Glowly
夏の盛りを過ぎた頃、長い休みは終わりを告げた。
澄み切った空は、どこまでも高く青い。
木造の古い校舎は、級友との久々の再開にはしゃぐ女学生で華やいでいた。
始業式を終えて教室へ戻ると、おのおの休みの間の出来事や、噂話に花を咲かせた。
「それで? 銀座には行かれましたの、ひかりさま」
「資生堂のソーダファウンテンはご覧になって? ソーダ水は召し上がられたの?」
級友たちの問いかけに、ひかりは初めての東京がいかに素晴らしかったか語った。
叔父の屋敷や、祖母と初めて対面したことは口にしなかった。
開けっぴろげに快活なようでいて、子どものころに両親から出自を聞いて以来、ひかりには言葉を選ぶ癖がついていた。
人と違うことは悪いことではないという母の言葉のおかげで、悩んだり、世間に対して引け目を感じることなく育った。
その反面、口外しないよう父から言い含められていることは、頭の隅にいつもある。
そそっかしく失言をすることは多々あり、思慮深いとは到底いえないが、言葉を発する前に考えるのが習いとなっていた。
誠一のことも話さなかった。この片恋を他人に打ち明けたことは一度もない。
唯一の例外は祖母だけだ。あれは不可抗力だった。
時間が過ぎるのとともに胸の痛みは少しずつ薄れ、諦めが満たしていった。それでも苦しい恋の話など、誰にも話すつもりはない。
「そうでしたの。それはおよろしいこと。松本楼には、わたくしも行ったことがありますわ。素敵なお店ですわね」
級長の鷹津ひさ乃の言葉に、他の級友も負けじと、口々に喋り出した。
「わたくしもそう思いますわ。あすこのカレーライスは格別ですわね」
「ほんとうに。わたくしも大好きですわ」
ひかりはふと、とき江の席を振り返ってみた。騒がしくしていたら、また彼女の気に障ってしまうかもしれない。
とき江の席は、ぽっかりと空いていた。
始業式のときには姿を見かけた気がする。
どこに行ったのだろうと眺めていると、ひかりの視線をとらえた級友の一人が「そういえば」と口を開いた。
「とき江さま、近いうちに退学なさるようですわね」
思いがけない言葉に、ひかりは口と目を開いた。
驚いているのは、ひかりだけだった。他の級友たちは、訳知り顔で頷きあった。
「神宮寺子爵家の一人娘が結城男爵家へお輿入れするらしいと、父が申しておりました。あれはやはり、とき江さまだったのですね」
級友の一人が首を傾げた。
「とき江さまはお病気で一年間休学されて、わたくしたちよりひとつお歳が上ですが、まだ十四歳です。婚姻年齢に達しておられないのでは」
「ですから正式に籍を入れるのは、とき江さまが十五になるのを待ってからだそうですわ」
「それは……足入れ婚ということですの?」
「まぁ! そんな!」
「それはちょっと、ねぇ。とき江さまは由緒正しいお生まれなのに」
「ほんとうに。ずいぶんなお話ですわね」
たしなみ程度に声は潜めても、話が弾むのは抑えきれない。
上流階級という狭い世界では、良いことも悪いことも筒抜けになる。そして、概して人というものは、刺激的な噂話を好むものだ。
「ですけど、言われてみれば確かに、夏休みに入る前、結城の奥さまがこちらにいらしてましたわね」
当時の女学校では、息子の嫁を探す有力者の親が授業参観に訪れるのは、珍しくないことだった。
女学校側も、教育よりも嫁入り学校としての役割を重んじ、そういった訪問者を丁重に扱っていた。
そうして見初められて縁談がまとまり、結婚のため学業半ばで中途退学する女生徒も少なくない。そういう時代だった。
婚約者のいる女学生も珍しくなかった。
たとえばひさ乃にも結納を交わした婚約者がいて、彼が兵役を終えたのちに嫁ぐことは周知の事実だった。
「そうでしたわね。でも結城家のご嫡男といえば……。ねぇ?」
級友は思わせぶりに言葉を切った。
後を引き継ぐように、他の級友が口を開いた。
「そうですわね。お家柄はともかく、わたくしでしたら、ちょっと」
なにがなんだかわからぬまま、ひかりはずっと黙って話を追っていた。
なにやら良からぬことがあるのはわかる。それを聞くのは躊躇われた。
「みなさま。噂を鵜呑みになさっては……」
たしなめるひさ乃の声を、凛とした声が遮った。
「はっきりおっしゃったらいかが? わたくしの婚約者は成金のうえ奇行で有名で、前妻との間の子どもがいると」
教室の空気がひやりと張りつめた。
おそるおそる振り返ると、教室の出入り口に、きつい目をしたとき江が立っていた。
「いえ、そんな。わたくしたちは、そのようなことは一言も」
ひさ乃はそう言うと、後ろめたそうな顔で黙り込む級友たちを振り返った。
「その、申し訳ありません。口さがないことを申し上げました」
「ご婚約、おめでとうございます」
おどおどと口にする級友たちに射抜くような強い視線を投げやると、とき江は毅然とした足取りで、再び教室を後にした。
「みなさま。あとでもう一度、とき江さまに謝罪なさって」
とき江が去ると、ひさ乃は厳しい口調で級友たちを諌めた。
「ですけど、ひさ乃さま。本当のことですわ。なにより、ご本人がおっしゃっているのですから、確かではありませんか」
「そうですわ。本当のことを申し上げて、なにがいけないのです」
ひさ乃がまなじりをあげた。
「本当のことなら、なにをおっしゃっても、人の心を傷つけてもよいとでも?」
ひかりはガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、小走りに教室を出た。
「ひかりさま! そろそろ先生のいらっしゃる時間ですわ」
ひさ乃が呼び止める声にも振り返らず、ひかりはとき江を追って、廊下を走り出した。
どうしようというあてはない。仲が良いわけではないし、それどころか嫌われているのは自覚している。
それでも、黙ってその場に留まることはできなかった。
ふいに寛太の暴言に走り去った美代を追った、幼い日を思い出した。
月日が経っても、結局自分はなにひとつ変われていない。後先考えない行動は生まれつきだ。
自嘲しながらひかりは、とき江を探すべく、袴の裾をはためかせて、木の渡り廊下を駆けていった。
校内を走りまわって、ようやく探しあてたとき江は、下足箱から履物を取り出すところだった。
「どちらへ、行かれるの、ですか」
ひかりは額に汗の玉を浮かべ、息を切らしながら、豊かな黒髪をふっくら束ねた後姿に声をかけた。
とき江の背と、髪を結んだ白いリボンが、びくりと弾んだ。
ゆっくり振り向いてひかりをみとめると、驚きを顔に浮かべ、数秒後に頬を紅潮させた。
それから挑むような目つきで、ひかりを睨めつけた。
「ここで、なにをなさっているの? わたくしを笑いにいらしたのですか」
きつい声でそう言い放つと、とき江は履物を手に、昇降口へと向かう。
「いいえ。笑いには、きておりません。何をしに、きたのかは、自分でも、よくわからないのです。足が、勝手に動いて、おりました」
ひかりも自分の下足箱から履物を取りだし、とき江の後を追った。
「どうしてついてこられるの」
とき江は険しい顔つきで、桐の下駄を履きながら言った。臙脂色の鼻緒が、白足袋と海老茶の袴によく映えた。
ひかりは黒の革靴を履きながら答えた。
「どうしてかも、よくわからないのですが。ご一緒しても、よろしいですか」
「厭だと申し上げれば、帰って頂けますの」
とき江は意地悪く尋ねた。ひかりは少し考えこんだ。
「たぶん、それでもご一緒させていただくかと……」
「でしたら、最初からお訊きにならないで」
「申し訳ありません」
ようやく息が整ってきたひかりは、とき江の隣に並んだ。
雲ひとつないよく晴れた日で、昇降口から校庭へ向かう二人に、眩しい光が降り注ぐ。
校庭の片隅では、晩夏の光を浴びた向日葵が、生き生きと咲き誇っていた。
ひかりは全身から汗が噴き出すのを感じたが、とき江は薄汗ひとつかいていない。
それでも顔は紅潮したままだった。
「本当に申し訳ないとお思いなら、帰って頂けないかしら。わたくしを一人にしてくださらない?」
ひかりをかえりみることなく、とき江は肩をいからせるように校庭を突っ切っていく。
普段の楚々とした風情はどこへやら、荒々ほどの大股だ。それでも裾を乱すことなく、品位を保っているのはさすがだった。
「どちらへ行かれるのですか」
とき江は隣を歩くひかりに目をあてた。
「ひかりさまには関係ありません。その辺を散策するだけです。しばらくしたら戻りますので、どうぞご心配なく」
強い言葉と視線に怯むことなく、ひかりはちょっと笑ってみせた。
「まぁ、奇遇ですわね。わたくしもちょうど、この辺りを散策したいと思っておりましたの」
「ご勝手になさったら」
ひかりを見ることなく、とき江は吐き捨てるように言った。
「はい。そういたします」
ひかりはにっこりと答えた。
海に行こうと言い出したのは、ひかりだった。
校庭を通り抜けた二人は、校門付近の植え込みに、身を隠すように屈みこんでいた。
女学校を出て、大通りを駅から反対方向に歩くと、ほどなく由比ガ浜に辿りつく。
ひかりは一度だけ、帰宅途中に一人でふらりと立ち寄って、浜辺を散策したことがある。あのときの感動は忘れられない。
四か月ほど前、入学した直後の五月の初旬のころで、ちょうど今日のように良く晴れた昼下がりだった。
海と空はどこまでも広く、えも言われぬ開放感があった。
そしてこの海の向こうに、まだ見ぬもう一人の父がいるのかと、思いを馳せた。
子供の頃から手紙を交わしているが、一度も顔を合わせたことのない相手だ。もう一人の父と言われても実感が湧かない。
浜辺に佇みながら、もう一人の父について想像を広げた。
通りかかった教師に寄り道を見咎められ叱責されたため、それ以降は自重していたが、近く退学するとき江にあの風景を見せたいと、ふっと思いついたのだ。
直感と良心に従って動く傾向にあるのは、自他ともに認めるところだ。
