7. 日曜日・螺旋原因
宝珠を持って、日曜日の午後十時から月曜の午前六時まで一緒にいること。それが土曜日の帰り、地下鉄の車内でカズタカから提示された条件だった。
「そのかわり、場所はどこでもいい。俺は多分モールの近くにいるはずだ」
カズタカは最後にそう付け加えた。
「わかりました。明日、午後七時くらいにモールへ行きます。そこであなたと合流して、朝までいればいいんですね?」
「ああ、頼む。しかしどこで朝まで過ごす気だ?」
深い意味で一夜を共にするなんて気は、サユキには無い。相手が犯罪者の可能性があるとなってはなおさらだ。
電車はスピードを落とし始める。車内のアナウンスが、次がサユキの降りる駅だと告げた。
「場所は二十四時間営業のレストランにします。お店は明日決めましょう」
犯罪者と一夜を共に過ごす気は無い。―じゃあ犯罪者じゃなかったら、という自問に自答せず、サユキは電車を降りた。
時刻はもうすぐ午後六時。外は夕方。一日が緩やかに終わろうとして、サユキにとってのメインイベントが始まろうとしている。
宝珠はバッグに入っている。そろそろ出発しないと七時前にモールに着かない。これからのことを考えるとあまり落ち着かなかった。何をするべきか考えている間に時間だけが過ぎてしまい、結局ほとんど準備も対策もしていない。本気で遺書でも書こうか迷ったが、縁起でもないと思い直し書かなかった。
親にはすでに友達の家に泊まる、と言ってある。両親も昔のように誰の所へ誰と行っていつ帰ってくるのか聞かなくなったのは、ひとえにサユキへの信頼の表れだ。
これから一昨日知り合った窃盗犯とご飯食べてきます―
とても言えない。
何も知らない両親が、行ってらっしゃいと笑顔で送り出してくれたとき、少し胸が痛んだ。自分は無事に帰ってこられるのだろうか。
いや、帰ってくる。絶対に。
怖がってはいるが、サユキにはいつでも退路があった。
腕を掴まれた時。振りほどいて大声を上げればよかった。
走り出したとき。ついていかずに抵抗すればよかった。
公園に着いたとき。話を聞かずに逃げればよかった。
日付が変わったとき。探しに行かなければよかった。
一緒にいてくれと言われたとき。はっきりと断ればよかった。
彼女がいると聞いたとき。…どうすればよかったのだろう。
その全ての退路を断って、今の自分がいる。ならばここから先起こる事は全て自分の責任。無事帰ってこられるように全力を尽くすだけだ。
日が沈み始め色彩を失いつつある街を、彼女は一人歩き始めた。
サユキとて、無策でカズタカに会いに行くわけではない。
もし自分に何かあったとき、事情を知っていて警察や家族に連絡してくれる人が必要だ。
だが学校の友達に「未来から来た犯罪者と一緒にご飯食べに行くから、私に何かあったら警察に連絡してね」なんて言えない。
だからこの役目を任せられるのは、カズタカの事情を知っていてなおかつ信頼できる人。
今のサユキの友達に、そんな都合のいい人は一人しかいない。
携帯を取り出し、昨日聞いた番号を呼び出す。昨日の今日でお世話になるとは思わなかったが、今はそんな事を言っていられない。
携帯のディスプレイに表示された十一桁の数字。その数字の上には、アカリと名前が映し出されていた。
カズタカはモールの前の階段に座っていた。
一人で、何をするでも無く。何かに緊張するような様子で。
時刻はあと十分で午後七時になるところだ。
モールは昨日は警察の現場検証で一日閉鎖していたが、今日からは通常の営業が再開されている。当然、最上階の特別展示室は封鎖してある。
休日の夕食時でもあるこの時間、モールの回りの人通りは多い。
カズタカから少しはなれた所で周囲を見渡す。やはりスーツ姿にサングラスで新聞を読んでいるような者はいない。家族連れやカップルが楽しそうな笑顔を浮かべて歩いていく、インターネットで『街』と『幸せ』で画像検索をかければ出てきそうな風景だ。
