表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ケルベロスの一時

作者: 荒文 仁志



 おっと、そこのお前さん。あっしの名前をお聞きになりやんしたか?

 名乗るほどの者でもございやせんが、聞かれたからにはお答えしやしょう。


 あっしの名前はケルベロスにござんす。

 首を三つ生やした地獄の番犬にござんす。


 生国(しょうごく)はウラヌスとガイアによって創られた、宇宙(コスモス)にござんす。

 一口に宇宙(コスモス)と言っても広うござんす。

 宇宙(コスモス)は、太陽(ヘリオス)輝く太陽系にござんす。

 太陽系は、金星(アフロディーテ)火星(アレス)の間の星、地球にござんす。

 地球は、ゼウスの大将が手を付けた女の名を、地名に残した地方、ヨーロッパにござんす。

 ヨーロッパは東の南端、アフリカとアジアの交差する地、地中海麗しきギリシャにござんす。


 父はテュポーン、母はエキドナ。

 ヒュドラーやキマイラたちを兄弟として生まれたのでござんす。

 たくさんの兄弟の中、犬好きのハデス様に見初められて、飼われることになったのでござんす。


 仕事は、死んだ人間が、生者の世界に逃げないよう、見張ることでござんす。

 後ろに回ってこっそり逃げ出そうとしても、尻尾が蛇になっていて噛みつくので、誰も絶対に逃がさないのでござんす。


 生きとし生ける者は、いつかは死に、あっしの番する冥府へと落ちてくる。

 一日たりとも、人が死なない日はない。だからあっしの仕事が無い日もまた無いのでござんす。

 休日のない日々はときおり辛くもありますが、ご主人のハデス様も、その部下のラダマンティスさんたちも、同様に休みなく働き続けているので、自分だけ弱音を吐くわけにはいかないのでござんす。

 今日も今日とて死者があの世に送り込まれ、冥府の門の前に恐れをなして逃げ帰ろうとするのを捕まえて、門の中に放り込む時間が始まるのでござんす。


 しかし、今日はちょいと、毛色が違っていたのでござんす。


「やあ、ケルベロス。今日もモフモフしているねぇ」


 自慢の毛並みを褒めてくれたのは、ヘルメスの旦那でござんした。

 ハデス様の兄弟の、ゼウスの大将のお子さんで、伝令や発明発見、知恵の閃き、商売と泥棒の神様で、オリュンポス十二神の一柱。要するに、神様の家族(ファミリー)の中でも大幹部にあたるお偉いさんでござんす。

 そして、あっしの仕事場でもちょっと特別なお方なのでござんす。

 通常、現世から死んだ人間の魂を案内するのは、死の神タナトスの兄さんの仕事なのでやんす。死にたくないと嫌がる亡霊も、タナトスの兄さんに剣を突き付けられて、大人しくあの世に降るのでござんす。


 けれど、タナトスの兄さんの管轄ではない魂もあるのでござんす。


 一つは、戦争で死んだ人間の魂。これは、軍神アレスの旦那の管轄でござんす。戦争の神であるアレスの旦那は、戦死者の霊を束ねて、冥府に送る仕事を担っているのでござんす。

 そして仕事を終えた後は、ハデス様の仕事場に押しかけて、無理矢理に酒や遊びにつきあわせるのが定番でござんす。

 ぶっちゃけ仕事の邪魔なのでやんすが、仕事中毒に近いハデス様に多少の息抜きをしてもらいたいというのは、冥界を職場とする者たちの総意なので、あえて止めはしないのでござんす。


「今日は凄い人を連れて来たよ」


 そして、もう一つ特別な魂。それが、ヘルメスの旦那が連れてくる、『英雄』の魂でござんす。現世で偉大な功績を残した人間は、その名誉を讃えられ、オリュンポス十二神の一柱が直々に案内するという褒美が、もたらされるのでござんす。

 かつては竜殺しのカドモスや、メデューサ退治のペルセウスなんて有名人が、ヘルメスの旦那の案内で、冥府の門をくぐったのござんす。

 そんなヘルメスの旦那が連れてくる人が、凄くないわけがござんせん。


「ちなみに、君も見たことがある人」


 あっしも見たことがある?


 はて?


 あっしの仕事は、亡者の見張り番。当然、あの世の外に出たことなんて、あの忌々しいヘラクレスの野郎に捕まって、引きずり出されたときくらいでござんす。

 あの時は、お日様が眩しくて、目が潰れるかと思ったもんでござんす。おかげで周りがよく見えず、はっきりと見た人間なんて、ほとんどいないでござんすが……。


「ああ、君が地上に行った時じゃない。向こうから来た人間さ」


 あまりじらしても仕方ないからと、ヘルメスの旦那が後ろにいた人影に、前に出るようにうながしやす。人影は、渋るそぶりを見せながらも、諦めたように前に出やした。


「や、やあ……」


 ああ! その老いてなお凛々しい顔! その逞しい筋肉! 何より、あっしの自慢の鼻が嗅ぎだす、その臭い!

