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光彩  作者: 綾稲ふじ子
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Glowly

 あたりまえの家庭には父と母は一人ずつしかいないと石井ひかりが知ったのは、彼女が尋常小学校に通い始めて、しばらくのちのことだった。

彼女は鎌倉の小さな山の中腹にある館で、父の透、母のみつと、いくばくかの使用人と暮らしていた。

ひかりが生まれた明治四十三年に江ノ電が全線開通し、夏場の週末は海水浴や避暑に訪れた遊覧客が押しかけて、鎌倉はたいそう賑わっていた。

明治三十二年に皇族の別邸である御用邸が造営されて以来、上流階級の間でも、鎌倉に別荘を持つ者が続出していた。

政府高官や皇族、華族のほか、夏目漱石や有島武郎、芥川龍之介など、そうそうたる顔ぶれの文化人も、借家や住処を持った。

そんな華やかな土地に長く住みついても、ひかりの身辺はひっそりとしていた。

透が外出を好まなかったので、ひかりが家族と出掛けることはなかった。

叔父や、その家族が訪ねてくる他に来客はほとんどなく、他人との接触は極端に少なかった。常識から少し外れて育ってしまったのは、そのためもあったのだろう。

「ひかりには、もう一人お父様がいるのよ」

 四歳になって父母にそう打ち明けれられたときにも、世間を知らないひかりは、特に疑問を持たなかった。

「もう一人のお父様は、今は遠くに行かれていて、ここにはいないけれど。いつか帰ってこられるの」

 付け足すような母のその言葉は、ひかりに聞かせるためだったのか、それとも自分に言い聞かせるためだったのか。

 だいぶ後になってから、ひかりはそう思ったものだ。

「お母様は? お母様も、もう一人いるの」

 尋ねる幼いひかりの頭を、透が撫でた。

「お母様は一人だけだ」

 庭いじりを好む父の手は荒れているが、髪をすく指は心地よかった。ひかりは声をあげて笑った。

「もう一人の父の名は、明という。私とお母様は、これから明にあてて手紙を書くが、ひかりもなにか書くか」

 そのころ欧州は、第一次世界大戦の戦火に包まれていた。

明が住みついている英国からほど近いフランスでは、ドイツ軍による空襲が連日繰り返されていると報じられていた。

 明を案じるみつは、まめに手紙を送り、返書がくるたび胸をなでおろしていた。

「書く。もう一人のお父様に、お手紙書く」

 そう応えるひかりに、透は目を細めた。みつも表情を和らげた。


ひかりは男児顔負けのお転婆娘だった。

幼いころから鎌倉の山を駆けずりまわり、庭の木にのぼって育った。

幼いときは使用人がお供したが、五歳になるころには一人で山奥を探検するようになった。空腹を覚えると、野いちごやあけびを取って食べた。

両親は、そんなひかりを咎めなかった。

虚弱体質の父は、むすめが健康であることを喜んでいたし、母はあるがままのひかりを愛した。

 悪戯が過ぎて、女中のハナに叱られることもあったが、ひかりはすぐにけろりと笑って、そのへんを走り回ったり、木に登ったりした。

 しかし、決して愚かではなかった。自分の非を認める素直さと、悪いと教えられたことを繰り返ない賢さがあった。

当時の女子に求められる淑やかさや従順さこそ身につかなかったが、病弱な父をいたわったり、山で傷ついた野生の小鳥を拾ってきて甲斐甲斐しく世話をする優しさがあった。

看病のかいなく、小鳥はまもなく死んだ。ひかりは一昼夜泣き続けた。

「だがな、ひかり。生き物は、いつか必ず死ぬのだよ。鳥も私もお母様も、ひかりも」

 夜も更けた頃、透はひかりの寝台に腰掛けて、泣き腫らしたひかりの頭を撫でながら言った。

 ひかりは驚き、泣くのも忘れて透を見あげた。

「みんな死ぬの? 死んだらどうなるの」

 透はすこし笑った。

「あいにく、まだ死んだことはないからわからんな」

 ひかりは自室の窓越しに、庭の片隅を見た。そこには小鳥の墓がある。

 爽やかな初夏の宵は暗闇に包まれていて、鮮やかな新緑も可憐な花も消え去ってしまったかのようだった。

「死んだら、あんな暗い、冷たい土の中に、ずっと一人でいるの」

 小声で問い掛けるひかりの頬を、透は両手のひらでそっと包みこんだ。

「ひかりは、一人になどならない。私もお母様も、ずっとひかりのそばにいる」

「ほんとう?」

「ああ。それに、お父様がもう一人いるだろう。万が一、私たちになにかがあっても、ひかりには明お父様がいる」

 ひかりはほっとして、愁眉を開いた。

「小鳥が寂しくないよう、墓に花を飾ろう。幸い、花なら庭にいくらでもある」

 ひかりの頬から手を離しながら、透は言葉を継いだ。

「死んだ者のためにできることは、ひとつだけだ。しっかりと生きて、ずっと忘れずにいればいい」


 六歳になり尋常小学校に通い始めたひかりは、持ち前の明るさで、屈託なく子どもたちの輪に入っていった。

それまで同年代の子どもたちと遊ぶことはほぼ皆無だったので、両親やハナは案じていたが、まったくの杞憂に終わった。

初めこそ女と思ってひかりを馬鹿にしていた男児たちは、着物が汚れるのも気にせずに野山を駆け巡り、転んでもめそめそ泣かない彼女を、次第に仲間と認めはじめた。

さっぱりと朗らかなひかりの性格は、女児たちにとっても好ましいものだった。

ひかりは男女の別なく付き合い、鬼ごっこや石けり、お人形遊びや毬つきをして、日々楽しく過ごしていた。

毎日のように暗くなるまで遊び、しばしばハナに叱られたが、両親は笑ってひかりを許した。

そして尋常小学校に入っておよそ半年後の十月、それは起こった。


「おまえ、めかけの子だろ」

 その言葉で凍りついたように毬つきの手を止めたのは、空き地で一緒に遊んでいた同級の原美代だった。

ひかりは怪訝そうに、発言した、一つ年上の小林寛太を見た。

「うちのかあちゃんがいってたんだからな。どうせ男をとっかえひっかえしてたんだって。おまえ、とうちゃんが何人もいるんだろ」

 美代の瞳に涙の粒がもりあがり、ぽろりと落ちた。

地面に転がったゴム毬もそのままに、美代はお下げ髪をはためかせながら駈け出した。

「美代ちゃん、待って」

 ひかりの声も届かないように、美代の小さな背中が遠ざかっていく。さみしげに転がる赤いゴム毬を、ひかりは拾い上げた。

「ひかり。これからみんなで栗拾いに行くけど、お前も行くだろ」

 何ごともなかったかのように、寛太はひかりを誘った。

 男女七歳にして席を同じうせず、は当時の常識だった。

美代のように大人しい女児と一緒に遊ぶなど、寛太にとっては恥でしかなかったが、ひかりは男同然の遊び仲間だった。

 自分よりずっと小柄なのに駆け足が早く、野山に詳しいひかりに、一目置いてすらいた。

そんなひかりを独り占めする美代を、疎ましく思っていた。

美代を追い払おうと口にした言葉がどういう意味か、理解などしていない。

ただ、両親たちの様子から、なにか良くないことであるのはわかっていた。

「行かない」

 美代が去った方向をじっと見つめながら、ひかりは短く答えた。寛太は首を傾げた。

 ほんの数日前にひかりと話したときには、栗拾いの話に目を輝かせていたのに、断る理由がわからなかった。

「なんで」

 問われてひかりは寛太に視線を戻した。

「美代ちゃんを泣かせる寛ちゃんは嫌い。もう遊ばない」

 きっぱりとした宣言に、寛太は絶句した。

 ひかりは美代の後を追った。


 ひかりの住まいと学校の中間くらいにある町はずれの小体な家に、美代は母とふたりでひっそりと暮らしていた。

美代の母は元芸妓で、東京は日本橋にある呉服屋の旦那に世話されていた。

 同級の子どもと比べると、美代はどこか大人びていた。

ひかりをはじめ、おかっぱ頭の女児の多いなか、肩までの髪をきっちりとお下げに編んだ、色白で寡黙な少女だった。

入学した当初は息をひそめるように物静かで、休み時間は一人で窓の外を眺めていた。授業がはけると、すぐに家に帰った。

家ではいつもひとりで人形遊びをしたり、千代紙を折ったりしていた。

そんな美代が、家の方角が同じひかりと二人で登下校するようになって、少しずつ変わった。

人付き合いは好まないままでも、ひかりといる時には、笑顔を見せるようになった。

担任教師は、大人しい美代が、良く言えばおおらか、悪く言えばガサツなひかりと打ち解けたことに首を傾げたが、家庭が複雑な者同士で気が合うのだろうと結論付けた。

ひかりは、明とみつの子ということになっている。

明が渡欧している現在は、母子家庭として世間に認知されていた。透の存在を知る者は、ごくわずかだ。

透と明は双生児だった。

当時の日本では、双生児は多胎で生まれる動物になぞらえられ、忌み嫌われていた。

産まれた子やその母は、畜生腹と蔑まれた。

万が一生まれた場合、片方は処分されるのが通例だった。秘密裏に養子に出されるのは良いほうで、出産直後に産婆や実母の手で殺されることすら珍しくなかった。

 明が著名な画家として名を馳せる以前から、透はほとんど館の外に出なかった。

病を得やすい身体であったし、もともと外の世界に対し、さしたる興味がない。

対外的に明がひかりの父となるのは、必然だった。

「誰かに訊かれたら、お父様は今、異国にいますと答えなさい」

 ひかりが学校に上がる前に、透はそう言い含めた。

「お父様は今、ここにいるでしょう」

「そうだな。だけど、異国にいるのは嘘じゃない。明お父様がいるんだから」

「でも、ここにいるお父様は?」

「ここにいても、私はどこにもいない」

 謎かけのような答えに、ひかりは口を噤んだ。

なにを訊けばいいのかすら、わからなかった。

 黙り込んだひかりの頭を、透はぽんぽん、と叩いた。

「もう少し大きくなったら、全て教えよう。それまで、お父様が二人いることは秘密だ。誰にも話してはいけない。いいな?」

 釈然としないまま、ひかりは頷いた。

 美代の家へと急ぐ間、ふいにそんな記憶がよみがえった。

 寛太が美代に言ったことはよくわからなかったけれど、どうやらお父様がたくさんいるのは、良くないことらしい。

 それだけはわかった。


「おば様、これ、美代ちゃんの……」

 ゴム毬を抱えるひかりを、憂いのある切れ長の目が見下ろしている。

「なにかあったの」

 微かにかすれた声で問われて、ひかりは美代の母を仰いだ。

 子ども心にも、きれいなひとだと思った。

深い葡萄色のきものが、首筋の白さを際立たせている。

ふっくらと張りのある身体は見るからにやわらかで、ふと触れてみたくなる魅力があった。

「あの子、帰ってきてからずっと、自分の部屋に閉じこもってるの」

 ひかりは逡巡した。

 美代の涙がこぼれる瞬間が、目に焼き付いている。

寛太の言葉をそのまま伝えてしまえば、美代の母まで泣いてしまう気がして怖かった。

「美代ちゃんに会ってもいいですか」

 考えることを放棄して尋ねると、美代の母は眉を曇らせたまま頷いた。

 赤いゴム毬を大事に抱えたまま、ひかりは勝手知ったる美代の部屋へ向かった。

「美代ちゃん、入ってもいい?」

 ゴム毬を抱えてそう尋ねると、返答を待たず、ひかりは障子戸を引いた。

部屋の隅でうずくまるように座り込んでいた美代は、ゆっくりと振り返った。

 四時をまわった室内には、夕闇の気配が濃く立ち込めていた。

格子窓から差し込む光が、長い影を作っている。

 壁にもたれかかるようにして座る美代は寂しげで、いつもより更に大人びて見えた。

「はい、これ」