竹を割ったようと言えば聞こえはよいが、思慮が足りないと叱られることも少なくないが、能天気な性格ゆえ、落ち込むことはほとんどない。
反省すべき点は改善し、同じ失敗をしないよう切替えるすべに長けていた。
「まぁ。学校を抜け出すおつもり?」
ひかりの提案に、とき江は非難の声を上げた。
散策すると言っても校庭をしばらく歩く程度で、気が静まったら戻るつもりでいた。
「ええ、せっかくの好天ですから。もちろんとき江さまがお厭ならやめて、一緒にお教室に戻ります。いま戻れば、先生からお小言をいただかずにすみますし」
ひかりは囁きで答えた。声を高くすれば、校門のそばに常駐している守衛に聞きつけられてしまうかもしれない。
とき江はさらに目つきを険しくした。
「そうやってわたくしを、お教室へ連れ戻すおつもりなのでしょう。いいえ、戻りません。けっこうですわ。海へ参りましょう」
そう言うと、すっくと立ち上がる。
「とき江さま。そんなに体を起こすと、守衛さんに見つかってしまいますわ」
ひかりは手を引いて、とき江を座らせた。
とき江はもはや耳たぶまで赤い。
「おや。そこでなにをなさっているのです」
ふいに耳に飛び込んできた声に、ひかりととき江はどきりと身体を硬直させた。
おそるおそる上げた視線の先には、危惧したとおりの守衛がいた。
怪訝そうに見下ろす守衛は六十代と思しき、実直そうな男だった。
「どうされたのです。気分が悪いのですか」
「いえ、その……」
しどろもどろに答えながら、ひかりは繋いだ手に力をこめた。
勢いよく立ち上がりながら手を引いて、とき江も立ち上がらせる。
そのまま流れるように校門の外へと走り出した。
「ごめんあそばせ! しばらくしたら戻りますのでご心配なく!」
「ちょ、ちょっと……!」
慌てて手を伸ばす守衛から逃れるように、二人は全速力で海へと駆けていった。
耳元でごうごう音がする。心臓が滅多矢鱈に弾んで呼吸が苦しい。鼻緒の食い込んだ足が痛い。
目の前で、お下げ髪に結ばれた赤いリボンが、睦まじい二羽の蝶々のようにひらひらと揺れる。
紫紺の着物の袖も風を受け、はためきながら音を立てる。
その袖からのびる手が、自分の手を強く握っているのが不思議だった。
手を繋いでいるその人が、次第に歩調をゆるめはじめた。合わせるように、とき江も速度を落とした。
「こ、こ、まで来、ればだ、いじょ、うぶで、しょう、か」
ひかりは息を切らしながら振り返った。
誰も追ってこないのを確認すると、大粒の汗に濡れた顔にえくぼを浮かべる。
みっともなく息を切らしていても、喋れるだけ立派なものだと、とき江は感心した。
自分など酸素を吸い込むだけで精いっぱいで、言葉の出る余地など微塵もない。
とき江がぜいぜいしながら頷くと、ひかりのえくぼは、さらにくっきり刻まれる。
それからしばらく手を繋いだまま、黙って歩いた。
道を一本渡って砂浜に出る。
数年前から貸別荘の料金が高騰した影響で観光客が幾分減ったとはいえ、鎌倉は人気の保養地だ。
夏の盛りは遊覧客が押し寄せ、静寂とは程遠い場所だが、学校が始まる季節のせいか、人影はまばらだった。
「いいお天気。絶好の海日和でしたわね」
深呼吸しながら、満足そうにひかりが言う。
とき江は気難しく、眉根を寄せていた。
細かい砂が下駄と足袋の間に入り込んで不快だし、のん気なひかりに腹が立つ。
どうして自分を追ってきたのだろう。そう思うと、さらに怒りが増す。
ひかりは自分のことなど嫌いなはずと思い込んでいた。あれだけつんけん接せられれば、普通なら敬遠する。
それでいいと思っていた。
嫌われるのはむしろ楽だった。好かれようとするから何を話せばいいか、どう振る舞うべきか悩むのだ。
それで万が一うまくいっても、結局のところ、いつかは離れ離れになってしまうのに。
出会いのあとには、必ず別れがある。愛する相手ほど、別れには痛みが伴う。
その点、初めから嫌われていれば、嫌われるのではと思い煩う必要はない。別離に際し、痛みを感じることもないだろう。
いずれ離れていくと知っているのなら、下手に親しむべきではない。
幼くして病で実母を亡くした日から、それがとき江の持論となっていた。
誤算は、ひかりがとき江の常識では測れなかったことだ。
ひかりは怒りの感情がないのかと思うほど、なにを言われてもさらりと受け流し、けろっと笑いかける。
級友の誰もが、鷹揚で朗らかで、自分たちと毛色の違うひかりを物珍しがり、惹かれていく。
そんなのは真っ平ご免だった。自分は友人など作らなくていい。そう思って過ごしてきた。もともと他人と馴染みにくい性格だ。
それなのに、目や耳が、勝手にひかりを追っていた。
植物が日の光を求めて向きを変えるように、自然とひかりの笑顔や笑い声に引き寄せられていた。そんな自分に腹が立った。
その苛立ちはひかりに向けられたが、当のひかりは一切気にかけず、おっとりしている。余計に苛々した。
「とき江さま、ご覧になって。空の果てから波が押し寄せてくるようですわ」
それなのに、どうして自分は今、ひかりの手を振りほどけないのだろう。
ひかりの言うまま、素直に景色を眺めているのだろう。
見上げた空には、強い光を放つ太陽が悠々と浮かんでいる。とき江は目を細めて、繋いだ手のひらに力をこめた。
猛っていた心が、いつしか静まってゆく。ざらざらと足の裏に入り込む砂も、もう気にならない。
濃厚な海の香と波の音に包まれて、今この瞬間に、時が止まればいいと思った。
「……この海は、フランスへと続いているのでしょうか」
独り言のようなひかりの呟きに、とき江は少し考え込む。
「この方角でしたら米国では? 欧州は反対方向のはずです」
ひかりは目を丸くする。
「そうなのですか。わたくしはずっと、この海の先に父がいるのかと思っておりました」
「ああ。画家のお父さま」
何気ないとき江の呟きに、ひかりは妙な気がした。
きちんと話すのは今日が初めてなのに、どうして父のことなど知っているのだろう。
そう思いながら、仲の良い友人のように、手を繋いだまま歩いた。
今は言葉など必要ない気がした。
「こんなところがあったなんて、存じませんでした。半年近くも通っているというのに」
しばらくして、とき江が呟くまで、二人は無言で砂浜を歩いていた。
「駅から反対方向ですし、なかなかこちら側まで来ることはありませんものね」
ひかりの答えに、とき江は口の端を歪ませる。
「わたくしは、鎌倉を歩くこと自体、ほとんど初めてですわ」
そう言われて、とき江が人力車で通学していると思い至った。
その頃には、ひかりのように駅から徒歩で通学する女学生が大半だったが、良家の子女のなかには供を連れたり、人力車での通学を通すものもいた。
「車上からは、また違った景色が見られるのでしょうね」
他意のないひかりの感想に、とき江は顔をしかめて歩みを止めた。
「わたくしは人力車なんて大嫌いです。車夫が汗まみれで引いているのを、どんな思いで見ているとお思い? 自分の足で歩くほうがよほど早いのに、じっと乗っていなければならない気持ちがおわかりになって? 景色など、眺める気にはなれません」
つられて立ち止まったひかりは、不思議そうにとき江の顔を覗きこんだ。
「おうちのかたに、そうおっしゃったら?」
「それができれば、とっくにしております! あなたに何がおわかりになるの」
声を荒げて手を振り払うとき江を、ひかりは真っ直ぐ見た。
「わかりませんわ。とき江さまがおっしゃって下さらなければ。誰も、なにも」
「わたくしの言葉など、誰が聞くというのです。お祖母様もお父様も勝手にわたくしの生き方や結婚を決めて、女学校では面白おかしく噂されて。誰も聞かないのなら、話す意味などないでしょう」
激昂するとき江に、ひかりは笑いかけた。
「わたくしが聞きます。とき江さまがおっしゃりたかったことを、いまここですべて」
そう言って、仇と相対するような目つきで黙り込むとき江の、次の言葉を待った。
波音のほかは、海鳥の声がときたま聴こえるだけだ。二人を遮るものはなにもない。
「お祖母様が……」
ふいにとき江が口を開いた。ひかりは黙って視線を注いだ。
「身体の弱いわたくしを案じて早く縁組を整えたいと思っていることも、お父様に再婚の話があることも存じています。それでも結婚などしたくありません。このまま女学校にいたい。顔さえろくに存じ上げない殿方に、嫁ぎたくありません」
絞り出すような声だった。
当時、女性の生き方を決めるのは親や親族であり、本人の意思など通るわけもなかった。
従順さこそ婦徳とされており、上流階級であれば、尚更それは顕著だった。
ひかりは我が身に置き換えてみた。
自分が誠一とともに歩むことはないだろう。そう悟る今でも、結ばれる未来を心のどこかで夢見る自分がいる。
あの父母が結婚相手を勝手に決めるとは考え難いが、女学校を辞め、好きでもない男性に嫁ぐなど、さらに想像もつかなかった。
そんなのは厭だと心の底から思い、とき江の嘆きはもっともだと納得した。
「どんな物事にも」
しばらく考えて、せめてもの慰めになればと、ひかりは口を開いた。
「必ず良い面があります。そちら側を見るようにすれば、どんな状況にあっても、きっとお幸せでいられますわ」
かつて父にそう言われたときには反論したのに、二度も口にしているということは、案外気に入っているのかもしれない。
言いながら、他人事のようにそう思った。
とき江は表情をいっそう険しくした。
「一体どんないいことがあるというのです。お慕いしているかたから離れて、ろくな噂も聞かない男性に嫁ぐわたくしに」
また怒られた、と思いながら、ひかりは何か引っかかるものを感じた。
三秒ほどして気付く。
「とき江さま。どなたか、お慕いしているかたがいらっしゃるの?」
ぽかんと尋ねるひかりを前に、とき江の顔はみるみる朱に染まる。
「そうでしたの。それでは、余計にお辛いですわね」
ひかりはさらに深く同情した。赤い顔のまま、とき江は無言でそっぽを向く。