 英雄の名残を刻んだ、魂の香り!


 テセウス! テセウスでござんすか!


 アテナイのアイゲウス王の子! ペリペテスやシニスといった多くの盗賊を討伐し、あっしの兄弟であるクロミュオンの魔猪パイアを仕留めやがった憎い奴!


 半人半馬ケンタウロス族や女戦士アマゾン族との戦争に勝利し、アルゴナウタイの一人でもあり、そしてクレタの迷宮(ラビュリントス)牛頭の魔人(ミノタウロス)を退治した、武勇に長けた大英雄!


 けどその後、ミノタウロス退治に手を貸してくれたクレタの姫様アリアドネを、デュオニソスの兄さんに奪われた、寝取られ男!


 傷心のあまり、生きて帰れた時は船の帆を白く、死んでいたら黒くするという、父親との約束をうっかり忘れて黒い帆を張ってしまって、父親を絶望させて自殺させちまったうっかり者!


 前妻との間に生まれた息子ヒュッポリトスを、誘惑して拒絶された後妻から『乱暴された』と嘘をつかれて信じ込み、息子の死をポセイドンの叔父貴に願って、息子を死なせちまった馬鹿親!


 嘘がばれた後妻が、首くくって冥府(こっち)に来た後、友人(ダチ)のペイリトオスと、お互いにゼウスの娘と結婚しようと約束を取り交わし、自分の嫁にするために、スパルタのお姫様ヘレネ、当時『十二歳(・・・)』を略奪したロリコン野郎!


 お姫様を浚った魔王に挑み、お姫様を助け出す勇者気分で、ハデス様の奥方であるペルセポネ様を奪って、友人(ペイリトオス)と結婚させようとした、無礼を通り越して恥ずかしい誘拐犯!


 そしてこの冥府にやってきて、ハデス様に勧められた椅子に座った結果、椅子に尻が張り付いて、座ったまま身動きもできなくなり、戦うことさえなしにとっ捕まった、間抜けな懲役囚(ちょうえきしゅう)


 ヘラクレスの野郎に助けられて現世に帰れたものの、地獄の虜囚になっている間、留守にしていた自分の国の民に愛想をつかされて、王座を追われたと聞いてやしたが……とうとうお亡くなりになったのでござんすか! 哀れな晩年でござんすが、まあ自業自得というもので。


 て……あれ? どうしてテセウスは四つん這いになって、呻いているのでござんしょう?

 まるで、羞恥に悶え苦しんでいるようでやんすが、人間にあっしの声は、獣の唸りや雄叫びにしか聞こえないはず……。


「ああ、そこは伝令、使者の神である僕が、君の声を翻訳して彼に伝えたからね。君の心底からの言葉はしっかり伝わっているよ」


 おっと! つい漏らした本音を聞かれたとは恥ずかしい! ヘルメスの旦那もお人が、いやいや、神様が悪いでござんすよ!


「ところで、『ロリコン野郎』ってなんだい? 初めて聞く言葉だけど」


 ああ、それは未来の言葉でござんす。

 あっしの三つの首は、それぞれが『過去、現在、未来』を表し、この体そのものが、あらゆる生き物をいつかは殺す『時の流れ』を暗示しているのでござんす。それゆえ、ちょいと過去や未来を覗き見るくらいはできるのでござんす。


「へえそうだったんだ。初めて聞いたよ」


 獣のあっしが話せる相手なんて、珍しいでやんすから。言いふらす機会も無いので、知れ渡ってはおりませんなぁ。

 しかしいずれ、イギリスと言う国のザカリーという作家さんが、あっしの暗示のことに気づいて文を書き、その文章をボルヘスという方が『幻獣辞典』に抜粋するという未来は、見えているでござんす。


 とはいえ、あっしの予言の力なぞ、大したもんじゃござんせんから、プロメテウスの叔父貴に聞いた方が詳しく教えてくれると思いやす。


「そうかい。じゃあそうするよ」


 はいな。しかし、どうしてこれまた、あっしとテセウスを会せたでござんすか?

 あっしは、尻が椅子に張り付いて動けなくなったこいつらに、時たま小便を引っ掛けたことがあるくらいしか、関わりはござんせんが?


「おやまぁ、縄張りの印をつけられていたのかい」


 ヘルメスの旦那の同情の声があがった後、テセウスの悶える声が泣き声に変わりやした。

 まあ、時々甘いお菓子をくれる、優しいペルセポネ様を浚おうとした相手に、同情する気はござんせんが。


「それでね。なんで君と彼の顔合わせをしたかと言うと、冥府のそれなりに責任のある役職についている者に、相談したいことがあるということでね。君は番犬とはいえ、並みの獄卒より立場が上だ。聞いてやってくれるかい?」


 ふぅむ?

