信じようとしても、被害の大きさを知るにつれて不安は大きくなる。
常にないほどの早足で大玄関に向かったいず美は、重文の後ろに控えているひかりの姿に息を呑んだ。
まず目についたのは無残に断ち切られた黒髪だったが、少女らしくふっくらとした頬の失われた事にも気が付いた。
ひかりのほかは、お供の女中が一名いるだけだ。みつや透の姿はそこにない。
「遅くなったな。さやかとしづかは?」
ある予感に呆然と立ち尽くしていたいず美は、夫の声で我に返った。
「お帰りなさいませ。二人はもう休んでおります。ひかりさん、大変でしたね。お怪我などはないですか」
尋ねながら、みつや透の姿を待つ。二人は現れない。
「はい、お陰さまで。ご迷惑をおかけすることになって、申し訳ありません」
そう言いながら、ひかりは頭を下げた。
「いいえ、そんなこと。それより……」
みつと透はどうしたのか確かめようとして、夫の視線に気づいた。目が合うと、夫は静かに首を振った。
まさか、という驚きと、やはり、という思いが混ざり合って声が出ない。ひかりは頭を垂れたままだ。
「なんですか、その見苦しい髪は」
その場の重い沈黙を破ったのは、凛とした声だった。
いず美は振り返って、そこに姑の姿を見た。いつもならとっくに休んでいるはずの時間だ。
「お、お義母様。どうなさったのですか?」
驚く嫁を無視し、険しいと言っていいほど堅い表情で、八重はひかりを見た。
いったん顔を上げたひかりは、八重の顔に行き当たり、再び頭を下げる。
「おばあ様、申し訳ありません。お借りしていたお着物を、駄目にしてしまいました」
俯くひかりに、八重はつかつか歩み寄った。正面に立って、じっとひかりを見る。
断たれた髪ややつれた頬より、虚ろな瞳が気になった。そこには初対面のときの無垢な笑みも、澄んだ涙も、なにも浮かんでいない。
重文が単身で鎌倉を訪ねると聞かされたのは一昨日の夜のことで、当然のことながら、八重は渋面を浮かべた。
櫻澤伯爵家の当主とあろう者が、なぜそんばことをせねばならぬのかと憤慨すらした。
そのくせ頭をよぎったのは、ひかりの顔だった。
ここに嫁してから長いこと、この顔の持ち主を嫌い抜いてきた。八重にとっては諸悪の根源ともいえるメイ、血の繋がりはなくともメイに酷似したみつ。
重文が連れ帰ってきたのはひかり一人だけのようで、それはある事を示唆していた。
鎌倉にいるあの一家がどうなろうが、知ったことではない。
みつと、みつの夫でもある亡父とメイの間に産まれた不義の子がこの震災で没したのだとしても、悼む理由などなにもない。
それなのにこの胸を占める、重苦しい感情は、一体なんなのだろう。
八重は堅い表情を崩すことなく、黙って自室へ戻っていった。
濡れた長い髪をおろしたひかりが、無邪気な笑顔を浮かべていた日を思い出した。どちらも今では失われてしまったものだった。
自室の扉を閉めながら、八重は我知らず、深いため息を吐いた。
三田の屋敷に身を寄せてからのひかりは、与えられた部屋からほとんど出ることなく、物思いに耽って過ごしていた。
慣れない環境にあって、なすべきことがなかったのもある。
鎌倉の山奥に建っていた、こじんまりした館とは比べようもないほど豪華なこの屋敷では、使用人の数も多い。彼らはあくまで丁重で、儀礼的に接してくる。
良吉や、長く勤めていてくれた女中たちが懐かしかった。ハナがいなければ、ここでの生活はさらに厳しいものとなっただろう。
幼い従妹たちは無邪気に部屋を訪ねてきて、他愛ないお喋りをしていく。
そのときばかりはひかりも眉を開き、幾分柔らかい顔つきになるが、一人になった瞬間に表情は一変する。
過ぎゆく時間を持て余し、出窓に頬杖をついて、日がな一日外を眺めていた。
重文やいず美は、そんなひかりを案じてはいたが、どう接すればいいのかわかりかねた。
そんな日が半月ほど続いたある日のことだった。とき江がひかりを訪ねてきた。
なんの先触れもなく、無遠慮に押しかけた詫びを、とき江はいず美に述べた。
重文は仕事に出かけていた。
彼の営む鉄鋼会社は震災によって被害を被ったものの、工場はなんとか操業できるようだった。
重文がなすべきことはいくらでもあり、身体が幾つあっても足りないほどに多忙だった。
「まぁ、ひかりさんと同じ女学校に。それでは、はるばる鎌倉からいらしたのですか」
対応に出たいず美は、とき江の自己紹介に目を瞠った。とき江は首を振った。
「いいえ。昨年の秋に結婚いたしまして、今は高輪におります」
「そうですか、そんなお近くにいらしたとは。ですが、ひかりさんがここにいることを、どうしてご存じなのですか」
当然の疑問だった。
上流階級という狭い世界においては、秘密などあってないようなものだ。
それでも、ひかりの父で、高名な画家でもある石井明が、前櫻澤伯爵の胤であると知る者は、そう多くない。
特別隠しているわけでもないが、ひかりが櫻澤の縁者なのは、周知の事実ではなかった。
「女学校時代の級友から、お聞きしました」
短い答えに嘘はない。しかし、それだけではなかった。
とき江の住む高輪も、震災の被害はそれほどなく、家族は全員無事だった。実家の祖父母や父も怪我ひとつなかった。
胸を撫で下ろしたとき江が、次に案じたのはひかりだった。
情報が行き届くにつれて、鎌倉の被災状況も明らかになってきた。
鎌倉が「全町悉く泥海と化す」と報道されていると知ったときは、泥濘に嵌って息絶えるひかりを想像し、目の前が暗くなった。
女学校時代の級友や夫の人脈を駆使して、ようやくひかりの安否と居所を突き止めたときには、安堵のあまり涙が出た。それほどまでに案じていた。
いず美の案内で、ひかりの私室の前に辿りついたとき江は、無意識のうちに深く息を吐いていた。思いがけない事態で叶った、久々の再会だ。胸に迫りくるものがあった。
扉を叩く直前、いず美は思い出したように小さな声で囁いた。
「先ほど申し上げるべきでしたが、ひかりさんはこの震災で、ごりょ……お母様を亡くしております。そのためでしょうか、鎌倉を離れる際、ばっさり髪を断ってしまったのです」
とき江は目を見開いた。