「せめてそのおかたに、お気持ちを伝えられたらいかがですか」
「そんなことをして、いったいなんになるのです」
顔を反らしたまま、吐き捨てるようにとき江は反駁した。
「おっしゃらなければ、そのおかたはずっと、とき江さまのお心を知らぬままです。それでは、なかったことと同じではありませんか。どれほどお好きだったのかをお伝えすれば、そのおかたの心のなかに、留まることができるやもしれません」
言いながらひかりは、自分は誠一に気持ちを伝えられるだろうかと頭の隅で考えた。
無理だった。それに、あの女性が恋人だったとしたら、想いを伝えてなんになろう。
もしかすると、とき江の想い人にも、恋人がいるのだろうか。
「あの、差支えなければで結構ですが、お慕いしているのは、どのようなおかたなのか、お尋ねしても?」
「そんなこと聞いて、どうなさるの」
とき江の頬はもはや、熟した苺の色だった。
「どうもいたしません。先ほど申し上げたとおり、おっしゃらなくても結構です。自分の心に大切にしまっておきたいというお気持ちは、わたくしにもわかります」
たとえ叶わないとしても誠一を想う気持ちは宝物で、おいそれと人に示すものではない。
「……ちょうど今、ここにおります」
ぽつりとこぼれたとき江の言葉を受けて、ひかりはきょろきょろあたりを見渡した。
この場にいるのはとき江と自分だけと思い込んでいた。他に誰がいたのだろう。
目に入るのは浜辺でエサをついばむ海鳥数羽と、赤茶の毛をした野犬だけだった。
野犬は付近の者からエサをもらっているようで、肉付きも毛並みも悪くない。
軽快な足取りで砂浜をさくさく歩く姿は颯爽としていた。
しばらく考え込んだのち、ひかりは疑わしそうに口を開いた。
「あの、まさかとは思いますが、とき江さまは、あちらの犬がお好きなのですか?」
「……犬?」
不思議そうに呟いてから、とき江は野犬に目を留めた。
「あの、でも、犬でしたら、婚家に連れて行かれても大丈夫なのでは? 幸いと言ってはなんですが、犬なら不貞にも当たりませんし」
言葉にしながら考えをまとめるひかりに、とき江の怒りが爆発した。火を噴くような勢いで怒鳴りつける。
「どうしてわたくしが犬に恋い焦がれなければならないのです! あなたです、ひかりさま! あなた以外、誰がいるというのです!」
「まぁ。わたくし、ですか……」
思いがけない答えに、ひかりは痴人のように呆然と呟く。
「そうですわ! 遅刻ぎりぎりで、全力で校門から疾走するお姿も、お髪がぼさぼさになってお化粧が崩れても頓着されない大雑把なところも、お昼のお弁当を誰よりも早く召し上がって、その後の授業でうたた寝するのん気なご様子も、廊下を歩いていても聞こえるくらい大きく、お教室で笑っているお声も。わたくしはいつも、すべて見て、聞いておりました!」
想いを告げられているのにうれしくない。恥を晒されたうえ、叱られている気分だ。
どうせならもう少しマシなところを見ていてくれればいいのにと、ひかりは内心で嘆いた。
「それでどうして、わたくしを、その……」
ひかりの問いに、とき江は声を落として応じた。逆上した自分に気付いたようだった。
「なぜお慕いするようになったのかなんて、わたくしにもわかりません。いつでも思うがまま、自由にのびのび過ごしているところなのか、物事にこだわらないおおらかなところなのか、屈託なく笑っているお顔なのか、わたくしとは全く違うところなのか。どこが好きなのか、自分でもわからないのです」
もはやお手上げだった。
とき江自身にすらわからないのなら、自分に理解できるはずもない。
慕われているなど、想像だにしなかった。むしろ嫌われていると信じ込んでいた。
今でも、さっきの野犬を慕っていると言われたほうが、まだしも納得できる。
うつむくとき江の目から、涙が一筋つたい落ちた。
「ひかりさまと離れたくありません。授業中、お教室から外を眺めておられる横顔を、見世物のように人力車で通学するわたくしの横を、お喋りしながら通り過ぎるお姿を、二度と見られなくなるなんて。どうして今日、わたくしを追ってきたのです。こんなこと、口が裂けても申し上げたくなかったのに」
とき江は独り言のように言葉を連ねる。
「申し訳ありません」
ひかりは思わず謝ってしまった。
「どうして謝ったりするのです。謝るくらいなら、最初からお訊きにならないで。やはり申し上げるべきではありませんでした」
そして、涙を拭いながら不貞腐れるとき江を、可愛らしいと思った。
常ならば壁を作って触れさせない剥き出しの感情を、今のとき江は全身から発散させている。取り澄ました日頃の姿より幼くて、親しみを感じた。
「では、ありがとうございます」
「なぜ礼など」
赤い目を伏せて、拗ねた口調で呟くとき江に、ひかりは明るく笑いかけた。
「おっしゃって下さらなければ、わたくしは一生、とき江さまに嫌われていたと思ったままで終わったでしょう。お蔭さまで、誤解を解くことができました。これから、お友達になれますわ」
とき江は戸惑ったように顔をあげた。
「わたくしは、近々この学校を去るのに」
ひかりはにっこりと笑った。
「鎌倉にあっても、フランスにいるお父様と、お手紙を交わせる時代です。とき江さまは日本にいらっしゃるのでしょう? お手紙でやり取りできますわ。たとえどこか遠くにいかれるとしても、お互い生きてさえいれば、いつかまた会えるはずです」
「生きてさえいれば……」
「そうですわ。ですからわたくしたちずっと、一生懸命に生きていきましょう。それから、お手紙を送り合いましょう。そうしてお友達になりましょう」
ひかりの言葉に、とき江は再び俯いた。それから小声でなにごとか囁いた。
「とき江さま。なにかおっしゃって?」
問い掛けるひかりの顔を睨みつけるように、とき江は顔をあげた。その頬はいまだに赤い。
「ありがとうございますと、そう申し上げました!」
「そうでしたの。申し訳ありません」
とき江の勢いに押され、ひかりはまたしても謝ってしまった。
「ですから! どうして謝られるのですか!」
「理由はないのですが、なんとなく……」
口ごもりながらとき江の顔を見ると、真っ直ぐに目が合った。
どちらからともなく、ぷっと吹き出す。
そして二人は、はしたないほど大きな声で笑い合った。しまいには涙が出た。
「ああもう。ひかりさまのせいです」
目の端を拭き拭き、とき江がこぼした。
「なにがでしょうか」
問い返すひかりに、とき江は大輪の花のような笑みを浮かべた。
とき江の笑顔を目にするのは初めてだった。追ってきてよかったのだと、そのとき初めてひかりは思えた。
「わたくしがこんなみっともない姿を晒すことになったのは、全部ひかりさまのせいです。責任をとっていただかないと」
抗議を口にしても、とき江の表情は明るい。
長年胸につかえていたものを吐き出したせいか、憑き物が落ちたように清々とした面持ちだった。
「かしこまりました。それでは責任を取って、一緒に先生のお叱りを受けます。さ、学校へ戻りましょう、とき江さま」
ひかりも笑顔を浮かべて、とき江へと手を差し伸べた。
「そういたしましょう。きっとわたくしたち、たくさんお小言をいただきますわね」
差しのべられた手を取りながら、とき江は再び笑んだ。
それから二人は、きらきら波打つ海をあとにして、手を繋ぎながら女学校へと戻った。
校門付近には先ほどの守衛と教師が数名いて、ひかりととき江の姿をみとめると安堵の表情を浮かべた。
予想に反して、教師たちは二人に対し、たいした叱責は与えなかった。
授業を放棄して勝手に学校を出ていかぬようにと厳重な注意は受けたが、それ以上の言葉はない。
二人の知らぬことだが、ひさ乃をはじめとする級友たちが事の経緯を説明し、とき江が教室を出て行ったのは自分たちのせいであると訴えたためだった。
ひかりがとき江を連れ戻す為に後を追ったことも、きちんと申し添えていた。
殊勝に謝り、並んで職員室を出たとき江とひかりは顔を見合わせた。
「思ったよりも、お叱りを受けませんでしたわね」
とき江は首を傾げながら呟いた。
「そうですわね。でしたら、もう少しゆっくりと海を眺めていればよかったでしょうか」
ひかりはのどかに応じた。
「ひかりさま。反省しておられないのですか」
たしなめるとき江の顔に、今までの険はない。
これが本当のとき江なのかもしれない、とひかりは思った。
とき江が退学して距離は遠くなったとしても、今日一日で心は近づいた。
これからさらに、知らなかったことを知っていく予感があった。
とき江はそれから約二週間後の初秋のある日、女学校を去った。
蒲柳の質で、静養を兼ねて鎌倉の別荘に住んでいたが、婚礼の支度のために東京は麹町にある本邸へ戻った。
そしてその三日後、高輪にある結城男爵家に嫁した。
屋敷に着いて奥の間に通されたとき江は、不安な心を華やかな晴れ着に包み、俯いて夫となる人を待っていた。
籍を入れるのはしばらく先になるとはいえ、これからの生涯を共にする人だ。
妻として仕えていくのがどういう人間か、不安でいっぱいだった。
とき江の知らぬ間に話がまとまってしまったので、見合い写真のほかは顔を見たことさえない。当人同士が一度も対面することなく結婚するのは、珍しくもないことだった。
結婚は家と家との結びつきで、個人の感情が斟酌されることなど、ほとんどない。
写真に写った夫となる人は、三十一歳という年齢より若く見え、顔立ちも端正だった。
しかしその表情は固く、厳めしい印象で、写真を見たとき江は心が沈むのを感じた。
ただでさえ人見知りする質なのに、気難しそうな夫とうまくやっていけるのか、考えるだけで気が滅入った。
胸に詰まった重苦しい感情を吐き出すように、ため息をつこうとしたそのときだった。勢いよく扉が開いた。
「ナイス トゥ ミート ユー!」
二十代半ばほどに見える、明らかに日本人の男性が一人、とき江に笑いかけている。
