序章02:ユリシスという女性
私の名前はユリシス。
フェデル王国のド辺境の田舎の農家の次女だった。
だった、と何故過去形なのかと言うと、私とあの家との関係がもうなくなってしまったからだ。
私は今、奴隷として奴隷市場に売られに行っている。
今年の麦の不作が酷く、納められない年貢の不足分を補うべく、私は売られた。
別に特別な事ではなく、不作の年に人が売られるという事はよくある話だったし、私も薄々覚悟はしていた。
同じ村の人たちも何人か売られている。
髪は長い黒髪で、肌はまだ若々しく、容姿もそれほど酷い訳ではない私は中々の値で買われ、家族が売るのが私一人だけで済んだのは幸いだった。
強いて言えば胸がもう少しあればまだ高値が付いたのだろうが、まだ10歳の私がそこまで希望するのは良くない。
むしろ、幼い容姿が誰かに気に入られるかもしれない。
服は大きい、汚れが目立ち臭いが酷いボロボロのシャツ一枚で、手には手枷、足には脱走しないようにおもりが付けられている。
と言っても、こんなおもり無くても逃げようと思わないし、逃げようとしてもそれができる体力も無い。
村で売られてからここまで丸一日が立つが、ろくなものを食べさせられていない。
痩せていては商品価値が下がるため、何も食べさせられていないという事は無い。
が、おおよそ腹に詰めれれば何でも良いといった考えが見え、野草やカビたパンで腹を満たし、泥をすくった水でのどを潤す、そんなものばかりが与えられた。
馬車につながれた檻の中、衝撃が直に床に伝わりガタガタと揺らされ乗り心地は最悪。食べたモノにあたったのか、腹を下した誰かの吐瀉物や排泄物で鼻が曲がりそうになる。
時に、隣に居た誰かが動かなくなり、何度か商人によって山中で投げ捨てられていく。
気の遠くなるような境遇。死を目前にしている感覚がチリチリと脳を焦がす。
でも、私は生きている。
それでもまだ、生きている。
それだけが私にとって何より嬉しい事で、まだ死んでいない自分の幸運に感謝して、私は今日も疲れ果てた体を横にして、明日も生きていられる事を願って眠った。
そして目が覚める。
一瞬で、最悪の目覚めになる。
(…えっ、何これ?私確かさっき、電車にひかれて死んで…あれ?
え、でも、私はユリシスで農家の次女で……え?あれ?えぇ?)
頭の中で記憶が混乱している。
私は嶋田百合、のはず。
だけど私は、今、馬車でドナドナよろしく運ばれている状況に説明がつけられる。
私はユリシスで、年貢が納められなかった家族に口減らしに売られた。
だけど、ユリシスは私だけど、私はユリシスじゃない。
何言ってるんだか自分でも意味が分からなくなりそうだけど、それだけは確かだ。
だって私、売られる事に何一つ納得なんてできないし!?
(なんで!?なんでお金のためなんかに家族を売るとかそういう事できるの!?馬鹿なの!?
ってゆーか家族も別れ際泣いていたけど、だったら売るなよ!誰かに金借りるとか、泣くほど別れたくないならもうちょっと何か努力すれば何とかなったんじゃないの!?
てかそもそも、奴隷制度って何、どんだけ昔の話!?リンカーンだったかブッシュだったか、アメリカの誰かが廃止したんじゃなかったの!?え、密売!?でも当たり前って…えぇ!?)
とにかく状況が分からないし、私に何が起こったのか分からないし、そもそもこれが現実なのかどうかも分からない。
けれど、それらを考える気力も私には無かった。
(……おなか、空いたなぁ)
目を覚ます事は覚ましたけれど、そこから起き上がる事もできず、私は寝そべったままだった。
朝起きた瞬間から、空腹感が腹の中で暴れ回っている。減りすぎて若干痛い。
それに加えて臭いが酷い。
体臭がきついし、周りから臭ってくるあれやそれやが混ざってもはや何の臭いかも分からず、ただ不快感だけをめいいっぱい濃縮したような臭いが頭を麻痺させる。
捨て忘れた生ゴミに頭から突っ込んだらこの感覚を味わえるんじゃ無いだろうか。
とにかく、この頭がおかしくなりそうなこの檻の中から一秒でも早く外に出たかったが、しかし指一本動かすのが億劫なほどに体が疲れきってしまっている。
あと、お腹痛い。
「…起きたの?」
と、隣から声が聞こえた。
そちらを見ると、同じように横たわって私を見る女の子の姿があった。
「え……あ、うん」
「そう、まだ死んでなかったんだ。良かった」
女の子はそう言うと、嬉しそうに薄く笑った。
私は、もといユリシスは彼女を知っていた。
「えっと…ミリー、は、大丈夫?」
「大丈夫、じゃあ、ないかな。
起き上がるのも難しいや」
ミリーはそう言うと、また薄く笑った。
本当は、表情を作る余裕なんてほとんどないだろうに、心配をかけまいと無理に笑顔を作っているんだろう。
ユリシスと幼なじみ、私からすればかなり年下の彼女に気を遣われているという事が、何だかとてもいたたまれなかった。
そしてふと、思った。
(…あれ。今、私何語で喋った?)