 ひかりはすたすた美代に近づいて、ゴム毬を差し出した。

 美代はなにか言いかけて、思い直したように無言でゴム毬を受け取った。

立ち去りかねたひかりは、美代の隣に、ぺたんと座った。

 尋ねる言葉も慰めも思いつかなかったから、黙って美代のそばにいた。

 夕闇が陽光を塗り替えるころ、美代がぽつりと呟いた。

「お母さんはね、二番目なの。お父さんには一番目の奥さんがいるの。ここに来る前に住んでた東京のおうちに、その人が来たことがあるの」

格子窓の向こうを眺めながら、独り言のような言葉を続ける。

「ロクな人間にならないって言われた。商売女の娘は、どうせ商売女になるって」

お母様に順番なんかあるの? じゃあ、お父様にも順番があるのかしら? それより、しょうばいおんなってなんだろう。

そんなことを考えながら、ひかりは黙って聞いていた。

わからないことばかりでも、美代の痛みだけはわかった。

「本当にそうなるのかな」

「ならないよ」

 美代の問いに、ひかりは反射的に答えた。

 寛太の話と美代の話がどう結び付くのか、どうして父親がたくさんいるとダメなのか、一切理解できなかった。

 誰がなにを言おうと、美代はただの大切な友達だった。

「どうしてそんなことがわかるの」

 初めて見る美代の鋭い視線に、ひかりはちょっと口ごもった。なんと答えようか迷って、結局、頭に浮かんだままを言った。

「だって、美代ちゃんは美代ちゃんでしょ? お母様がどうでも、お父様がどうでも」

 少し躊躇ってから、ひかりは言葉を続けた。

「わたしね、お父様が二人いるの」

 他言を戒めた父の顔が脳裏をかすめたけれど、あえて無視した。

「ひかりちゃんのお父さんは、異国にいるんでしょ」

 怪訝顔の美代を、ひかりは真っ直ぐ見つめた。

「うん、そう。だけど、もう一人いるの。ずっと一緒に暮らしているのよ。お母様とか、お父様がたくさんいたらロクな人間にならないんなら、わたしも美代ちゃんとおんなじ」

「そんなことない」

 即座に打ち消して、美代は白い頬にえくぼを浮かべた。

「お父さんがどうでも、ひかりちゃんはひかりちゃんでしょ」

 ひかりもにこりと笑い返した。

 お互い、それ以上の言葉はなかった。

美代の母が様子を窺いにくるまで、二人は夕焼けで橙に染まる部屋に、黙って座っていた。


 帰りが遅くなったひかりを出迎えたのは、ハナの叱責だった。

 どこで何をしていたのか問われても口を噤んで、目を伏せていた。

「おやおや。うちのお嬢様は、またハナに叱られているのか」

 ふらりと玄関口まで出て来た透の声に、ひかりは顔を上げた。

「お父様。訊きたいことがあります」

 思いつめたようなひかりの顔つきと声に、透は片眉をあげた。

「いいだろう。私の部屋に来なさい」

 そう言って透はゆったりと階段を昇った。

「ひかりさま。お話がすんだら、お夕飯ですよ」

 ハナの言葉に頷くと、ひかりは真剣な顔のまま、透を追った。

 部屋に入ると、透は気に入りの長椅子に座っていた。

「ここに座りなさい」

 透の言葉に従って、ひかりは隣に腰掛けた。

「で、なにを訊きたい」

「お父様、ごめんなさい。話してしまいました」

「なにを」

「お父様が二人いることを」

 透は目を剥いた。

「誰に」

「美代ちゃんにです」

「なぜ?」

 ひかりは、とつとつと今日の出来事を話し始めた。

全てを聞き終えた透は、深い溜め息を吐いた。

「お父様が二人いるのは、おかしいことなんですか? 美代ちゃんもわたしも、ロクな人間にならないんでしょうか」

「ふむ。ひかりにしては、なかなかの難問を出す」

幼い娘に、なにをどこまで話せばいいのか、透は頭を抱えた。

「二人とも、お夕飯はどうなさるんですか」

 数分後、扉をノックしてみつが入ってきた。

難しい顔で並んで座る夫と娘を、不思議そうに眺める。透はみつに目をあてた。

「三人寄れば文殊の知恵という。お母様にも訊いてみよう、ひかり」

「何をです?」

 首を傾げるみつに、透はひかりの話を要約して伝えた。

 話を聞き終えたみつは微笑んだ。

「あなたは、ひかりがロクな人間にならないとお思いですか」

 問い返された透は、ちょっと首をひねった。

「とんでもないお転婆娘なのは間違いないが、そんなふうに思ったことは一度もないな」

「それが答えにはなりませんか」

 そう言うと、みつはひかりの前に膝をつくように屈みこんだ。

「わたくしたちの家は、普通とはちょっと違う。けれどそれは、悪いことではないのよ」

 ひかりは母を直視した。

「でも、寛ちゃんは……」

「そうね。違うことを悪いことと思う人は、確かにたくさんいる。だけど、それが正しいとは限らない」

 それからみつは、長い話を始めた。


 ひかりの祖父にあたる先代の櫻澤伯爵、融は、異母妹のメイと、密かに愛し合うようになった。そしてメイが身籠ったころ、二人の仲は露見した。

血の繋がりのある者同士が睦みあうなど、周囲に知られれば爵位を取り消されかねない醜聞だった。

二人は引き離され、メイは鎌倉の山の中腹にある別邸へ移された。生まれた子は、庭師の石井の子とされた。

 話はそれだけで終わらなかった。融とメイの子が、世間で忌まれる双生児だったからだ。

 幸いメイも融も、双生児に対する偏見より、我が子への愛が勝った。

 出生に加えて双生児であったため、彼らは存在を抹消されたが、鎌倉の館で大切に育てられた。

融の計らいで何不自由のない生活ができ、口の堅い家庭教師から、充分な教育を受けることもできた。

蒲柳の質の母の血を受け継いだのか、透は腺病質だったが、片割れの明は健康で、画才まであった。

そんな平穏で退屈な双生児の日常にみつが加わったのは、双生児が十八歳になった頃のことだ。

芸妓の娘に生まれ、流行り病でみなしごになったみつは、母のいた置屋に世話になっていた。本来なら、そのまま芸妓になっていたはずだった。

しかし彼女は半玉として初めて出た座敷で融に見出され、それから半年後に櫻澤伯爵家の養女となった。みつが、融の最愛の女、メイとよく似ていたからだ。

血縁関係は一切なかったのに、生き写しといっていいほどだった。

みつは一年ほど、三田にある融の屋敷に住んでいたが、融の妻、八重に疎まれて、ふとしたはずみに怪我を負わされた。

幸いにも軽くすんだが、融への叶わぬ淡い恋心を抱いていたみつは、それを機に、身を引くように鎌倉の別荘へと移り住むことになった。

そこで双生児と出逢い、恋に落ちた。

「本来ならお母様は、透お父様か、明お父様のどちらかを選ばなければいけなかったの。それが普通だから。でもね、そんなことできなかった」

「どうして?」

 長く複雑な話を懸命に聞いていたひかりは、初めて口を挟んだ。みつは優しく応じた。

「どちらも大好きだったの。ただ、それだけのこと。そしてお父様が二人になったの」

「あのな。こんな話、ひかりに理解できると思うか? おそらく大人が聞いても、なにがなんだかわけがわからんぞ」

 あっさりと全てを話したみつを、透は呆れ顔で眺めた。

その視線を、みつは穏やかに受け止めた。

「いますぐわからなくても、ひかりには知る権利があります」

「権利! お前、青鞜の愛読者か。そのうち、“新しい女”とか言いだすんじゃあるまいな」

「愛読まではしていませんが、人には様々な考え方があっていいと思います」

 みつは表情を改めた。

「常識とは外れてしまっても、わたくしは自分の生き方を、恥じても悔いてもおりません。あなたと明様の妻になれて、ひかりまで授かった。むしろ誇らしく思っています」

 それからまた、やわらかく目を細めた。透は顔をしかめたが、その耳と頬は真っ赤に染まっている。

「というわけだ、ひかり。どこまでわかった」

 照れ隠しのように問い掛けられて、ひかりは生真面目な表情で答えた。

「違うことは悪いことじゃない。お母様は、お父様が二人とも大好き」

 そう言って、確かめるように母を仰いだ。

 みつは笑みを濃くして、大きく頷いた。

「お母様から及第点が出たぞ、よかったな。ただし私からひとつ付け加えることがある」

 耳たぶを染めながらも、透は真剣な表情で言った。

「今の話を他人に知らせる必要はない。違うことを悪いことと考える人がたくさんいるように、私たちのことを理解できない人も同じくらいたくさんいる」

「やっぱり、言ったらいけないんですか」

 再び眉を曇らせるひかりのおかっぱ頭を、透は優しく撫でた。

「言いたかったら言ってもいい。ただし、片っ端から話してまわる必要はない。ひかりが自分をもっと知ってほしいと思う特別な人になら、好きにしなさい。わかったか」

「はい」

 素直に頷くひかりに微笑みかけながら、みつは立ち上がった。

「それで、お夕飯はどうするんですか。もうすっかり冷めてしまっていますよ」

 問われて初めて、ひかりは空腹に気付いた。

「はやく食堂に行きましょう、お父様」

「切り替えが早いな、おまえは」

 ぼやきながら、透はひかりの手を取った。

 両親の話をひかりが真に理解できたのは、ずっと後のことだった。


翌日、いつもどおり小学校へ向かうひかりと美代の前に、立ちはだかる者があった。

寛太だった。

家は反対方向で、通学路は全く違う。ひかりと美代は顔を見合わせた。

「悪かったな!」

 怪訝そうな二人の前で怒ったようにそう言って、寛太は頭を下げた。よく日に焼けているのに、それでもわかるくらいに紅潮した顔だった。あまりに勢い良く頭を下げたので、学帽が地面に落ちた。

「……なにが?」

 小さいけれどはっきりとした声で、美代が尋ねた。表情は硬い。

「女子を泣かせるなんて、男の風上にも置けない。あんなこと、もう二度と言わない。泣かせて悪かった」

 完熟した柿のように真っ赤な顔をしかめながら、寛太はぶっきらぼうに答えた。美代の目元が、少しやわらかになった。

「いいよ、もう」

 美代は寛太にちらっと微笑みかけた。寛太の顔が、さらに朱に染まった。

 落とした学帽を慌てて拾うと、学校に向かって駆けていく。

「あたしたちも行こ、ひかりちゃん」

「え、あ、うん」

 一部始終を黙って見ていたひかりは、美代にうながされるまま歩き出した。

「いいの?」

 ひかりの問いに、美代はこっくり頷いた。

「あの時ひかりちゃんが来てくれて、話を聞いてくれたから。もうどうでもよくなった」

 美代は隣にいるひかりの目を覗き込んで微笑んだ。

それは今まで初めて目にするような晴れ晴れとした表情で、ひかりはなんだか嬉しくなって一緒に笑んだ。

 その一件の後もひかりは変わらず、男女を問わず遊んだ。

寛太たちと栗拾いにいったり、美代とあやとりをしたり、他の女児となわとびをして、傍目には今までどおり、明るく楽しく日々を過ごしているようだった。

 しかし、ひかりが自らの家庭について他言することは決してなかった。

天真爛漫なようでいて、不用意な発言をしないよう、言葉を選ぶことも覚えた。


「ですからあの枝は傷んでいると、旦那様がおっしゃっていたでしょう! ハナはそばにいて、ちゃんと聞いていましたよ!」

「そんな大声を出さなくても、ちゃんと聞こえています。二階で寝込んでいるお父様にだって聞こえているわ、きっと」

 新緑の庭木が、五月の風にそよいでいる。霞んだようにただよう空気はかぐわしい。

 そんな好天をよそに、ひかりは玄関へ続く煉瓦の階段に、力なく俯いて腰掛けていた。

「そうですよ。ただでさえ、旦那様はお体の加減が優れないんです。十歳にもなって、お猿みたいに木登りをして、あげく落ちたなんて知ったら、嘆かわしさのあまり、さらに体調を崩しますよ」