「ナ、ナイス トゥ ミート ユー トゥー」
つられて英語で応じると、男性の笑みが弾けた。
「さすが湘南の学習院と呼ばれる女学校におられただけありますね。英語の授業も充実していると評判ですし、授業参観に行った母も、素晴らしい学校だと感心していました」
「……お、恐れ入り、ます」
不安も憂鬱も忘れ、とき江は呆気にとられながら礼を述べた。
結城家が叙爵したのは明治維新の際、薩長と幕府を取り持った功績を認められたためだった。
とき江の夫となる高志の祖父は薩摩藩の幕臣で、慶応元年に留学生として英国に派遣された。そういった家柄のため、今でも異国との関わりは深い。高志自身、英国に留学したことがある。
現在は商社を営んでおり、大正九年ごろから始まった第一次世界大戦後の不況も、なんとか乗り切っていた。
「おとうさまー。そのかたが、お母さまになるかたですか」
男性の後ろから桃色のきものを着た、おかっぱ頭の女児が、弾むような足取りで現れた。
小さな乱入者の年の頃は、みっつかよっつだろうか。身の回りに小児のいないとき江には、見当をつけかねた。
年齢はわからなくとも、この子どもが誰で、子どもの父親が誰かわかった。
とき江は深々と頭を下げた。
「高志さまと波子さまですね。初めまして。とき江と申します。よろしくお願い致します」
高志も軽く頭を下げた。それから笑いかけた。
「ご覧のとおり、お転婆娘のいる男やもめですが、こちらこそよろしく」
見合い写真の印象とはかけ離れた軽やかな言動に、とき江は肩の力の抜けるのを感じた。
「おてんば、むすめですか」
父親の足に抱きつきながら自分を見上げている女児に目をあて、とき江は呟いた。
高志は苦笑いした。
「初対面のあなたに遠慮があるようで、今は大人しいですが。見合い写真を撮るときも、キャメラの向こう側でおかしな顔をして私を笑わそうとしたり、とにかく大変ないたずら娘です。笑いをこらえていたせいで、ひどい写真になってしまった。亡き妻は大人しい人だったのですがね。いったい誰に似たのやら」
ぼやきながら、高志は愛娘の頭をくしゃくしゃと撫でた。波子は声を立てて笑った。
前妻の菊衣は、大正八年に大流行したスペイン風邪で病没していた。波子が一歳になった頃のことだ。
妻の死に沈む間もなく、高志は自社を戦後不況から守るために奮闘せざるを得なかった。
むしろ妻を失った悲しみから目を逸らすように夜遅くまで働き、疲れ切って会社に泊まり込むこともたびたびだった。
なりふり構わぬ仕事ぶりは、他人の目には奇異と映るほどだった。変人と言う噂はそのとき立ったのだろうと、あとになってとき江は推測したものだ。
「最近になって、ようやく落ち着いてきましてね。寂しさを感じる余裕も出てきました。亡くなった妻が心から消える日は来ないでしょう。それでも、波子に母親を与えたい気持ちはあります。両親にそう言ったら、私の気が変わらぬうちにと、張り切って探し始めました。そうしてあなたが良いのではないか、と。私のように一回り以上も年上のやもめでは、申し訳ないような気もするのですがね」
右腕で波子を愛おしげに抱き上げながら、率直に胸の内を語る高志を前にして、とき江の心に、なにか新しい感情がうまれた。
前妻に気持ちを残し、子どもの母親が欲しいという理由で再婚を望む、倍ほど年上の男性を、知らぬ間にゆるしていた。
この人なら大丈夫と、理由もなく確信した。
飄々とした人懐こい雰囲気が、どことなくひかりに似ている。そう思ったら自然と笑顔になっていた。
とき江の笑顔に、高志も微笑んだ。
「さて。そろそろ式の時間です」
そう言いながら、とき江に左手を差し伸べる。
笑みを顔に残したまま、とき江は頷いて、その手を取った。
握り返す手のひらは、ひかりよりもずっと大きく、節くれだっている。それでも暖かさは、だいたい同じだった。
式は結城家の応接間で挙げられた。
参列したのはごく身近な親族のみで、とき江の身内は祖父母と父だけだった。
神主が青々とした榊を振り払い、盃事は滞りなく終わった。そうしてとき江は新妻となった。
ひかりがとき江からの手紙を受け取ったのは十月に入ってすぐのことで、そこには新居での生活や夫のこと、それから娘の波子の話が生き生きと描かれていた。
手紙を読み終えたひかりは胸を撫で下ろした。とき江の事を、彼女なりに案じていた。
ひかりは学校での生活や自分の身の回りのことを綴って、すぐに返信した。
文通はその後もずっと続いた。
そしてひかりの言葉通り、二人はゆっくりと親しくなり、生涯の友となっていった。
とき江の去ったあとも学校生活は変化なく続き、季節はつつがなく移り変わっていった。
木々の色づく秋を終えるとまもなく初霜が降り、吐く息の白く染まる季節になった。
そうして、大正十二年を迎えた。
無事に進級して二年生になったひかりは、級友たちと楽しく過ごしつつ、勉学に励んでいた。
ひかりの通う女学校は当時にしては珍しく、女子にも高い知識教養が必要であるとして、程度の高い授業を行っていた。
特に英語教育に力を入れており、米国人の教師を招いて、生きた英会話の授業も行っていた。
ひかりは勉強が好きだった。
図画の授業で写生をすれば、本当に実父が画家かと疑われる絵を描きあげたし、裁縫の授業では誰もが失笑する、惨憺たる仕上がりの浴衣を縫い上げた。
数学や理科もそこそこだったが、国語や英語は得意だった。
国語は作文が好きで、賞をとったこともある。それを喜んだ透は、ひかりに赤い革張りの日記帳を与え、毎日文章を書くよう勧めた。
それ以来、眠る前のひとときに日記をしたためるのが、ひかりの日課となった。
異国人の教師に対しても果敢に話す姿勢が功を奏したようで、英語の成績も学年で上位にいた。
綴りを覚えることも苦にならないらしく、地道に一語一語覚えて身に付けていった。
「知らないことを知るのは楽しくありませんか? それにもっと英語を喋れれば、異国人のお友達もできるやもしれません」
好成績の理由を問われてそう答えるひかりに、級友たちは驚嘆した。
「まぁ。異国のかたと、お友達になりたいのですか? わたくしはどうも恐ろしくて……」
「そもそも異人さんと、なにをお話しになるのです?」
ひかりは少し考え込んだ。
「そのかたの住むお国の話を聞かせていただきたいですわね。それから、おいしい食べ物の話にも興味がありますわ」
「やだ、もう、ひかりさまったら。食いしん坊でいらっしゃるのね」
笑いさざめく級友は、昨年と比べて少し減った。縁談がまとまり、退学した者がいるためだ。一年次に級長だったひさ乃もすでに退学し、人妻となっていた。
女学校に残っている級友たちの多くも、嫁ぎ先が決まっていた。
ひかりに縁談はなかった。
その時代にしては珍しく、父母はひかり自身が未来を決めることを許していた。
もとより常識から外れた家庭だ。無理に世間と足並みを揃えるつもりはなかった。
親類や縁者が少ないため、身の回りに話を進める者もない。
重文はひかりの行く末を気にかけていたが、透やみつがなるようになると思っている以上、口出しするつもりはなかった。
それはひかりにとって幸いなことだった。
級友たちが続々と結婚しても、自分が嫁ぐことなど想像もつかない。
今のところなんの展望もないが、そのうち見えてくるはずと、のん気に構えていた。
漠然と職業婦人に憧れ、文章や英語を生かす仕事をしたいと思う日もあれば、大好きなこの女学校に残るため、教師を目指そうかと思う日もあった。
このさき縁あって結婚するかもしれないし、誠一の妻になる可能性もまだ捨てきれない。
現実が見えるまで人は誰しも自由で、想像の中だけでなら何にでもなれるし、どんなこともできる。
ただしそれは永遠には続かない。いつしか現実の追いつく日がやってくる。
長雨続く六月、ひかりは女学校から帰る途中に、父の薬を取りに斎藤医師の診療所へ立ち寄ろうとしていた。
透は梅雨時期に体調を崩しがちで、今年も二週間ほど前から臥せっていた。
女学校から駅を通り過ぎて、すこし行った鎌倉の街中に診療所はある。
裏手には住居があり、医師は老妻や書生とともに暮らしている。誠一もしばしばここに泊まっていた。
斎藤診療所はいつも賑わっていた。
周辺住人や別荘に滞在する者が、流感からおできまで様々な症状でここを訪れて、治療を受けた。
斎藤医師は午前中に透の往診を済ませて、授業が終わるまでに調剤し、帰宅するひかりに薬を渡せるよう準備することになっていた。
前もって女学校に知らせてあるため、この寄り道を咎められることはない。
ひかりは緋色の蛇の目傘を差して、のんびりと歩いていた。
軒先や生け垣など、いたるところで紫陽花が鮮やかに滲み、目を楽しませている。
音もなく、しとしと空気を潤す雨はかぐわしい。ひかりは大きく息を吸い込んだ。
透は昨晩あたりから快方に向かっているので、花にみとれたり、雨を楽しむ余裕があった。
靴や着物が濡れるのはわずらわしいが、雨は嫌いではない。晴天とは違う魅力がある。
一人の道行きを楽しんでいたひかりは、診療所の手前でふと足を止めた。
通りの向こうから、黒いコウモリ傘を差した誠一が歩いてくる。
そのあとを、薄青の傘を差した女が付いてきていた。
ひかりに気付いた誠一は、はっとした顔になり、それからぎこちなく微笑んだ。
笑顔の前の深刻な表情は、ひかりが初めて目にするものだった。
「こんにちは、ひかりちゃん。今日はどうしましたか」
普段通りに話しかける誠一に、ひかりも笑顔をつくる。
「こんにちは。父のお薬を取りに来ました」
「それはご苦労様。お父さんのお加減はいかがです」
「お蔭様でだいぶ。昨日の夜からは、食事も摂れるようになりました」
「そう。それはよかった」
誠一は言葉を切ると、後ろを振り返った。
「ひろさん、この子がひかりちゃんです」
薄青の下から、女が顔を覗かせた。
地味な紺の着物の衿口から白い首筋がすっと伸び、細面な顔に続いている。
