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「丸太! ちょうどよかったわ、誰か―――とりあえず南雲先生辺り呼んできてくんない? 降りられなくなっちゃって」
「はあっ? いい年扱いて木登りって―――って、鳥山さんっ? なに、また自殺っ?」
「い、いえ。今度は死ぬつもりはないのですが……ちょっと落下しちゃいまして」
「万屋先生の作った人工翼で空を飛んでて落下したらしいのよ。怪我はないみたいだけど、早く助けないと頭に血が上っちゃうわよ」
「まったく、二人揃って何やってるのよ……待ってて、誰か呼んでくるから」
と羅々里亜がクルっと背を向けて元来た道を引き返そうとすると、すぐに、万屋が走って来た。
「万屋先生! あの二人、木から降りれなくなっちゃったみたいで」
羅々里亜が二人を指差して万屋に助けを求める。
「だから言っただろう、あまり飛び過ぎるなと!」
「す、すみません。なにせ生まれて初めて、ようやく憧れの大空を飛べたものですから」
鳥山さんはちょっと恥ずかしそうに笑う。
万屋は呆れたようにため息をつくと、どうしたものかと頭を掻きながら辺りを見回した。しかし辺りには二人を助けるのに役に立ちそうなものはなく、また、彼自身木登りなどしたことはなく、まさにどうしようもない状態に陥っていた。
と、そこに、音光と千優が駆けつけた。
「うわああ! 七海ちゃん、なにやってんのっ? それに鳥山さんも!」
「ええとですね。万屋さんの作ってくださった翼で空を飛んでいたら落下しちゃいまして……」
困ったように説明する鳥山さん。
千優はあわあわし、音光は呆れかえった顔で二人を見上げている。
「ちょっと待ってろ、助けに行ってやるから」
と音光が木に登ろうとすると、七海は慌てて「いい! いい、来ないで!」と怒り出した。鳥山さんも驚いた様子で彼女の顔を見た。
「なに拗ねてんだよ。お前、一生そこで暮らすつもりか?」
「とにかく。鳥山さんだけ連れて帰って」
「じゃあお前はどーすんだよ」
呆れて聞き返すが、七海はむくれた顔で黙り込んでしまう。
降りればまた藤一郎と話をしなければならない。
自分の気持ちを全部ぶつけてはみたものの、どうすればいいかわからず逃げ出したのだ。今更顔を合わせたって、どんな話をすればいいのかわらない。それに相手に気持ちが伝わったとは思えないし、どうせまた的外れなことを言われるだけかもしれない。そんなことを思えば、この木の上にいる方がよっぽどマシだと思える。
「もういいから、とりあえず降りろ――」
と音光が木をよじ登ろうとすると、
「七海! 七海、なにをしているんだ、危ないじゃないか!」
藤一郎と藤十郎が駆けつけた。
「い、いいでしょ別に! アタシのことはいいから、とりあえず鳥山さん助けてよね! 頭に血が上っちゃうわよ!」
「鳥山さん? ……誰だい、その着ぐるみの人は」
「いえ、着ぐるみではないのです」
そっと鳥山さんは訂正するが、そんなことはどうでもいいらしく、藤一郎は音光を押しのけて木に登ろうとしはじめた。
「ちょ、ちょっと! 木なんか登ったことないんじゃないのっ?」
「うん。兄さんは私と違って家の中でずっと本ばかり読んでいたからねえ。病気がちだったし」
「う、うるさいぞ藤十郎! いいから、待ってなさい!」
「怪我するでしょ! いいわよ、音光先生に来てもらうから! そっちの方がまだ安全よ!」
七海は怒るが、しかし、藤一郎は彼女の言葉など無視して、必死に木をよじ登っていく。
「なんで。なんでよ、なんで来るのよ! 今まで散々アタシのこと避けてたくせに! 避けるくせに安全な場所から勝手な愛情押し付けてたくせに!」
「ああ、私は卑怯だったよ。美和子に先立たれお前と二人きりになり、しかし仕事ばかりでロクに家に帰ることもできなかった私は、どうやってお前を愛したらいいのかわからなかったんだ。すまない……どうやって愛情を伝えたらいいのか、どうやってお前と話をすればいいのか、まったくわからないんだ」
必死に、少しずつ、足を傷だらけにしながら、木によじ登ってゆく藤一郎。
七海は今にも泣き出しそうな顔で、それでも、必死に涙を堪えた。
「なによ。なによ。なによ、そんなの……そんなの、アタシだって一緒よ……」
「七海……」