それでもきっと、このざわめきの中に窃盗団が紛れ込んでいる。そしてもうここまできたら戻るわけにはいかない。
柱の陰に隠れ深呼吸する。神様、どうか無事に帰れますように、と心の中で祈りをささげ、カズタカに向けて歩きだす。
こんばんは、と声をかけたサユキをカズタカは怪訝そうな顔で見上げる。
宗教の勧誘か?それともキャッチセールスか?とその顔に書いてあるため、先手を打った。
「一応断っておきますが、宗教の勧誘でもキャッチセールスでもないです。昨日と一昨日のあなたに頼まれてここに来ました」
その一言で、カズタカの目に驚きの色が混じる。
「昨日、一昨日…。その、悪い。よく覚えていないけど俺は何て言ったんだっけ?」
俺は何と言っていた?と聞かないのはまだサユキを信用していないからだろう。
「今日のあなたに、宝珠を渡すようたのまれました。そのあと、無事明日に行くことができるか見届けて欲しい、とも」
その言葉にカズタカの顔がこわばる。それが驚きによるものだと気が付くのに、アカリは少し時間がかかった。
「…宝珠を、もっているのか?」
その言葉の意味を分かっているのか?とでも言うような眼差しと口調に少し気圧されながらも、
「はい、一昨日の金曜にあなたから預かっています」
はっきりと答える。
「………そうか、わかった。とにかく君がきてくれて助かった」
サユキが事情を知っていると納得したようだ。昨日に比べて理解に必要な時間が短くなっている。
「で、どこで時間をつぶす?」
「場所は私に任せてくれるという事だったので、ファミリーレストランにしました」
モール周辺にあるファミリーレストランの名前を挙げていくカズタカに首を横に振り続ける。
「ここから電車で二十分くらい行った所に、行ってみたかったお店があるんです。そこで十時になるのを待ちませんか?」
ついでにその場所は繁華街であり、夜でも人通りは見込める。もちろん前から行きたかったわけではない。
おそらくこの周囲のファミリーレストランには、窃盗団が待ち伏せしている。ここは敵地で、自分に有利な場所なんてない。相手が複数に対しこちらは自分ひとりだけだからだ。アカリにも同席してもらうという手もあったが、彼女をこれ以上巻き込むことに気が引けた。
複数いる相手との条件が互角となる場所を考え、ひねり出した答えがここから離れた場所、という非常に単純なものだった。そんなアカリの提案にも
「あぁ、いいよ」
カズタカは不信がるそぶりをみせず、あっけなくOKをだす。サユキにしてみれば少し拍子抜けだった。
そして思う。あっけなくOKを出したのは、行き先も敵地だからではないのか。相手の規模によってはどこに行っても先回りされ、待ち伏せされてしまう。
大きな不安を抱えながら、先に最寄り駅に向けて歩き出したカズタカを後ろから追いかけた。
移動先のお店も結局ファミリーレストランだ。時間は七時四十分を回っている。
彼を後ろから追いかけたのはカズタカが携帯電話を使うか確認したかったかで、そんな様子は無かった、つまり彼はこの場所のことを誰にも連絡していない、ここには敵の手は回っていない。だから、自分達より後に来た者だけ警戒すればいい。
そう考えていたが、実際はそんなに甘くなかった。
世間は連休の最終日。サユキたちが来たときにはもうすでに何人もの客が順番待ちをしていたし、あとから来る人の流れも絶えない。
ここにきて繁華街というのが裏目にでた。これでは後から来る人を警戒するなんて不可能だ―そう思っているそばから、また一組のカップルが入ってくる。
すでに名前を書いてから二十分が過ぎているが、未だにサユキたちが呼ばれる気配は無い。食事処で待たされるのを好む者はいない。カズタカに悪い事をしたかな、とも思う。