ひかりが母を亡くしたことは知っていた。
しかし、髪のことは初耳だった。
「それに、だいぶ気落ちしております。食事もあまり摂れないようで、目方もかなり減ったようです」
そう言うと、いず美は肩を落とした。
「お恥ずかしい話ですが、姪のためになにをしてあげられるのか、わからずにおります。ですから、とき江さん。どうかひかりさんを元気づけてあげて下さいませ」
とき江の知るひかりは、いつでも明るく朗らかで、どんなときも笑顔を浮かべていた。気落ちした姿など、想像すらつかなかった。
「承知いたしました」
それでもとき江は力強く請け負った。
どんなに変わってしまったとしても、ひかりはひかりだと思った。
いず美はほっとしたように笑みを浮かべ、扉を叩いた。
ひかりに与えられたのは、屋敷の中でも特に窓が大きく、日当たりの良い部屋だった。
扉を開けた瞬間、逆光が細い輪郭を描きだす。
「ひかりさま」
とき江の声に、人影は身じろぎした。とき江は吸い込まれるように室内へと踏み込んだ。
いず美は静かに扉を閉めると、そっと立ち去った。
「……とき江さま?」
怪訝そうに問い返す声は、確かにひかりのものだった。耳にした瞬間、古い木造の校舎が脳裏に広がった。
通っていたのはほんの短い時間だったけれど、とき江にとっては思い出深く、大切な場所だった。
そこには無邪気なお喋りに興じる級友や、その中心で弾けるように笑うひかりの姿があった。
妻となり、母となったのに、ひと息に女学生のころへと心が引き戻された。
ずっと会いたいと思っていたのに、なぜか近寄ることができない。
とき江は扉の前に立ち尽くした。ひかりも窓際の椅子に腰かけたまま、動こうとしない。
とき江は目を眇めてひかりを見た。明順応した目が、痩せた顔を映し出す。
髪は耳の下あたりで、ぶっつりと切り取られていた。前もって聞いていなければ、驚きに声をあげていたかもしれない。
「ご無沙汰しております。……お母様のこと、お悔やみ申し上げます」
代わりに悔みの言葉を述べた。ひかりはわずかに首を傾げた。
「なぜ、わたくしがここにいると?」
声も表情も平坦で、女学校にいた頃のひかりとは、まるで違う。
薄化粧すら施さず、笑顔の消えたひかりはよそよそしく、別人のようだった。
「なぜって、探したからですわ。ここにいらっしゃるのなら、知らせて下さればよかったのに。鎌倉からでも、郵便は届くようになっているのですよ」
話しているうち、案じていた気持ちは怒りへと変わった。
自分がどれほど心配していたのか当の本人は全く知らないと思うと腹が立った。
鎌倉郵便局の局舎は震災によって倒壊したが、数名の怪我人を出すに留まり、人死には出なかった。
余震が続くなか、局員たちは不眠不休で復旧作業に励んだ。その甲斐あって、九月十日には郵便物の配達を再開することができた。
郵便業務が再開したのちも、ひかりから無事を知らせる便りは一切なく、とき江は不安を募らせていた。
消息を辿って、ひかりが母を亡くしたと知った。連絡ができなかったのはそのためかと得心した。
とき江自身、幼くして母を病で亡くしている。あのときの喪失感や哀しみは、一生胸の内に残るだろう。
ましてやひかりは、なんの前触れも心の準備もないままに、天災によって奪われたのだ。絶望しても無理もない。
ひかりの辛い気持ちを分かち合えるのは、自分だけだと思った。
それなのに、再会したひかりは、ただ淡々としている。とき江の怒りにも、なにも応えない。黙って見つめ返すだけだ。
感情表現が人一倍豊かで、嬉しいときには全面に喜びを表していたひかりは、哀しみの表現も、ある意味真っ直ぐだった。
許容量を超える事態にどん底まで落ちこんで塞ぎこみ、人が変わるほど苦しんでいる。
とき江は短い髪に目をあてた。
海を見に行った日、目の前を走るひかりのお下げ髪はひらひらなびいて、結んだリボンが蝶々のように弾んでいた。
そんなことを思い出しながら、口を開いた。
「お手紙は随分やり取りしていますが、お会いするのは一年ぶりになりますわね。なんだか、見違えましたわ」
ひかりは目を伏せた。とき江は構わずに続けた。なにを言うべきかわからぬまま、口が動くのに任せた。計算もなにもない、心から湧き出る言葉だった。
「わたくしも、幼いころ母を失いました。ですから、ひかりさまのお辛い気持ちはよくわかります。ですが、いつまでそうなさっておられるのです。ここから一歩も出ず、閉じこもったままで、一生を終えるおつもりですか」
知らず声が高くなったことに気付き、とき江はひとつ息をついた。
悲しみに打ち沈んでいる者を責めても仕方がない。そうわかっていても苛立った。
俯いていたひかりは、とき江から視線を逸らすように、窓の外に目をやった。
「わたくしはもう、とき江さまの知っている石井ひかりではないのかもしれません」
呟く声は低く小さい。
「家族を失っても、わたくしを案じて、引き取ってくれる叔父がおります。幸いなことに怪我を負うこともなく、病も得ておりません。恵まれていることはわかっています。それなのに、何をする気も起きないのです。とき江さまのおっしゃるとおり、ずっとここにいて一生を終えられれば、どれほどよいか」
そこまで言うと、ようやくとき江を見た。
「……鎌倉を離れる前、ふいに思い立って髪を切り落としました。今は家族の墓所に納めてあるはずです。とき江さまが好きだとおっしゃってくれた石井ひかりは、きっとあの髪と一緒に、そこで眠っているのでしょう」
とき江は愕然とした。こんなことを言わせるために、ひかりを探し当てたのではない。
胸中に巻き起こる感情の勢いそのままに、とき江はつかつかとひかりに歩み寄った。
「馬鹿なことおっしゃらないで! あなたはあなたです。なにがあっても、どれほど変わっても。あなたはずっと、わたくしのお慕いする人です」
そう言いながら、ひかりの前に屈みこんで両肩を強く掴む。
記憶にある姿よりぐっと痩せて、顔色は冴えない。
それでも、驚いたように見つめ返す大きな目は、ずっと憧れていた、大切な友のものだった。