 まあ相談に乗る義理はないでやんすが、ご主人(ハデス様)とも仲のいいヘルメスの旦那を通してということであれば、仕方ないでござんすね。

 ま、言うだけ言ってみろでやんす。


「シクシク……くそう……小便かけた奴に相談するなんて泣けてくるが……しょうがない」


 文句を垂れつつ、テセウスは話を切り出したでござんす。


「……ペイリトオスのことだ」


 ああ。ペルセポネ様を浚おうとした主犯ペイトリオス。共犯者のテセウスはハデス様に許されて解放されたけど、主犯の奴はまだ怒りが解けず、地獄の端っこに座り込んだままなのでござんす。


「俺はお前が言うように、恥の多い人生を送って来た。最期も、俺が王位を簒奪するのではないかと恐れたスキュロス王リュコメデスに、崖から突き落とされて死ぬなんて惨めな有り様だ。だが、それについてはいい。惚れた女を酒神に奪われ、父を死なせ、息子を死なせ、国に見捨てられた。それは俺の人生の結果だ。良いことも悪いことも、そして死に至ったことも、俺が生きた証だ。だが、ペイリトオスは生きながらにして地獄に縛られた。まともに死ぬことさえできず、生きたまま取り残されている。こんな惨い事はねえだろう?」


 自分の父親や、息子のことより、親友のことについて心悩ませる。それをどう思うかは人それぞれでござんすが、ある意味では、『自分の問題』より『他者』を優先する高潔な思考。

 この鼻が、多くの罪を犯しながらも、彼から英雄の臭いが漂ってくることを告げるのは、鼻が寝ぼけているわけではないのでござんしょう。


「ハデス様の奥方を浚おうとしたことは、ハデス様の怒りに触れて当然。だがそれでも、むしのいい頼みだとはわかっちゃいるが、ペイリトオスを解放してやってほしい。せめて、その罪は死んだ後で罰してやってほしい。生き地獄からは解いてやってくれないだろうか。頼む……」


 こんな獣相手に、深々と頭を下げるテセウス。その本気がうかがえるでござんす。


 が、しかし……あっしには口利きはできないでござんす。


 あっしはハデス様の飼い犬。過去と現在と、いずれ来るべき時を暗示する、『死』という名前の、冥王(プルートー)の忠犬。

 たとえ世界の全てがハデス様の敵に回ろうと、あっしだけは味方するのが、あっしを拾って下ったご主人への忠誠。ゆえに、ご主人の行動に意見することは、できないのでござんす。


「……そうかい」


 けれど、テセウスの邪魔をする気はないでござんす。他の方へ相談するのを止めはしないでござんす。


「ああ。止められても、諦める気はないがな。俺も英雄の端くれだったんだ。苦難には慣れっこさ」


 羞恥に泣いて悶えていたのが嘘のように、テセウスからは確固とした決意と覚悟が感じられたでござんす。

 ハデス様は冷徹で、裁きを曲げるようなことは滅多にしない御方。しかし、皆無というわけではない。

 もしも、ハデス様の心を動かすことができれば、この人はあのヘラクレスの野郎以上の英雄と言えるかもしれないでござんす。

 何せ、死んだ後に人を救い出すなど、今までどんな英雄でも、やったことのない偉業なのでござんすから。


 そしてヘルメスの旦那が案内するより先に、勇気と熱意に満ち溢れたテセウスは、あの世の門をくぐって行っちまったでござんす。それで気を悪くするほど、ヘルメスの旦那は狭量じゃあありませんが、苦笑いをしてござんした。


「やれやれまったく……迷ってタルタロスに墜落しても助けないぞ?」


 ぼやきながらもテセウスの後を追うヘルメスの旦那は、ちょっと楽しそうでやんした。

 あの方は、良くも悪くも、見ていて飽きない奴が大好きでござんすから、テセウスはお気に入りなんでござんしょう。


 さてはて、テセウスは友人(ダチ)を助け出せるでござんしょうか?


 なかなか難しいことですな。けどまあ、ちょいと未来を覗いてみたところ、後世でもほとんどの知識人は『ペイトリオスは冥界に取り残された』と認識しているでござんす。


 けどほんのわずかに、ヒュギーヌスさんが『ペイトリオスも助けられた』と書物に記しているところを見ると、可能性がないわけではないかもしれやせん。

 テセウスの死後の大冒険に幸あらんことを。子や孫が束縛されることを嫌う、ガイアの婆様にでも祈るとしやしょう。


 さて、ちょいと話し込んでしまったでござんすが、そろそろお仕事に戻るとしやしょう。


 気合を入れて……ガオー‼



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 改行の使い方が上手いので読みやすかったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