あの夏の日に日比谷公園で誠一といた女であることは、顔を見る前からわかっていた。
「はじめまして。お噂はかねがね伺っております。関口ひろと申します」
体つきと同じで声も細い。雪解け水のように澄んだ、耳に心地よい声色だった。
「は、はじめまして。石井ひかりです」
ぎこちなく挨拶を交わす三人の横で、扉が開いた。
診療所の引き戸には、擦り硝子が嵌め込まれている。硝子越しに人影を見た看護婦が、患者が来たかと何気なく開けたのだ。
看護婦は誠一を見ると目を見開いた。
「まぁ、誠一さん! せ、先生! 誠一さんが見えましたよ」
そう言いながら、足早に診療室へと入っていく。
しばしば診療所に住みこんでいる誠一が戻っただけにしてはずいぶん仰々しい出迎えで、ひかりは首を傾げた。
小雨のためか、診療所は珍しく空いていた。
待合室では診察を終えた老女が一名、薬が処方されるのを待っているだけだった。
診察室にいた斎藤医師は片手に万年筆を持ったまま、早足で玄関まで出てきた。
「誠一! 今までどこにいた!」
温厚な医師にしては珍しい大声だった。
待合室の老女が、驚いたように顔をあげた。
「申し訳ありません。家から連絡がありましたか」
誠一の落ち着いた様子に、斎藤医師は我に返ったように声を落とした。
「ああ。……大橋さん、すみませんが、入り口に休診の札を掛けておいて下さい」
「は、はい」
名を呼ばれた看護婦は、慌てて札を掛けに行く。
「ひかりさん、薬はできているので、受付で受け取って下さい。誠一。来なさい」
そう言うと、くるりと診察室へと戻る。
誠一はひろをかえりみて軽く微笑みかけ、それから神妙な面持ちで医師の後を追った。
取り残されたひろは、たたんだ黒のコウモリ傘と薄青の傘を両手に持ち、心細そうに玄関の隅に立ちつくしていた。水滴が垂れて足袋を濡らすのにも気づかぬようだった。
美しい顔立ちは変わらないが、疲労が色濃く浮かんでいる。顔色も優れない。ほんの僅かのうちに、一挙に年齢を重ねたような印象があった。
日比谷公園で見かけたときには、誠一より一歳か二歳ほど年下の二十歳前後かと思ったが、今は年上のように見える。
受付の女性が老女を呼び、会計をして薬を渡す。老人特有のゆったりした動作で薬を受け取ると、老女は診療所を出て行った。
その間もずっと、ひろは所在無げに佇んでいた。
「ええと、ひろさん。とりあえず傘をそこに置いて、待合室で待ちませんか」
ひかりの性分では、ひろを無視することはできなかった。ひろはおずおずと傘を立て掛けて、待合室へと上がった。
ひかりも履き物を脱いで上がると、受付で薬を受け取った。
通学用の風呂敷に薬をしまいながら、背後にいるひろを思った。不安そうな表情が気になった。
荷物をまとめて振り向くと、ひろは待合室の隅に立って、診察室の扉を眺めていた。
今にも泣きだしそうな風情に、ひかりは考えるよりも先に歩み寄っていた。
「せっかく椅子があるのですから、座りましょう。ちょっと硬いんですけど」
少し笑ってみせて、そっとひろの手を引く。
雑に触れたら折れてしまいそうなくらい、細く華奢な手首だった。小雨のせいか、しっとりと冷たい。
ひろを座らせると、ひかりも隣に座った。
薬を受け取ったのだから、自分がここにいる必要などどこにもない。快方に向かっているとはいえ、父のことも気にかかる。
それでも、ひろを残して帰る気にはなれなかった。
「ありがとうございます。誠一さんがおっしゃっていたとおり、お優しいんですね」
ひろの静かな声が胸にざらりと響く。
誠一はこの人と一緒にすごして色々なことを話し、笑顔を浮かべたのだろう。
日比谷公園で二人を見かけたときのことを思い出した。
夏の太陽の下で幸せそうに歩く姿は今もなお、目の奥に焼き付いている。
それでも笑顔を保った。
「誠一さんが何をおっしゃったか、聞くのはよしておきますわね。きっと、お猿のように木に登って落ちているお転婆娘とでもおっしゃっているのでしょうから」
ひろもかすかに笑みを浮かべた。
「まぁ。木に登られるのですか。お元気で、よろしいですね。誠一さんはひかりさんのことを、優しい子とおっしゃっていましたよ。お父様のことを心配して、一生懸命お世話をなさっていると」
きれいな言葉づかいのところどころに、聞き慣れない抑揚がある。
おそらくどこか遠くの出身なのだろうと思う間も、心はざわついていた。
誠一のなかに自分の存在があるのは嬉しい。だけど、どういうときに、どんな表情で自分のことを話したのか、想像すると苦しくなった。
誠一と同じ時間をすごせるひろが羨ましかった。
木造の診療所に打ちつける雨音は、沈黙を埋めるように、次第に強くなっていく。
「お父様を、お好きですか」
しばらくして、ひろがぽつりと訊いた。
「はい」
迷わず答えるひかりに、ひろは力ない笑みを浮かべた。
「ひかりさんが羨ましいです」
「え?」
誠一といられるこの人が、どうして自分を羨むのか理解できず、ひかりはひろを窺った。
ひろはどこかうつろな視線で、自らの足袋を眺めていた。
雨水が撥ね、土で汚れた足袋には、繕ったあとがある。
よく見てみると、着ている単衣もたいぶ着込んでいるようで、少し草臥れていた。
「私の郷は山形の農村で、貧乏人の子だくさんと言うとおり、兄弟姉妹合わせて七人います。いえ、いました、と申し上げるべきでしょう。姉と弟一人ずつと、妹二人を、栄養不良で亡くしておりますので。ずっと働きづめだった母も、若くして亡くなりました」
ひかりは黙って、独り言のようにぽつぽつ話すひろの横顔に視線を注いでいた。
「小学校まではなんとか通わせてもらえましたが、そのあとは外に出されました。口減らしです。苦界に沈まずにすんだだけ、まだしも恵まれていたのでしょう」
人が胸の内に詰まった秘密や痛みを打ち明けるのは、親しい相手だけにではない。
むしろ赤の他人のほうが、しがらみのないぶん、率直な思いを吐き出せることもある。
「奉公に出されて三年ほど働きましたが、色々あって、そこにいられなくなりました。流れ着いたのは銀座のカフェで、私は女給として働き始めました。そこで出逢ってしまいました」
明治時代に日本に登場したカフェは、洋風の酒場だった。
カフェの本場フランスと同じく、コーヒーを飲むこともできたが、一番の売りは白エプロン姿も眩しい、美しい女給たちだった。
そこでひろが誰と出逢ったのかは聞くまでもない。ひかりは診察室の扉に目をやった。
締め切った扉の向こうで、医師と誠一がなにを話しているのかは、一切漏れ聞こえてこない。
今なにが起こっているのか、どうしてひろが誠一との出逢いをこんなに悲しそうな目で話すのか、ひとつも理解できない。
話すことも思いつかないので、黙って隣にいた。
古びた木造の待合室で、篠突く雨音に包まれていると、世界で二人きりになったような心もちになった。
ふいに診察室から、勢いよく椅子から立ち上がったような、ガタンという音がした。
次の瞬間に扉が開き、険しい表情の誠一が出てきた。
「待ちなさい。話はまだ終わってない」
斎藤医師も厳しい表情で、音を立てて椅子から立ち上がり、甥の手をつかむ。
誠一はその手を振り払った。
「いいえ、話はお終いです。なにを捨てることになっても、僕はひろさんと生きていく。そう決めたんです」
医師は振り払われた手を、今度は誠一の肩にかけた。常にない、荒々しい仕草だった。
「私はなにも、彼女との仲を反対しているわけではない。しかし学業はどうする。医師になる夢はどうした。お前の気持ちは、そんな生半可なものだったのか!」
誠一はがくりと肩を落とした。
「……伯父さんのように、医術で多くの人を救いたい。子供の頃からの夢は今でも変わりません。だけど僕はひろさんと出逢ってしまった。好きな女性ひとりも救えない人間に、医師になる資格などない。そう思うんです」
誠一の言葉に、ひろは立ち上がった。
「いいえ、誠一さん。もう充分です。私はもう、充分幸せです。これで終わりにしましょう。そうして、お互いの道を進みましょう。それが一番良いのです。そうでしょう?」
か細い声なのに、きっぱりした口調だった。
誠一はどこかが強く痛むような顔つきになった。
消えてしまうのを恐れるかのように、早足にひろに歩み寄る。それから両手でひろの両手を包みこんだ。
「そうは思わない。君と離れることなど、僕にはもう、考えもつかないんだ。どんな場所でも、誰にそしられようとも、君さえいてくれればそれでいい。君は違うのか」
ひろは潤んだ眼で誠一を見上げた。
「私のせいで、誠一さんに迷惑をかけたくありません」
「君に関わることで、迷惑なことなどひとつもない。ずっと一緒にいたい。それがそんなにいけないことか」
「長く志していた夢や、ご家族を捨てることになって、本当にいいのですか? 今はよくとも、いずれあなたは後悔します。全てを捨てて、私と一緒になったことを」
「そんなこと……」
「はいそこまで!」
がらりと診療所の引き戸を開けて二人の諍いを威勢よく遮ったのは、斎藤医師の妻女、喜久だった。誠一とひろは、驚いて手を離した。
喜久はふくよかな身体つきで縞の着物を粋に着こなし、銀髪は形よい髷にしている。
隣に、先ほどの看護婦がいた。この事態を収拾させるべく、休診の札を下げたその足で、裏手にある住まいから喜久を呼んできたのだ。
ちゃきちゃきの江戸っ子の喜久は、おっとりした夫に対し、はっきりした気性で気風がいい。正反対の性格が、夫婦円満の秘訣かも知れなかった。
二人の間に子はない。その代わり、医学を志す甥を、我が子のように慈しんでいた。
「あなた、お名前は?」
突然に現れた老女に戸惑いつつも、ひろは丁寧に頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。関口ひろと申します」
「ひろさんね。あなた、うるさくても眠れる?」
思いがけない質問にひろはきょとんとし、それからおずおずと頷いた。