「一緒に海へ行った日を、覚えておいでですか? あのときのひかりさまの言葉、忘れたことはありません。どんな事にも必ず良い面があると、見知らぬ男性に嫁ぐ不安で一杯のわたくしに、そうおっしゃったのです。どれほど励まされたことか。きっとひかりさまはご存じないでしょうね」
そう言うと、わずかに口の端を上げた。
「あの日の言葉、そのままお返しいたします。どんな辛い事があっても、その先には必ず良い事があると、わたくしは信じております。信じさせて下さったのは、あなたです」
ひかりは息を呑んだ。父の言葉は、とき江の胸にも息づいていた。
「ひかりさまは、こうもおっしゃっていました。ずっと一生懸命生きていきましょうと。そうしてお友達になりましょうと。一生懸命でなくとも構いません。立ち止まることは誰にでもあるでしょう。ですが、いつかは歩き出さなければ。悲しんで苦しんで、それから楽しいことと出会って、また笑えるように」
切々と訴えかけるとき江を、ひかりはようやくまともに見た。
およそ一年ぶりのとき江は、記憶にあるよりふっくらとしていた。女学生の頃の頑なに張り詰めた雰囲気は、だいぶ和らいでいる。
自分を見つめる目は、心配そうに見開かれていた。
叔父一家の他にも、これほどまでに自分を案じてくれる人がいるなど、想像だにしなかった。
「とき江さま……」
それ以上の言葉が出ず、ひかりはとき江を見つめた。とき江は黙って頷いた。
とき江は、その後も度々ひかりを訪ねた。
滞在するのはいつも一時間にも満たない短い時間だった。長居が過ぎれば迷惑になるし、とき江には家庭がある。
三田と高輪はそう遠くはないが、妻として、また波子の母として、なすべきことは諸々あった。その合間を縫うようにして足を運んだ。
ひかりに変化が現れたのはそれからだ。
食事の量が少しずつ増えた。健啖だったころと比べればそれでも少ないが、必要な量は摂れている。
表情にも、落ち着きが感じられた。以前のような闊達さや朗らかさこそ失われたものの、目に力が戻ってきた。
とき江は、特別なことはなにもしていない。
ただ訪ねてきて、ひかりの傍で話を聞き、それに応じて、一緒にお茶を飲んだだけだ。
会話の内容は女学校の話や、とき江の新しい家族の話、この庭の木々の話など、さしたるものではない。
ひかりが胸の内をぽつりぽつりと口にするようになったのは、しばらく後のことだった。
父親が二人いることや、そのうちの一人を震災で亡くしたことも打ち明けた。
ひかりのどんな話も、とき江は自然に受け入れた。相づちを打ちながら聞いて、ときたま短く感想を述べた。
とき江としては、かつて鎌倉の海岸でしてもらったことを、そのまま返しているだけだった。
あの日のひかりは、自分の言葉をきちんと聞いて、気持ちを受け入れてくれた。
今度は自分の番だった。
ひかりのように上手にできなくとも、自分なりに助けになろう。そう誓っていた。
とき江との何気ない時間が、ひかりの傷んだ心をゆっくりと癒していった。
無秩序に押し込めていた様々な感情を口にすることによって、気持ちの整理がついた。そうして少しずつ自分を取り戻していった。
かつての開けっぴろげな明るさや、豊かな表情は鳴りを潜めても、ときたま笑顔を浮かべるようになった。口数も増えた。
重文やいず美は胸を撫で下ろした。
心から姪を案じていても、どうすべきかわからずにいたが、とき江はただ真っ直ぐぶつかっていった。
ひかりの変化をみて、重文といず美はとき江に感謝の念を抱いた。
同じ思いを抱く者は、どうやらその二名だけではないようだった。
いつものようにひかりを訪ねて、帰宅しようと門扉を出たとき江は、供の女中を引きつれた品の良い老女と行きあった。
家人か訪問客かは分かりかねたが、とき江は淑やかに一礼した。
銀髪をきっちり結い上げ、光沢ある茶鼠の着物を着こなした小柄な老女は、とき江に気付くとぴたりと足を止めた。
とき江をじっと見つめ、口を開こうとして、思い出したように女中に先に行くよう告げた。
二人きりになり、とき江が首を傾げつつ口を開こうとすると、それを制するように老女が言った。
「物好きですね。あんな娘のために」
唐突に投げつけられた言葉に、とき江は一瞬考え込んでしまった。
「あの。あんな娘、とは、ひかりさまのことでしょうか?」
問い返したとき江を、老女は黙って眺めている。とき江の脳裏に閃くものがあった。
「八重さま、でござますか?」
血縁関係のない祖母のことはひかりから聞かされていたし、櫻澤伯爵家のご隠居の噂も、そこここで耳にすることがあった。
とき江の問いに、老女は何も応えない。
急に興味を失くしたように歩き出そうとして、思い出したように呟いた。
「……ご苦労様なことです」
揶揄するようで、謝意のようなものも感じられる言葉だった。とき江は目を丸くした。
それ以上の言葉はなく、老女は優雅な足取りで立ち去っていった。
そのすっと伸びた背を、とき江はぼんやり見送った。
今の老女が八重だとすれば、ひかりのために足繁く訪ねてくる自分に対し、苦情のひとつも出そうなものだ。それなのに、不器用な礼を言われてしまった。
そもそも自分を認知していること自体、ひかりを気にかけている証拠だ。
良く言えば誇り高く、逆に言えば、権高く気難しい人という印象を持っていたが、どうやら実際は少し違うようだった。
それとも、と、とき江は歩き出しながら考えた。櫻澤家のご隠居も自分と同じく、ひかりの雰囲気にあてられてしまったのだろうか。
随分歳上で目上の人なのに、そう想像した途端、親近感を覚える自分が可笑しかった。
とき江の口元に微笑が浮かんだ。
どんな状況にあっても、ひかりは一人ではない。自分と同じように、心からひかりを気にかけている人はたくさんいる。
そう知って友の代わりに感謝し、安堵した。
結果的に、ひかりの行く先を指し示したのも、とき江だった。
その日も二人は、ひかりの部屋で紅茶を飲みながら話し込んでいた。話題は、かつてやりとりしていた手紙のことだった。
「頂いたお手紙は大事にしまってあります。たまに読み返すこともありますわ」
優美な曲線を描く白磁のティーカップを手に、とき江が言った。
