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薄暗闇の中、七海はあてどなく走り続けた。
万福山と違ってここは一応藤十郎の庭である、森の中とはいえもちは整備されてはいるが、しかし、街頭のようなものは一切ない。あるのはほんのわずかな月明かり、それだけが、彼女の道を照らしていた。
もう既に自分がどこを走っているのかもわからない。
けれど彼女はそれでも、溢れ出す涙を必死に堪えて、悲しみや悔しさに刃を食いしばりながらひたすらに走り続けた。
思い出すのは、旧校舎で自分の陰口を叩く自称『お友達』の女子生徒達のこと。
「あの子、自分のこと勘違いしてるよね」
「本気で可愛いと思ってるのかしら」
「本当、うざったいよね。なんでアタシらがあんな子のご機嫌取らなきゃなんないのかしら」
「だめよ、あの子の機嫌を損ねたら、私達すぐに退学させられちゃうもの」
「訴えても無駄よ、なにせ相手はあの初瀬財閥のお嬢様だもの」
「全てお金で解決されちゃうわ」
「みんな、そうやって、消されていったのよ」
「本当、あんな子―――」
死ねばいいのにね
そして、手を叩いて、『お友達』は笑った。
楽しそうに。愉快だというように。
そして口々に話し合う。どんな末路が似合うのか、どんな死にざまが似合うのか、どうなれば一番気分がいいのか。そんなことを彼女達はよく放課後の旧校舎で大声で話していた。それを七海は気付かれないように隣の部屋で聞いていた。
腹が立たないわけがなかった。哀しくないわけじゃなかった。
それでも、七海は、彼女達の話を録音してまでして父親に伝える気にはなれなかった。
それは仕方のないことだとわかっていたから。自業自得なのだと、そう思っていたから。
父親に何一つ伝えられない臆病な自分のせいだと、わかっていたから。
そう。藤一郎だけが悪いわけじゃない。自分だって悪いのだ。
わかっている。そんなこと、とっくにわかっている。けれど素直になれない、どうしたらいいのかわからない、どうしたら、ちゃんと気持ちを伝えられるのだろう?
七海は涙を拭い、ようやく、ゆっくりと足を止めた。
そして、ふと、顔を上げる―――と、その直後。
空から何かが降って来て、どすんという音と共に近くの木の上に落下した。
「な、なにっ……?」
突然の出来事に驚いた七海は、急にシンと静まり返ったことで徐々に冷静さを取り戻していき、そして、急に不安になった。見知らぬ場所、薄暗がり、得体の知れない落下物……もしかすると自分は、今、とてつもなくマズイ状況にあるんじゃないだろうか? 逃げなくては、と、七海は後ずさりする。
すると、落下物が突然、謎の人工翼を羽ばたかせて「コケコケ! い、痛い! 引っかかった!」と悲鳴を上げた。
「と、鳥山さんっ?」
素っ頓狂な声を上げ、思わず駆け寄る七海。
見上げると、そこには木の枝に人工翼が引っかかって身動きが取れずにいる鳥山さんの姿があった。彼の両翼は人工翼に固定されたままで、その人工翼は折れ曲がって枝が突き刺さってしまっていて、そしてその彼の体は真っ逆さまの状態だ。これ以上もがけば、確実に頭から落下するだろう。
「あ、ああ、七海さん……すいません、ちょっと身動きが取れなくて……申し訳ないのですが万屋さんを呼んできてもらえませんでしょうかね」
「っていうか、呼びに行ってる間に落ちちゃうわよっ!」
「やはり落下を待つしかないのでしょうかね」
「嫌な選択しないでよねっ? まったくもう、ちょっと待ってなさい」
七海は急いで靴を脱ぎ捨て、木によじ登り始めた。
「うわ、うわあ! だめです、やめてください七海さん! そんなことをして怪我でもされた日にゃあ、申し訳なさ過ぎてチキンライスになっても償えませんよ!」
「あーもー、うっさいわね! アンタみたいな得体の知れない生き物でも目の前で死なれちゃ後味悪いのよっ! ていうかチキンライスになっても食べる気なんか起きないわよっ」
怒りながら七海は、必死に木を登っていく。