「わたくしが猿なら、木から落ちたりなんかしなかったはずよ」

「猿も木から落ちるというでしょう!」

 ハナのカミナリに、ひかりはため息で応じた。

 心配をかけて申し訳ないと思う気持ちは、もちろんある。

けれど、無様に木から落ちたとき強打したお尻がずきずきして、それどころではない。

ひかりは恨めしげに、地面に転がる枝を眺めていた。無残に折れた枝には、丸々とした夏みかんが幾つか実っている。

「だいじょうぶですか、ひかりちゃん」

 笑いを含んだその声で、ひかりは初めて斎藤誠一に気付いた。

 慌てて顔をあげると、少し離れたところで診察鞄を下げて立っている誠一の、優しく細めた目に行き当たった。

ひかりの頬が淡く染まった。

「は、はい。ほんのちょっと、木から落ちただけですから」

「ひかりさまは相変わらずお元気で、なによりですな」

 誠一の隣で、斎藤医師もひかりに微笑みかけた。

 ひかりの祖母、メイの主治医だった斎藤医師は、メイ亡き後、透の主治医となった。

七十歳を越えた今も現役で、しばしばこの館を訪れ、透の診察を行っている。

 数年前からは医師志望の甥、誠一を伴ってくるようになった。

 誠一は活発なひかりを微笑ましく思い、顔を合わせるたび、なにかしら声をかける。

 誠一に応じるひかりの声は、いつもより少し小さくなる。いつものお転婆もなりを潜めた。

「一丈の高さから落ちたら、ほんのちょっとじゃないでしょう!」

「ハナは大げさなのよ。せいぜい八尺だわ」

 ぼそぼそ反論するひかりに、ハナはため息を吐いた。

「たいして変わらないじゃありませんか。そんなお転婆じゃ、斎藤先生と誠一さんに呆れられてしまいますよ」

 ひかりは不安そうな面持ちで誠一を仰いだ。

「呆れてしまいましたか?」

 おそるおそる問い掛けるひかりに、誠一は破顔した。

「僕が今のひかりちゃんと同じ年頃には、家にこもって勉強ばかりしていました。ですから、活動的に遊んでいるのは羨ましいです」

 ハナは感嘆のため息を漏らした。

「二十歳になられたばかりなのに、誠一さんはご立派でいらっしゃいますね。やっぱり、斎藤先生の後をお継ぎになられるんですか」

 ハナの問いに、誠一は少しはにかみながら応じた。

「父は家を継いでほしいようですが。僕には弟がいますから、彼に任せるつもりです。僕は伯父のような医師になれればいいと思っています」

 彼の生家は貿易で財を成し、横浜に大きな屋敷を構えていた。

 米騒動や戦後不況など、貧困にあえぐ人々が多数いる一方で、第一次世界大戦で巨利を得て船成金と揶揄される船主なども現れた。

そんな貧富の差の激しい時代だった。

 この時期は、輸出貿易も飛躍的に発展した。

直接の戦禍を受けなかった日本が、欧州諸国に取って代わって、世界各国の市場を独占していたからだ。

米国やアジア広域、インドやアフリカには生糸や綿糸、布や織物などを、欧州に兵器や食料品などを輸出した。ほんの数年で、日本の貿易収入は数倍に膨れ上がっていった。

時の運に恵まれて無邪気に富を享受し、華やかな生活を送る両親を、誠一は愛していた。

しかし医師である伯父を、より深く敬愛していた。子のない斎藤医師も誠一に目にかけて可愛がっていた。

東京帝国大学で医学を修める息子を、今では両親も認めていた。

誠一は時間が取れると鎌倉の斎藤医師の家に泊まり込み、学校では学べない様々のことを学んでいた。

「誠一さんなら必ず、立派なお医者様になれます」

 ひかりは力強く断言した。誠一はにっこり笑った。

「ありがとう、ひかりちゃん。じゃあまず手始めに、ひかりちゃんのお尻を診てあげよう」

 そう言うとひかりの正面に立って、手を差し伸べた。ほっそりとした手指だった。

「絶対に厭です!」

「冗談ですよ」

 誠一は声を立てて笑いながら、ひかりのおかっぱ頭をさらっと撫でた。

「さて、私は透様の診察に行くが、誠一はどうする。ひかりさまと遊んでいるか」

「いえ、お供させていただきます。じゃあね、ひかりちゃん。また」

「はい」

 診療鞄を下げた誠一が自分の横を通り過ぎるとき、ひかりはわずかに面を伏せた。

火照る頬を、誰にも気付かれなければいいと思った。

顔も耳も、触れられた頭も熱い。胸の奥が高鳴って弾ける。

父と同じように頭を撫でられただけなのに、誠一が相手だとなにかが違う。

「それで? お加減はいかがなんですか」

 ハナの声に、ひかりは我に返った。いつの間にか、痛みはだいぶ引いていた。

「もうだいじょうぶ」

「このままでは、ハナの髪は全部真っ白になってしまいます」

 しみじみと嘆くハナに対し、申し訳ないという思いが、改めて湧いた。

「心配かけてごめんなさい」

 素直な謝罪に、ハナは表情を和らげた。

 それから、落ちた枝についている夏みかんの実に目をやった。

「ひかりさまは、その夏みかんを、旦那様に持っていきたかったのでしょう」

ひかりは驚いてハナを仰いだ。

「どうしてわかったの」

 体調が優れず食の進まない父でも、爽やかな風味の果実なら喉を通るかと思ったら、いてもたってもいられなくなった。

 思い立った瞬間、傷んだ枝のことなど、頭から吹き飛んでしまった。

「ハナは、ひかりさまのことなら、なんでもわかるんです。少し待っていてください。皮を剥いておきます。診察が終わったら、お父様のところに持っておいでなさい」

「ありがとう、ハナ」

 枝から夏みかんをもぎ取って館に入るハナを見送ると、ひかりは顔をあげ、父の寝室のあたりに目をあてた。

 あそこに誠一がいると思うと、また胸の奥がぎゅうっとした。

 なんでも知っていると言うハナでも、こんな気持ちはきっと知らない。そう思った。

 空は変わらず、けむるように柔らかな青で、ひばりがぴるると囀った、


 大正十一年の春、ひかりは鎌倉の高等女学校に入学した。

 尋常小学校を終えた後のひかりの進路について、当初、透とみつは思い悩んでいた。

 学費の心配は一切ない。

先代の櫻澤伯爵の遺言により、透と明は鎌倉の館のほか、多額の遺産を相続していた。明の絵画もあった。

「私の絵は好きなようにしてくれ。売ってもいいし、残してもいい。気に食わないものは燃やしてもいいぞ」

 欧州へと旅立つとき、明はそう言い残していった。

 描き終えてしまった絵画は明にとって、あまり意味のないものだった。

重要なのはいかに素晴らしい絵画を生み出すかの一点のみで、完成した作品は、その瞬間から過去になる。大切なのは、現在と未来だけだった。

明の言葉に従って、みつは彼の絵画を求める者に、一枚一枚大切に売却していた。

二人が迷ったのは、野に咲く花を温室に移すことが、果たして正しいことなのか、わからなかったからだ。

 男児に混じって野山を駆け巡る我が娘を、女学校に入れていいものか躊躇った。

 由比ガ浜からほど近くに建つ古い木造の学舎はごく簡素だったが、通学する女学生は大変に華やかだった。

温暖な気候を気に入って鎌倉に移り住む別荘族が続出し、ここに就学する良家の子女が多かったためだ。華族も珍しくなかった。

地元の有力者の娘たちも通うこの女学校を、土地の者たちは“湘南の学習院”と呼んだ。

 しかし、ただのお嬢様学校ではない。創設者でもある校長の方針で、良質な教育を行っていた。

英語の時間は、米国人の教師が会話重視の実践的な授業を行うなど、東京の女学校にも引けを取らない内容だった。

「とりあえず通わせてみたらいかがです」

 叔父の重文の一言が、鶴の一声となった。

ひかりが尋常小学校の六年生となった、夏のある日のことだ。

今は亡き双生児の実父、融の嗣子で、現在の櫻澤伯爵である重文は、激務の合間の息抜きを兼ね、ときたま透とみつに会いに来る。

その日は海水浴がてら妻子を伴って訪れて、館に数日間滞在していた。

七年前に妻帯した重文は二女に恵まれ、長女のさやかはこの春に学習院の女子部、次女のしづかは学習院の幼稚園へとあがっていた。

公家華族の姫であった妻いず美とよく似た、おっとりと優雅な娘たちは、意外にもひかりによく懐いていた。

ひかりも、歳の離れた幼い従妹たちを可愛がっていた。

いず美もみつに親しみを覚えているようだった。鎌倉を訪れる時はいつも、東京で流行の柄の反物や人気の菓子などを携えてきて、娘を持つ者母親同士、和やかにあれこれ話し込んだ。

そのときもみつといず美は、娘たちを連れて、海水浴場に行っていた。

重文はくつろいだ顔つきで、応接間のソファで透と向き合って座っていた。

夏の盛りでさすがに蒸し暑いが、山の中腹に建つこの館は、重文の住む三田の屋敷と比べると格段に涼しい。

築三十年を越える鎌倉の館は古びてきているが、暖かみのある雰囲気で居心地がよかった。

館は古くから透と明に仕えている老女のきよの指示で掃き清められ、チリひとつ落ちていない。

木々の立ち並ぶ庭は、透が体調のよい折に丹精している。どの季節にも花が咲き乱れて美しい。

開け放った窓から庭の緑に清められた風が入って、爽やかだった。

「そうは言うがな、重文どの。あのじゃじゃ馬娘が溶け込めると思うか」

 透は難しい顔をしながら、重文の手みやげの水菓子をつまんだ。

 井戸水で歯にしみるほど冷やされた水蜜桃は甘くとろけるようで、透の表情は少し和らいだ。

夏は毎年、いつもに増して食が進まない。それを知っての気遣いとわかっていた。

「溶け込めなかったら辞めればよいのです。卒業まで在学しない女学生のほうが多数派なのですから」

 透は首を傾げた。品よく水蜜桃を口に運びながら、重文は言葉を続けた。

「在学中に婚約したり結婚したりで、中退する者が多いのです。世間では、何ごともなく卒業する女学生を“卒業面”と言う向きもあるくらいですから」

「卒業面? なんだそれは」

「つまり、その、醜女のことです。卒業するまで誰にも見初められないということで……」

 在学中に縁談がまとまらないのは行き遅れとされる、そんな時代だった。

 当時の女学校には、息子の嫁を探す有力者たちがたびたび訪れ、短い時間で容貌や立ち居振る舞いを見定めた。

お眼鏡にかなった女学生は、学校を中退して嫁いでゆく。それが当たり前だった。

十代半ばでの婚姻は珍しくなく、学業を全うせずに挙式する女学生も少なくなかった。

 苦笑する重文に、透は憮然とした。

「全く。なにをしに学校に行っているんだ」

 透も明も学校に通ったことは一度もない。勉学は家庭教師について教わった。

 そのためか、女子には教育など必要ないという風潮が、いまひとつ理解できなかった。

「そうはおっしゃいますが、ひかりもいずれ嫁ぐのですよ。もしかしたら、在学中に求愛されることもあるやもしれません」

「そんな酔狂な輩があるものか」

 鼻で笑いながら、透はふと、自分たちと出会った頃のみつは、今のひかりとそう変わらない年齢だったと気が付いた。

「しかし、そうだな。いつかはあのお転婆も嫁に行ってしまうのか」

「さみしいですか」

 天井を見上げるように、視線を遠くにする透に、重文は微笑みながら尋ねた。

「とうぶん先のことだ。それまで私が生きているかどうか」

 宙を眺めたまま、透は応じた。

病みがちな身体は、ここのところ調子がよい。

それでも、いつどうなるかわからないという不安は、心のどこかにいつもある。

「なにを弱気な。みつを残して逝かないでください。みつを、泣かさないでください」

 微笑をかき消して訴える義理の弟を、眩しいもののように透は見た。

 重文はみつに恋していたのではないかと、あるとき、ふいに気が付いた。

 みつは重文の義理の妹として、三田の櫻澤伯爵邸に一年ほど住んでいた。

ともに暮らす若いむすめに、年頃の重文が淡い感情を抱いたとしても不思議はない。

自分も明も、みつに恋をした。

幸運なことにみつは二人とも選び、三人は夫婦となった。

そんな関係が一般的でないことはわきまえている。そもそも自分たちの存在自体が、一般的ではない。

重文は、自分たちとは違う。道を外れず、爵位や家を守らなければならない立場だ。

だから彼は、誰も幸せになれない未来を選ばなかったのだろう。そう察していた。

「そうだな。もっとも、みつによると、私は長生きするそうだ。憎まれっ子、世にはばかると言うだろう? 自分でもそう思う」

 ほっと眉を開く重文のためにも、みつを守ると約束した明のためにも、なにより、みつとひかりのためにも、強くならねばらない。

人は自分のためでなく、愛すべき人たちのために生きていくのだと改めて感じた。

ひかりが進路を決めたのは、両親とよく話し合った結果だった。 

しかし、その夏の日の重文の意見がなければ、違う道をたどったのかもしれない。

 野山で遊びまわっているわりに学業の成績もそう悪くなかったひかりは、入試を軽々とクリアした。

桜花の咲き乱れる四月のある日、ひかりは女学生となった。


 誰しも想像したように、ひかりは女学校で異端児となった。

もともとが、普通より品の良い女学校だったせいもある。

 ちょうどひかりが入学した年、紫紺色の木綿無地の元禄袖の着物と袴という、ごく地味な校服(制服)が制定されたが、それ以前は、袖長の銘仙で登校する者もいた。

ゆったり優雅で、軽やかに談笑する様は、色鮮やかな小鳥が囀るようだった。

彼女たちは豊かな髪を束髪やお下げ髪にしてリボンを結び、綺麗に化粧を施した顔で、女学校までの道を華やかに彩った。

化粧は当時の女学生にとって、身だしなみの一環だった。

ましてや良家の子女にとって、人前で素顔を晒すなど、あってはならぬことだった。

ひかりですら、肩までの髪をおさげに結い、母に教ったとおりに白粉をはたいて、毎朝家を出ていった。

「場違いという言葉は、今のわたくしのためにあるのだと思います」

 夕食をとりながら真顔でぼやくほど、ひかりは学校で浮いていた。

開け放った食堂の窓からかぐわしい夜気の流れ込む、心地よい宵だった。

 六月の末に入り、例年ならそろそろ梅雨の始まる時期になっていたが、その年は入ハナが遅れていた。

爽やかな気候のせいか、透も体調を崩すことなく、毎日のように庭いじりに専念していた。

「そう。学校はいや?」

 内心の不安を隠して穏やかに問い掛けるみつに、ひかりは頭を振った。

「みなさま、とてもよくしてくださいます。ですけど、上級生のお姉さま方が……」

「なんだ、いじめられているのか」

 フォークの先でニンジンのソテーを転がしながら、気のないそぶりで透も訊いた。

「いいえ。エスという言葉をご存知ですか、お父様」

「英語の綴りのひとつだろう」

 ひかりはひと口、水を飲んだ。

「そうです。ただしこの場合は、シスターの頭文字をとった言葉です」

「シスター? 姉や妹のことか。それがどうした」

「その、わたくしのお姉さまになりたいという申し出が、幾度かありまして」

「なんだそれは」

 エスというのは、女学生同士が特別な愛情をもって、親しく交際することだった。女教師に恋い焦がれる女学生もいた。

 心中事件を起こすほどの緊密なものから、ほのかな憧れまでを含めたこの関係は、大正から戦前にかけて、社会現象にまでなった。

 そして上品な女学校において、ひかりは良くも悪くも目立っていた。

「石井さん。わたくしをお姉さまと思っていいのよ。こんど、お化粧の仕方を教えて差し上げるわ。一緒にお出掛けいたしましょう」

「初めて石井さんを拝見したときに、なぜか放っておけない気がして、運命を感じたわ。わたくしには妹がいないから、あなたを妹のように思って、お喋りしたりしたいの」

「このまえの朝、校門に駆け込んできたときのあの俊足さ! 教室の窓から拝見していて、みとれてしまいましたわ。ぜひ、親しくお付き合いしていただけないかしら」

 授業の合間の休憩時間に呼び出されて上級生から申し込みを受けるたび、ひかりは内心深いため息を吐いた。

 礼儀を重んじれば無視はできないけれど、同性に甘い感情を覚えたことは一度もない。

 心の中にいるのは、ほっそりとした指でひかりの頭を撫でる、優しい目をした人だった。

誠一のことを考えない日は一日もない。

 会ったら話したいことがたくさんあるのに、実際の彼を前にすると、その半分も話せない。

 わけもなく笑い出しそうになる嬉しさと、身の置きどころもないくらいの恥ずかしさが同じくらいで、どうしたらいいのかわからなくなる。

 心にまとわりついて離れないこの気持ちは恋情だと、今のひかりははっきりと自覚していた。

 透は、ひかりの口から聞く上級生たちの言葉に、おおっぴらなため息を吐いた。

「つまりお前は化粧がなっておらず、放っておけないような雰囲気で、はしたなく女学校までバタバタ走って行っているというわけか」

 みつは安堵しながら、小さく吹き出した。

「嫌われるよりも、親しくしたいと思われるほうが、よいではありませんか。お化粧も、そのうち上手くできるようになりますよ」

「お化粧は、好きになれません。白粉がポソポソするし」

 ため息を吐きながらも旺盛な食欲で皿を空にしていく愛娘を、みつは物思わしそうに眺めた。

「もしかしたら、いま使っている白粉が合わないのかもしれないわね。舶来物なら、もっと上手にできるのかしら」

 明治から大正にかけ、急速に西洋化していった日本では、婦女の化粧品や化粧法も劇的に変わっていった。

 明治半ばまで、結婚が決まった女性は鉄漿で歯を黒く染め、子ができたら眉を剃り落としていた。それが常識だった。

 西洋化を目指す明治政府によってどちらも禁止令が出され、大正時代には庶民の間にも西洋風の化粧が浸透しつつあった。

しかし、誰もがすんなり時代の流れに乗れたわけではない。

めまぐるしい変化に戸惑う婦女の続出する、化粧の過渡期ともいえる時代だった。

婦女の嗜みとして幼少時から化粧をしていたみつにも、当世風の化粧はよくわからない。

「それなら明にフランス製の化粧品を送ってもらえばいい」

「ですけど、殿方に、化粧品の良し悪しがわかるでしょうか」

「たしかに。ましてや明のことだ。間違ってメリケン粉でも送りつけてきそうだな」

「フランスまで行かなくとも、銀座には舶来の化粧品がたくさんあるそうです」

 明お父様って一体どういうかたなのかしらと内心で訝しみながら、ひかりは同級生からの情報を何気なく口にした。

上級生のみならず、おおよその同級生もその育ちの良さからか、ひかりを鷹揚に受け入れていた。

毛色の違うひかりを物珍しがりつつ、優しく好意的に接してくれた。

 好きな俳優や親しくしているお姉さま、家族や愛玩している犬、銀座の百貨店など、同級生の話は多岐に渡っていた。ひかりはそれを興味深く聞いていた。

 同級生たちの日常は自分とあまりにかけ離れていて面白かった。

「そう。東京になら、きっと色々と良いものがあるのでしょうね。今度いず美さんに、お手紙を書いて訊いてみましょう」

ひかりの前に並ぶ、空になった皿を眺めながら、みつがにっこりと言った。

 それが思わぬ出会いを招くなど、誰ひとり想像しなかった。


 みつからの手紙を受け取ったいず美は、俄然張り切った。

 いず美は、義妹のみつとその夫の双生児たちに、親しみを覚えていた。

山深い緑に包まれた館にひっそりと棲むみつは、いつも穏やかで、物静かに話す。

現世から離れたところに長くいるせいか、どこか浮世離れしている。

それでいて、夫の透に対して思ったことをすいすい言う。

夫唱婦随が当たり前と信じて育ったいず美にとって、透とみつのような夫婦関係は新鮮で爽やかだった。

そして夫の重文から聞いた、双生児の母にあたる人の話は、あまりに儚く憐れだった。

双生児に対してできる限りのことをすると夫が決めているのを知ったとき、それに従おうと自然に思えた。

 いず美は、今の女学生が好む練白粉や流行りの紅の色、どこで買えるのかまで、事細かに調べあげた。

早速みつに手紙を書こうとする段になって、相手が長い間、鎌倉に住んでいることに思い至った。

 豊かな自然に囲まれて暮らしているみつやひかりが、いきなり大都会に出て、目当ての店に辿りつけるか心配になった。

 自分が見繕って贈ってもいいが、ひかりの好みもあるだろう。どうせなら、使う本人が選んだほうが良い。

 それならば、自分が銀座を案内しよう。

 そういう結論に達したいず美は、夫の了解を得たのち、手紙をしたためた。


 数日後の昼下がり、いず美からの郵便を受け取ったみつは、その内容に目を丸くした。

 急いで夫の部屋に向かい、気に入りの長椅子に寝転んでいた透に手紙を手渡した。

 当のひかりは、女学校に行っている。

「……ひかりさんもお年頃ですし、好みもおありかと存じます。また、ひかりさんに映えるお色かどうか、実際にお試しになられたほうがよろしいかとも存じます。つきましては、わたくしがひかりさんとご一緒して、銀座をご案内を致したく存じます……だと?」

