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4


 その頃、藤十郎は、食後のコーヒーを飲んでいた。

 空を見上げると、ちらちらと星が瞬いていた。

 聞こえるのは風に揺れる木々の葉擦れの音だけ。

 とても、とても静かな夜である。

 そして彼は思い出す。幼い頃、音光と大地と、こうやってたまにキャンプをしたことを。

「千ー、見ろよ焼きおにぎりー!」

 十一歳、まだ小学五年生の大地はとても活発な男の子だった。

 木の枝におにぎりを突き刺して焼きおにぎりを作って嬉しそうに振り回し、音光は冷静に「やめろよ、落とすぞ」と注意して、藤十郎は二人のやりとりをニコニコと見ていた。

「大丈夫だよ。ほら、食べなよ」

 と大地がおにぎりを差し出してくるので、音光は、仕方なくそれを受け取って食べた。

「な? うまいだろ?」

 得意げに満面の笑みを浮かべる大地。

 仕方なさそうに小さく頷く音光。

 三人はわいわい他愛もない話をして食事を終えると、次は、大地の提案で虫取りに行くことになった。

「よーし! 俺、一番デカいカブトムシ捕まえる! 一番小さいの捕まえた奴は、そうだなあ、一番大きいの捕まえた奴の好きなおかず給食から一品やる! いいな! 決まりだぞ! 絶対だぞ!」

 強引にルールを決めて、返事も聞かずに森の中に飛び込む大地。

「あ、ずるいぞ! 絶対に負けないからな! 大地、聞いてんのか、待てよ!」

 音光が呼んでも、大地は戻らない。

 早く来いよ、と二人を呼びながら遠くへ消えて行く。

 それを追って、音光も森の中に飛び込んだ。

 真っ暗な森の中。大地の笑い声と、音光の彼を呼ぶ声だけが聞こえる。

「大地、音光君! あんまり遠くに行くと危ないよ!」

 藤十郎の声は、しかし、二人には届かない。

「ねえ、大地……大地! 大地!」

 藤十郎は叫ぶ。

 けれど、二人は戻らない。

 大地も、音光も。

 静かだ。風の音と木々の葉擦れの音と……焚火がパチパチと火の粉を味く音だけが聞こえてくる。ぼんやりと炎に照らされた暗闇に一人立ちつくし、藤十郎は、酷い不安にさいなまれて慌てて走り出す。

「―――待って!」

「うわ! ど、どうしたんだ藤十郎っ」

 と。よく知った声が聞こえて、藤十郎は我に返る。

 気づくと藤十郎は立ち上がり、今はもういない『あの頃』の大地に手を伸ばし走り出そうとしていた。目の前には仕事帰りで直行してくれたのだろう、スーツ姿で少し汗ばんだ藤一郎の姿があった。

 藤十郎と同じくらいの背丈、顔も彫が深く整った、男前と評するに値する容姿の持ち主だ。背も高くスタイルも良く顔もよく頭もよくて財力も地位もある、しかも男やもめ―――当然、女性にも男にもよくモテる。

「あ、ああ。兄さん久しぶり……」

「久しぶり、じゃないだろう。一体全体こんなところに呼び出してなんなんだ、それで七海はどこにいるんだ」

「ああ、七海なら音光君と散歩に行ったよ」

「音光……」

 その名を聞いて、藤一郎は、少し不安そうな顔をする。

「なに、まだ心配しているのかい? あっはっは、大丈夫だよ彼はアレで誠実な男だ」

「あ、当たり前だ! 不誠実な男に娘を預けられるか! そんなことはわかっている。わかってはいるが……生活ぶりが酷いと聞いているからな」

「部屋は七海が片付けたと言っているし、食事は七海ががんばって作っているよ。隣には大地君の娘さんも住んでいるし、大丈夫だよ」

「そ、そうか。ならいいんだが……いや、ちょっと待て。七海は料理をするのか?」

「うん。最初は酷いものだったらしいけど、料理研究部に入って頑張ってるよ。今日のカレーも七海とみんなで作ったからね」

「そ、そうか……」

 藤一郎はチラっとカレーを見る。

「食べる?」

「い、いい」

「なんで。その様子だと、食事はまだでしょう?」

「子供の頃、七海の作った料理を食べたことがある。真っ黒な隕石のような卵焼きをな……だからアレ以来、料理は作らせていないんだ」

「このカレーは普通だよ。七海ちゃん一人の力じゃないし」

「だが」

 まだ何か言い訳しようとする藤一郎だったが、その言葉を遮るように、盛大に腹の虫が鳴り響いた。藤一郎は耳まで真っ赤になり、藤十郎は優しい笑みを浮かべて彼を自分の隣に促した。そして新しい食器にカレーをよそってやると「おいしいから、ほら」と差し出した。

 しかし藤一郎は何か迷ったように、スプーンですくったカレーを口に運ぶのをやめてしまう。それを見兼ねて藤十郎が「安心していいよ、あの頃の味とは全く違うから」と言ってやった。

 藤一郎は勇気を出して、カレーを一口、口に入れる―――

「ね? 美味しいでしょう?」

「これを、七海が……?」

「七海と、友達と、僕達大人が一緒に作ったんだよ」

「な、なんだそうか。驚いたよ。そうだな、七海がこんな美味しいものを作れるはずが」

「なんで?」

 藤一郎の言葉を遮り、突然、藤十郎が聞く。その声は少し怒りを含んだような、藤一郎もあまり聞いたことのないようなものだった。

「な、なにがだ?」

「七海はね、僕ら『仲間』と一緒にそれを作ったんだよ」

「仲間?」

「僕がそう思っているだけだけど―――でも、考えてみて。今まで七海が友達と一緒に何かをすることはあったかい? 兄さんは七海を愛するあまり彼女を守り過ぎて、その結果、彼女から何もかもをも奪ってしまったんじゃないのかな」

「な、なにを言ってるんだ。七海は今までなに不自由なく暮らして……」

 藤一郎の手が、小刻みに震える。

 藤十郎はそれを見逃さなかった。

「じゃあ何故、あの子は、今まで笑わなかったんだい?」

 そう指摘され、藤一郎は体をビクリと震わせた。

「……兄さんは美和子さんの死後、男で一人であの子を育てるために、寂しがらせないように、とにかくあの子を守るためだけに必死に色々な策を練ってたよね。でもきっとそれは……いや、これ以上は私が言うべきことじゃないよね」

 藤十郎はコーヒーを一口飲んだ。

 すると、ちょうどそこへ―――

「お父様……」

 七海の声。

 見ると、いつの間にか戻ってきた七海が少し離れた場所に立っていた。後ろには、音光もいる。とほぼ同時に、千優と羅々里亜が森の中からひょっこり姿を現した。

「な、七海……」

 藤一郎はカレーを藤十郎に預けて慌てて立ち上がり、彼女と向き合った。

 しん、と、異常なまでに静まり返った空気が流れた。

 数秒なのか数分なのか、異常なほど長い時間が流れたように思えた。

「が、学校は……どうだ?」

 藤一郎がぎこちなく聞く。

 七海は少し俯き、眉間に深くシワを刻んでギュっと音光の服の裾を掴んだ。

「……普通……よ」

「そ、そうか」

 そしてまた、沈黙―――

 あまりの空気の重さに千優と羅々里亜は自分達まで息が詰まる思いでいた。


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