木登りなど彼女にとって生まれて初めてのことだ。なんどもずり落ちそうになりながらも、必死に、素足で木にしがみ付きながら、着実に少しずつ木に登っていく。そうして鳥山さんの引っかかった枝より一段下の太い枝によじ登り、一息つく。
「大丈夫? ていうか、その翼なに?」
「ああ。これは万屋さんに作ってもらったんですよ。私は、あの大空に憧れていましてね。いつかあの場所に辿り着きたいと、毎晩、飛ぶ練習をしていたんですが……見ての通り私は鶏ですんでね、他の鳥のようにうまく飛ぶことができなかったんですよ」
「ふうん。あの先生もいいとこあるのね」
「頭のいい先生ですよ」
「けど、落下したのね」
「いえ。これは私が調子に乗り過ぎたからです。万屋さんは悪くないです」
「まあ、なんでもいいけど。とりあえず、その翼外して、とっとと下に降りるわよ」
よっこらしょ、と更にもう一つ鳥山さんより高い場所にある木の枝にしがみ付き、根性でよじ登る。そして足を延ばして鳥山さんの枝に足をつき、少し無理な体勢になりながら、右手で枝を掴んで左手で鳥山さんの翼を外すという荒業に出た。
「ちょ、さすがにこれは危険ですよ! 私の事はいいんで、もう木から降りてくださいっ」
「ふざけないでよね」
「七海さん……」
「アタシも降りれなくなったのよ」
「え、ええええええっ?」
「よく考えたら木登りなんて生まれて初めてだったのよ」
「ど、どうするんで? 私も木登りはしたことないですし、この翼じゃ木にしがみ付くこともできませんし……」
「……ごめんなさい……」
申し訳なくなって、七海はシュンと項垂れる。
「い、いえ! 七海さんは悪くないですよ、悪いのは私です。万屋さんの忠告も聞かずに調子に乗って高く飛び過ぎたんです。生まれて初めて空を飛べたので……万福山の鳥たちのように大空を駆け回るのが私の長年の夢だったんで、つい嬉しくて」
「空、好きなの」
七海は木にしがみ付き、逆さ状態の鳥山さんの前で木の枝にまたがって座った。
「好き、というか、憧れですね。満天の星空を、自由に駆け回ってみたいじゃないですか。あのキラキラした星の海の中はどうなってるのか、空から眺める地上はどんな景色なのか……想像するだけでいつもわくわくしてました」
「星の海って、あんなとこ、いくら鳥でも……」
科学の発達した現代でも、月に降り立つのが精いっぱいだ。その先の、あの星の海になど、到底無理な話である。と、七海は現実を口にしそうになった。だがサングラスの向こうで鳥山さんがあまりに純粋な目をして空を見つめるものだから、彼女は現実を口にするのをやめた。
そして、一緒に、空を見上げた。
眩い星々が、真っ暗な空に、ちらちらと輝いている。
「私も、行ってみたいな」
七海は何気なく、ぽつりと呟いた。
「ええ、きっと素敵ですよ!」
「鳥山さんは、諦めたことないの?」
「そりゃあ、諦める必要なんてないですから」
逆さになった状態のまま、鳥山さんは翼をぴょこぴょこ羽ばたかせる真似をする。
「昨日はだめでも今日は、一ミリでも高く空を飛べるかも知れないじゃないですか。それに諦めたらつまらないですし。夢を持ち続けると、毎日がとっても楽しいんですよ? それこそ、あの星空みたいにきらきらと輝いて」
「凄いわね。アタシなんて目の前のものさえ諦めて避けようとするのに」
「ええ? そりゃあもったいない。一緒に飛びましょうよ、私もさっき空を飛んでる時実は少し怖かったんですよ。でもやっぱり、嬉しかったんです。憧れた場所にいるんだなあって、そう思って」
「……アタシも、鳥山さんみたいになれるかしら」
七海はクスっと小さく笑い、鳥山さんの翼を固定するベルトに手を伸ばす。
「あ! ちょっと待ってください!」
「え、な、なに?」
「いえ。今ここで外されると、そのまま落下しちゃうので」
「ああ、そっか……ごめんなさい、やっぱり誰か呼びに行けばよかったわ」
「いいえ。私のために必死にここまで来てくれたこと、すごく嬉しいんですから。謝らないでください。それに、きっとすぐ、万屋さんが来てくれますよ」
「だといいんだけど……」
七海は少し不安になって、下を見下ろした。
すると―――
「あ! ちょっと、アンタそんなとこで何してんのよ!」
羅々里亜が駆けつけ、悲鳴をあげた。