「なにを書いたのか、いまひとつ覚えがないのですが。お目汚しになってはいませんか」
紅茶に口をつけながら、ひかりは尋ねた。
ひかりも、とき江からの手紙を、大切にしまっていたが、震災で全て失ってしまった。
「お目汚しどころか、わたくしの宝物です。読むと、女学校の風景や四季折々の鎌倉の景色などが、自然と目に浮かぶのです。ひかりさまは簡単な言葉を使って、物事を表すことに長けておいでですね」
ひかりは苦笑した。
「それは、わたくしが難しい言葉を知らないからですわ」
とき江は真剣な表情で首を振った。
「いいえ、そうではありません。難解な言葉など使わず、誰が読んでも理解できるのは、良い文章だと思います」
とき江の言葉で、ひかりは文字を綴るのが好きだった、かつての自分を思い出した。
自室に置かれた書き物机をちらりと見る。
その引出しには、父から貰った赤い革張りの日記帳と、震災の日に購入した茶色い革張りの日記帳の二冊が収められている。
あんな危機的状況にあっても、ハナは買った物をしっかり抱えていて、三田に来る際にも忘れず持ってきたのだ。
それなのにその茶色い日記帳には、一文字も綴られていない。あの日から、文章を書く気力など失っていた。
とき江が帰ったあと、ひかりは引き出しをそっとあけた。
二冊を机上に並べてみる。しばらくためらったのち、そっと赤い日記帳を開いてみた。
読み返してみると、なんということもない、拙い文章だった。
女学校での些細な出来事や、夕食時に父母と話した他愛ない会話、きれいな夕焼けを見たこと、木に登ってハナに叱られたこと。
そんな変哲もない日常が綴られていた。
ひかりはそれを食い入るように読んだ。
記憶は知らぬ間に薄れていっても、書き残した出来事は目にした瞬間、鮮明に蘇る。
父や母の何気ない仕草や言葉、温かな笑いに満ちた空間を思い出し、胸が熱くなった。
不慮の死は遂げたものの、生きている間、両親は毎日を楽しんでいた。そう思えた。
ひかりが新しい日記帳に文章を綴り始めたのは、その日からだ。
物を書くという作業は、考えをまとめることから始まる。それからそれをどう表すのが適切か、培ってきたもの全てを総動員してあてはめていく。
頭や心に刻まれた記憶や感情を文字に置き換える行為に、ひかりは没頭した。
恐ろしい震災の記憶、両親を失った衝撃、人の生まれる瞬間に立ち会えた感動、ハナや叔父一家をはじめとする様々な人が手を差し伸べてくれたこと。
そういったことを、思いつくままに書き並べていった。
それは日記とも随筆ともいえない仕上がりになったが、生きた言葉で描かれた、鮮烈な文章だった。
とき江が懐妊したのはそんな折だった。
身重な体では今までどおりに、ひかりを訪問することは叶わない。もともと、身体は丈夫なほうではなかった。そうして、再び手紙でのやり取りが始まった。
ひかりがとき江を訪ねていくこともあった。
近所と言って差し支えない、ごく近い距離だったが、外出できるようになったのは、大きな一歩だった。
震災やその後の火災で壊滅的な被害を受けた下町に比べ、お屋敷町であるこの地区は、比較的軽微な被害ですんだ。それもあって、出歩いてもさほどの危険はない。
初めての妊娠で心細さや不安を抱きがちなとき江にとって、ひかりの訪問は嬉しいものだった。
とき江の夫も、新妻の大切な友人と知って、ひかりを歓迎した。波子もひかりに懐いた。
そうやって、ひかりの新しい日常は少しずつ出来上がっていった。
豪奢な三田の屋敷には相変わらず馴染めなかったが、広大な敷地内にある庭園を散策したり、文字を綴ることが慰めになった。
重文の所蔵する本を借りて読むこともあった。理解できない言い回しや単語があれば字引で調べ、少しずつ語彙を増やしていった。
ひかりの想像だにしなかった人が訪れたのは、そんな頃だった。
八重は不機嫌だった。
十一月も後半に差しかかって、曇りがちな天候が続いていたせいかもしれないし、突如現れたむすめのせいかもしれない。
忌々しいことながら一応は孫にあたる存在なのに、理解できる日は生涯ないだろう。そう思っていた。
ひかりは常識からことごとく外れていた。
年頃のむすめは父母や年長者の言いつけを従順に守り、美しく着飾って、大人しく良縁を待っていればいい。
そうして縁付いたら夫や家族に尽くして、一生を捧げる。それが女性の幸せだというのは、世間での共通認識のはずだった。
それなのにひかりはみっともない断髪で、化粧もろくにせず、着るものにも頓着しない。
いっときの虚脱状態からようやく抜け出したと思ったら、今度は本など読みふけり、書き物を始めた。
どうせ嫁ぐ婦女が勉学に励んだとて、一体なんの役に立つのだろう。八重には全くわからなかった。
いつしか八重は、野放図なひかりを正しい道へ導くのが自らに課せられた使命だと思うようになっていた。
仮にも自分と同じ屋根の下に住むのなら、常識くらいはわきまるべきだ。そう思った。
ひかりの一挙一動に厳しく目を光らせて、気付いたことは片っ端から注意していった。
食事の作法、言葉遣い、身だしなみなど、言うべきことには、じつに事欠かない。
たいていの場合ひかりは大人しく聞いていたが、ときたま大きな目を見開いて、不思議そうに問い返すこともあった。
それが八重には気に入らない。年長者の言葉には黙って頷いていればいい。疑問を持つ必要はないし、反論するなど言語道断だ。
関わって苛立つのなら放っておけばいいと、頭ではわかっている。
それでも、人並みの娘に仕立て上げることに熱意を注いでいた。
その日、八重は大玄関へと続く廊下を走るひかりの背を見咎めた。
「お待ちなさい!」
背後から掛けられた声に、ひかりはびくりと肩をすくませた。
素直に足を止め、おそるおそる振り返る。
八重はそんなひかりに、厳しい表情で歩み寄った。
「また廊下を走って。前に申し上げたことを、もう忘れてしまったのですか」
「すみません。つい、うっかり……」
ひかりは反射的に謝った。
とき江を訪ねようとして気が急いていたので、八重の言葉を失念してしまった。
「すみません、ではありません! 申し訳ありません、でしょう!」