「は、はい……」
喜久はにっこりと笑った。
「それなら大丈夫ね。今晩は私の部屋で休みなさい。私と主人は隣室で休ませてもらうけど、歳のせいか、どちらもイビキが酷いのよ。繊細な人なら、きっと一睡もできないわ」
そう言うと、優しい目でひろを見る。
「横幅はちょっと違うけど、背丈はだいたいおんなじね。私の浴衣を貸したげましょう」
「え……?」
きょとんとしたのは、ひろだけではない。その場に居合わせた、喜久以外の全員だった。
「お、お前……」
一番最初に口を開いたのは医師だった。
喜久は、その存在に初めて気づいたと言わんばかりの表情で夫をかえりみた。
「ああ、あなた。今晩は誠一さんとひろさんを泊めますよ。その後のことは、これから決めればいいじゃあありませんか」
「しかし……」
「しかしもカカシもありません。このままでは、二度と誠一さんに会えなくなりますよ。 私はそんなの厭ですからね」
「伯母さん……」
言葉を詰まらせる甥に、喜久はにっと笑いかけた。
「もちろん、誠一さんは別室ですよ。いつもの部屋をお使いなさい。ところで二人とも、昼食は摂ったの」
伯母の問いに、誠一は虚を突かれたような顔になったが、律儀に応じる。
「いいえ、まだです」
「だから、そんな湿気た顔をしているのね。二人ともいらっしゃい。頂き物のお菓子があるから、お茶を立ててあげましょう。お腹が膨れれば元気が出るわ」
喜久はからりと言って、ひろの手を取った。その細さに眉をひそめる。
「あら、いやだ。あなたみたいに若い娘が、こんなに痩せて。これじゃあ、丈夫な子どもが産めませんよ。たくさんお食べなさい」
「伯母さん! 子どもだなんて、僕らそんなことは……!」
「あらそう?」
顔を赤らめて反駁する誠一を、喜久は明るく笑い飛ばす。
「小母さま……」
朗らかな喜久の気遣いに、黒目がちなひろの瞳から涙が溢れた。
「ほら、あなたも。今日はもう休診にするのなら、一緒にお茶を飲みましょう」
そう言って、喜久は夫を振り返る。斎藤医師は、不承不承といった体で頷いた。
「大橋さん。申し訳ないが、ここを閉めておいてください」
「は、はい、先生。わかりました」
頷く看護婦とひかりを残して、斎藤夫妻と誠一たちは、住まいへと引き上げていった。
「なんとか、うまくまとまりそうですね」
ため息まじりの看護婦の言葉に、ひかりは黙って頷いた。
部外者なのに一部始終を目にすることになって、罪悪感に似た気まり悪さを感じる。
これ以上ないほどの大失恋なのに、あまりの出来事に心が麻痺して、今はなにも感じられない。
ひかりの気を知らぬ看護婦は言葉を続ける。
「本当によかったです。駆け落ちする前に、先生や奥様に顔を見せる分別が、誠一さんにおありで」
「……駆け落ち」
看護婦の言葉を繰り返しながら、ひかりはかつてないほど鋭く胸が痛むのを感じた。
喋りすぎたことにようやく気付いたらしく、看護婦は気まずそうな表情になった。
「申し訳ありません。いらぬことを口にしました」
ひかりは痛む心を押し隠し、笑顔のようなものを、かろうじてこしらえた。
「いいえ、そんな。あの、この件は、他人には口外しませんので、どうぞご心配なく」
ひかりの言葉に、看護婦はホッとした顔つきになった。
診療所から自宅まで、どうやって帰ったのか覚えていない。
いつも通り汽車に乗り、きちんと傘をさし、短くはない山道を歩いたらしく、いつのまにか見慣れた門の前に着いていた。
ひかりは大きく深呼吸をした。
さっきまでの出来事は、ひとまず全て忘れよう。
父母にも誰にも、なにも言ってはいけない。
看護婦との約束もあるし、口にすることによって誠一への気持ちを晒すのが怖かった。
しばらくその場に立ちつくし、気を落ちつけてから屋敷に入る。出迎えのハナに明るく帰宅を告げ、父の部屋へ向かった。
母は父の寝台のそばに腰掛けて、縫物をしていた。
「お父様、お母様。ただいま戻りました」
横になっていた透は、ゆっくりと身体を起こした。みつも顔を上げて、ひかりを見た。
「遅かったな。なにかあったか」
父の顔色は、今朝より更によくなっている。
ひかりは安堵しながら、心配をかけてしまったことを詫びた。
「いいえ、なにも。遅くなって、申し訳ありませんでした」
そう言いながら、風呂敷から薬を取り出して母に渡す。
娘の表情に、みつは違和感を覚えた。
どこがどうとは言えないが、いつものひかりと何かが違う。気の高ぶっているのを、意識的に抑えているようなぎこちなさがある。
内心で首を傾げつつも、みつは疑問を口にしなかった。
病んで臥せっている夫に心配をかけたくないし、もしかすると自分の思い過ごしかも知れない。
しかし夫抜きでの夕食の時間、やはりいつもと違うと確信した。
ひかりの箸はほとんど進まず、ふとした瞬間に魂の抜けたような表情になる。
かと思うと、藪から棒に女学校での出来事を、勢いよく話しだす。
いかにも心ここにあらずといった様子に、みつはどうするべきか逡巡した。
ひかりも年頃の娘だ。秘密や隠し事のひとつやふたつ、あってもおかしくない。こういう場合は、そっとしておくべきなのだろうか。
幼少時の自分は、肉親との縁が薄かった。
それでも、身近な相手にこそ言えないことがあるのは理解できる。
夕食を終えてもひかりは食堂であれこれ囀って、温かい紅茶を飲んでいくのが常だった。
そんなひかりに透はいつも呆れた表情を浮かべ、「お前はまるで明の女版だな。明とお前が二人揃ったら、さぞ騒々しいだろう」と評していた。
それなのに今夜のひかりは、早々に自室へと引き上げていく。
蹌踉とした足取りで階段を昇る娘の背を、みつはじっと眺めていた。
数分のあいだ階下に立ち尽くしていたが、やがて階段を昇っていった。
控えめに扉を叩く音に、寝台に腰掛けて物思いにふけっていたひかりは、どきりと身体を弾ませた。
「入ってもいいかしら」
母の声に、短く応じる。
「どうぞ」
娘の返答を聞いてから、みつは静かに扉を開ける。
「どうかして? 様子が変だわ」
問い掛けながら、みつは部屋に入る。
ひかりは母から目を逸らすように俯いた。
「言いたくなければいいの。でももし話せることなら、お母様に言ってごらんなさい。少しは気持ちが変わるかもしれないわ」
みつはひかりの隣に座り、柔らかい表情で愛娘をみつめた。
しばらくの沈黙の後、ひかりは口を開いた。
看護婦との約束を破ることになるが、母は他人ではない。自分自身にそう言い訳した。
自分の心を母に知られることになっても構わない。ひかりはもう、今の状態に耐えられなかった。
「誠一さんが、駆け落ちするやもしれません」
思いがけない言葉に、みつは目を瞬かせた。
それでも問い返すことなく、ひかりが再び口を開くのを待つ。
「先ほど診療所に伺ったとき、たまたま誠一さんと居合わせました。女性と一緒でした。それで、そんな話を聞きました」
躊躇いがちに話す娘の声は、いつになく頼りなく小さい。それで、ひかりの想いがわかった気がした。
今までも何度か、もしかしたら、と思ったことはあった。
斎藤医師とともに誠一がここを訪れると、ひかりはいつもより少し大人しくなる。
誠一の訪れを知って、こっそりと紅を引き直していたこともあった。
たんに異性を意識する年頃になっただけかとも思ったが、わずかな違和感が残っていた。
「そうだったの」
たった一言の返答で、ひかりは母が自分の気持ちを知ったと悟った。
おそるおそる表情を窺う。母はいつも通りの優しい顔だった。
ひかりは、ほっと気の緩むのを感じた。
「お相手の女性は、美しいかたでした。お二人はお似合いです。誠一さんが幸せになればいいと思います」
ひかりは目の奥が熱くなるのを感じた。止める間もなく涙が一粒、頬を伝って落ちた。
「そうだったの」
同じ言葉を呟きながら、みつは右手をひかりの左手の上にそっと重ねた。
恋に破れて涙する娘を前にして、感慨を覚えた。
かつて、自分も胸を焦がす想いに涙した。
ちょうど今のひかりと同じくらいの年頃だった。
あの気持ちが本当に恋だったのか、今となってはもうわからない。
けれど幼いながら真剣に、透や明の実父である融を慕っていた。叶わぬことは、最初から知っていた。
「どうして人は、人を好きになったりするのでしょうか。好きになったりしなければ、こんな思いをしなくて済んだのに」
問い掛けとも嘆きともつかないひかりの呟きに、みつは微笑んだ。
「そうね。慕っている人から、必ず慕われればいいのだけれど。なかなかそうもいかないわね」
その答えに、ひかりはふと、母も恋に破れたことがあるのだろうかと思った。
幼いころ、母が父と出会う前の話を聞いたことがある。
もしかすると若かりし日に、母も今の自分と同じような思いをして、涙にくれたことがあったのかもしれない。
しかしそれは、たとえ母子の間であろうと尋ねることのできない、立ち入ることなど到底できない領域だった。
黙り込んだひかりに、みつは静かな声で語りかけた。
「人を好きになるのは、自分では決められないことなの。きっと宿命とか運命とか、そういうものね。だけど、いつかひかりにも現れるはずよ。ひかりを好きで、ひかりもその人が好きで、一緒にいると幸せになれる、そういう相手が、いつか必ず」
「どうしてそんなことがわかるのです」
鼻をすすりながら問う娘に、懐から懐紙を出して差し出す。それからくっきりと笑んだ。
「それはね、お母様が、お父様と出逢えたからよ」
ひかりはふいに、父の言葉を思い出した。三田の屋敷に向かう途中、車中で言っていた言葉だ。
どんな物事にも必ず良い面があると言ったあと、自分はいま幸せだと、晴れやかな顔で父は言い切った。
「お母様。お母様はいま、お幸せですか」
唐突なひかりの問いに、みつは目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。
「ええ、とても。お父様と一緒にいられて、ひかりもいるんですもの」