目を通し終えた透は、鼻で笑った。

「そうなんです。先日の件で、いず美さんにお手紙を書いたら、こんなお返事が」

「いず美どのはひかりを理解していないな。あんな山猿娘が東京になど行ったら、目をまわすに決まってる。好みなんて高尚なものがあるとも思えん」

「ですが、ひかりももう子どもではありません。使う本人が、気に入るものを見繕ったほうがいいというご意見はごもっともです」

「しかしだな……」

 渋る夫に、みつは微笑みかけた。

「わたくしも、久しぶりに都会の空気を吸いたくなりました。ひかりと二人で、東京見物をしてきてもよろしいですか」

「まぁ、お前がそう言うなら……」

 物柔らかでも、いったん言い出したら決して引かない妻をよく知る透は、諦めの境地で頷いた。

「やはりこんな山奥より、生まれ育った東京が恋しいか」

 ぼそりと吐き出された夫の言葉に、みつは小首を傾げた。透は俯き加減にいず美からの手紙をたたみながら、重ねて問うた。

「ちゃんと帰ってくるんだろうな」

 みつは一瞬ぽかんとし、それから満面の笑みを浮かべた。

「わたくしが戻らないのではないかと、案じておられるのですか」

「馬鹿か。思いあがるな」

 ぶっきらぼうに答える透の髪に、みつはそっと触れた。

「わたくしの戻るところは、いつでも、あなたのいるところです」

 透は黙って、みつの指先を握った。

いつもそうだった。みつは自分の気持ちを見抜いて、欲しい言葉をくれる。

 なにがあっても、みつを守り抜く。

 改めてそう思った。

 その日の夕飯どき、透とみつは、いず美からの手紙をひかりに見せた。

そして女学校が夏期休暇に入った八月の上旬、銀座へと出かけることになった。


 鎌倉から出たことのないひかりにとって、初めての東京見物は一大事だった。

 翌日登校すると、さっそく教室でその話をした。

「あら。ひかりさま、銀座は初めてですの。それはおよろしいこと」

 級長の鷹津ひさ乃が優雅に微笑んだ。

 ひかりより頭半分ほど小柄だが、いつでも背筋をすっと伸ばし、凛とした佇まいだ。

 ひかりの周りにいる同級生たちも、口々に囀り始めた。

「資生堂のソーダファウンテンをご存じ? 銀座に行かれるのなら、あすこのアイスクリームは必ず頂かないと」

「わたくしも大好きですわ。月に一度は頂いておりますの」

「アイスクリームも結構ですけど、やっぱりソーダ水を頂かないと。ひかりさま、ソーダ水を召し上がったことはありますの?」

 ひかりを囲むようにして、教室の一角できゃあきゃあとお喋りに興じる少女たちを、冷ややかな声が制した。

「みなさま、少しお声が高すぎませんこと?」

 ひかりが振り向くと、勝気そうな大きな目に行き当たった。神宮寺とき江だった。

 黒々と豊かな髪をふっくらと束髪にし、白いリボンで結んでいる。

 女学校に入学した直後に腸カタルを患い、しばらく療養していたため、とき江は級友たちよりひとつ歳上だ。

その為か、周囲にあまり馴染まない。

「申し訳ございません、とき江さま。気が付きませんで……」

 とりなすひさ乃の言葉が耳に入らないかのように、とき江は真っ直ぐにひかりを見ていた。

「ここは山奥ではございませんのよ。もう少し、周りをご覧になられてはいかが」

 そう言うと、ぷいっと教室を出て行った。

「まぁ! 今の言葉、お聞きになられて?」

「ひかりさまはなにもおっしゃっていなかったのに、あんまりですわ!」

「いいえ。わたくしが銀座に行くとお話ししたのがきっかけですから……」

 憤然とする同級生たちをなだめながら、ひかりはわずかに苦笑した。

 どういうわけか、入学した当初から頻繁に、とき江に突っかかられている。

 公家の血を引くというとき江には、野育ちの自分の粗雑さが受け入れられないのだろう。

ひかりはそう判断していた。

 もっとも、とき江のお眼鏡にかなう者はなかなかいないようだった。休憩時間は静かに本を読んだり、一人で散策して過ごしていた。

「周りをご覧に……。なるほど、そうかもしれませんわね」

 ひさ乃の呟き声に、ひかりは素直に頷いた。

 何もかも他人に合わせる必要はないけれど、郷に入らば郷に従えということわざもある。

「以後、気を付けます」

 神妙に答えるひかりに、ひさ乃は意味深な微笑みを投げかけた。

「おそらく、ひかりさまが思っておられるのとは、少し違った意味合いですが」

「え?」

 始業開始を知らせる鐘の音で、会話は断たれた。

 気難しい顔で教室戻ってきたとき江を、ひかりは何気なく見た。目が合った。

とき江の目が無防備に見開かれ、白い頬に血の色が散った。

 一瞬のちに渋面を浮かべると、ひかりから目を逸らして席に着く。

 ひかりはそっとため息を吐いた。

 全ての人間から好かれるのは不可能とわかる程度の大人になっても、あからさまに嫌われるのにはまだ慣れない。

 しかし、厭なことを考えてみたところで、なにもいいことはない。

どうせなら楽しいことを考えよう。

 もしも流行りの化粧品で綺麗になれたなら、誠一はなんと言うだろう。

似合わないと笑われるだろうか。

それとも、ほんの少しでも美しくなったと、褒めてくれるだろうか。

そんなことを考えて、ひかりはまだ見ぬ銀座に思いを馳せた。


ひかりのお供をするみつも、久々の東京に、少し浮き足立っていた。

 なにを着ていけばいいのか考えあぐね、青磁の絽のきものに萌黄の名古屋帯を合わせようと決めた。

銀座に出掛ける前日のことだ。

 あまり身に着けることのないものなので、普段は蔵にしまいこまれている。

虫干しをしようと、みつは一人で薄暗い蔵に入った。二週間ほど前から、ハナは姪の出産を手伝うため、房総の実家に帰っていた。

 梅雨はとうに明け、爽やかに晴れ渡った日だった。

 気候のせいか、透はここ最近体調が良い。今日も、朝から庭いじりに精を出していた。

 ひかりは美代の家にいた。

 尋常小学校を卒業後、美代は女中奉公に出ていた。昨日から帰省しているので、会いに行ったのだ。

みつはしばらく蔵を探り、ようやく目当てのきものを見つけ出した。

畳紙にくるまれたきものを桐箱から取り出し、両手で抱えて蔵を出ようとしたとき、段差につまずいた。

今まで出したことのないような声量の悲鳴が、みつの口から飛び出した。

転倒はなんとか免れたものの、捻った足首がひどく痛んだ。

立ちあがろうとすると、痛みはさらに増した。みつはきものを抱えたまま、その場にへたりこんでしまった。

「おい、どうした」

 蔵の付近で梅の枝ぶりを整えていた透は、悲鳴を聞きつけてみつに駆け寄った。

 はしたない大声に赤面しつつ、みつは頭を下げた。

「お騒がせして申し訳ありません。蔵の出口でつまずいてしまいました。きものは無事ですが、足が……」

「馬鹿! きものなんてどうでもいい。立てるか? いや、いい。無理に立つな。待ってろ、いま人を呼んでくる」

 血相を変える夫に、みつは痛みをこらえて微笑みかけた。

「足の一本くらい、たいしたことありませんわ。それよりもそんなに慌てて、あなたの具合が悪くなるほうが心配です」

「ふん。それだけ口が回れば、確かにたいしたことはないな」

 憮然としながらも、透は急ぎ足で屋敷に戻った。


「大丈夫ですよ、奥さま。骨には異常ないようです。足首を包帯で固定して、なるべく歩かず養生されれば、おおよそ一か月後に治るでしょう」

 往診に訪れた斎藤医師は、笑顔で太鼓判を押した。今日は誠一の姿はない。

自ら大きな診察鞄を下げてきたせいか、気候のせいか、うっすらと汗をかいている。

 透の長椅子に腰掛けながら、みつは斎藤医師を見上げた。

 診察を受けるのにも体勢的にもここが一番楽だろうと、下男に運び込まれたのだ。

 透は扉のそばで、腕を組んで立っていた。

「あの、先生。明日、外出する予定があるのですが」

 みつの言葉に、斎藤医師は首を振った。

「少なくとも一週間は、お手洗いに行かれる以外、歩いてはなりませんな。ご予定は変更なさってください」

「でも……」

 言いかけて、みつは口を噤んだ。

 ひかりが明日の買い物をどれほど楽しみにしているのか、医師に訴えたところで仕方がない。全て、不注意な自分が悪い。

 ひかりをたった一人で東京に寄越すのは、もってのほかだ。

万が一、若いむすめの身のなにかあったら、取り返しがつかない。

 ハナがいれば代わりに付き添いを頼めたが、房総から戻るのはもう少し先だった。

 昔から透と明に仕えていたきよは古希を過ぎてから体調が優れず、妹夫婦の元で静養していたが、二年前に病没した。

 買い物を延期するとして、いつ足が完治するのか定かではない。いず美の都合もある。次がいつになるのかわからない。

身体に負った傷のせいか、精神が不安定で、知らず知らずのうち涙が出ていた。

 診察を終えた斎藤医師を玄関まで見送り、自室に戻った透は、はっとした。

 みつが泣いていた。

嗚咽は漏らさず、俯いた頬に涙だけが幾筋も溢れている。

 みつが涙するなど、滅多にないことだった。

 線が細く、なよやかな外見とうらはらに、多少のことでめげるような妻ではない。

「ど、どうした、みつ。足が痛むのか」

 透は早足でみつに歩み寄り、隣に腰掛けて顔を覗きこんだ。

 みつは頭を振った。

「じゃあどうして泣いてるんだ。腹が痛いのか? いや、腹が減ったのか」

 うろたえる透の耳に、微かな声が届いた。

「ひかりが……」

「え?」

「ひかりが可哀想です。あんなに楽しみにしているのに、わたくしの不注意のせいで……」

 そう言うと、みつははらはら涙を零した。

「そんな、泣くほどのことではないだろう」

 透は袂から懐紙を取り出して、みつに渡した。みつはそっと涙を拭った。

「明日を逃せば、次はいつになるのか……。せっかくあの子が、娘らしいことに興味を持っているのに。色々と骨折りしてくださったいず美さんにも、申し訳がありません」

「それなら私がお前の代わりに、明日ひかりに付き添おう。だからもう泣くな。な?」

 みつはぽかんと口を開けた。驚きすぎて涙も止まった。

 隣に座る夫の顔を窺うと、至って真剣な顔をしている。

「本気でおっしゃっているのですか? 生まれてから一度も、鎌倉を出たこともないのに」

 透は胸を反らせた。

「たかだか汽車で東京に行って、ひかりと買い物をするだけだろう。私を何歳だと思っているんだ」

「三十四歳におなりなのは存じております。ですが……」

「そうだ、お陰様で三十四歳だ。いず美どのも一緒だし、なんとかなる。成せばなるとも、案ずるより産むが易しとも言うだろう」

 透はいったん言葉を切って、両手のひらで、みつの頬を包みこんだ。

「だから案ずるな。もう泣くな。笑ってくれ」

「注文が多すぎですわ」

 みつは思わず吹きだした。

「良かった、笑った」

 透も笑った。

 かくしてひかりだけでなく、透も、人生初の東京見物をすることとなった。


 待ち合わせの東京駅のプラットホームで、いず美と重文は目を丸くした。 

 ひかりの隣で、薩摩絣に身を包んだ透が、満面の笑みを浮かべていたからだ。

 矢絣の銘仙にお下げ姿のひかりは、やや緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げた。

「透兄さん、どうなさったのですか? みつは? みつになにかあったのですか」

 乗客が行き交う煩雑なプラットホームから少し外れた壁際に場所を移すと、重文は口早に問い掛けた。

 安心させるように、透は明るく言った。

「重文どのもいらしたのか。みつは少し足を痛めてしまってな。たいしたことはないのだが、大事をとらせた。代わりに私が、ひかりの供をすることになった」

「まぁ、足を? 大丈夫なのですか」

 重文の隣で息を呑むいず美に、透は軽く頭を下げた。

「本日は色々とご面倒をおかけする。妻から、いず美どのに宛てた文を預かってきた」

 そう言って単衣の懐から手紙を取り出した。

 冴えた紺のこの着物は、明が残したものだった。

 不安そうに手紙に目を通していたいず美は、次第にその表情を和らげていった。

「いず美どのにお会いできないこと、妻は本当に残念がっていた。足が良くなったら、ご挨拶をしに東京へ伺いたいと言っていた」

 いず美は笑顔で頷いた。

「では今度はみつさんのために、良いお店を探しておきましょう」

「ひかりと透兄さんの、初めての東京見物をご案内できるとは光栄です」

 妻の様子で安堵した重文も、いつも通りの品の良い笑みを浮かべた。

 四人は人々で賑わう東京駅構内を抜けて、駅前で待機していた自家用車に乗り込んだ。

 初めて東京を訪れるひかりのために、重文が用意していたものだ。

 重文は運転手の隣に腰掛け、後部座席は、ひかりを挟むようにして透といず美の三人が収まった。

透とひかりは、そろって珍しげに車内を見回した。

白手袋をした初老の運転手は二人の様子に口元をほころばせ、それから恭しくドアを閉めた。