声高な八重の叱責を聞きつけたいず美が、慌ててひかりの傍に来た。
いず美は、常日頃から八重にあれこれ言われるひかりを気にかけていた。
義母の言い分はわからなくもないが、ひかりが型にはまらないこともわかっている。
それでいいと、いず美は思っていた。
世間の常識には当てはまらなくとも、自由で自然なひかりが好きだった。
とりあえず謝るよう、ひかりにそっと助言しようとしたが、その前に八重が口を開いた。
「まったく、礼儀作法どころか、言葉遣いまでなっていないのだから。一体どんな育てられ方をしたのでしょう。これだから野育ちは。だいたい年頃の娘が化粧のひとつもしないなど、見苦しいにもほどがあります。ただでさえそんなひどい髪形なのに」
つけつけそう言うと、ツンと顔を反らした。
黙って聞いていたひかりは何か言いかけて、思い直したように口を閉じた。
それから無言のままくるりと体の向きを変え、駆け足で大玄関へ向かっていった。止めるいとまもなかった。
「なんですか、あの態度は! まったく、逃げ足ばかりは立派なのだから!」
怒り狂う八重をなだめながら、いず美は大玄関の方向へと目をやった。
逃げ出したくなる気持ちは充分に理解できるが、ひかりの謝罪がなければ八重は収まらないだろう。
「お待ちください、お義母さま。ちょっとひかりさんを探してまいります」
そう言い残して、いず美はひかりを追った。
そうして思いがけない瞬間を見てしまった。
屋敷の中から大玄関へ出る廊下の壁面に、数枚の肖像画が飾られている。
それは櫻澤家が爵位を許されたころの当主で、重文の祖父にあたる人から始まり、重文の絵で終わっていた。
八重が一人で描かれた肖像画が並べられているのは、夫の融が共に描かれるのを嫌ったからとも、八重の美貌に惚れ込んだ絵師が描きあげたからとも言われている。
後者の説が無理なく頷けるほど、肖像画の八重は美しい。整った小作りな顔や、切れ長ですっきりと涼しげな目元は、見る人を自然と引き付ける。
複雑な気持ちを抱きつつ、ひかりは肖像画を見上げた。
祖母には感謝している。
現当主は重文とはいえ、実母である八重が強硬に反対すれば、自分はここにいられなかっただろう。
それでも事あるごとに叱られ続けるのは、なかなか堪えた。
育ててくれた父母を軽んじるような発言もしばしばあり、それを看過することはできなかった。さっきはつい一言出そうになった。
反論を押し込めたのは、いず美や叔父のためだった。
叔父夫婦はこんな自分に対して、どこまでも優しい。祖母の機嫌を損ねて、その影響が二人に及んでしまったら申し訳ない。そう思って耐えた。
取り澄ました顔の祖母の肖像画を眺めているうち、ふいにむらむらとある衝動に駆られた。
懐を探って万年筆を取り出す。思いついたことを書きとめるため、紙片とともに、いつも持ち歩いているものだ。
おごそかともいえる仕草でキャップを外し、ペン先を八重の肖像画にあてる。
いず美がひかりに追いついたのは、ちょうどそのときだった。
「ひかりさん? 何をなさっているの?」
叔母の声にひかりはびくりと肩を弾ませ、そのまま大玄関まで駆けて、外へ出て行った。八重の言うとおり、なかなか立派な逃げ足だった。
首を傾げながら八重の肖像画を目にしたいず美は、数秒後、思わず吹きだしていた。
冷ややかさを感じさせるが美しい義母の顔の中心、すっと通った鼻筋の先に、異変が起きていた。
左の鼻孔から黒々とした鼻毛が三本、くっきりと伸びている。じつに堂々と、しっかり引かれた線だった。
積み重なる八重の叱責に腹を据えかねたひかりの、せめてもの逆襲かと思われた。
こんなものを見たら八重は更に激昂する。
そうと知りつつ、それでもいず美は込み上げる笑いを押さえることができなかった。
「どうしたのです? なにを一人で笑っているのです」
肖像画の前でくすくす笑っていたいず美は、その声に頬を引きつらせた。
なんと答えようかと逡巡しているうちに、声の主はそれに気づいてしまった。
「な、なんですかこれは! 誰です? 誰がこんなことを! いいえ、言わずともわかっています。あの娘ですね!」
そうまくし立てながら、つかつかと大玄関へ向かう義母の背を見て、いず美はこっそり目元を和らげた。
本人が気付いているかはわからないが、ひかりが来てから八重は変わった。
閉ざしがちで、何かに関心を示したり感情を露わにすることなどなかったのに、今ではひかりを気にかけて、あれやこれやと口出しするようになった。
ひかりにとってはいい迷惑だろうが、使命感に燃えて発奮する八重は、じつに生き生きとしている。
あの二人は、案外よい組み合わせのような気がした。
そんなことを口にしたら八重がどんな反応を示すかは、火を見るよりも明らかだ。
余計なことを口にしないだけの分別は、勿論ある。
それでも、心の中で何を感じるかは自由だ。いず美はそっと微笑んだ。
葉と葉の合間から、初冬の澄んだ光が射しこんでいる。太い枝の上で、ひかりは目を細めた。
冷たい風がわずかに通るが、耐えられないほどではない。むしろ清々しかった。
木に登るのは久しぶりだった。
屋敷から飛び出したものの、とき江を訪れる気持ちではなくなった。
訪ねるにしても、少し気を落ち着けてからにしたい。
そんなことを考えながら庭園を歩いていると、ふいに一本の木に目を吸い寄せられた。
それは大玄関から正門をむすぶ小径の脇に生えているクスノキの古木だった。
傍に何本もの巨木があったが、幹のごつごつとしたクスノキは枝ぶりもよく、いかにも登りやすそうだった。
歩み寄り、試みに太い枝に手をかけてみる。枝は傾ぐどころか、揺らぎもしない。
ひかりは両手を太い枝に回し、幹の根元に足をかけて、するすると登っていった。手のひらに感じる硬い幹の感触が懐かしかった。
無心に登って、ほどなくして木の三分の二ほどの高さにある太い枝に腰掛けた。
この真下に立って見上げない限り、自分がここにいるなど誰も気づかないだろう。
冬でもふさふさ茂る葉は目に優しいうえ、姿を隠すのにも最適だった。
もぞもぞと身体の位置を調整して枝の上に腰を落ち着けたころ、葉の隙間から八重の姿をみとめた。