そう断言し、少し遠い目をした。
「明お父様もいらしたら、もっと素敵なのだけれど。世界に通用する才能をお持ちなのだから、中途半端に戻ってきてほしくないわ。納得いくまで道を究めて、いつかここに戻ってきてくれれば、それでいいの」
その呟きは自分に聞かせるためというよりも、母の心から染み出た声のような気がした。
ひかりは口を開く代わりに、耳の奥が痛くなるほど強く鼻をかんだ。
あまりの勢いにみつはちょっと吹き出し、それから小首を傾げた。
「ところで、温かいお紅茶が飲みたいのだけど、ひかりもどう? ハナが作った焼き菓子もあるのよ」
食事が喉を通らなかった自分を、母は見逃していなかった。ひかりは赤い眼で苦笑した。
「そうですね。そういえば、甘いものを頂きたい気がいたします」
みつはそっと立ち上がって、ひかりの手を引いた。
「いらっしゃい。お紅茶を淹れて差し上げましょう」
「はい」
頷きながら立ち上がったひかりは、ふいに自分が母と同じくらいの背丈になっているのに気付いた。
毎日顔を合わせているとなかなか気付けないけれど、時間は着実に過ぎている。いつか母の背を抜く日が来るのだろう。
それでも母はずっと母のままで、一生敵わない相手だった。
この先もずっと、今のように自分の気持ちを読み取って、相応しい慰めを与えてくれるだろう。
大人になったら孝行して、恩返しをしよう。
去年の夏には一緒に行けなかった銀座を、ともに散策し、東京の街並みを見せたい。
一緒に美味しいものを食べたり、美しいものを眺めたい。
そんな未来の訪れを、信じて疑わなかった。
雨だれの音が響く薄暗い和室の隅に、ひろは憂いを含んだ眼で座り込んでいた。
隣室から斎藤医師のイビキが聴こえてくる。喜久の寝息は聞こえてこない。ぐっすり寝入っているのかもしれないが、まだ起きている可能性もある。
ひろは布団に目をやった。枕元の豆ランプが喜久の浴衣を照らしている。白地に朝顔柄の浴衣は、ピシリと糊がきいていた。
できることなら着替えて横になりたいけれど、そんなことは許されない。
ひろは皆が寝静まるのを待って、一人でここを出ていくつもりだった。
事の始まりは奉公していた、神田の紙問屋の若旦那に犯されたことだった。
妻子ある身でひろを見染めたその男は、隙を見計ってひろを凌辱した。
純潔を奪われた日、死のうと思った。
好きでもない男に暴力的に犯され、穢されたことが耐えられなかった。
それなのに死を選べなかったばかりか、その後も若旦那の慰み者でありつづけた。
激しく嫌悪しているのに、拒みきれず堕ちていく自分に絶望した。
一刻も早く死ななければならない。そう思っていたのに、時間はずるずる過ぎていった。
良く晴れた秋のある日、得意先に使いに出されて一人で街中を歩いているとき、全部捨ててしまおうと発作的に決めた。
死ぬくらいなら、なんでもできる。
抜けるように青い空をなにげなく見上げているうち、ふいにそう思いついたのだ。
そのまま、着の身着のままで出奔した。
奉公先に身元を知られている以上、実家に戻るわけにはいかない。
しばらく彷徨ったのち、ひろは銀座のカフェで女給となった。
薄暗いカフェの店内は紫煙が立ち込めて、手回し式の蓄音器から流行歌が流れていた。
こもごも交わされる会話の合間には、女給の嬌声があがった。
学友に連れられ、ひろの勤めるカフェを訪れた誠一は、明らかにその空間に馴染めていなかった。
女給をからかう学友を戸惑った目で見ると、いかにも居心地悪そうにコーヒーをすすっていた。
その様子をなんとはなしに眺めていると、ふいに目が合った。この人は自分の運命の人だと、その瞬間わかった。
冷静に考えれば、思い上がりも甚だしい。
貧しい農家の生まれで、すでに汚れている自分と、良家の子息で、帝大で医学を修める誠一では、釣り合うところなどなにもない。
誠一は五歳年上で、年齢差だけはほどよいが、それ以外の全てが不相応だった。
それなのに、誠一も同じ気持ちだった。
ひろが目に入ったとき、理由も何もなく惹かれた。
恋に落ちた二人が親しくなるのに、時間はかからなかった。
逢引きするようになってすぐ、ひろは自らの過去を誠一に告白した。
もともと身分の違う相手だ。どうせ終わるのならば傷の浅いうちがいい。
二人の気に入りの場所、日比谷公園の池の脇にある東屋で、ひろは全てを打ち明けた。
口にした端から後悔した。この先、この人の背を見て歩くことはないと覚悟した。
聞き終えた誠一は、しばらく黙っていた。
ひろが沈黙に耐えきれなくなった頃、ようやく口を開いた。怖いほど真剣な眼だった。
「一緒にいることを、ゆるしてくれますか」
聞き間違いかと、ひろは首を傾げた。
清い関係であったとしても、婚前に親しい男性がいたというだけで咎められ、離縁されても文句の言えない時代だ。
純潔を重んじる男性が当たり前なのに、この人はどうしてこんなことを尋ねるのだろう。
「僕はそんな非道をおこなって、ひろさんを傷つけたけだものと、同じ性別の生き物です。それでも、一緒にいてくれますか」
「私は、汚れているのに」
戸惑いながら呟くと、誠一は頭を振った。
「いいえ、ひろさんは誰よりも綺麗です。お願いです。僕と一緒にいてください」
一瞬のためらいののち、ひろは頷いた。
この人になら、傷つけられても、裏切られても構わない。どんな結末に終わっても、決して後悔しないだろう。そう思った。
誠一は安堵したように目元を和らげ、いつもの穏やかな表情を浮かべた。
それから、人生で最良の日々が始まった。
誠一はひろの身体に触れなかった。代わりに、心を包みこむような優しい時間をくれた。
帝大卒業後も誠一は研究室に残り、熱意をもって医学に取り組んでいた。
「いつか、診療所を開きましょう。付近に住む者が気安く来られるような、親しみやすい診療所を。傍に住居を構えて、一緒に暮らしましょう。ねぇ、ひろさん」
穏やかに語りかけてくる恋人に、ひろは微笑して頷いた。
誠一と家庭を築き、やがて子どもが生まれる。豊かでなくていい。ただ、家族全員で仲良く暮らしたい。そんな夢を見てしまった。
夢はいつか覚めるものと気付かされたのは、一週間前のことだ。
五月の末、勤めを終えてカフェから出てきたひろは、視線の先に見慣れた顔をとらえ、身体が強張るのを感じた。紙問屋の若旦那だった。幸い相手は気付いていないようだ。
野生の小動物のように素早く踵を返そうとしたそのとき、気付かれてしまった。
若旦那は信じられないものを見た驚きに大きく目を見開いたが、数秒後に大股で歩み寄ってきた。
「ひろ! こんなところにいたのか!」
大声とともに荒々しく手首を掴まれ、ひろは身を竦めた。逃げようにも、足が震えて動けない。
愕然と立ち尽くすひろに、若旦那は自分がいかに寂しかったか滔々と語り、舐めるような目つきでひろの身体を眺めた。
実家にまで足を運んだと聞かされた時は、目の前が暗くなった。逃げ帰ってもいずれは捕まると、改めて思い知らされた。
「こうして再会できたのは運命だったのだな。じつは去年末に、妻が亡くなってな。今ならお前を妻にも迎えられる」
その言葉で、ひろはようやく自分を取り戻した。
連れ戻されれば、この厭わしい男の玩具に逆戻りだ。妻に迎えると言われれば、父は喜んで自分を差し出すだろう。
そんなことになれば、誠一と会うことはおろか、この男から離れることも許されなくなる。そんな考えが、瞬時に頭の中を巡った。
どこからそんな力が出たのか、気付けば男を突き飛ばし、走って逃げていた。
誠一に会いたいという一念で、ひろは足を動かし続けた。
誠一の下宿の前に着いたのは夜半になってからで、街並みは寝静まっていた。
後先考えず夜道を歩きとおしてきたひろは、誠一の部屋を見上げているうち、ゆっくりと我に返っていった。
誠一に会ってはいけない。
あの男は自分の勤め先を知ってしまった。そこから今の住まいを割り出すのは簡単だ。
汚れた自分とあの厭らしい男の諍いに、誠一を巻き込みたくない。このまま姿を消して、彼の人生から立ち去るべきだ。
頭ではわかっていたのに、誠一の顔を見たいという誘惑に、どうしても抗うことができなかった。
ひと目だけ見たら、一人で逃げよう。そう決めると、ひろは物陰にうずくまった。
夜気が身体を包みこんだが、初夏の候のことだ。耐えられない気温ではない。
夜が明けるのはまだまだ先だった。ほんの少し目をつぶって、身体を休めようとした。
眠るつもりはなかったのに、一日の労働に加え、短くはない道のりを歩きとおした身体は疲れ切っていた。
滑り落ちるように、ひろは眠りに落ちた。
「ひろさん。ひろさん? こんなところでどうしたんですか?」
耳に響く優しい声に、ひろは目を開けた。
いつの間にか日は昇って、目の前には愛しいひとの顔があった。
誠一はひろの前に屈みこみ、いつもの穏やかな顔の上に、戸惑いを浮かべている。
「……誠一さん」
目覚めたての頭は混乱していて、どうしてここにいるのか、ひろ自身も困惑した。
寝起きでぼんやりとした様子の恋人に、誠一はちょっと吹き出した。
「こんな朝早くから、どうしたんです」
節々の痛む身体に顔をしかめながら、ひろは記憶を辿った。そして思い出した。できることなら、ずっと忘れていたかった。
うかうか眠り込んでしまった自分を責めたが、もはや手遅れだ。
最後に言葉を交わすくらいは、ゆるされるだろうか。そう思って恋人の顔を見上げた。
「申し訳ありません。ちょっと、顔を見たくなって、つい。あの、もう帰ります」
微笑を浮かべていた誠一は、怪訝そうに眉を寄せた。ひろはなんとか笑ってみせた。最後は笑顔で別れたかった。
「誠一さんと出逢えて、幸せでした」
そう言うと、誠一から目を逸らすように、俯いて立ち上がる。
不自然な体勢で眠り込んだせいで身体が痛んだが、顔に出さないようにした。
「なぜ急に、そんなこと」
誠一の言葉に応えず、ひろはそのまま歩き出した。この先どうなろうと、誠一に出逢えてよかった。心からそう思った。