「よくもまあ、これほどまでに建物を作ったものだな。それにこの人の数。いったいどこから湧いて出てきたのだ」

 透は車上から、流れゆく東京の風景に嘆息した。

 ほんの三日前まで、自分がこんなところにいるなど想像だにしなかった。みつの涙を前にしたら、勝手に口が動いていた。

思いがけない言葉が飛び出した直後、透は内心で深く後悔していた。

鎌倉どころか屋敷から出たこともろくにないのに、ひかりの供などできるのだろうか。むしろ自分に供をつけてほしい。そう思った。不安しかなかった。

しかしそんな事は口が裂けても言えない。

一度出てしまった言葉は取り消せないし、夫として父親として、なによりも男としての意地がある。

そんな成り行きからのひかりとの道行きは、意外にも面白いものだった。

通学に利用しているので、ひかりは汽車に慣れている。鎌倉駅から東京駅までは、ひかりに着いていけばよかった。

初めて目にする蒸気機関車には、ほとんど圧倒された。

書物で目にしたり、人から聞いたことはあったが、実際に前にすると、黒々とした車体は見上げるほど大きく、威圧感すら感じた。

ひかりと透が利用した一等車は、女中を連れた良家の子女と思しき女学生や、厳めしい顔つきの軍人が多くを占めていた。

 大日本帝国海軍を有する横須賀と東京を結ぶために作られた横須賀線は、おもに軍の高官や、その家族が東京へ通うための線だった。

見知らぬ人々の中にあっても透が落ち着いていられたのは、ひとえにひかりのおかげだった。

委縮したり、うろたえたりして、みっともない姿を娘に見せるなど、父親としてあってはならない。そう思って、いつも通りのふるまいを心がけ、自分を保つことができた。

 半刻に満たない短い汽車の旅は、今までの人生で、もっとも刺激的な時間だった。

煙突から吐き出される煤煙には閉口したが、信じられない速度で移り変わる景色はただただ鮮やかだった。 

そして人生初の東京は、無数の大きな建物や色とりどりな服に身を包んだ人々の密集する、雑多で生気あふれる空間だった。

 閉ざされた山奥で、限られた人間としか接していない日常からは、あまりに程遠い。

全てが夢の中での出来事のようだった。

透はこの小旅行を、今ではすっかり楽しんでいた。

「わたくしとお父様も、湧いて出た人の仲間ですわ」

 ひかりも流れる景色に目を奪われながら、ぼんやりと呟いた。

 鎌倉の街と決定的に異なるのは、行き交う人々の服装だ。

今までにも洋装の人を見たことはあるが、そのほとんどは逗留に訪れている異国人だった。

 しかし、東京駅から銀座にかけては、洋装の日本人を多く目にすることができた。

そのほとんどは男性だったが、洋装姿で断髪の女性を目にしたときには、ひかりも息を呑んだ。

当時の女性が髪を切るのは、夫に先立たれるか、出家するときくらいだった。

 産まれてからずっと屋敷の中で過ごしてきた父の目に、この華やかな街はどう映るのだろうと思った。

 父と出かけるのは初めてだった。

 母とは着物を仕立てに行ったり、鎌倉を散策することもあるが、父は外出を好まない。

身体が弱いからというだけでなく、生来の性格や気質もあるのだろう。

 そんな父が、母に代わって自分に同行すると聞いた時には、ひっくり返るほど驚いた。昨日の夕刻のことだ。

 久々に美代と会い、上機嫌で帰宅した自分を、父は自室に呼びつけた。

そこで母の怪我と、代わりに父が付き添うことを聞かされた。

「東京がどれほどのものか、一度くらいは見ておいたほうがよいかと思ってな。べつに冥途の土産というわけではないぞ」

 呆気にとられて黙り込むひかりに、長椅子に腰掛けた透はにやりと笑いかけた。

透の隣に座ったみつも微笑んだ。

「だいじょうぶですわ。あなたは百歳まで生きられます」

「ふん。また、憎まれっ子世にはばかるとでも言うつもりか」

「ご想像にお任せいたしますわ」

普段と変わらぬ父母のやり取りに、ひかりは安堵していた。

 足首に包帯を巻かれた母の姿は痛々しかったけれど、それ以外は普段と全く同じだった。

「ひかりさん。わたくしの不注意で、本当にご免なさいね。お父様を宜しく頼むわね」

 申し訳なさそうな顔を向けられ、ひかりは力強く頷いた。

もちろん母は悪くない。好き好んで怪我をする人間などどこにもいない。

軽くすんだのは不幸中の幸いだったと、胸をなでおろした。

「だいじょうぶですわ、お母様。わたくしがおります。お父様のことはご心配なさらず、早くお怪我を治してくださいませ」

「おいちょっと待て。それではまるで、ひかりが私に付き添うようではないか」

 父の抗議に、母はまた笑みをこぼした。

 ひかりも微笑んだ。


 父と二人の道行きに、不安を感じなかったわけではない。

それでも生まれ持った楽観主義で、なんとかなるだろうと思った。

実際その通りで、なんとかなった。

 人力車で鎌倉の駅に降り立ったとき、さすがに父は緊張の面持ちだった。

行き交う人並みに目を走らせ、木造の駅舎を眺めると、戸惑った表情を浮かべた。

しかしひかりにとっては、毎日のように訪れる、勝手知ったる場所だった。

「さ、お父様。乗り場はこちらです。早く参りましょう」

 そう言って先に立つと、父はほっとしたように付いてきた。

 それから目と口をぽっかり開けて蒸気機関車を見上げ、汽車が走り出すと瞳を輝かせながら車窓からの景色を眺めた。

 叔父の自家用車に乗ってからも、食い入るように窓の外に見入って、まるで幼子のようだった。

 生まれて初めて、父を可愛いと思ってしまった。

もっとも自分がこんなことを考えていると悟ったら、さぞかし憤慨することだろう。

 ひかりはそっと笑みをかみ殺した。


明治末期から大正にかけては、都市的娯楽の黎明期ともいえる時代だった。

 大正二年に、百貨店の三越が帝国劇場のプログラムに載せた広告『今日は帝劇、明日は三越』というキャッチコピーの示すとおり、華やかな娯楽施設が東京の街を彩っていた。

銀ブラという言葉が生まれたのは、この時期のことだ。

銀座は西洋文化の香り漂う繁華街として栄えていた。

 近隣の築地には外国人居留区があり、新橋からは外国人が多く住む街、横浜までを繋ぐ鉄道が開通していた。ハイカラな雰囲気はそういった理由からだろう。

お雇い外国人によって設計された煉瓦造りの街並みは、日本人に欧州を感じさせた。

 また、多数の新聞社が立ち並ぶ知識階級の街である一方で、新橋花柳界という艶やかな伝統も持ち合わせていた。

 カフェやバーも多く立ち並び、白エプロン姿の眩しい女給たちも、芸妓とともに彩りを添えた。

多種多様な文化が混在する銀座には、他に類を見ない、独特な趣があった。

一行は資生堂へ向かった。洋風三階建ての建物は、モダンな銀座にあっても、ひときわ目を引いた。

 化粧品の専門店を選んだのは、いず美の心遣いだった。百貨店では、あまりに品数が多すぎる。ひかりが戸惑うのを案じたのだ。

明治五年に調剤薬局として誕生した資生堂は、やがて化粧品事業にも手を広げていった。

大正三年に欧州で始まった第一次世界大戦は、日本人の好む舶来品の輸入を、ぱったり途絶えさせてしまった。

それを好機ととらえた資生堂は、国産の整髪料や石鹸、化粧水や香水などを作り始めた。

とりわけ、ばら色、牡丹色、黄色や肉黄色など、色のついた七色の粉白粉は斬新で、評判を呼んだ。それまでの白粉は、その名の通りの白一色が常識だった。

「お嬢様は健康的な肌の色をしていらっしゃるので、ばら色か牡丹色がよろしいかと存じます。紫や黄色も映えますわ」

品の良い店員に勧められ、ひかりは困惑気味にいず美を仰いだ。

「叔母さま。どれがよいのでしょうか」

 問われたいず美は、真剣に吟味した。

「そうね。わたくしは、ばら色がいいと思うけれど。紫や黄はどういう仕上がりになるのかしら」

「手の甲で試されますか? お嬢様、お手をお借りしてもよろしいでしょうか」

「あ、はい」

 ひかりは素直に手を出し、色をのせられるところを、じっと見つめていた。

「どれも同じに見えるが、重文どのには違いが分かるか?」

 透は一歩引いたところで、呆れ顔で眺めていた。

「私にもわかりかねます。ですがそんなことを言ってごらんなさい。女性陣から総攻撃を受けますよ」

 重文は透の隣で低く笑い、言葉を続けた。

「野暮な男性陣は、ソーダ水でも飲みながら待っていましょう。いず美。私たちは飲料部に行っている」

「わかりました」

 声をかけられたいず美は、振り向きもせずに答えた。

ひかりは聞こえてもいないようだった。色とりどりの化粧品に魅せられたように、陳列棚の前に立ち尽くしていた。

 幼さの残る背を眺め、透はふいに深い感慨に見舞われた。

猿のようにしわくちゃだった赤子が、いつの間にか白粉をはたき、紅をさすようになっていた。

この道行きも、ひかりの助けがなければ、東京まで辿りつけなかった。

我が子の成長は喜ばしいことのはずなのに、一抹の寂しさが胸をよぎった。

いつの日か、ひかりは自分たちを残して鎌倉を出ていってしまうのだろう。

今さらのように、そんな事実に思い当たった。

ひかりから目を逸らすようにして、透は重文を追った。


 化粧品部のある竹川町店から道を一本挟んで建つ出雲町店は鉄筋コンクリートの四階建てビルディングで、内装も外装も白で統一されていた。その堂々たる佇まいは、白亜の殿堂と呼べるほどだった。

店内には薬品部と飲料部があり、飲料部の一角にはソーダ水製造機、ソーダファウンテンが、物々しく鎮座していた。

 米国から取り寄せられた、身の丈ほどもある製造機には金の蛇口が幾つか付いていて、透明に泡立つソーダ水をほとばしらせていた。

 ほどなく正午になる飲料部には、まばらに客が入っていた。

 粋な着物姿の新橋芸者たちがアイスクリームの匙を動かしながらのお喋りに没頭し、背広姿の会社員たちは、ソーダ水を飲みながら何ごとか話し合っている。

 重文と透も空いているテーブルについた。

透は薄手のグラスのなかで弾ける水を恐る恐る口に運び、経験したことのない感覚に眉を跳ね上げた。

痛いほど刺激的なその液体は爽やかな甘みで、今まで口にしたどんなものにも似ていない。

「お口に合いましたか」

 まじまじとグラスに見入る透を微笑ましく思いながら、重文は尋ねた。

 重文が異腹の兄たちの存在を知ったのは十七歳の頃で、その当時感じたのは戸惑いと罪悪感だった。

 透の母メイは、重文の父融の異母妹だった。

血の繋がりのある者同士が関係を持つなど、禁忌以外の何物でもない。

二人は親族に仲を裂かれ、融は重文の母である八重を娶らされた。

世継ぎを作らなければ、鎌倉の別邸に移されたメイと、メイとの間にできた子の身は保証しないと宣告された融に、逆らうことなどできはしなかった。

双生児を産み落としたメイは、若くして鬼籍の人となった。生まれつき病弱な女性だった。

死の床にあった父から全てを打ち明けられた直後は様々な感情が胸を巡ったが、最終的に重文は、全てを受け入れた。

最愛の人を失い、母を愛せなかった父を赦し、出生のため、世に出ることのできない兄たちに申し訳なく思った。

 融が病没して爵位を継いだのちは、それまで幽閉されるように生きてきた兄たちの助けになろうと決めた。

 ソーダ水を飲む透を眺めながら、重文は異母兄二人と会うため、初めて鎌倉を訪れた日を思いだしていた。

 その頃にはもう、双子の異母兄と、義妹であるみつは結ばれていた。

夫が二人で妻が一人という夫婦関係に、当初は違和感と、若干の抵抗感があった。

若かりし頃、みつに淡い恋心を感じていたこともあった。そのせいで、わずかな妬心も混じっていたのかもしれない。

しかし三人があまりに幸せそうで、一緒にいる姿が自然だったので、そんな感情はいつしか消えていった。

異母兄たちにも、素直な好感を覚えた。

画才のある明が渡欧したのちは、残された透やみつ、ひかりを気にかけてきた。

「なんだ?」

 重文の視線を受けて、透は怪訝そうに顔をあげた。

我知らず思い出に耽っていた重文は、気まり悪げに頭を掻いた。

「すみません。ぼんやりしていました。ああ、そういえば、さっきの建物の三階に陳列場があるのに気が付かれましたか」

「いや。なにを陳列しているんだ」

 透はソーダ水を飲み干しながら訊いた。

「おもに絵画です。残念ながら今日は、展覧会は行われていないようですが。無料で個展を開けるとあって、若い芸術家たちはだいぶんに感謝しているそうです」

「絵画か。……明は今頃どうしているのかな」

 透は遠い目をした。

ほんの数年の渡欧のはずが、あっという間に十年以上すぎてしまった。出立した後にひかりが生まれたのだから、少なくとも十四年は経っている。

「連絡は取り合っているのですか」

「ああ。鎌倉のような片田舎にあっても異国に文が出せるのは、改めて考えるとたいしたものだな。明は今、フランスにいるそうだ。まったく、いつになったら帰ってくるのやら」