隣に座っている彼の顔を盗み見る。退屈そうではあるが、不満な様子はなく、そして緊張しているようにも見えた。
「すいません、ここまで来て待たせちゃって」
と謝るサユキ。だがカズタカは
「たかが数分じゃないか。今まで俺が繰り返してきた時間に比べれば微々たる物だ」
本当になんでもないことのように言った。
「2名でお待ちのシノヅカサユリ様、お待たせいたしました」
彼女の名前が呼ばれたのは、名前を書いてから30分ほど経った後だった。
店のほぼ中央の席に案内された。店の中央付近という事は窓から離れているという事で、店の外側から監視されにくいという事だ。それはサユキにとって幸運だった。
席につく時、サユキはさりげなく入り口を見るような位置に座る。カズタカは当然彼女と向かい合うように座り、結果入り口に背を向けるような形になった。
「シノヅカサユリ、か」
「偽名です。こういうところに書くときは、いつもその名前を使っているんです」
だから余計に、カズタカが彼女の本名を知っている事が不気味だった。どこかで見られたという事はありえない。
「なるほどね。じゃあ俺も今度からそうしよう。何か適当な名前を考えないと」
そういいながらメニューを広げる。
メニューを選んでいるのか、名前を考えているのか。はたまた両方か。非常に分かりにくいが、別にどちらでも構わない。サユキもメニューを広げ食べる物を選び始める。
カズタカは和風ハンバーグのスープとパンのセットを、サユキはシーフードリゾットとスープを頼んだ。
「それと、ドリンクバーを二つお願いします」
最後にそういって、注文を終える。
「時間をつぶさないといけないからな。あんまりドリンクバーって好きじゃないけど、こういう時には最適だ」
確かにそうだろう、とサユキは思う。問題は、盗品を預かった挙句に犯人と向かい合いながら時間をつぶすなんていう時が普通の人には無いという事だが。そう思い、曖昧に笑ってやり過ごした。
ドリンクバーの話が続くのかと思ったが、
「一応聞いておきたいんだけど。一昨日の俺から宝珠を預かったのか?」
突然、話が本題に入る。今日は楽しく食事をしに来たわけじゃない、それを思い出し、再認識する。
「えぇ、そうです。一昨日あなたは、モールから宝珠を盗み出して逃げる途中私を巻き込んだんです」
そして二日間の出来事を説明する。
モールから飛び出してきた事。
公園で協力を依頼された事。
焼肉屋での昼食、そしてアカリを助けたという事。
そして、宝珠を持った状態で午後十時過ぎに何が起きるのか見届ける事。
一通り話し終わるとちょうど頼んでいた食事が運ばれてきた。チェーン展開しているファミリーレストランだ、もとより味は期待していない。
ウェイトレスが伝票とごゆっくりどうぞという言葉を残して去るまで、示し合わせたように二人とも黙っていた。
そしてカズタカの第一声は
「……そうか。アカリ、助けたんだ」
自分の宝珠の事ではなくアカリの事で、その顔は少し嬉しそうだった。
「昨日のあなたは、彼女を助ける事なんて無意味だ、って言っていましたけどね」
皮肉を込めて言ってやる。カズタカは自分が嬉しそうな顔をしている事に気が付いたのだろう、いつもの無表情に戻りながら
「あぁ、確かにそうだ。彼女を助ける事は無意味だな。…だけど、今日ここで俺が普通の生活に戻れれば。俺は、初めてアカリを本当に救えた事になる」
最後の言葉は、サユキに向けられた言葉ではない。おそらく自分自身に言い聞かせている言葉。
「大丈夫です、宝珠はちゃんと持ってきていますから。今日でこの螺旋からお別れですよ」
カズタカも、そうだなと短く答える。
「とりあえず暖かいうちに食べよう。十時まではまだ時間がある、詳しい事は食べながら話そう」
