10
そしてその晩―――
七海は布団に寝、音光は畳の上で雑魚寝した。
時刻は深夜二時、音光はぐっすり眠っている。
七海はむくりと起き上がりそれを確認すると、そっと足音を忍ばせて、四つん這いの状態で、古雑誌の束に近づいた。そしてエロ本の束の下から、縛られていない一冊のエロ本を取り出し、こっそり開けて読み始めた。
月明かりに照らしてこっそり読むエロ本は、なんだか普通に読むよりエロく感じられる。
「うはぁ、すごい……よくも恥ずかしげもなくこんなことできるわね……」
なんてブツブツ文句言う彼女の顔はしかし、にやにや嬉しそうである。
―――と彼女が次のページを捲ろうとすると。突然、背後からニュっと手が伸びてきて、雑誌が奪われてしまった。
「うげっ?」
「……ガキが読むような本じゃねえって言ってんだろ」
「い、いいじゃない少しくらいっ。だって、そんな本の存在なんて知らなかったんだもんっ! 誰も教えてくれなかったし!」
「教える必要ねぇからだろ。ったく、やっかいなモンに興味持ちやがって」
音光はパラパラと雑誌をめくる。
「いいじゃない、別に。大人の世界に興味があるのは仕方がないことでしょう」
七海はあっかんべーっと舌を出し、さっさと布団に戻っていった。
清純派アイドルがこんなエロ本に興味持ったなんて知れば、世の男達はさぞがっかりするに違いない。と音光は思ったが、案外喜ぶ人も多いかも知れないな、とも思った。
翌日―――
七海はさっそく朝ごはんの準備に取りかかった。
初心者用の料理本を用意して、両手を腰に当て、根拠不明の地震に満ち溢れた顔でふんぞり返っている。ちなみに音光はまだ寝ていて、彼女が再び凶行に及ぼうとしていることになど全く気付いていないのであった。
そしてそれから十数分後―――異様な焦げ臭さと異臭に一気に目が覚め、音光は飛び起きた。見るとちゃぶ台の上には消し炭となった謎の物体がてんこ盛りになっていて、部屋は煙で充満していた。
「おいおい………」
「あーもー、卵焼きって難しい! なによこれ、全然焼けないじゃない!」
「朝っぱらからなにやってんだよ」
むせ返りながら窓を開け、外に顔を突き出して新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
「なあ、ちぃに教わったらいいんじゃね? アイツ料理はめちゃくちゃ上手だしよ」
「あの子に? まあ、それでもいいか」
「ていうか昨日も思ったんだが俺の家にこんな食材あったか」
「あの子が落としてったやつよ」
「あー、そっか。アイツすげー驚いてたしな」
「そりゃま、そうよね。こんな冴えないオッサンとこんな可愛い女子高生アイドルが一つ屋根の下なんて、誰でも驚くわよね」
モクモクと黒煙の上がるフライパンを背に、得意げに胸を張る七海。
たぶん千優はそんなことで驚いたわけではないだろう。この四畳半一間の部屋に抵抗もなく入ってこれるのは千優だけだったし、彼女もまた自分と音光の関係を特別なように思っているはずだ。部屋の掃除をするのも千優、食事の世話をするのも千優、それがある日突然、そうではなくなったのだ。
自分以外の、それも同級生が一緒に住むことになって、自分が片付けなければ絶対にきれいになんかならなかったハズの部屋が片付いていて、おまけに晩ごはんまで作ろうとしていたのだ。
それが信じられなかったし、おそらく、悔しいとも感じていたかも知れない。
でも、だからと言って弁解をするつもりはなかった。
することが、最善だとは、思わなかった。
「そんなことより味見してみてよ」
「お前は朝っぱらから俺を殺す気か」
「失礼な人ね。見た目はアレでも中身は意外と、ってことは世の中には結構あるのよ?」