般若の面のように険しい顔で、足早に門扉へと向かっていく。ひかりは身体を竦めた。
いま見つかったら、どれほど叱責されるか知れたものではない。ほとぼりが冷めるまで身を潜めていようと思った。
身動きひとつせず、一人で古木に包まれていると、鎌倉の館を思い出した。
いつ戻れるのかわからない生まれ育った山や桜の森、父の手によるこじんまりとした庭園が懐かしかった。
静謐な時の中で、ひかりは軽く目を閉じた。
うっかり眠って木から落ちないよう、気を付けていたつもりだった。
それなのに転落したのは、眠ってしまったからではない。ふと目を開けたとき、信じられないものを見たからだ。
厳密に言えば、ものではない。人だ。
三十代後半から四十代前半の男性が、門扉の方向から大玄関へと向かっている。
どう見ても父だった。
慌てて身を乗り出そうとしてバランスを崩し、ひかりは枝から滑り落ちた。
木登りが久しぶりということは、木から転落してお尻を強打するのも久しぶりということになる。
痺れるように鈍い痛みが全身にじんわり広がるこの感覚は、懐かしいものだった。
もちろん歓迎はしていない。できれば落ちずにいたかった。
立ち上がることもできず、お尻をさすって痛みをこらえていると、目の前に誰かが立った。さっきの男性だった。
父は震災で亡くなってなどおらず、自分を迎えに来たのかとまず思った。
すぐにわかった。この人は父ではない。
木の上からは見誤ったが、至近距離だとよくわかる。
造作は酷似しているものの、身なりが違う。この男性は洋装だ。ひかりの知る限り、父が洋装をまとったことはない。
髪形も違う。ざっくりと撫でつけた長めの髪には、白いものがちらほらと混じっている。父の髪は黒々としていた。
なによりも、表情が違う。どれほど病み衰えても、父がこんな眼をすることはなかった。
高熱にうなされても、長いこと床に就いていても、母や自分を見る眼には意志の光や力があった。
いま目の前に立つこの男性はひどく哀しげで、抜け殻のような眼をしている。
鎌倉の御用邸に身を寄せているとき、こんな眼をしている人を何人も見た。
それは皆、家族や親しい人を亡くした人たちだった。きっと自分もあのとき、同じような眼をしていたのだろう。
「ひかり、だな?」
問い掛ける声もよく似ているが、父がこんなことを尋ねるわけがない。
そこまで考えて、ようやくひかりは、もう一人の父を思い出した。
遙か彼方の異国の地で絵画に没頭しているというその人は、ひかりにとってそれほどまでに遠い存在だった。本当に現実の人だったのかと、意外の念すらあった。
「はい、ひかりです。おかえりなさいませ。そして初めまして、明お父様」
初めて対面する父への第一声は、ごくありきたりなものとなった。
人情噺であれば父娘が共に涙し、さぞかし感動的な場面となったことだろう。実際は、じつにあっさりとしたものだった。
どこか他人事のようで、ひかりは笑みを作った。笑う以外、どういう顔をすればいいのかわからなかった。
食い入るようにひかりを見ていた明は、少し呆気にとられたようだった。
「うむ、ただいま。よく私がわかったな」
その瞬間、透が生きていたというわずかな可能性は打ち消された。
改めて両親に先立たれたことを思い知らされて、胸が締めつけられる。
いや、違う。ここにいるこの人も、自分の父だ。ひかりは自分にそう言い聞かせた。
「透お父様と同じお顔です。もっとも髪形も装いも、全く違いますが」
指摘され、明は髪に手をやった。
庭仕事で荒れていた透の手指と比べると、色白で傷ひとつない、綺麗な手だった。
「それでひかりは、そんなところでいったい何をしているのかな」
もっともな質問ではあるが、血を分けた娘と初めての対面ならば、もっと他に尋ねることがあるだろう。
他人事のようにそう思いながら、ひかりは素直に答えた。
「手を滑らせて、木から落ちました」
この状況では言い逃れなどできない。どう取り繕っても不自然な言い訳になってしまう。
透なら、自分が木に登ったくらいでは驚きもしないが、初対面の父はどんな反応をするのだろう。八重のように、躾がなってないと怒るのだろうか。
そんなことを考えるひかりの顔を、明はぽかんと眺めた。それから眉を寄せた。
「そうか。それは難儀だったな。大丈夫か」
確かにそれ以外、言うべき言葉はないだろう。妙に納得しながら、ひかりは頷いた。
「おかげさまで」
返す言葉も、自然と当たり障りのないものとなる。
ぎこちない二人の会話は、ひかりを探しに来たハナによって断たれた。
「ひかりさま、また木から落ちたのですか。お怪我は……」
そこまで言って明に気がついた。
ハナは驚きに目を瞠り、次の瞬間、大粒の涙を浮かべた。
そんなハナをいたわるように、明は静かに歩み寄り、そっと肩に触れた。
「長いこと留守にした。ずっと、ひかりを見ていてくれたのか」
明のその声は、微かに震えている。
ハナは頷いた。その拍子に、顎の先から涙の粒がぽたりと垂れた。
「申し訳も、ございません。みつ様を、お守りできませんでした」
明は黙って頭を振った。
明とハナの再会のほうが、明と自分の初対面より、よほど感動的だ。傍からその様子を見ていたひかりは、冷静にそう思った。
半生を母のみつとともに過ごしていたハナには、そのうちの何年か、明と暮らしていた時期もあったはずだ。それでも、他人であることに変わりはない。
それなのに、仮にも父娘のこちらのほうが、よっぽど他人同士のようだった。
本当なら喜んだり泣いたりするべきなのだろう。それなのに、あまりに現実感のない出来事に心が追いつけない。
ハナに促されて一人で八重に謝りに行く途中も、ひかりはずっともやもやとしたままでいた。
八重の自室を訪ね、長椅子に腰掛ける八重に謝罪して深々と頭を下げているときにも、そんな気持ちが拭いきれなかった。
八重は仏頂面でひかりの謝罪を受け入れた。もちろん、長い説教の後にだ。
ようやく許しを得て、叱られ疲れたひかりが退室しようとしたとき、八重に呼び止められた。
まだ言い足りなかったかと、げんなりしながら振り向くと、ぶっきらぼうに問われた。