「寂しいですか」

 透は苦笑した。

「寂しくないといったら嘘になるが、明のためにはよいことだと思っている。気のすむまで学んで、才を伸ばしてほしい」

 いつになく素直な返答に、重文は微笑んだ。

「そうですね。私もそう思います」

 そう言って、片手をあげた。

「いず美、ここだ」

 声をかけられたいず美は、やや顔を上気させて夫に歩み寄った。その手には、化粧品が入っていると思しき袋がある。

「お待たせして申し訳ありません。つい、自分の分も買い込んでしまいました」

 重文はやわらかい視線で妻を見た。

「せっかく来たのだからいいさ。ひかりも買えたのか」

 叔父に問われて、ひかりは満面の笑みを浮かべた。

「はい。叔母さまに助けて頂けたので、お陰さまで」

「いず美どのに迷惑はかけなかっただろうな」

 透は父の威厳を示そうと、精一杯厳めしい顔で訊いた。

その直後、腹の虫が鳴った。今まで生きてきた中で、最大級といっていいほどの音量だった。

 ひかりは笑い出したいところを必死でこらえて頷いた。父の心情を斟酌するだけの思慮はある。視線の端で、いず美も下を向いて背を震わせているのが見えた。

 重文は声をあげて笑いながら、明の肩をたたいた。

「我々は色気より食い気ですね。私もいささか腹が減りました。ちょうど良い時間です。昼食を摂りにまいりましょう」

 透は赤面しながら、むっつりと頷いた。


 一行が次に向かったのは、日比谷公園内にある洋食レストラン、松本楼だった。

 四人は公園の入り口で車を降りて歩いた。

 路面電車や乗り合いバスの行き交う騒々しい街並みから一転し、公園内は瑞々しい緑であふれていた。

点在する池や巨大な噴水も、見るからに涼しげだった。

都会の喧騒に疲弊していた透は目を細めた。

この空間は、住み慣れた鎌倉の館とどこか似ていて、心が癒された。

 それでなくとも八月の東京は、鎌倉と比べると気温も湿度も断然高い。身体の弱い透には堪える気候だった。

五分ほど行くと、背の高い木々につつまれた瀟洒な店が現れた。

「素敵なお店ですね」

 うっとりとみとれるひかりに、重文は優しく微笑んだ。

「気に入ったのなら良かった。ここの料理はひかりの口に合うかな」

 透は鼻で笑った。

「そんな心配は無用だ、重文どの。なんでもよく食べることだけが取り柄の娘だからな」

 反論したかったが、確かに好き嫌いはないし、食べるのは大好きだ。ひかりは頬を膨らませた。


一行はテラス席に通された。

「東京にもこんなところがあるんだな」

 注文を終えた透は、わずかに身体を反らせるようにして、空を見上げた。

イチョウの巨木が影を作って、外にいてもそれほど暑さを感じさせない。

洒落た造りの店でも、席から見える木々のおかげで堅苦しくなく、開放感があった。

「こんな公園の片隅にあって、なかなか旨い洋食を食べさせると評判なので、ぜひご案内したかったのです。お気に召しましたか」

「もちろんだとも。来られなかったみつに悪いようだが、おかげ様で東京を満喫できた。ありがとう。今度鎌倉に来たときには、精一杯もてなさせて頂こう。いず美どのもぜひいらしてくれ。みつも喜ぶ」

「はい。わたくしも、みつ様にお会いできるのを楽しみにしております」

 和やかに話す大人三人をよそに、ひかりは周囲の客を眺めていた。

東京に住む者たちの間では、松本楼でカレーとコーヒーを味わうのがハイカラとされていた。そのためか、洋装の客が多い。

 隣席でも、洋装を着こなした若い男女が楽しげに言葉を交わしつつ、食後のコーヒーを飲んでいる。

 軽やかなその様は、鎌倉では見ることのできないものだった。

 ひかりも年頃のむすめだ。着るものや化粧には関心がある。

自然と華やかな装いに目を奪われていたが、ほどなくして運ばれてきたカレーのかぐわしい香りに急に空腹を覚え、銀の匙を取った。

その瞬間、周りのことはどうでもよくなった。そのくらい美味なカレーだった。

 大正に入ってから、洋食は庶民の間にも広まっていった。

 カレーとコロッケ、トンカツは、大正の三大洋食と呼ばれ、『今日もコロッケ、明日もコロッケ』という言葉が流行するほどだった。

 ひかりにとっても、洋食は珍しいものではない。鎌倉の館でもしばしば口にしている。

 それでも、今まで食べたなかで一番おいしいと思った。

東京の洋食屋で食べたからかもしれないし、父や叔父夫妻と初めて外食する興奮もあったのかもしれない。

食事を終えてコーヒーで一息入れたあと、四人は公園内を散策した。

太陽の照りつける夏の午後でも、人出は多い。思い思いにめかしこんで、昼下がりの日比谷公園を楽しんでいた。

「もしかすると、あれは植木屋か」

 食事と休憩でだいぶ回復した透は、行く手に広がる売り物と思しき木々に声を弾ませた。

「ええ。少し見ていきますか。もし気に入ったものがあれば、後日鎌倉に届けさせます」

 重文の言葉に、透は顔を輝かせた。庭いじりを好む彼にとっては宝の山のようなものだ。

 嬉々として物色を始めた父のそばで手持無沙汰に立っていたひかりは、ふと、二十メートルほど離れたところを歩く一組の男女に目を留めた。

 山育ちのせいか、ひかりの視力は抜群に良い。そのため、男女の姿は仔細に見えた。

 女は落ち着いた藍のきものを着て、白いパラソルを差している。パラソルのせいで顔は見えないが、二十歳そこそこのようだ。男から一歩引いて歩いている。

 そして女の先に立って歩く白い開襟シャツの男は、見間違えようもない誠一だった。


気づくとひかりは、二人を追っていた。

植木に夢中の父はともかく、叔父夫婦に見咎められなかったのは僥倖だった。

誠一に気取られないよう、数十メートルの距離をあけて後をつける。

 二人は遠目にも親密で、誠一の歩みは女に合せるように、いつもよりゆっくりだった。

 睦まじく連れ添う背を眺めながら、どうするあてもなく、ひかりは歩き続けた。

 しばらくすると誠一と女は、鶴の彫像が建つ池のほとりの東屋に入って行った。

 じりじり照り付ける太陽にも頓着せず、ひかりは木の陰に屈みこんで、池の向かい側から様子を窺った。通り過ぎる人が怪訝そうに振り返っても気にしなかった。

 東屋には、二人のほかは誰もいない。

それでも慎ましく人ひとりぶんの間を保って、ベンチに腰掛けていた。

身体が触れ合うわけでもなく、手を握るでもないのに、漂う空気は甘やかだった。

パラソルをたたんで顔をあげた女は、折れそうなほど細く華奢だった。

束髪にした髪は黒々と美しく、病的なほど肌が白い。赤いくちびるは控えめにほころんでいた。

儚げなその姿は、竹下夢二が描く女を想起させた。

自分とは全く逆だ、とひかりはぼんやり思った。

 女がなにかを言い、誠一が相好を崩した。

普段から物柔らかではあるけれど、あんな笑顔は初めて見た。

 女も微笑んだ。見ていると胸がいっぱいになるような、優しくやわらかな表情だった。

 やがて二人は立ち上がり、公園の出口に向かって歩き始めた。ひかりは屈みこんだまま、それを見送った。

 男女の機微に通じていないひかりにすら、二人は慕い合っているとわかってしまった。

胸の奥に鈍い痛みが広がって、ひかりは大きく息を吐いた。

満ちてゆく重苦しい感情をどうすればよいのかわからないけれど、このままここに留まっていても仕方ない。

いい加減に戻らねば、父や叔父夫婦に心配をかけてしまう。

のろのろ立ちあがろうとして、ふいに眩暈を起こした。

日射病だ、と他人事のように思った直後、平衡感覚を失ってよろめいた。

とっさに手はついたものの、ひかりは目の前の池に頭から落ちた。


 珍しい植木を幾つか購入した後、ようやく透はひかりの姿が見えないことに気付いた。

 植木にうつつを抜かしている間にひかりが勾引かされでもしたら、取り返しがつかない。

 青くなって重文夫妻と周辺を捜していると、ふらりとひかりが現れた。

 勝手にいなくなったことを叱ろうとしたが、ひかりの姿にぎょっとして言葉を失う。

 ひかりは頭から胸元にかけてずぶ濡れになっていた。お下げ髪の先から水滴がぽたぽたと垂れ、化粧はまだらに剥げている。

 透はとりあえず空を見上げてみた。

「雨は降っていないな、うむ。ええと、一体どうした。暑さに耐えかねて行水でもしたか」

 叱責も忘れて尋ねると、ひかりは一瞬口ごもってから答えた。

「申し訳ありません。つまづいて、頭から池に落ちました」

 透は両手をぽんと打った。

「ははあ、池。池に落ちたのか。なるほど。たしかに濡れているのは上半身だけだな」

 驚きすぎると人は冷静になると、透は初めて知った。今日は初めてのことばかりだな、と思いながら呆れた。

「ひかりさん! どうなさったの」

 遅れてひかりに気付いたいず美は、両手で顔を覆いながら立ちつくした。

「つまずいて、頭から池に落ちたそうだ」

 簡潔な透の答えに、いず美の隣にいた重文は目を丸くし、一瞬のちに吹き出した。

「まぁ。どうしましょう。お怪我はだいじょうぶですの? 濡れたものを着たままでは、お風邪を召されますわ」

 狼狽えるいず美に、透は苦笑した。

「大丈夫だ、いず美どの。そんなにやわな娘じゃない。幸いこの気候だ。すぐに乾く」

「ですが、そんななりでは汽車には乗れますまい。とりあえず私の屋敷に寄りましょう。いず美のきものを借りればいい」

「いえ、叔父さま、そんな。大丈夫です。お父様のおっしゃる通り、そのうち乾きます」

 いず美に手渡された懐紙で顔を拭いながら、ひかりはかぶりを振った。

叔父夫婦に、これ以上の迷惑はかけられない。帰りの汽車で恥ずかしい思いはするだろうが、自業自得だ。

ひかりの動きに合わせて水滴が飛び散り、それを見た重文はまた吹き出した。

 外見はみつとよく似ているが、中身は全く違う。

今でこそ口数が増えたものの、娘時分は淑やかで物静かだったみつに対し、ひかりは活発で、ときどき突拍子もないことをする。

 自分でも意外だったが、そんなひかりを好ましく思っていた。

鎌倉の山にいるリスのようにちょこまか動き、嬉しそうに笑い、正直にふくれ、出された料理を美味しそうに平らげる。

 世間で婦徳とされることは何ひとつ満たしていなくとも、飾らないその人柄は、周囲の人間を自然と笑顔にさせる。

「ともかく自動車に乗りましょう。さ、行きますよ」

 せかされて、透とひかりは歩き出した。

 すれ違う人々が、ぎょっと驚いた顔をしたり、薄笑いを浮かべるのは、なるべく気にしないようにした。


 公園口で待機していた運転手の村西も、ひかりの様子に、目を見開いた。

「大丈夫だ村西、濡れているのはおもに頭だけだ。座っても問題ない。いったん屋敷に戻ってくれ」

 そう言うと、重文はさっさと助手席に乗り込んだ。

「申し訳ありません。池に落ちてしまいました……」

 所在無く俯くひかりを見て、村西は笑いをこらえるように一瞬呼吸を止めた。

それから優しく尋ねた。

「それは、大変でしたね。お怪我はなかったですか」

「おかげさまで」

 殊勝に応えるひかりに、村西は微笑んだ。

「そうですか。さ、早くお乗り下さい」

 ひかりは眉を開いて顔をあげた。

「恐れ入ります。なるべくお車を汚さないようにいたしますので」

そういって素直に車に乗り込んだ。

 いず美のきものが濡れぬよう、後部座席では透を真ん中に挟んで座った。

 やがて流れ出した車窓から、ひかりは外を眺めていた。

 きものはじっとり濡れて不快だし、こんな一等地でみっともない姿を晒してしまったのは、万死に値するほど恥ずかしい。

叔父夫婦や父に迷惑をかけたのも、心から申し訳ない。

 そう思う一方、ひかりの頭の大部分を占めていたのは誠一のことだった。

 考えたくなくとも、こまかな霧雨のようにまとわりついて、振り払うことができない。

 もしも誠一が自分に気付いたら、どんな顔をしただろう。

自分はそのとき、どんな顔をすればよかったのだろう。

あの女性は誰で、一体どういう関係なのだろう。

 ひかりは誠一と一緒にいた女性の姿を思い浮かべた。

 色が白くて線の細い、夕顔の花のように儚げで美しいひとだった。

自分とは全く違う。改めてそう思った。


 誠一を想って沈黙するひかりを、透や重文夫妻は、あまりの失態に落ち込んでいるものと読み違えた。

「まあほら、この季節で良かった。風邪もひかないし、ちょうど涼しくなって心地よいだろう。な、ひかり」

 透が慰めを口にするのは珍しい。

しかし、無口なひかりはもっと珍しい。

このおてんば娘も、しょげることがあるのだな、と可笑しく思いながら、重文も言葉を重ねた。

「心地よくはないでしょうが、買い物も食事も終えた後で良かった。それに、透兄さんとひかりを、ようやく我が家へご招待できる。さやかとしづかがいれば喜んだでしょうが、あいにく先週から、日光の別荘に行っているのです。さぞかし残念がることでしょう」