そんな今更な疑問。しかし回避できないはずの疑問。
私がミリーと会話したほんの数秒間、私が喋った言葉は日本語のそれではなかった。
じゃあ英語を喋ったのかと言われると、そうでもない。私の知る限りの拙い英語知識を総動員しても、私がさっき話した言葉は単語一つ合わなかった。
けれど、さらに気持ちが悪いのは、私がその言葉を何の疑問も持たずに話していた事だ。
しかも、自分の言った言葉も、相手の言った言葉も私は理解してしまっている。
(…この言葉、多分この国の言葉なのかな…?でも、なんで私こんな言葉当たり前みたいに喋れてるの…?と言うか、まず私は一体…えっと……)
考えれば考えるほどに疑問が浮かび、遂に何を確かめなければ良いのかさえ怪しくなってきた。
私は…私は……
『はーい、無駄な考え休むににたりストォーップ!』
突如脳内に響く声。
最近聞いたような声。
(自称神様!?)
『そろそろ神だって認めなさいよこいつ!
説明色々してあげようと助け舟出しに来たのに、そんな呼ばれ方されたらやる気なくなって助け舟沈めるわよ!?船体バラッバラにして海の藻くずに返すわよ!?』
突っ込みが長い!しかもやっぱり寒い!
(って、いや待って!待ってください!ごめんなさい!
何に謝ってるのかちょっと疑問に感じるんですけど、とにかくごめんなさい!見捨てないでください神様!
私、今どうなってるんですか!?)
『あー……うん。まあ良いや崇めてるっぽいし。ギリギリ合格ってことにしてあげる』
どうやら神様は機嫌を直してくれたらしい。一息ついて私は周囲を見渡した。
周りに変わった様子もないし、ミリーも体力を極力減らさないように深く息を吸って目を瞑っている。
この反応を見るにどうやら、この神様の声は周りには聞こえていないらしい。
『うん、周りの人は私の声は聞こえてないよ。
あんたに直接、内線で通話してるみたいな感じだから』
(は、はぁ……)
何だろう、一言一言に色々言いたくなってしまうこの神様。どこで覚えてくるんだろうこういう比喩表現。
とは言え、この状況を的確に解説してくれそうな人はこの神様を除いて多分他に居そうにない。
私自身この疑問をどうやって人にぶつければ良いのか分からないし、誰かに直球で、私記憶が二つもあるんですとか言ったら、言ってる私でも目が点になる。
(えっと…それで神様。
私、転生したんでしたっけ?)
『そう、転生した』
神様はあっさりと肯定する。
(何で私、いきなり売られてるんですか?)
『偶然』
神様はあっさりと意味分からん事を暴露する。
(え、ちょっ、2文字で済まされるんですか!?)
『いや、本来そういう予定じゃなかったんだよ!?
ていうか、本当はもうちょっとまともに人生歩む環境があって、この疑問に付いてはもっと時間をかけてじっくりと解消してもらうはずだったんだけど!
ぶっちゃけ転生先がまさかいきなり奴隷スタートだなんてちょっと私も想定外でした!すみません!』
(まさかの平謝り!?)
何だか、一瞬で目の前が真っ暗になっていく気がして来た。
ただでさえ体力が底をついているのに、気力までこの神様は削り取っていくのか。
死神か。死神なのかこの神様。
『違うわボケ!ちゃんとした可愛いだけの普通の神様だっての!』
(いや、ていうかもう要らないこと喋らないでください!
マジで!お願いしますから!
えっと、えっとですね、転生についてもうちょっと細かい事教えてもらえますか!?
割と切実に!)
この神様と話していると、本っっっっっっ当に話が進まない!
いい加減、こっちも気力が持たないし、一回一回話が逸れては突っ込み入れて戻すのも本当に面倒なので、割と真剣に神様に頼み込む。
『あ、あー……うむ。そ、そうだな。
じゃ、じゃあ、ちょっと真面目に話をしようか…』
そう言うと、神様はわざとらしくゴホンと咳払いをすると、話し始めた。
『まず転生についてなんだが、生まれた瞬間いきなり立って歩き出したりされても大騒ぎになるし、言葉が分からない状態で一生混乱しっぱなしでも困る。
かと言って、言葉のいろはを無理矢理神様パワーで叩き込むのも、世界全体の公平性に支障を及ぼすからできない』
(世界全体の・・・公平性?)