「どうしたのです? ここに来てからずっと、幽霊でも見たような顔つきをしていますよ」
その指摘は、ある意味とても的確だった。ひかりの疲れた顔に笑みが浮かんだ。
「幽霊、ではありませんが。つい先ほど、父が訪ねてきました」
八重は形よい首を眉をひそめた。
「亡くなった者が訪ねてきたのだとしたら、それは幽霊ではありませんか」
「いいえ、その父ではありません。渡欧していた父が帰国してきました」
ひかりの返答に、八重は絶句した。
数秒後、勢いよく立ち上がると、ひかりを無視するかのように脇をすり抜けて行った。
ひかりは首を傾げた。祖母が血相を変えて出て行った理由がわからなかった。
とりあえず、と、ひかりは部屋を出た。
少しだけ休もう。そう思い、のろのろした足取りで自室へ戻った。小さな欠伸が漏れた。
あまりに突然な父の出現と八重の叱責に、ひかりは疲れ果てていた。
寝台の上に寝転がった瞬間、ひかりは吸い寄せられるように眠りに落ちていった。
ドアをノックする音で目が覚めた。
日はすっかり落ちかけて、室内は薄暗く冷え切っている。ひかりは身震いした。
「……はい」
目をこすりつつ、寝台の上に半身を起こして応じると、ハナがそっと扉を開けた。
「どうしたのです? お身体の具合が優れないのですか」
そう尋ねながら明かりをつける。
ひかりは寝ぼけ眼を細めながら、かぶりを振った。
「いいえ。少し疲れただけ」
「そうですか。それならいいのですが」
心配そうな目をひかりに当てながら、ハナは静かに扉を閉めた。
「お夕飯の支度ができたそうです。召し上がれますか」
ひかりは乱れた着物を手で直しながら立ち上がった。
「ええ、もちろんよ。ねぇ、ハナ?」
「はい」
「明お父様は、帰国されたのよね? あれは、わたくしの夢ではないのよね?」
ハナはしっかりと頷いた。
「ええ、夢ではありません。明様は確かにお戻りです。ひかりさまのために帰国されました。今はお部屋で休んでおられます」
「そう」
短く応じながら、ひかりは髪を手櫛で整えた。肩にも届かない長さは、癖がつくとなかなか直らない。幸いなことに、今はそれほど跳ねていないようだった。
ハナは物思わしげな眼でひかりを見た。
「ひかりさま。明様をどうお思いですか」
唐突な問いに、ひかりは小首を傾げた。
「どうって、どういう意味?」
わずかに躊躇ったのち、ハナは再び口を開いた。
「先ほどお見かけしたとき、その、なんというか……」
ひかりは苦笑した。
「よそよそしかったというのでしょう。わかっているわ。自分でもそう思ったもの」
「それは……」
言いかけて、ハナは口ごもった。ひかりは先を促すようにハナを見つめた。
「それは、明様をお恨みしているからですか」
「恨む? どうして?」
ひかりは驚いて問い返した。躊躇いつつ、ハナは口を開いた。
「透様と明様は昔、ひかりさまのおじい様にあたる先代の櫻澤伯爵を、お恨みしていました。色々と事情がおありで、産まれてからずっとお目通りが叶わず、自分たちは捨てられたのだと、そうお思いだったそうです」
そこまで言うと、ハナはいったん言葉を切った。しばらく考えてから、再び口を開く。
「幸いなことに明様は、先代の亡くなる少し前、みつ様や重文様を介してお目通りが叶い、そののち和解いたしました。透様も、先代をお赦しになりました」
なぜこんなことを言い出したのか測りかね、ひかりは黙ってハナの顔を眺めた。
「考えてみれば、よく似た状況です。ずっと放っておかれた。そう思って、ひかりさまが明様をお恨みしてもおかしくはありません」
「そんなこと」
ひかりはかぶりを振り、ハナの懸念を打ち消した。
「確かに明お父様には放っておかれたけれど、わたくしは透お父様とお母様がいて、ずっと幸せだったわ。それに、あれほどの絵を描かれるおかたです。広い世界に出て、ご自分を研鑽されるという選択は正しかったのだと思います」
亡き母も明の才能を誇り、さらにそれを極めることを望んでいた。そんな記憶が蘇った。
言葉にしながら、ひかりはわだかまっていた気持ちがほどけていくのを感じた。
「だけど、そうね。いくらお父様とはいえ、初めてお会いしたのだもの。戸惑いはあるわ」
人と人を家族として結びつけるのは、血の繋がりだけではない。ともに暮らして、心を触れ合わせ、悲しみや喜びを分け合ううち、自然と家族となる。
そう言う意味で、明を父とは思えなかった。
薄情と言われればそれまでだが、明はあくまで初対面の人間だ。自分にとって父とは透で、明は他人も同然だった。
それでも、明は来てくれた。
誰かが知らせたのか、それともあの災害が遙か遠くのフランスにまで報道され、彼の耳に届いたのかはわからない
わかるのは自分を案じて会いに来てくれたことと、父母の死を心から悼み、哀しんでいることだった。
もしかすると、自責の念にも駆られているのかもしれない。
叔父に自分を責めぬよう諭されても、あの時あの場に居合わせず、父母を救えなかったことを、ひかりはいまだに悔いていた。
この喪失感や痛み、それから後悔が消えることは一生ないだろう。
それは明も同じではないかと、ふいに気がついた。
あのとき叔父がくれた言葉を、今度は自分が明に伝えるべきなのかもしれない。
「明お父様は、お夕飯を召し上がったの?」
思いがけない問いに、ハナは不思議そうな顔をした。
「いいえ。お疲れだそうで、お部屋に籠っておられます」
「そう。では、わたくしがお部屋に伺って、お夕飯をどうなさるのか訊いてくるわ。どのお部屋にいらっしゃるのかしら」
明と話したいとひかりは思った。
自分の推測が正しいのか、いま何を感じているのか、どういう人なのか知りたかった。
明に与えられたのは一番大きな客間で、この屋敷内でもひときわ豪華な装飾が施されている。
扉も立派なもので、木目も美しい濃い焦げ茶の上に、繊細な蔦模様が彫り込まれている。
鈍く光る金のドアノブを前にして、ひかりは身動きとれずにいた。
先ほどの対面は降って湧いたようなもので、心構えする必要はなかった。
あらためて訪ねてくると、なんと声をかけるべきかわからなくなってしまった。