「宝珠は持ってきているんだな?」
ちょうどサユキがリゾットからスープへとスプーンを動かすとき、唐突にカズタカが口を開く。
「ええ、今カバンの中に入っています」
「そうか」
そう短く答えてカズタカは再び食事に戻る。彼にとって今日は宝珠を取り戻す日。その質問は当然だろう。
カズタカは窃盗犯である。これはもう間違いない。そして彼が言う十時という時間。これは、何かのタイムリミットではないのか。それは逃亡するための飛行機の時間だったり、あるいは彼を脅している者への報告期限なのかもしれない。
サユキが描く理想の流れは、宝珠を渡して開放されることだ。だがそれなら、わざわざサユキに一緒にいてくれと頼む必要が無い。ここに来て最悪の想像が頭をもたげてくる。
このファミリーレストランは人目が多く、手荒な事はできないだろうと思う。そして同時に、十時に必ず何かが起きる、サユキはそう感じていた。
そしてその想像は現実のものとなる。
ハンバーグを食べ終わり、サラダも無くなった。
今テーブルの上には2皿目のポテトとドリンクバーと、宝珠が入ったサユキのバッグがおいてある。
入ってくる客に目を向けていた―全ての客の位置を把握できるような数じゃなかったので、監視は出来なかった―が、時間が九時を過ぎてもまだたくさんの客がいる。そしてその中には『ガラが悪い』と言って差し支えない人たちも、いる。だが、窃盗団というよりただの不良崩れといった雰囲気だ。
時計は九時四十五分。もうお互い話す事はなく、時々雑談をしながら時間を過ごす。
「十一時以降は深夜料金で値段が上がるのか。まぁ、俺には関係ないけどな」
メニューを見て、人事のように言う。確かに彼にしてみれば人事なのだろう。人事という振りなのだろうが。
「出されるメニューの価値は変わらないのに、時間で値段が変わるっていうのもよく考えるとおかしい話ですよね」
「夜になって値段が上がった分、量を増やすとかすればいい」
「サラダのレタスを少し増やすとか、パスタの長さを一割長くするとかですか」
「時間によって長さが変わると面白いだろうな」
そんな雑談をしながらも、カズタカがいう「眠りについてしまう」時間まであと少し。そこが一つの区切りとなるだろう。何が起きるか分からないから、何に警戒すればいいのかもわからない。
話が途切れたタイミングでカズタカは飲み物を汲みに行った。
少し深呼吸をする。
何に警戒すればいいのか分からない緊張状態というのは、思いのほか体力と精神力を削る。これを一晩続けなければいけないのか、と思うと疲労感も倍増だった。
そして、そんな状態だからサユキは気がつかない。カズタカが時々見せる、焦燥した顔に。
十時。普通の人なら日付が変わる二時間前で、九時から始まる一時間枠のドラマが終わるという程度の意味しか持たないその時間にむけて、二人の緊張は高まっていった。
「未来って、『未だ来ない』って書くだろう」
毒々しいまでに緑色で、果汁なんて一滴も入っていないのにメロンと謳う液体をテーブルに置いて、カズタカは唐突に切り出した。
「ええ、そうですね。意味もその通りでしょう?」
「そうだな、未来って言うと明るいイメージがあるだろ。未来がある、って言うとポジティブな感じがするし、逆に未来が無いなんてネガティブでもうすぐ死ぬのか?という推測までされる。
でも、その未来というポジティブな言葉の中に、『来ない』なんて否定の意味が含まれているっていうのはちょっと意味深だと思わないか?」
サユキはこの会話から言いようのない重みを感じた。
「まぁ、そうですね」
「俺にとっての未来は月曜日以降のことだけど未だ行けない。もう来てしまった時を繰り返している、俺ほど未来って言葉から遠い人間もいないだろうね」