背を向けて立ち去ろうとするひろの手を、誠一は慌てて掴んだ。ひろに触れるのは初めてだが、感慨を覚えるいとまもなかった。
「なにかあったんですね」
ひろは首を振って、案じ顔の恋人の腕を振りほどこうとした。考える間もなく、誠一はひろを抱き寄せていた。
「僕では駄目ですか。ひろさんの痛みを、預けてはもらえないんですか」
愛しい人の抱擁に、いつしかひろは自然と身体を凭れかけさせていた。止めようとしても抑えられない涙が溢れ出す。
気付けば声をあげて泣いていた。幼いころにも、こんなに泣いたことはなかった。
身を震わせて激しく泣きじゃくる恋人を、誠一はしっかりと抱きとめた。
その日、誠一は初めて大学を休み、下宿している部屋にひろを上げた。そして、大量の本が積み上げられた自室で求婚した。
「どんな恥知らずでも、人妻には手を出せないでしょう。僕と結婚していただけませんか」
真剣な眼差しなのに、どこかいたずらっぽく問い掛けた誠一の顔を、一生忘れない。
愛しい人の言葉に頷きながら、ひろはそう思った。
翌日、誠一はひろを伴って実家に帰り、結婚する旨を淡々と伝えた。そして予想通りの大反対を受けた。
家業を継がずに医学を修める酔狂は許容範囲内でも、どこの馬の骨とも知れない娘との婚姻など、考慮の余地すらない。
激昂する両親を振り払い、誠一はひろを連れて実家から立ち去った。二度と戻れなくとも、誠一の胸には一片の後悔もなかった。
壁時計の鳴る音に、ひろは我に返った。
時刻は深夜十二時をまわったところだ。さすがにもう、みんな眠っているだろう。
わずかな荷物を手に、のろのろ立ち上がる。足音を立てぬよう畳の上をそっと歩き、静かに引き戸を開けた。
次の瞬間、息を呑んだ。廊下の壁にもたれかかるようにして、白い開襟シャツの誠一が座り込んでいた。疲れた顔で、それでも真っ直ぐひろを見上げている。
「どこへ行くんですか」
自分の行動は誠一に見通されていたと、ようやく悟った。
「行かせてください」
隣室の斎藤夫婦を慮り、ひろは屈みこんで囁いた。
「ひとりで死ぬつもりですか」
あっさり言い当てられて、力が抜けるのを感じた。ひろはぺたりと座り込んだ。
「どうして……」
若旦那と再会した翌日、誠一とともに最小限の身の回りの物を取りに下宿へ戻ったひろは、留守中に自分を訪ねてきた者があると隣人から聞かされた。
隣人の口から出た訪問者の風貌は若旦那そのままで、その執着の強さに目の前が暗くなった。
逃れきれない、と思った。実家を知られているひろには、戻る場所もない。
誠一を巻き込みたくない。憎い男に連れ戻されたくもない。
残された選択は死のみと悟った。
どこか人知れぬ場所で、誰にも、誠一にも迷惑をかけることなく、ひとりで死のう。
初めて汚された時にすべきだったことをするだけだ。ひろは自らにそう言い聞かせていた。
呆然と自分を見上げるひろに、誠一は微笑みかけた。
「君のことならなんでもわかる。こうと決めたらやり遂げる意志の強いところも、自分のことより僕を案じる優しいところも、全部。ずっと君を見て、君を想っていたからかな」
優しい告白に、胸が詰まって言葉が出ない。この人にはずっと幸せでいてほしい。ひろは心からそう願った。
「ひろさんが死ぬなら、僕も死にます」
笑みを残したまま、誠一は言った。
激しく首を振るひろの身体を、誠一は抱きしめた。
「それなら一緒に生きよう。僕を残して一人でいくな。お願いだ」
愛しい人の懇願に、頷いてはいけない。
けれど、この人を悲しませたくない。身を引き裂かれる思いで、ひろは誠一の体温を感じていた。
「誠一は、いつもの部屋と言われただろう」
ぼそりとした声に、誠一とひろは同時に顔を上げた。いつの間にか寝室の襖が半分ほど開き、眠たそうな斎藤医師の顔が覗いている。
「野暮なことを。馬に蹴られますよ」
喜久も後ろから顔を出した。こちらはしゃっきりした顔つきだ。
「……九州帝大の医学部に知人がいる。助手を探しているのだが心当たりはないかという手紙が、先週届いた。寝ながら思い出した」
斎藤医師は欠伸まじりに呟くと、のそのそ布団へ戻った。
呆気にとられ、抱き合ったままで固まった誠一とひろを見て、喜久は吹き出した。
「二人とも、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているわよ」
そう言うと、優しく目を細めた。
「もう寝なさい。話は明日にしましょう」
喜久が静かに襖を閉めたのちも、二人は抱き合ったままでいた。
しばらくして、誠一が口を開いた。
「僕は医学を捨てることなく、九州で学び続けます。慣れない土地で、苦労を掛けることになるかもしれません。それでも君についてきてほしい。一緒に来てはもらえませんか」
誠一の囁きに、ひろは頷きで応じた。一秒も迷わなかった。
苦労などどうでもいい。どんな場所でも構わない。誠一と一緒にいらればそれでいい。
そんなことはひろにとって考える必要すらない、当たり前のことだった。
「あら、ひかりさん。お父様はいかがですか」
診療所前の小路に打ち水していた看護婦の大橋は、ひかりを認めて手を止めた。
七月に入って、蒸し暑さは日に日に増していた。
下校する時間帯は最も気温が高く、煌々と日が照っている。盛夏の強い光に目を細めながら、ひかりは会釈した。
「庭いじりをしたくて、寝室の窓から庭ばかり眺めております。体が萎えて動かないのがもどかしいようです」
一年前は東京に行けるほどの元気があったのに、今夏の透は体調が優れず、なかなか寝台から離れられないでいた。
微熱が続き、食欲もあまりないようだった。紫陽花の色づく梅雨も、風の爽やかな初夏も、夾竹桃の鮮やかな夏も、床についているうち終わってしまった。
「焦らずに養生されれば、いずれ良くなりますよ。お薬はもうできているので、受付で受け取って下さいね」
思いやりある言葉に再び頭を下げ、診療所の扉を開こうとするひかりに、看護婦は「そうそう」と、思い出したように囁いた。
「先週、誠一さんから手紙が届きました。新しい生活に、だいぶ慣れてきたそうですよ」
ひかりは手を止めた。
「そうですか。それなら良かったです」
振り向かずにそう答えると、扉を開けた。看護婦は鼻歌まじりに打ち水を再開した。
六月の半ばごろ、誠一とひろが斎藤医師の知人を頼って遙か遠い福岡に旅立ったことも、この看護婦の口から聞かされていた。七月に入ったばかりの蒸し暑い日のことだ。
その晩、ひかりは一睡もできなかった。
誠一と自分の人生が交わることは今後一切ありえないと思い知らされ、片恋の終わりを知った。
いったい恋愛とは、どういった類のものなのだろう。
大正十年に英文学者の厨川白村が著書で説いた恋愛至上主義は、当時としては革新的な思想で、世に議論を巻き起こしていた。
母は、父に出逢ったことで幸せになったと言っていた。しかし、どうやらそんなに簡単なものでもなさそうだった。
ちょうど数日前、著名な作家が女性編集者と情死を遂げて変わり果てた姿で発見され、世間を騒がせていた。
あまりに刺激的なその出来事は、ひかりの通う女学校でも話題となった。
恋愛とは人生を激変させるのみならず、命を奪うこともある危険なものなのだろうか。
人を幸せにするものではなく、死に至らしめさえする、恐ろしいものなのだろうか。
夜半を過ぎても部屋は蒸し暑く、ただでさえ寝苦しい夜だった。ひかりは目を見開いて何度も寝返りを打ち、答えのない問いを自らに投げかけていた。
大正十二年九月一日、土曜日。
その日のことを、ひかりはあまり覚えていない。
九月に入っても盛夏のような気温で蒸し暑かったことは、辛うじて覚えている。
近隣の小学校は授業始めの日だったが、ひかりの通う女学校はまだ夏休み中だった。
前日の八月三十一日は低気圧通過のため強風を伴う豪雨で、台風のような天候だった。
日付けが変わり夜が明けるころ、次第におさまって、僅かな風雨を残すのみとなった。
その夜ひかりは日記帳を使い終えてしまった。父から貰った、赤い革張りの日記帳だ。新学期を控え、必要な学用品も何点かあった。
それで翌日の九月一日、ハナを連れて街へ出かけることにしたのだ。
今まで使っていた日記帳を、ひかりはとても気に入っていた。
同じような品を鎌倉の町で探し求めたが、なかなか良いものが見つからない。
ようやく焦げ茶の革張りの日記帳に決め、ハナとともに店を出た直後だった。
未曽有の大震災がやってきた。
「……ひかりは、もう出掛けたのか」
眠っていると思っていた夫の問いかけに、みつは針仕事の手を休めて顔を上げた。
いつの間にか透はまどろみから目を覚まし、みつを見上げていた。
病み衰え、頬もこけているが、目線はしっかりしている。良人の回復の兆しに安堵しながら、みつは微笑んだ。
「ええ。朝早くから、ハナを連れて買い物に行きました。お加減はいかがですか」
「もう、寝ているのにも飽きた。はやく剪定をしたい」
透はぼやきながら寝台の上で半身を起こし、窓越しに外を眺めた。空は濁った灰色で、小雨がそぼ降っている。
「このお天気では、体調がよくても無理ですわ。もう少しすれば、秋が来ます。それまでに、ゆっくりお体を治してください」
「そうか。もう秋か」
透は目を細めて庭木を見た。
「今年は、なんだか妙な気候だな。ひかりが夏の盛りに藤や菖蒲が咲いていたと言っていたが、そのせいだろうか」
みつも外に目をやった。もうじき正午なのに、相も変わらずどんよりとした色合いだ。
「どうなのでしょうね。花を長く楽しめるのは、嬉しいことですが。それより、なにか召し上がりますか? 軽いものでよければ……」
そう言いながら立ち上がろうとしたとき、なにかが軋む音がして、カーテンが揺れた。
みつは前日の強風を思い出し、また風が出たかと窓の外を見た。その直後だった。
落雷のような轟音とともに、強い振動が襲い掛かった。