9
「あー、信じらんない! 垢だらけ! よくもこの夏場に三日も入らずにおれたわよね!」
強引に頭を洗われながら、音光は、降ってくるやかましい声にうんざりして舌打ちした。
「頭コテコテ! 体も垢だらけ! 最低!」
夏場に三日も入ってなかったのだ、そりゃそうなるのも当然である。
音光は昔から面倒なことを極力避けて生きてきた。人間関係も、食事を作るのも、部屋の片づけも、全部だ。その辺りのことは千優がやってくれるし、彼女もまた、当然のように身の回りの世話をしてくれた。だから、彼は、自分ではあまり何かをすることはなかった。まあ、こんなふうに風呂に入れてくれることは流石になかったが。もちろん音光だってさすがにそんなことを要求したことはない。
だが七海はどうだろう。
今日会ったばかりのオッサンを風呂場に連れ込み強制洗浄、普通の神経ならまずやらないことである。
「だからよ、文句があるなら出てってもいいんだぜ」
「そういう問題じゃないわよ、この場合は!」
出て行くとか行かないとか、そんな問題ではない。風呂ぐらい入れと彼女は言いたいのだろう。
「まったく、これでも本当に教師なの?」
「よく言われるな」
「言われないようにしなさいよ」
「別に。俺は教師って職業に特別な思い入れもねぇしな」
「じゃあなんで教師になんかなったのよ」
「そこまでお前に話す必要ねぇだろ。それよりもっと強く洗え、手ぇ抜くな」
「うっさいわね、人に洗わせといて」
「お前が勝手に洗ってんだろ」
「ほっといたら本気であと一週間入らないつもりでしょ」
「平気だって」
「ダメに決まってんでしょっ、汚らしい!」
なんかまるでテレビでよく見る口うるさい母親のようだな、と音光は思った。
千優も大概口うるさいが、ここまで煩くはない。
「流すわよ」
七海はシャワーを捻り、シャンプーを洗い流す。
草臥れた四十一歳の体を、だらだらと泡が流れていく。
千優の手料理でなんとか栄養はとっているが、その他の面で全くと言っていい程まともな生活をしていないので、体は不健康に痩せ細り情けなく骨がうっすら浮き出ている。
「ていうかよ、初瀬」
「七海でいいわよ、なに」
「七海、あのな……お前、女なんだぞ? 今日知り合ったばっかの、しかも四十過ぎたオッサンとよく一緒に風呂なんか入れんな」
「大丈夫よ、服はちゃんと着てるわよ。それに体洗ってあげてるだけじゃない」
「まあ、別にいいけど」
こういうところが、さすがお嬢様と言うべきかもしれない。
千優だったら絶対に恥ずかしがって嫌がって、顔を真っ赤にして逃げ出すだろう。そして他の女性ならば絶対に、断固、拒否するだろう。それを七海は平然とした顔でこなしている。これが他の男だったなら、もうすでに押し倒されているはずだ。
「あー本当汚い、背中も垢だらけじゃない」
七海はゴシゴシと背中を洗いながら文句を言う。
「ほら前も。こっち向いて」
「あぁ? お前な、さすがにそれはマズいだろ」
「なに考えてんのよ、体洗うだけでしょ。ホラつべこべ言わずにこっち向く、どうせ自分で洗ったら適当にすませて出てくるんでしょ」
七海はそう言って強引に自分の方を向かせた。
四畳半一間のボロアパートの風呂、当然、そんなに広いわけがない。大人が一人で入るには十分だがそれでも広いとはいい難く、七海と二人で入ると殆ど膝を壁にくっつけた状態で座るしかなかった。そんな狭さの風呂で向かい合って座ると、必然的に二人の距離は近くなる。
いや、それだけならまだいいのだが……向かい合うと七海のタンクトップから胸の谷間が覗き、しかもしっとりと肌が濡れているからか、妙に色っぽく見えてしまう。
だが七海は気付いてないようで「ホラ洗うわよ」などと言って、体を洗い始める。
「ん? アンタ、なにこの火傷の痕」
七海は音光の体に大きな火傷痕があるのに気が付いた。
左下脇腹から胸の間にかけて大きな蛇が地面を這った跡のような火傷がある。事故の傷痕というよりは、皮膚が焼け爛れた痕だというのは、素人目にもよくわかった。
「……ああ。昔ちょっとな」
「ふーん? まあ、いいけど」
勝手に居候しておきながら相手の事を根掘り葉掘り聞くのも失礼だ、ということは七海もよくわかっているのだろう。少し気になってはいるようだが、相手だって触れられたくない場所の一つや二つあるということがわからないほど七海も無神経な人間ではないらしい。
☆
その頃千優は、自室で勉強をしていた。
窓際に置かれた勉強机に座り勉強に集中しようとする千優だったが、窓から見える音光の部屋から賑やかな七海の声が聞こえてきて、思わず手を止めてしまった。
千優の部屋と音光の部屋は、その距離僅か二メートルという至近距離だ。だから梯子を駆ければ簡単に行き来できるし、実際、子供の頃は、窓から窓に飛び移って音光や母親を心配させていた。
窓が開いているときは音光がいる時。
客なんて来ないから、好きな時に遊びに行ってよかった。
昨日だって、その前の日だって、理由もなく遊びに行けた。
でも今は―――
「ほら、ちゃんと頭拭きなさいよねっ」
「もう面倒だからお前ふけよ」
「あーもー、大人のクセに情けない! ほら座って!」
窓の向こうの音光の部屋で、七海が音光の頭を乱暴に拭いていた。
音光は上半身裸で、相変わらず気だるげな顔をしていて、背中を丸めこんでされるがままに頭を拭かれている。
音光も七海もお互いに不本意そうだが、でもその様子は何故か少し楽しそうにも見える。
確か七海は庶民の暮らしを味わいたいから音光の家に居候するとか言っていたけれど、そんなの、音光の家じゃなくてもいいはずだ。
千優はなんだか少し泣きたくなったが、グっと涙をこらえて窓を閉めた。