 ひかりの従妹しづかは六歳、さやかは七歳で、どちらも学習院女子部にあがっている。

 ひかりは二人を妹のように可愛がっていたし、二人も、少し風変りで、優しく気のいいひかりを慕っていた。

いず美も夫の言葉に続いた。

「そうですわ。それに、お化粧品を車の中に置いておかれたのは正解でしたわね。おかげで濡れずにすみましたもの」

素っ頓狂な行動に戸惑うこともあるが、愛すべき、かわいい姪だ。なにより、沈みこんでいる姿には、憐れを誘うものがあった。

「いず美どののおっしゃる通りだ。お前は濡れても乾くが、化粧品は濡れたら駄目になる。濡れたのがお前だけで、本当に良かった」

「わたくしも濡れたくなかったのですが……」

 眉根を寄せた情けない顔で反論するひかりに、透は苦笑した。

「起きてしまったことを悔いても仕方がないだろう。どんな物事にも必ず良い面がある。そちら側を見るようにすれば、どんな状況にあっても幸せでいられる」

「そうでしょうか。とてもそうは思えません」

 疑わしそうなひかりの視線を受け、透は笑みを濃くした。

「そうだとも。少なくとも私は今、幸せだ」

 生まれてからずっと、幽閉されるように鎌倉の館にいた。おかげでみつと出逢えた。

 片割れである双子の弟、明とは遠く離れてしまった。寂しいという言葉では言い尽くせないが、それでも明が異国で心置きなく学べているのは喜ばしい。

病を得やすい身体でも、愛する妻が傍にいてくれる。子を得ることまでできた。

 透の言葉に、助手席の重文はくちびるをほころばせた。

隠遁者のように暮らしている透の心が幸せで満たされているのなら、なによりのことだと思った。


「これはまた、たいしたものだ。日比谷公園より広いのではないか」

 透が思わず嘆息するほど広大な敷地のなかに、櫻澤伯爵邸は建っていた。

 乗車したまま門番の立つ門扉をくぐり抜けると、しばらく行ったところに車庫がある。

「おお、あの木の枝ぶりは素晴らしいな。じつに絶妙だ。すまないが重文どの、ここで下してくれないか。近くで見てみたい」

 透の要望により、一行は車寄せから少し離れた車庫の手前で車を降りて、大玄関まで歩いた。

 時刻は四時をまわっていたが、夏の盛りのことだ。日はやや傾いても、入道雲の浮かぶ空はまだまだ青い。

 顔を合わせることのないまま、幽明境を異にした実父が生涯住んでいた屋敷を訪れることになり、透の胸にはひとかたならぬ感慨があった。

そんな状況にあってなお目を奪われてしまうほど、見事な庭園だった。

形のよい木々が整然と立ち並び、庭の中央にある円形の花壇には赤や黄など、色鮮やかな花が咲き誇っている。

「鎌倉の庭ほどではありませんよ。春先にお邪魔したとき拝見した牡丹は、じつに見事でした」

 まんざら世辞でもなく、重文は言った。

 この屋敷の庭はたしかに洗練されているが、どこか冷たくよそよそしい。

透の丹精した鎌倉の庭は、整っていないところがある。それが手の温みのようなものを醸し出していた。

 春先には沈丁花の香が空気をあたためるように漂い、それからしばらくのちには、桜花が空を染める。

青々とした葉桜の頃には艶やかな牡丹が華やかに色を添え、丸々とした夏蜜柑の実る季節になる。

他人を拒むように閉ざされた空間に棲む透が、どうしてあんなに心なごむ世界を作り上げられるのか、重文はずっと不思議だった。

親交を重ねていくうち、なんとなくわかった気がした。

あの場所は明やみつ、ひかりのためのものだった。

透は草をむしり、剪定をし、手を荒らして、とりどりの色彩やかぐわしい香り、甘い実をつける果樹、緑に清められた空気をなど、愛する人に与えている。

透の気持ちが、あそこを特別な空間にしているのだと思った。

庭園に目を奪われ無口になる父と同じく、ひかりも黙って歩いていた。初めて訪れる叔父の屋敷はあまりに壮麗で、現実味がなかった。

 石造りの外壁を辿っていくと、十段ほどの階段が現れた。

昇りきると、二本の太い石柱が、見上げるほど高い天井を支えるように立っていた。

その奥には、蒸気機関車も通り抜けられるほど大きな木製の扉があった。

凝った細工の施された濃い飴色の扉の両脇と上部には、落ち着いた色合いのステンドグラスが嵌め込まれて華やかだった。

重文の手によって開けられた扉の向こうには、外観に見合った豪奢な空間が広がっていた。

大玄関を入ると、広々と吹き抜けになった天井から釣り下がる、クリスタルの巨大なシャンデリアが目に入った。

薄氷の破片を幾重にも重ねたような、繊細で華麗なシャンデリアに、ひかりは息を呑んだ。

透の目は、大玄関の正面に飾られた絵画に吸い寄せられていた。

上がり口から続くように伸びる、木目の美しいつややかな階段の踊り場に、その絵は飾られていた。

 暖かくやわらかい萌黄の空を背に、淡い紅色の花が咲き乱れている。

匂い立つような清澄な絵は透の半身の手によるもので、初めて重文が鎌倉を訪れたときに与えた作品だった。

「明の、桜の絵か。久々に見た。こんな晴れがましい場所に飾られていると明が知ったら、いたたまれなくなって、フランスから飛んで帰ってくるな」

 呆然と言う透に、重文は苦笑した。

「明兄さんが戻ってこられるのは嬉しいですが、それは謙遜が過ぎるというものです。この絵を高値で譲り受けたいという好事家の申し出は大変なものですよ。何名お断りしたか、もう覚えていられないほどです」

 そう言いながら、重文は絵に目をやった。

 毎日のように眺めているのに、見るたびに鮮烈な印象を受ける。

「この絵を、明お父様が……」

ひかりは化粧品を大切に抱えたまま、夢遊病者のような足取りで階段を昇って、踊り場に飾られた桜の絵の前に立った。

鎌倉の館にも、明の描いた絵画は数多く残されている。

それでもこの絵に衝撃を受けた。

決して派手ではないし、両手で抱きしめられるほど小ぶりな作品なのに、豪奢な屋敷の中にあって、全く見劣りしない。

それどころか芳香を放つような、独特の存在感を放っている。

最大限に無駄を削ぎ落とし、もっとも美しい瞬間を封じ込めたような絵だった。

これまでにも幾度となく想像したことはあるが、今ほどもう一人の父がどういう人間なのか知りたいと思ったことはない。

 桜の絵に魅入られていたひかりは、二階の廊下の奥から階段へ歩み寄る人に気付くのが遅れた。

「どうなさったのですか。どちらかに行かれるのですか」

 叔父の声に何気なく振り向き、強い視線に行き当たる。

ほんの数メートル先に立っていたのは、細面の美しい老女だった。

 銀髪をきっちりを結い上げ、つやのある藤色のきものを品よく着こなしている。

 白い百合を思わせる凛とした人が、どうして食い入るように自分を見ているのかわからず、ひかりは戸惑って叔父を見た。

「私の母だ。そして……、一応、ひかりの祖母にあたる」

 少し離れていても、高い天井に反響して、叔父の声はじゅうぶんひかりの耳に届いた。

 しかし、困惑の表情を浮かべる叔父の様子までは読み取れなかった。

 ひかりはぽかんと口を開け、老女をまじまじと眺めた。

 幼いころに聞いた父と母の複雑な出自を、うっすらと覚えている。

 自分には祖父も祖母もいないものと思っていた。両親がいる。それでじゅうぶんだった。

それでも級友たちが彼らの祖父母の話を口にしているとき、自分の祖父母はどういう人なのだろうと想像することがあった。

初めて対面する祖母は、想像をはるかに超えた、美しく上品なひとだった。

この人が、わたくしのおばあさま。

そう思うと、ひかりの胸はじんわり熱くなった。

ひかりは着物の裾をひるがえす勢いで階段を駆けあがり、老女の前に立った。

「わたくしにもおばあさまがいたのですね! 初めておめもじつかまつります、おばあさま。石井ひかりと申します」

 はきはきと自己紹介をし、満面の笑みを浮かべる。

なんの屈託も陰りもない、ひまわりの花のように天真爛漫な笑顔だった。

険しい顔つきだった老女は呆気にとられたように眉を開き、わずかに表情をゆるめた。

「おばあさま?」

 ひかりは不思議そうに、言葉を発さない老女を見た。

「八重どの、ですね。初めてお目にかかります。娘が大変無礼をいたしました。悪気はないのです。ただいささか常識がなく、だいぶん不調法で、しょっちゅうとんでもないことをしでかすだけで……」

