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「そういえば紅焔さんは来ないんですか?」

 千優が聞くと、藤十郎が、ぽんと手を叩いた。

「そうそう、彼はこの敷地を散歩してくると言っていたよ。それから南雲君に、久しぶりに手合せしたいから、気が向いたら見つけに来てご覧ともいっていたねえ」

「……わかりました」

 食べかけのカレーをその場に置き、すっと立ち上がる南雲。

 羅々里亜が心配そうに彼を見上げた。

「南雲先生、まさか本気であの森の中を捜しに行くんですか?」

「安心しろ。師匠の気配を辿ればいいだけのこと」

「だ、だったら私も行きますわっ」

「お前はここにいろ、危険だ」

「ですがっ……」

「少し挨拶をしてくるだけだ、心配する必要などない」

 そう言って、南雲は振り返ることなく森の中へと消えて行く。

 羅々里亜は心配そうに、いつまでも彼の背中を見つめていた。

「っつーかあの先生何者なのよ……」

 七海が思わず疑問を口にする。

「何者って、ただのお料理が好きで世界無差別格闘武道大会優勝者の先生よ」

「世界無差別、なに?」

「とにかく強いってことよ」

 羅々里亜はカレーを食べながら、適当に話を終わらせた。

「それよりアンタ、今日、お父さんが来るんじゃないの。理事長先生がそうおっしゃってたけど」

「……アンタ夜中にその意味の分からないツインテール引っこ抜いて盛大な禿げ作ってあげましょうか?」

「な、なんなのよ急にっ? わけわかんない嫌がらせしないでよねっ」

「おい、人に八つ当たりすんなよ」

 音光は軽く七海を窘める。

「……だって」

「な、なんなの? アンタ父親に会いたくないの?」

「丸太には関係ないでしょ……」

 七海は拗ねたように口を尖らせ、プイと顔を逸らす。

 羅々里亜はムっとして、

「なによ。人が心配してるってのに、そういう態度しか取れないの? 本当、可愛げのない人ね。それじゃ女子の反感買ってもしょうがないわよ」

 プイっと顔を背ける。

 その言葉が気に入らなかったらしく七海もムッとして、

「ふん。別にアンタなんかに心配してもらわなくたって結構よ、だいたい人には言いたくないことだってあるでしょ。そんなことも分からず親切の押し売りなんかしないでよね、迷惑よ」

「な、なんですってっ?」

「な、七海ちゃん! 言い過ぎだよっ」

 慌てて千優が注意するも、七海はムスっとしたまま黙り込んでしまう。

 すると音光は彼女の腕を掴んで無理やり立ち上がらせ、「おい、少し頭冷やせ」と池の畔まで連れて行く。

「いや、なにすんのよ! やめてよ、痛い!」

「お前がいくら世間知らずのお嬢様でもな、相手の気持ちがわからないほど馬鹿じゃあないだろ」

「うるさいわね、だってムカつくんだもん!」

「だから、西條にゃ関係ないだろ。お前はただ藤一郎に会いたくないだけじゃねえか」

「そうよ! そうよ! 嫌なの会いたくないのムカつくのよ!」

 音光の腕を振り払い、力任せに彼の胸を殴る七海。

 何故か今にも泣きそうな顔をしながら、必死に、音光の胸を叩く。八つ当たりのつもりなのだろうが、その行為はあまりに子供っぽく、音光を呆れさせた。だが彼は彼女のその行為を咎めようとはせず、黙って受け入れた。

 やがて彼女は彼の胸を殴る手を止め、代わりにその胸に力なく額を預けた。

「ムカつくのよ……自分も、お父様も……丸太も、ちぃちゃんも……アンタも……」

 七海は泣くのを必死に堪えている。

 声は震え、肩も震え、前髪に隠れた目からは堪えきれずに溢れた涙がぽつり一粒大地を濡らした。

「違う。自分が、大嫌いなのよ」

 七海自身、自分が何に腹を立て何がおもしろくないのか、よくわかっているのだろう。

 父親のこと、自分自身の事、それを無関係の人間に当たり散らすことの幼稚さもそれがどんなに最低なことかもわかっているのだろう。わかっていて、それでも、当たらずにはおれなかった。でも八つ当たりするほどに自己嫌悪は増していき、どんどん苛立ちが募っていく……抜け出せない悪循環の中、彼女はようやく今、感情を吐き出すことができたのだろう―――

「馬鹿みたい。八つ当たりしたって、なにも変わらないのに」

 ぎゅうっと音光の胸にしがみ付き、自嘲する七海。

「アタシは結局、逃げたのよ。間違った方法でしか愛情を示せない父から、近づくことのできないあの人と自分の距離から……ケンカする方法を知らないんじゃない、恐かっただけなのよ……ケンカした後どうしたらいいの、どうやって仲直りしたらいいの、こんな親子関係一回のケンカですぐにぶっ壊れると思ったら怖くて、なにも言えなかったのよ!」

 七海は叫ぶ。本当は彼を愛していると、だからこそ奇妙で歪んだ関係でもそれを壊したくはないのだと。どうしたら彼と器用に付き合えるのかわからない、どうやったら彼と普通の親子になれるのかわからない。どうしたらいい? どうしたら、もっと素直に彼と向き合えるのだろうか。

「俺とお前は他人だ」

 音光は、はっきりと、そう言った。

「だけどお前は最初っから図々しく人の部屋に上り込んで発がん性物質の塊を食わせようとして、無理やり風呂に連れ込んで頭洗って、とにかく常識もクソもねえ奴だったろ。けどたぶん、それが本当のお前なんだろうよ。難しく考えるから何もできねえ、怯えるから何もできねえんだ」

 と音光は乱暴にグシャグシャと七海の頭を撫でてやる。

「藤一郎は頭の固い奴だが、話の分からない奴じゃあない」

「……なによ……」

「まあ、でもケンカしても逃げ場はあるからいいだろ今は」

「逃げ場って……」

「押入れにでも入ればいいだろ。クーラーはないけどな」

 その言葉に。七海は、ハっとする。

 そうだ。今はちゃんと、逃げれる場所がある。

 ケンカしても行き場がなくて一人で部屋にこもるしか術のなかったあの頃とは違うのだ。それを恐れて何も言えないなんてこと、今はしなくていいのだ。もしケンカしても、今は、居場所がある。もちろんそれは押入れなんかじゃない―――そう、あの、四畳半一間の部屋の中である。

「なによ。なによ、不潔で痩せっぽちで怠け者の癖に」

「関係ねーだろ……」

「……言いたいことなんて山ほどあり過ぎて、今度は言葉がまとまりそうにないわよ」

「いいんじゃね。全部言えば」

 小指で耳を穿りながら適当にアドバイスする音光。

「じゃあ全部吐き出してからアンタに八つ当たりする」

「迷惑な話だな……」

「それからもっかい言いたいこと言いに行って、もっかいアンタに八つ当たりする」

「好きにしろ」

「エディ食べさせてやる」

「エディ懐かしいな」

「まだ持ってるわよ」

「いい加減腐るだろ……」

「いいわよ、腐ったらアンタに食べさせてやる……」

 きゅ、と服を掴んで胸に頬を寄せる七海。

 そんな彼女に、やれやれと小さくため息を吐いて、軽くぽんぽん頭を撫でる音光。

「……エディ二号ができたら食べてよね」

「エディの話はもういいだろ……」





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