そう言うカズタカの顔は、今まで見てきたどんな笑顔よりも寂しさと悲しさと悔しさをにじませながら、笑っていた。そんな顔をした人にかける言葉などあるはずがない。サユキはただ黙ってカズタカを見る事しか出来ず、
そして、カズタカの様子がおかしい事に気がついた。
うつむいたまま、顔は昏い笑顔だ。その表情が消えない。
知らない人なら絶対に近づかないし、知っている人でも声をかけようとは思わない。そして、体がゆっくりと前後に揺れ始める。
その様子をどこかで見た、と思った。
それは、確か授業中。今まさに眠りの世界へ旅立とうとしているクラスメイトが、そういう動きをしているのを見た事がある。
とっさに彼女は時計を見る。時刻は九時五十九分。
カズタカのゆれは、いよいよ大きくなってきている。笑顔は消えているが、目もとじられている。このままでは危ない、と思いとっさにカズタカの前にあるコップとグラスを脇に寄せる。
次の瞬間、まるでそのタイミングを見ていたかのようにカズタカはテーブルに突っ伏した。
それは突っ伏したというより、テーブルに頭突きをかましたようなものだ。
ゴン、という鈍い音が店内に響き渡り、テーブルの上においてあった食器が一瞬浮き上がる。だがそれでも、サユキの機転が無ければ効果音は『ゴン』ではなく『ガシャン』や『グサッ』だっただろう。あれだけの音を立てたのだ、カズタカの頭だって無傷ではすまないだろうが、それでもこぶ程度で済めば御の字だ。
ひとまずほっとする。
そして、何が起きたのか考えてみる。
カズタカが机に突っ伏してピクリともしない。寝ているのだろうか。だが、どちらかと言えば気絶に近いと思う。そして寝たとしても気絶としても、カズタカの意図がわからない。
確かに10時は何かの区切りではあるだろう、と思ってはいた。だが本人がこうして寝たふりをしてしまっては、この後の展開が分からない。考えられるのは、この後彼の仲間が来て拉致されるとかそういったことだがそれにしたてカズタカが寝る必要はない。…彼の狙いは何だ?
ここで『カズタカの話しを信じていました』という態度を貫くには、起こすそぶりをしておいたほうがいいだろう。カズタカにしても、どこかで見ているであろう彼の仲間に対しても、アピールしておいたほうがいい。
そして違和感。
どこかで見ているだろう彼の仲間。彼らに対するパフォーマンスでもあるのに。
彼女の周りに誰もいなくなっていた。
店内は無人で、厨房の中からは何の音もせず、レジにも誰もいない。
耳を澄ませる。店内に軽く流れていたBGMすら今は無く、ただひたすらに静寂だけがあたりを支配していた。ついさっきまでカズタカの後ろに座っていたカップルも、仕切り一枚隔てて右側に座っていた高校生くらいの男の子も、店内を見渡していた店員も。誰も、いない。
…つまりこれは、何かのドッキリで。カズタカが自分に接触したときからそれは始まっていたのだろう。そして最後に突然誰もいなくなる方法で対象者を驚かせて終わりにする―。きっとそうなのだろう。だからカズタカは強盗犯ではなく、周囲の人達はみんなエキストラだったのだ。
その欠陥だらけの仮説を今は信じる。そうしないと、怖い。そうやって納得していないと、怖い。理解できない事は、怖い。だから無理やりにでも自分に理解できるストーリーに置き換える。
そうして、自分の時計をみて。今度こそ彼女の頭は真っ白になる。
彼女が付けているその時計はアナログだったが、今はどの数字も示していない。正確には、どの数字も示せない。
彼女の腕に巻かれた時計から、針がなくなっていた。
カズタカが強盗犯、という仮説。これはありえる。
カズタカがドッキリの仕掛け人、という仮説。これもありえる。
だが、どうすれば腕時計の針を消す事ができるのか。ついさっきまではちゃんと針がついていたのだが、今となってはどこにも見当たらない。