しばらく思いあぐねたが、考えるのも面倒になって、ひかりは発作的に扉を叩いた。
叩いたからには、黙っているわけにはいかない。悪戯かと思われてしまう。
「入ってもよろしいですか、明お父様」
しばしの間をおいて、応じる声が聞こえた。
ひかりが扉を開けると、明は寝台のふちに足を組んで腰掛けていた。
糊がきいていたはずのベッドカバーに寄った皺が、明も横になっていたことを教えている。
眠たげな顔は、やはり父に似ていた。
そこまで思って、この人も父だったとひかりは思い返した。
「お食事の用意が整いました」
なにを言えばいいのか思い悩んだわりに、当たり前の言葉しか出てこない。
明はひかりの顔を食い入るように見つめてから、小さく息をついた。
「結構だ。今日はもう休みたい」
憔悴した表情と声でそう応じるもう一人の父に、ひかりは歩み寄った。
「明お父様も、透お父様とお母様のところへ行きたいのですか」
被災後の鎌倉での日々の記憶は曖昧で、ところどころ抜け落ちている。
それでも魂を蝕まれるほどの苦しみや心の痛み、ここから逃れて父母の元へ行きたいという焦燥感に似た、切迫した感情は覚えている。
結局は食べ物を口にしたものの、このまま食事を摂らずにいれば、望みが叶うだろうと思ったこともあった。
「なに?」
怪訝な顔で答える明に、ひかりは心の内を打ち明けた。
「一人残されて、わたくしは何度も、透お父様とお母様のところへ行きたいと願いました。地震に巻き込まれなくとも、食べなければ人は死にます。震災の後しばらく、食べ物が喉を通りませんでした。あのままだったら、わたくしは今頃きっと、透お父様とお母様のところにいたはずです」
のた打ち回るような苦しみも、口にすれば簡潔で、ほんの三十秒で事足りる。
淡々と痛みを吐き出すひかりを、明は無言で見た。
言うべき言葉が思いつかない。そんな顔つきだった。
そんな明に構わず、ひかりは言葉を続けた。
「ですが、わたくしの身体は憎らしいほど頑丈で、精神は軟弱です。結局は空腹を覚えて食事を摂り、ずるずると生き長らえてしまいました」
ハナや喜久、良吉や和子など、様々な人々に支えられ、自分は生き延びた。
それでも、あのとき父母のところに行くべきだったのではという思いは、心のどこかにずっと残っている。
亡くなった人の魂がどこへ行くのかはわからないが、もしも黄泉の国があるのなら、父母はそこで自分を探しているかもしれない。突然の別離で身を裂かれるほど苦しんだように、父母も寂しがって自分を待っているのかもしれない。
こうして生きていることが本当に正解なのかは、いまだにわからない。
「長く一人にしてすまなかった。辛い思いをさせてしまったな。私を恨んでいるだろう」
明の声に我に返る。
父と瓜ふたつの面差しは、今にも泣き出すのではないかと思うほどに歪んでいた。
ひかりは慌てて首を振った。明を責めるつもりなど毛頭ない。
「いいえ。わたくしは、明お父様を誇りに思っております。お母様も、そのようなことをおっしゃっていました」
父母に会いたい。もう一度でいい。
会って、今まで大切に育ってもらった礼を言いたい。
普段は心の奥に閉じ込めてある願いが溢れて涙が出そうになったが、必死に押し留めた。
いま泣いたら、明はさらに自分を責めてしまう。そんなことをするために、ここを訪れたわけではない。
「みつは、私のことをなんと……?」
在りし日の母を思い出し、胸が締め付けられるように痛んだが、ひかりはなんとか笑みを作った。声の震えは抑えきれなかった。
「明お父様は世界に通用する才能をお持ちだから、中途半端に戻ってきてほしくない。納得のいくまで道を究めてほしい、と。そうおっしゃっていました」
「そうか」
明の表情が、ほんのわずかに明るんだ。
母の気持ちを伝えられたことを、ひかりは喜んだ。
もちろん明のためもあるが、それよりも母の気持ちを思った。
母はずっと、遠く異国にいる明を忘れず、事あるごとに口にしていた。ずっと大切に想っていた。
そんな母のことだ。明が自責の念に駆られて沈みこむなど、望んでいなかっただろう。
「透は? 透は私のことを、何か言っていたか」
次いで問われた言葉に、ひかりは記憶を辿った。様々な景色が脳裏をよぎった。
父も、母と同じだった。
十数年も離れていても、いつも近くにいるかのように、自らの半身について話していた。
「透お父様は……」
どの言葉が正しいのかわからない。
わからないから、いちばん最初に思い出したことを言った。
「お前はまるで明の女版だ。明とお前が二人揃ったら、さぞ騒々しいだろうな。そんなことをおっしゃっていました」
言いながら、ほんの数か月前まで当たり前だった、鎌倉の館での日常を思い出した。
夕食を終えて自室に戻る前のひととき、いつも両親と暖かい紅茶を飲んだ。
お喋りの止まらない自分に、父はいつも呆れたような顔をしてこう言っていた。
明の顔がほころんだ。
初めて目にする微笑みだった。
この人も父のことをずっと大切に想っていたのだと、そのとき確信できた。
「そうか。ひかりは私に似ているのか」
嬉しそうにそう言うと、明はひかりの顔をじっと見た。優しい眼差しだった。
目と目が合う。互いの気持ちが伝わる気がして、ひかりも明の顔を見つめた。
この人も父なのだ。あらためてそう思った。
いつしか雨が降り出して、窓越しの世界がしっとりと包まれていく。
静かな夜だった。
屋敷の中には大勢の人がいるはずなのに、この空間だけが切り離されたかのようだった。
「夕食は、もう済ませたのか」
しばらくして、明が口を開いた。
急に投げかけられた現実的な問いに、ひかりは一瞬ぽかんとした。
「まだです」
そう答えると、明は優しい眼のまま、気難しそうに眉を寄せた。
「それはいかん。食べなければ人は死ぬ」
それはついさっき口にした言葉そのままで、ひかりは頬を膨らませた。
「明お父様。わたくしの言葉を真似するのは、やめてください」
ふくれるひかりに、明は微笑みかけた。
「食堂へ行こう。お互い、なにか腹にいれなくてはな」
そう言って寝台から立ち上がる。
ひかりは頷いて、扉を開けた。