『えっとな、神様って言うのは誰かを贔屓したり、誰かを虐めたりするのは極力やっちゃいけないの。
そういうズルい事すると世界のバランスとかが崩れちゃうから、そこら辺色々と調整しなきゃいけなくてね?
あんたの場合、記憶を引き継がせた分の代わりに不幸な目に遭う事を約束する事で、他の人とのハンデを帳消しにしてるワケ』
そう言えば、最後にそんな事を言っていたような覚えがある。
『あーうん。
それでな?
言いにくいんだが…』
(何ですか、土下座する以上に何か言いにくい事でもあるんですか)
目には見えないが、神様はあからさまに悩んでますみたいに、あーうーあー、と声を絞り出す。
が、観念したのかふぅと息を一つ吐くと、
『……その、な。
赤ん坊の頃から記憶があったら困るから、不幸になりそうな転生予定の素体は10歳くらいまでは普通の人間の記憶しかないようにして、その間にエリシス自身がこの国の言葉とか常識を覚えていくようにしてて、な。
そして【10歳になった瞬間】に、【嶋田百合の記憶が戻ってくる】っていう設定にしてたんだわ。
で、今日エリシスは10歳になったんだが、その…10歳になった丁度に不幸のどん底だとは思ってなくて…』
(…………)
沈黙。
私の頭の中も真っ白になる。
ガタゴトガタゴトと馬車が揺れる中、空白の時間が長く続く。
そして、私は短く感想を思い浮かべた。
(……駄目神)
『ひ、ひどい!謝ってるのに!』
(謝って済むなら神様なんて要るんですか!?)
『う、うううぅぅ!』
うなるばかりの神様だが、いきなり奴隷にされたこっちはたまったものじゃない。
勝手に自殺して転生してもらってる手前あまり強くは言えないが、個人的にはたまったものじゃない。
まぁ、転生自体私の望んだ事ではないんだけれど。
…本当に。
(…そうだよ。私自殺したんだ。
今更何で生きようと頑張ろうとしてるんだか…)
そう思ってしまうと、一瞬で血の上った頭が冷えていく気がした。
そう思ってしまうと、一気に自分が惨めに思えた。
一回死んだくせに、一々何を必死になってるんだろう。
このまま死ぬなら、それが最も自然なはずなのに……。
『あんた、まだそんなことを言ってるのかい…』
(駄目神様は黙っててください)
『っ……』
また説教を垂れようとしていたのだろうが、負い目を突くとすぐに黙り込んだ。
はぁ。
(…何なんだろう、本当に)
私は嶋田百合。私はユリシス。
私は死んだ。私は生きている。
私は16歳。私は10歳。
駄目神様の話を聞くに、ユリシスが10歳になった瞬間にいきなり16年分の私の記憶を叩き込んだらしい。なんて言うか、勝手に人に取り憑いた幽霊みたいな感じがしてしまう。
あと思ったんだが、私はユリシスとしての人格が薄い気がする。
言葉や、この世界についての知識はあるが、私はユリシス個人の感情が理解できないでいる。
売られたとき、家族が無事で良かったとか。
生きている事に喜んだり。
妙にポジティブで、10歳のくせに私より気丈なようで、
(…ユリシス、かぁ)
自分に新しく与えられた命は、おおよそ私よりも生きる事に希望を持っているらしい。
ガタゴトと揺られる馬車檻の中、私は目をつぶり自分の命について考えてみる。
(ユリシスの代わりに……生きてみようかなぁ)
見た事もないユリシスに、私は少しだけ同情する。
勝手に神様に転生先にされてしまったせいで、ユリシスは【私】にされてしまった。
単に記憶をめいいっぱい突っ込まれただけで、ユリシスは別に死んだ訳ではない。
けど、私から見てユリシスは、私よりも素敵だと思える。私が居なければ、彼女は彼女のままだったと思う。
私のせいで、ユリシスは【私】になった。
(その代わり、ってわけじゃないけど…。
ユリシスは別に死にたがってた訳じゃないし、私が代わりに生きて…)
自己満足に満ちた生きる理由。
けど、少しだけ死ぬ前より生きる事が楽しみに
「おい起きろ奴隷ども!着いたぞ!起きて歩くぐらいはしろ!」
馬車が止まり、商人の怒声が響く。
一気にさっきまでのかっこつけた決意が恐怖心で粉々になった。
所詮現代っ子の私のメンタルは豆腐レベルなのだった。
(やっぱ無理!
奴隷から人生始めろとか無理!
こんな人生死にたくなくても死ぬ!)
商人に尻を蹴られ、のろのろと歩きながら、私はそう思った。
でも前より少しだけ、生きていようと思う。
こんな死に方、私認めたくないっっ!!
幼少期をなくそうと思ったらなんかやたらと面倒くさく…