「だったら自分で食えばいいだろ。だいたいどう見たって発がん性物質の塊でしかねーじゃねえか。ってかよ、よくここまで焦しつかせたな? なに作ろうとしたんだよ」
「……卵」
自信なさげに、視線を逸らしながら、七海はぼそりと呟く。
「お前、全国の鶏に土下座してまわれよ……」
ちゃぶ台の上に盛られた発がん性物質の塊を摘まみ、本当にこれは食べ物か、と疑って様々な角度からまじまじ見つめる。卵と言われても、疑わざるを得ないほどの酷いできである。隕石だと言われたほうがまだ納得できる。
「な、なによ失礼な奴ね。料理は心だってウチのシェフが言ってたわよ」
とチョコを食べるように発がん性物質の塊を摘まんで口に放り込む。
瞬間、七海の顔は青ざめ、『うぅおっぶふっ』と清純派アイドルらしからぬ嗚咽を漏らしてソレを吐き出しその場に頽れた。
「ほら言わんこっちゃねぇ」
と音光が呆れていると―――
「千ちゃん、近所中にすごい異臭が漂ってるけどどうしたのっ」
玄関の扉を勢いよく開け放ち、千優が飛び込んできた。
そして、青ざめて白目を向いて痙攣する七海とちゃぶ台の上に山盛りになった黒い隕石のようなものを見た彼女は、慌てて七海に駆け寄って訊ねた。
「な、七海ちゃんお料理したことないの?」
体を抱き起し、掛けた言葉が「大丈夫」でも「どうしたの」でもない辺り、こんな暗黒物質を生成し尚且つそれを口にしたらしい七海に強い衝撃を受けたことがよくわかる。
「したことないどころか料理の意味すらわかってねーんじゃねえのか、これ」
音光は発がん性物質の塊を摘まみ、大きなため息をついた。
「失礼ね、明日には完璧な料理が作れるようになるかも知れないでしょっ」
七海は音光の手から発がん性物質の塊を奪取し、懐に仕舞い込んだ。
「っておい、そんなモンしまってどうすんだよ?」
「これは戒めよ。名前はエディでどうかしら」
虚ろな眼差しで発がん性物質の塊・エディを仕舞い込んだ懐を両手で包み込む七海。
「どうかしら、じゃねーよ……汚いな」
「あ。そうだ七海ちゃん、だったらお料理研究部に入らない? 七海ちゃんみたいにお料理初心者だった子もいるし」
と千優は台所の引き出しからゴミ袋を取り出し、ちゃぶ台のゴミ掃除を始める。
「お料理研究部? ああ、クラブ活動ってやつかしら」
「そう、そう! 私もお料理研究部に入ってるんだ。ね、よかったらどうかな」
ちゃぶ台の上に広がる惨劇をゴミ袋に回収しつつ、笑顔で話す千優。
「ふーん。そうね、面白いかも知れないわね」
「いいのかよ? アイドルのお前が料理すらまともにできないって、印象悪くなるんじゃねえの」
「あら。ギャップ萌えって知らないの? 頭もよくて可愛くてスタイルも抜群で財力もあって歌もうまい、神に愛されて生まれ落ちたような七海ちゃんが、実はお料理が下手でしたテヘペロ☆ って、最高のギャップ萌えだと思うのよ」
「お前はいいな、神経図太くて」
「どーいう意味よ。アンタだって早くマトモな料理が食べたいでしょ」
「だから千優に作ってもらやぁいいって」
「それじゃ庶民の暮らししてる意味がないじゃない。それに、アンタにだけならともかくとしてアタシにまで作ってもらうのはさすがに悪いでしょう」
「マトモな神経もあんだな」
へえ、と意外そうに音光が言う。
「エディ食べさせるわよ!」
七海はジャっと猫みたいに歯をむき出し、エディを振り上げた。
そんな二人のやり取りを、千優は楽しそうに眺めている。
「って、二人とも遅刻しちゃうよっ? 時間、八時まわってる!」
「うっそマジでっ? 可愛くて優秀で天使の七海ちゃんが転校二日目で遅刻とか、それは流石に印象悪くなるわよっ!」
七海は慌てて鞄にエディを突っ込んで立ちあがる。
「っつか、それ置いとけよジョニー」
「エディよっ」




