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七海は瞳を輝かせる。
憧れのボロい安アパート。
木造二階建て、赤く錆びて塗装の禿げた鉄の階段と手すりと、一階の家の前に置かれた古い自転車と、ブロック塀に掲げられた『やまおか荘』の錆びて傾いた看板―――まさに理想通りの、まさに想像通りの、素晴らしさだ。
七海は両手を組んで瞳を潤ませて、うっとりと、アパートを見上げる。
「はぅあ……これよこれ。この家畜の飼育小屋のように狭く小汚くけして裕福ではないけれども泥水すすって必死に生きてる感じがする、このしょっぱい感じっ!」
「……お前、そんなとこに本気で住みたいのかよ」
「言ったでしょ、最底辺の生活をしてみたいって。物心ついた時から周りは何でも言うこと聞いてくれたし、欲しいものはなんでも手に入ったし、生活になんて不自由したことないのよね。見た目だって超絶可愛いわけだし、スタイルも抜群でしょ? 不自由しようとするほうが難しいのよね」
「そこまで堂々と言われると嫌味にも聞こえないな」
「嫌味じゃないわよ、事実よ」
言いながら七海は跳ねるような足取りで階段を上がっていく。
「あ。二階でよかったの?」
「ああ。そこの一番左端だ。ちなみにその横の一軒家がちぃ………千優な」
「ふーん? やっぱ、普通の家ね」
廊下の端から身を乗り出して、千優の家を覗き込む。
ごく普通の二階建ての一軒家で、庭は少し広くて青い車が止まっている。
一般の家庭からすればまあまあ裕福な方だろうが、七海の目からすれば「箱庭みたいね。昔、こういう模型一之瀬が作ってるのみたことあるわ」そう箱庭くらいにしか見えないのだ。
「でも一人で住むには広いんじゃねーの、母親もう半年ぐらい海外で仕事してるからな」
「ふーん、そうなんだ。なんの仕事してんの?」
「カメラマン。昔っから写真撮るの好きで、大学でてから本格的にそっちの道に進んだんだよ」
「古いお友達なんだ」
「大学からのな。ちぃのこともガキの頃から知ってるよ、それこそ猿見て―な顔して産声上げてた時からな」
言いながら、玄関の鍵を開けようとして、扉が開いているのに気が付いた。
「ああ。一之瀬が荷物運んでくれたのよ。鍵は開けたままでいいって言ったし」
「って、不法侵入じゃねえのかそれって……」
「叔父様には許可とってあるわよ」
「アイツのゴーサインがありゃ俺のプライベートは当たり前のように無視されるのか」
なんてため息をつきつつ、扉を開ける。
「ほらよ、ココが俺の部屋だ」
と完全に扉を開けきってから七海を振り向くと。
七海はさっきまでの恍惚とした表情ではない、ドン引きという言葉がまさにしっくりくるくらい嫌悪感と怒りと、異様なものを見てしまった衝撃と、それらを混ぜ込んだ何とも言えない表情で凍り付いていた。
彼女が見たもの。
それは玄関を塞ぐほどのゴミ袋と、その奥の狭い部屋にも弁当の食べかすやカップ麺の空き容器、脱ぎっぱなしの服に雑誌の束、その他、とかくゴミと言われるものが狭い部屋の床を埋め尽くしていた。
「ねえ、なにこれ」
「俺の部屋だ」
「っざけんじゃないわよ、アタシは最底辺の、生活感あふれる部屋を想像してたのよ! なのになによこれ、ただのゴミ置き場じゃない、まさか本気でアンタこんなとこで生活してるわけっ?」
「だから言っただろ、豚小屋の方がマシだって」
「だめ、全然だめよ! なってないわ! 一之瀬!」
七海は喚きながら指をパチンと弾く。
「はい、お嬢様。買ってまいりました」
といつの間にか七海の後ろに一之瀬が立っていた。彼はゴミ袋の束を彼女に手渡すと、
「私もお手伝いいたしましょうか」
無表情で尋ねた。
歳は四十過ぎか、背が高く体格もよく、彫が深く整った顔立ちで、よくよく見れば結構な男前である。若いころは男前でも歳を重ねるごとに無残な姿に、というのはよくあるが、彼の場合、重ねた歳の分だけ渋みと男らしさが増しているのではないだろうか。と、初対面の音光が思うほどに彼は男前である。
「大丈夫よ。一之瀬は帰りなさい」
「かしこまりました。それでは千寿院様、お嬢様をどうぞよろしくお願いいたします」
一之瀬は丁寧に頭を下げ、帰っていく。
どうせならこのお嬢様も連れて帰って欲しいところだが、そう言ったところで素直に聞くような相手ではないのはもうわかっているので「ああ」と一言だけ返した。
「んじゃ、さっそく片付けましょうか」
「お嬢様が掃除なんてできんのか?」
「見損なわないでよ。これでもアタシ、掃除は得意中の得意なんだから」
そう言う七海の顔は、気合十分だった。
☆
その頃千優は、食材とゴミ袋の入った袋を下げて、友達と歩いていた。
「本当、千優って物好きよね。なんでよりにもよってあの先生の世話なんかしてるのよ、それとも弱みでも握られてんの?」
髪を茶色く染めた、ポニーテールの少女が訊ねる。
「ほんと。同級生の幼馴染ってんならまだわかるけど」
と、黒髪ツインテールの少女が首を傾げる。
「違うよ、そんなんじゃないよ。みんな千ちゃんのこと誤解してるんだよ。千ちゃんね、ほんとはすごく優しいんだよ? お母さんが言ってた、昔はすごく生徒に好かれる人だったんだって。でも今は、少し疲れちゃっただけなんだって」
「疲れたって、どういうこと?」
「……私のお父さんが死んじゃってから、少しずつ変わっていったんだって」
千優は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに二人に笑顔を向けた。
「でもそれでもきっと千ちゃんの優しさは何も変わってないと思うんだ。ずっとずっと一緒にいるからわかるよ。小さいころから千ちゃんは私のこと守ってくれたもん。犬に追いかけられた時も、お母さんとケンカして家出した時も、イジメられた時も、ずっとずっと傍にいてくれたの」
そう話す千優は、とても幸せそうだ。
とはいえ、年頃の女の子が自分の世話もままならない自堕落な男の世話をするのはどうなのか。花の女子高生、まともに恋愛のひとつぐらいすればいいのに―――友人二人はそんなことを思ったが、嬉しそうな千優を見てそんなことは一言も言えないのだった。
「あ。じゃあ、私こっちだから。また明日ね、真帆ちゃん真奈美ちゃん」
千優はそう言って、走り去る。
そんな彼女の背中を見送りながら、友人二人はくすくす笑う。
「ほんと、物好き」
「私だったら恥ずかしくて無理だわ」
「まあ本人がいいんだからいいんじゃない?」
「確かに」
友人二人はくすくすと笑い合った。