 階下からの透の弁明に、老女は微かに口角をあげた。遠目にそれを見ていたいず美は、小さく息を呑んだ。

「悪気のある常識人のほうがマシですね」

 八重はそう言うと背を向けて、もと来たところへ戻ってゆく。

 三歩ほど行ったところでちらりと振り向き、きょとんと立ち尽くすひかりに声をかけた。

「来なさい」

「は、はい」

 命じられるまま、ひかりは老女の後をついていく。

 玄関口に取り残された透と重文、それからいず美は顔を見合わせた。

「あれは……手ひどく叱責されたうえ、折檻でもされるのではないか」

 ぽつりと案じる透に、重文は苦笑した。

「いくら母でも、そんなことはしないでしょう。どうしてひかりを招いたのかは、わかりかねますが」

「初めて見ました」

 いず美が小声で呟いた。

「なにをだ」

 重文の問いに、いず美は囁きかえす。

「お義母さまの笑顔をです」

 隣で聞いていた透は首を傾げた。

「笑顔? いつ笑っておられたか」

 いず美は透をかえりみた。

「透様がお話しになったときです」

 三秒ほど考えて、ようやく思い至る。

「くちびるを歪めていただけに見えたが……」

 いず美はかぶりを振った。

「いいえ。嫁いで八年ほど経ちますが、義母があんな風に微笑むところは初めて見ました。いつも周囲に関心を示さず、閉ざしたお顔をなさっています。」

 そう言って、八重とひかりが向かった方角に目をやった。

「ひかりさんなら、大丈夫ですわ」

 いつになく確信に満ちた妻の声に、重文も頷いた。

「そうだな。さて、いつまでここに立っていても仕方がありません。屋敷を案内致しましょう。それとも少し休まれますか」

 そう言って、透に笑いかけた。


 またこの顔か、と八重はうんざりしていた。

 それなのに、どうして屋敷からつまみだすどころか、この娘を招いたのだろう。

自室に向かうあいだ、八重はそう自問していた。

ぽってりと厚いくちびると、何かに驚いているかのように大きな瞳。濃く長い睫毛。

笑ったときに浮かぶえくぼまで、憎いほどよく似ている。

この顔の女は、これで三人目だった。

一人目は亡夫の融の妹、メイだ。

とはいえ、直接に対面したことは一度もない。

メイは八重が嫁ぐ前に、鎌倉にある別邸へと移されていた。

憎んでも憎み切れない女だった。

融とメイは異腹の兄妹で、メイの母が亡くなったあと、この三田の屋敷に引き取られた。

忌まわしいことに、融とメイは、いつからか密かに通じ合うようになっていた。

たとえ半分でも血の繋がりがある者同士が睦みあうのは、確かに言語道断だ。

しかし八重が立腹した本当の理由は、別のところにあった。

いつのころからか八重は、決して振り向いてくれない夫を愛してしまった。

櫻澤伯爵家に嫁いだのは、傾きかけた生家を守るための純然たる政略結婚だった。

好悪の念どころか、面識すらろくにない。わかるのは家柄と年齢だけだった。

同じ華族とはいえ、八重は由緒正しい公家華族で、融は先々代が鉄鋼で財を成したことで華族となった新華族だった。

格式はあるものの、財産の尽きかけていた八重の生家は、潤沢な富を持つ櫻澤家に娘を嫁がせることでしか体面を守れなくなった。

上流階級の婚姻などただの契約で、個人の感情が差し挟まれる余地はどこにもない。そんなことは八重もわきまえていた。

 それなのに夫を愛してしまった。

いつからか、どうしてなのかわからない。

暗い閨での優しい指先に惹かれた気もするし、淋しげな眼に惹かれた気もする。

近くにいても届かない、もどかしく満たされないこの気持ちが恋心だと、あるとき気づいてしまった。

 融は八重に全くの無関心だった。

 重文を身籠ったあとは指一本触れることなく、八重の存在を黙殺した。

 若き日の八重は理由も原因もわからず、なにか至らぬ所があるのかと、ただただ自分を責めていた。

少しでも夫を理解したいと、夫の留守中に書斎の書き物机を探り、引き出しにしまいこまれていた手紙の束と革張りの日記帳、それから数枚の写真を見つけ出した。

全ての写真で被写体となっている若い女は、えくぼを浮かべて恥ずかしそうに微笑んだり、優しい眼差しで笑いかけたり、憂いのある表情で微かに俯いたりしていた。

女はどの写真でも、同じかんざしを挿していた。

大きな石の嵌められたそのかんざしに凝った細工が施されているのは、目の粗い写真でもわかった。これを贈ったのは融ではないかと、八重は直感した。

この女が誰なのか知りたくて、さもしい行為と知りつつも、八重は日記を紐解いた。

そこに描かれていた真実は、八重にとってあまりに残酷なものだった。

 家柄の良い娘、つまり八重と婚姻し、子を儲ければ、メイと、二人の間に生まれた子に対し然るべき処遇を約束する。

 それを拒むなら、メイや子の身柄は保証しない。

 親族から示された条件を、融は受け入れざるをえなかった。

 夫の態度が、ようやく腑に落ちた。

 八重との結婚は彼にとって、最愛の女と、その間に産まれた子を守るための、ただの交換条件に過ぎなかったのだ。

 その日から地獄が始まった。

 夫を憎めれば、どれほど心穏やかに過ごせただろう。

嫌いな相手がなにをしようが、自分には関わりのないことだ。他所に女を囲おうが放蕩の限りを尽そうが、一向に構わない。

 しかし全てを知ってなお、八重は夫を愛していた。おのれの愚かさを嘲笑いつつ、それでもいつか振り向いてくれる日を待っていた。

 代わりに女を憎んだ。あの女さえいなければ、今とは全く違った関係を夫と築けたかもしれない。

あんな女、この世から消えてしまえばいい。心からそう願った。

八重の心が天に通じたのか、蒲柳の質だったメイは、若くして病没した。

それでも夫の態度に変わりはなかった。

むしろ八重に対してさらに冷淡になった。

 そんな日々が十数年続いたある日のことだ。

 憎むべきあの女とよく似た面差しの娘を、夫が養女として引き取った。八重には、ひとことの相談もなかった。

一番人気の芸妓だった母の亡きあと、自らも花街で生きていたという娘とメイの間に、血縁関係は一切ないという。

それなのに、驚くほど酷似していた。

目の奥に焼き付いているあの写真から抜け出してきたかと疑うほどだった。

みつというその娘を、夫は寵愛した。

とは言っても、それは男女としての愛ではないようだった。

実の娘を愛おしむように細やかに気遣い、学ばせ、どこに出しても恥ずかしくない娘に仕立て上げようとしていた。

愚かしい話だ。夫はみつを決して外に出さなかったのだから。

二度失うのを恐れるかのように、この屋敷の中で、大切に大切に飼っていた。

「おかげさまでさっぱり致しました、おばあさま」

 扉を開ける音と同時に、無駄に元気のよい声が飛び込んできた。

自室の椅子に腰かけて物思いにふけっていた八重は、ゆっくりと顔をあげた。

廊下ですれ違った女中に、見苦しく化粧のはげたこの娘に、顔を洗わせるよう言いつけたのだ。

 濡れた髪をおろし、まったくの素顔になった娘は、一片の邪気もない顔で、にこにこと自分を見ている。

 なんの因果で、この顔の娘に礼など言われる羽目になったのだろう。

この娘は、忌まわしい女に似ているだけではない。夫の不義の子の血まで引いている。そしてその不義の子の母はメイだ。

不幸の源とも言っても過言ではない女の孫など、存在を認めることすら疎ましい。

おばあさまなどと、馴れ馴れしく呼ばれる筋合いもない。

即刻この屋敷から叩きだし、玄関先に塩でも撒き散らしたい。そういう相手のはずだった。

それなのに招き入れてしまったのは、まぎれもない自分だった。

「そこにお掛けなさい」

 八重はため息まじりに言った。

「はい」

 指し示された椅子に、ひかりは素直に腰かけた。

「なにがあったのです」

「なにがあった、とは?」

 ひかりは目を瞬かせながら問い返した。

「どうしてあれほどまでに見苦しい様になったのか、説明なさいと言っているのです」

 八重の言葉に、ひかりは眉を曇らせた。

「誠一さんが……」

思わず言いかけてから我に返り、ひかりは口を閉ざした。

 自分の失恋の話など誰にも、ましてや初対面の祖母に話すようなことではない。

「誠一さん?」

 今度は八重が訊きかえした。

「いえ、なんでもありません。その、誤って池に落ちてしまいました」

八重は聞き漏らしも、容赦もしなかった。

「その誠一とかいう男に、池に突き落とされでもしたのですか」

 そうだとしたらいい気味だ。八重は心の中で快哉を叫んだ。

どこの誰だか知らないが、その男に金一封与えてやってもいい。

「違います」

 八重の追及に、ひかりは即答した。

「それでは、誠一と言うのは誰なのです」

「それは……」

 口ごもりながら上目づかいに自分を見る娘を、八重はじっと見返した。

 間近に眺めてもよく似ていた。

 造作は瓜ふたつなのに、放つ雰囲気は正反対だった。

 いつもひっそりとしていたみつと違って、この娘は愚かしいほど朗らかだ。

 数分の沈黙が続いたのち、ひかりは諦め顔で口を割った。

「わかりました。おばあさまにだけお話し致します。どうか、ご他言は無用に願います」

そう言い置くと、躊躇いつつも、誠一との出会いから日比谷公園での出来事まで、かいつまんで話し始めた。

「と言うわけなのです。くれぐれも、どなたにも、叔父さまにも、お話しにならないで下さい。宜しくお願い致します」

 神妙な顔でそう締めくくると、ひかりはぺこりと頭を下げた。

 八重は厳めしい顔で頷いた。

内心、必死に笑いをこらえていた。

娘の不幸を嘲笑うわけではない。問われるままに娘が話したその内容は、なぜか本人が真剣であればあるほど可笑しかった。

 笑いたくなるほど面白いことなど、久しくなかった。

ましてや、相手は憎い顔立ちをした娘だ。

 怒りや腹立ちならともかく、親しみに似た感情まで覚えている自分が不思議だった。

「つまりあなたは、その男に出逢わなければ、池に落ちたり、恋に破れずにすんだ、と」

 感情を抑え、淡々と話をまとめる八重に、生真面目な声が訂正した。

「いいえ、違いますわ。池に落ちたのは、完全にわたくしの不注意によるものです。それに、どういう結末になっても、誠一さんに出逢えてよかったと思っています」

「愚かですね。いくらあなたが慕っても、その男は振り向かないでしょう。それならば、最初から出逢わなければよかったのです」

 いつしか八重は、たったいま聞いた話と、自らが歩んできた道とを重ね合わせていた。

 この娘は自分と同じだった。

 その男が振り向くことなどないだろう。

たとえ相愛の女がいなくとも、こんな珍妙な娘など、眼中に入るわけもない。

「そうでしょうか。どんな物事にも、良い面があります。そちら側を見れば、いつも幸せでいられます」

「たとえばどんな」

 小娘がなにを賢しげに、知った風な口をたたくかと苛つきながら、八重は問い返した。

 片眉をあげ、意地悪い口調で問い掛ける祖母は、それでも美しい。そう思いながら、ひかりは思いを巡らせた。

 つい先ほど、父から言われたばかりの言葉をそのまま口にしてしまったが、改めて考えてみると、どんなよいことがあったのだろう。

「たとえば……誠一さんがいてくださったおかげで、わたくしは幸せでした。次にいつお会いできるのか、お会いできたらなにをお話ししようか。そう思うだけで、心が浮き立つようでした」

「それなら、余計に不幸ではありませんか。どれほど慕っても、あなたの気持ちが届く日など来ないのですよ」

 冷酷に八重が断じると、ひかりは少し考え込んだ。

「お慕いしていて幸せでいるのと、気持ちが通じて幸せになれるのは、きっと別のものなのでしょう。それでも、誠一さんを知らずにいればよかったとは思えません」

 自分の心を探って、ようやく出てきた言葉を口にしたら、胸が締めつけられて目の奥が熱くなった。

 涙がぽたりとこぼれて、そんな自分に驚きながらも、ひかりは言葉を続けた。

「好きな人が、好きな人と幸せでいてほしいと願うのはおかしいのでしょうか。それが自分であればと思って、胸が苦しくなるのも」

 涙を流しながら、気持ちを真っ直ぐに伝えてくるひかりを目の当たりにし、どうしてこの娘を追い出さなかったのか、八重はようやくわかった。

 心の底から嬉しそうな笑顔を、自分に向けてきたからだ。

うれしいときは喜びを、悲しいときは涙を直截にぶつけてくる。そんな相手は、今まで一人もいなかった。

 格式だらけの旧家に生まれた八重は、親子の情愛とも程遠く育った。

 母親は八重を産むと、世話は乳母や侍女に任せた。父親は外にも家庭があった。

当時の身分ある家柄では、特別珍しくもないことだった。

血を分けた我が子の重文に対しても、距離を置いてしか接することができなかった。

そのせいか重文も、屋敷にいる誰もが、自分に対して一線引いていると感じる。

それなのに、よりにもよって忌まわしい記憶に結びつくこの娘だけが、なんのこだわりも隔たりもなく接してくる。

ただ単に物を知らない、不作法な田舎娘と片づけることもできる。そうしたくない理由に思い至って、八重は眉をしかめた。

なんということだろう。自分は、この娘を好ましく思っている。

「みっともない。人前で泣くのはおよしなさい。まるでわたくしが泣かせたようではありませんか」

 厳しい口調で言いながら、八重は懐紙を取り出してひかりに差し出した。

「はい……。申し訳ありません」

 涙にぬれた鼻声で答えながら、ひかりは懐紙を受け取って目元を拭った。それから勢いよく鼻をかんだ。

「だいたい、なぜその女性が恋人だとわかるのです。ただの知人と言うことも、じゅうぶんにあり得るではないですか。なにも知らない小娘の分際で、一体なにがわかるというのです」

 つけつけと言いながら、八重はさらに苛々した。どうしてこの自分が、こんな頓珍漢な娘を慰めなければならないのだろう。

 ひかりは赤い目を丸くし、それからにっこりと細めた。

「誠一さんのおかげで、おばあさまとたくさんお話しできました。それに、優しくしていただけました。これも、よいことではありませんか?」

「まったくもう、あなたという人は……」

 おそろしく不愉快で不本意なことに、自分はこの娘を憎めない。

そう思い知って、八重は深々とため息を吐いた。


 その後、八重は遠慮するひかりに押し付けるようにして娘時分に着ていたきものを与え、自室から出て行った。

 赤の他人といって差支えない娘でも、一応は櫻澤家の縁者だ。

 みっともない姿で出歩かれたら、我が身の恥にもなる。そう理由をつけた。

 そもそも今日は芝居見物に行く予定だった。

 思わぬ事態で遅れてしまったが、今からならばまだ間に合う。八重は急いで屋敷を出た。

 取り残された娘は困惑するかもしれないが、このくらいの意趣返しは許されて然るべきだ。我知らず微笑みながら、八重はそう結論づけた。

 部屋に残されたひかりは、戸惑いながらも濡れた銘仙を脱いで、できるだけきっちりとたたんだ。

 与えられたのは桜色の御召で、長い袖や裾には可憐な小花が散っている。

 髪を整え、買ったばかりの化粧品で顔を作る。

身じまいを整えて姿見を覗き込むと、はっとするほど華やかな自分がそこにいた。

 それからしばらく八重を待ったが、一向に戻る気配がない。

 やむなく銘仙と化粧品を抱えて部屋を出ると、記憶を頼りに広い屋敷の中を歩いた。

玄関へと続く階段まで辿り着き、踊り場に飾られた桜の絵の前を通るとき、もう一度見上げてみた。

 絢爛な屋敷のなかにあって圧倒的な存在感を放つその絵は、もう一人の父、明の手によるものだ。

 ひかりは、幼いころに父母から聞いた話を思い出していた。

明は自分が生まれる前に渡欧し、それから一度も帰国せず、絵画の世界に没頭しているという。

現在に至るまでに、何度か手紙を交わしているが、顔を合わせたことがないので他人に等しい。

自然と手紙の内容は、通り一遍の日常生活になってしまう。実在の人物であるとは、いまひとつ想像しがたかった。

彼は一体どういう人なのだろう。いずれ、対面する日が来るのだろうか。

「ひかりか?」

絵に魅入られながらそんなことを考えていると、聞き慣れた声がした。

振り返ると、ゆったりとした足取りで階段を昇る父の姿があった。

「見違えたな」

「おばあ様がきものを貸して下さいました。ふいと出て行かれたきり、お戻りにならないのですが……」

 透は眉をあげた。

「八重どのなら、先ほど外出されたぞ。なんでも今日は、芝居を見に行かれる予定だったそうだ」

「そうでしたか」

ひかりは肩を落とした。もっと祖母と話したかった。じゅうぶんな礼を言うこともできなかった。

「そろそろ帰らないと、鎌倉に着くのが遅くなる。重文どのは、ぜひ泊まっていってくれと言っているが……」

「いいえ、帰りましょう。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには参りません。きっとお母様も、心配なさっているでしょう」

 ひかりの答えに透も頷いた。

「そうだな、鎌倉に帰ろう。迷惑ならもう、軽く一生分かけた」

 そう言って苦笑した。


 引き留める重文といず美に丁重に礼を言い、ふたりは帰路に着いた。

「本当に、今日は色々とご迷惑をおかけして申し訳なかった」

 東京駅のホームまで見送りに来た重文に、透は殊勝に言い、深々と頭を下げた。ひかりもそれにならった。

重文は口元をほころばせた。

「とんでもない。ぜひまたいらして下さい。きっと母も、ひかりを待っていると思います」

 そう言うと、ひかりを見た。

「母は、いつになく張りのある顔をしていた。きみのおかげだろう。きっと会いに来てくれ」

 過分と思える叔父の言葉に、ひかりは顔をあげた。

「恐れ入ります。お借りした着物をお返ししに、いつかお伺いいたします」

 重文は鷹揚に微笑んだ。

「それは母からの贈り物だと思う。ひかりは黙って受け取っておけばいい。気に入らないというのなら、返しに来てもいいが」

 叔父の言葉に、ひかりはぷるぷると頭を振った。

「滅相もございません」

 そうして彼らは笑顔で別れた。

 帰りの汽車では透とひかりはあまり喋らず、それぞれの思いにふけった。

 鎌倉の館に着いたのは夜九時をまわるころだった。

 痛めた足に負担をかけぬよう、日がな一日透の長椅子で安静にしていたみつは、二人の遅い帰宅に気をもんでいた。

七時を過ぎた頃、長椅子に腰掛けたまま、軽く夕食を済ませたが、それでも二人は戻らない。

みつは足に体重をかけないよう慎重に階段を下り、玄関からほど近い食堂で、二人の帰りを待った。

「大変遅くなって申し訳ありませんでした、お母様。おみ足のお加減はいかがですか」

 夜半に差しかかるころ戻ったひかりの明るい声と、かたわらに付き添う透の姿に、みつはようやく眉を開いた。

 それから首を傾げた。

「そのきものは、どうしたの?」

「これは……」

 言いかけるひかりを遮るように、透は大あくびをした。

「失礼。すまないが、私は先に休ませてもらう。さすがに、いささか疲れた」

 そう言い置いて、早々に自室に引き上げていった。

「お父様は大丈夫でしたか」

 母の問いに、ひかりは気まずそうな顔をした。

「はい、お父様は。わたくしは、大丈夫だったのかどうか……」

 それからひかりは夜食を摂りつつ、その日あった出来事を話した。

食事を終えてなお話の尽きないひかりに、女中は微笑しながら温かい紅茶を淹れた。

 予定外の遅い帰宅で、鎌倉駅から館までの道中は肌寒さを感じるほどだった。温かい飲み物は、いっそう染み入るようだった。

 誠一を見かけた事だけは慎重によけ、華やかな東京の風景やモダンな化粧品屋、瀟洒な洋食屋の素晴らしさをひかりは生き生きと語り、買ってきた化粧品を嬉しそうに披露した。

 日比谷公園で池に落ちた話には、みつは声を立てて笑った。いかにもひかりらしい失敗だった。怪我がなかったのならそれでいい。

 その流れで三田の屋敷を訪れることになったことも、ひかりは話した。

 八重との対面に、みつは案じるような顔つきになったが、親切にされ、着物まで与えられたと聞くと「そう」とだけ答えた。

 その夜ひかりは、なかなか眠りにつくことができなかった。

 父と一緒の汽車の旅、華やかな東京、叔父の住む豪華な屋敷、祖母との対面。

 今日一日でどれほど初めてのことがあったかと、寝台に横たわりながら、指を折って数えてみた。

 空が白みかけるころ、ようやく訪れた睡魔に身をゆだねながら、女性と連れ立って歩く誠一を想った。

 夏の光に包まれて歩く二人はとても幸せそうで、美しい一枚の絵画のようだった。

祖母の言うとおり、誠一と女性は、特別な関係ではないのかもしれないし、自分の直感どおり、特別な関係なのかもしれない。

いずれにしても、誠一に幸せでいてほしい。

締めつけられるように痛む心でそう願いながら、ひかりは眠りに落ちた。

 翌日ひかりは祖母にあてて、礼状を兼ねた手紙を書いた。返事は来なかったが、祖母との時間は、いつまでもひかりの胸に残った。

 もしまた会えるときがあれば、まずは時間をとって煩わせてしまった詫びを言い、それから慰めてくれたことと、着物の礼を言おうと、密かに誓った。



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