「アタシだって、どうやって話をしたらいいのか、どうやって気持ちを伝えたらいいのか、全く分からないのよ! そっちばっかが悪いわけじゃないもの、アタシだって悪いのよ、そうよアタシだって避けてたのよ! だから、そんな顔で謝らないでよ!」
七海はとうとう泣きだしてしまった。
手の甲で涙を必死に拭うが、拭いきれずに大粒のしずくはボロボロと零れ落ちた。
零れ落ちた一粒の涙が、藤一郎の頬を伝う。
藤一郎は呆然と、泣きじゃくる娘の姿を見ていた。そして、気が付いた―――今まで自分は、彼女の泣いた顔など見たことがあっただろうかと。幼い頃はよく笑いよく泣いていたが、いつしか仕事ばかりで彼女と向き合うこともしなくなり、泣くどころか笑った顔すら見ることもなくなっていた。
自分は、なにひとつ知らないのだ。
彼女の表情を、彼女の喜怒哀楽を、何一つ―――
「七海……七海、待っていろ。すぐに、そっちに行く」
藤一郎がそう言って木をよじ登る間、七海は、まるで子供のように、水が湧きだすように、わんわん泣き続けた。
「な、七海さん……」
鳥山さんは逆さまの状態のまま、おろおろしている。
「七海。さあ、帰ろう」
七海の跨っている枝より一段低い枝にまたがり、娘を見上げる藤一郎。
「帰るって、どうやって! そっから、どうやって、アタシと鳥山さんを助けるつもりなのよっ? うわああああああああん! 頭いいくせに、馬鹿なんだから! アタシのためとか言って、結局また、ほら、そうやって間違える! 失敗する!」
「す、すまない……」
「だから謝らないでよ! アタシのためなのわかってるんだから!」
わんわん泣きながら、七海は怒る。
「わかってる。わかってるのよ。全部、全部、お父様がアタシに愛情を注ごうとして失敗しただけだってこと。けどアタシは、それを、嫌だって言えなかった。だって嫌だなんて言ったらケンカしちゃうし。ケンカしたらどうやって仲直りしたらいいのかわからないし。困った顔を見るのも嫌だったし。アタシが逃げてたのよ、アタシが悪いのよっ! アタシが逃げたせいで、なんの罪もない子が学校辞めさせられちゃったのよ! 人生狂っちゃったのよ!」
ひっく、ひっく、としゃくりあげながら七海は必死に自分の気持ちを伝える。
そんな彼女の言葉を、気持ちを聞いて、藤一郎は少し驚いた顔を見せた。
「七海……私は、私は……」
怒られて藤一郎は、暗く項垂れた。
「すまない。私はただ、お前のためを思い行動したつもりだったんだ。だが結果的にそれがお前を苦しめていたなんて」
「当たり前でしょ、考えたらわかるでしょ!」
「私はきっと、お前に愛情を注ぎたかったんじゃないのかもしれない。私はただ、全て自分のためにやっていたんだろう。私のやったことは全て、自己満足に過ぎなかったんだ。お前と面と向かって話す勇気もないのに、お前にちゃんと愛情を注いでいると言う事実が欲しかったんだ。そう思い込みたかったんだ。私は父親失格だ」
七海は泣き、藤一郎は項垂れる。
藤一郎のしたことは確かに間違っている。彼のせいで前途ある若者の未来が失われたことは間違いない。それはけして許されることではないだろう。
七海も藤一郎も、ただ、不器用過ぎたのだ。
素直に向き合うことができぬまま、愛情の注ぎ方も甘え方もわからぬまますれ違い続けた。その結果、悲劇は生まれた。もう少し二人が器用でいられたなら、藤一郎は間違うこともなかっただろう。そして七海も孤独を抱えることはなかっただろうし、重い荷物を背負うこともなかっただろう。
もう少し素直でいられたなら―――
とは思うが、それは、一番難しいことなのかも知れない。
「本当に、似た物親子だな」
ぽつり、音光が呟く。
七海は泣き続け、藤一郎は何も言えずに項垂れたままでいる。
だが、藤一郎は、顔を上げた。
「七海、おいで」
藤一郎は、両手を差し伸べた。
七海は泣き止み、驚いて目を真ん丸にした。
「帰ろう。一緒に、家に、帰ろう―――」
「なによ。なによ、急に……」
「ちゃんと向き合って、お前と話をしたいんだ。今度はちゃんと逃げずに、話をしたい。間違ってもいい、ケンカしてもいい。ちゃんと、お前の気持ちを受け止めたいんだ」
「そんなの、無理よ」
「七海……」
「……だって、降りるの恐いもの」
七海は涙を拭い、手を伸ばした。
差し出された藤一郎の手、指先が触れる直前、少しためらったが、彼女はゆっくりと彼の手を取った。もちろん、恐くて降りることなどできないのだが―――もう、そんなことは問題ではなかった。
と、その時。
「うわ! あっ……!」
鳥山さんが悲鳴を上げた。
枝に引っかかっていた人工翼が外れ、体が傾いたのだ―――直後、彼はその人工翼と共に落下・七海にぶつかり、その拍子に彼女は藤一郎から手を離してしまい、もろとも木から落ちてしまった。
「七海!」
藤一郎が叫び、音光は慌てて二人の下に走り出て、千優は悲鳴を上げて両手で目を覆った。が、その時だった。黒い影のようなものが木々を飛び越えて現れ、かと思うと、七海と鳥山さんをさらって別の木に飛び移ったのだ。
何者だ、と一同が驚いていると、それは七海と鳥山さんをそれぞれ両方の肩に担いで、軽い身のこなしで地面に着地した。
「南雲先生!」
羅々里亜は驚いて思わず声を上げた。
「一体何をしているのだ。素人が遊び半分で木登りなどするもんじゃないぞ」
そう言う南雲の体には、何故か、無数の痣や傷がある。本人はいたって大丈夫そうだが、見ている方は、十分痛々しく感じる。と、今度は藤一郎の悲鳴が聞こえ、見ると、紅焔が彼を肩に担いで木から降りてきたところだった。
「す、すまない……」
藤一郎は目を真ん丸くして、謝った。
「いえいえ、このぐらい大したことはないですよ」
笑う紅焔。
その彼の体にも、痣や傷がある。
南雲が二人を地面に下ろすと、七海はふらふらと彼から離れて歩きだし、そして、音光を見上げてまた泣きそうな顔になる。
「こ、恐かったっ……死ぬかと思ったじゃないっ」
怒って、わあっと泣いて音光の胸にしがみ付く。
「お前な。それはこっちの台詞だろ。どんだけコイツら心配したと思ってんだよ」
安堵して深くため息を吐き出しながら、音光は、親指で千優たちを示して見せた。
言われて七海がそっちを見ると、そこには、今にも泣きそうな顔をした千優と羅々里亜の姿があった。その後ろにはにこにこ満足そうな藤十郎と、相変わらず不機嫌そうな顔の万屋がいる。
「……ご、ごめんなさい」
「ほんっと、アンタって自分勝手で馬鹿なんだからっ」
眼に涙を浮かべた羅々里亜が怒って、
「七海ちゃん、怪我なくてよかったよぉ」
千優が泣き出す。
それを見た七海は、ほんの少し、何かに気付いたような顔をした。それはほんの少し、本当に、わずかな表情の変化だったが、音光にはわかった。彼女は申し訳なさそうに俯いて、
「わ、悪かったわよ……だから、そんな泣かないでよ。そっちが泣いたらこっちまで……ああ、もうっ……」
音光から離れて歩き出したと思うと、堪えきれずにまた泣き出した。
「うわああああん! 七海ちゃーん!」
千優は衝動的に七海に抱きつき、羅々里亜も泣き出してしまう。
わんわんと三人の少女は大泣きし、音光はやれやれと七海と千優の頭を撫でた。そして南雲は羅々里亜の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。髪がぐちゃぐちゃになったが、彼女は全く気にせず、がしっと南雲にしがみ付いて泣いた。もはや自分達が何で泣いているのかわからなくなっているのではないか、そう思うくらいに彼女達の泣きっぷりは凄い。
そんな彼女達を見つめながら、藤一郎は、ぽつりと言う。
「音光君との暮らしは、あの子の環境を大きく変えてくれたんだね」
「そうだね。でも変わったのはあの子だけじゃないんだよ。あの子が来てくれたことでやっと音光君は自分の世界をほんの少しだけ広げることができたんだよ。あの子にとっても音光君にとっても、いいことだったんだ」
「……そうか」
「七海はよく笑うようになったよ。笑ったり怒ったり拗ねたり、とても楽しそうに過ごしているんだ。きっと七海は今、ようやく本当の自分を生きれているんだと思うよ」
うんうんと藤十郎は満足そうに頷く。
音光にしがみ付いて号泣する七海と千優、南雲にしがみ付いて泣く羅々里亜、壊れた人工翼を背中に背負ったまま万屋に怒られる鳥山さん、そんな彼らをにこにこ眺める紅焔―――ほんの少し前まで、七海の周りにも音光の周りにも、こんな光景はなかった。七海は独りぼっちで、音光は千優以外を拒絶するように生活していた。それが今、気付くと、彼らの周りには人がいる。
そんな光景が、嬉しい。
藤十郎は満足そうに、うんうんと、頷いた。