方法が分からない。時計はずっと腕につけていた。誰かに不自然なまでに近づかれた事は無かったし、もしいたとしたらすぐに分かっただろう。
全身に嫌な汗が出てくる。足元に血が溜まる、貧血に似た感じがする。頭がしびれて手が冷たい。呼吸が乱れて視界が狭まる。
落ち着け、と自分に言い聞かせて必死に呼吸を整え、周りの状況を考えてみる。
店内には誰もいない。これはもう事実で認めるしかない。なら、店の外はどうだろう。そう思い、出入り口に歩いていく。が、鍵でもかかっているのか、扉はびくともしなかった。外の様子を伺おうとしたが、真っ暗で何も見えない。
繁華街の真ん中にあるこの建物の外が真っ暗というはずはないのだが、店の光が届く範囲しか外の様子がわからない。まるで、この先が作られていないテレビゲームのようだ。
店内を回って見たが、やはり誰もいない。厨房の中も同じだった。
仕方なく元の机に戻ってくる。カズタカをゆすってみたが、何の反応もない。
とりあえずコップに新しくレモンソーダを注ぐ。冷たい炭酸を少し飲んで、新ためて今の状況について考えてみる事にした。だが、何を考えればいいのか。一言で言ってしまえば、意味が分からない。サユキはてっきり、カズタカはモールから何らかの事情があって宝珠を奪った強盗犯だと思っていた。彼が口にする「未来から来て、三日間を繰り返している」という話は嘘だと思っていた。
だが、今の状況はどうだろう。どうすれば一瞬でファミリーレストラン内の人間を消して、店の外を完全な暗闇にし、さらに持ち主に気づかれないよう時計の針を抜けるというのか。
もう一口飲み物を口にする。この夢のような中でレモンソーダの味が不自然なほど、これは現実だと教えてくれている。
状況の判断は諦めて、これからの事を考える。が、それも予測ができない。何が起きるのか、何も起きないのか。
彼が永遠と三日間を繰り返したように、自分も永遠とここにいるはめになるのか。先の見えない恐怖、終わらない事の絶望。その一端を垣間見て、カズタカの言っていた三日間を繰り返しているカズタカの心情を少しだけ体感できた。
そんな最悪の想像を打ち消そうと、ストローではなくコップから直接飲み物を口に運ぶ。
まだそうと決まったわけじゃない。次の瞬間にも元に戻る可能性がある。
こうなってしまった原因は、おそらくカズタカにある。だからこの状況を抜け出すには、カズタカに起きてもらう事が一番早いような気がした。席を立ち上がり、机に倒れて目を閉じている彼の隣へ行く。もう一度さっきと同じように、肩をゆすってみる。ぴくりともしない。
「ちょっと、おきてください」今度は声をかけてみた。ピクリともしない。
「起きてくださいってば」今度は強めにゆする。ピクリともしない。
「起きてよ!」ほほを軽く叩く。ピクリともしない。
「ねぇってば!」両肩を掴んで机から剥がそうとしたが、思ったより重くて途中で手を離す。やっぱりカズタカはピクリともしない。
「……」さすがに不安になり、手の脈を取ってみる。…脈はあった。
右頬を下にして机に突っ伏している。その状態だと、起きたときに右頬が赤くなっているだろう。あと、耳も痛くなるはずだ。机と頭でサンドイッチされている。
「……耳、か」
ふと、一つの言葉を思い出す。
寝耳に水。寝ている時に耳に水を入れられるくらい驚く、という意味らしいが、それほど驚けば当然起きるだろう。
サユキは自分のコップを持ってドリンクバーのジュースサーバーへ。そこには、おいしい水、と書かれた水のセルフサービスも一緒にあった。自分のコップにはアイスティーを、新しいコップに水を半分くらい入れた。
視線を上げると、水の注ぎ口の隣にあるコーヒーメーカーが目にとまる。ブラック、アメリカン、カプチーノという三種類のコーヒーが作れるらしいが、サユキにはその差がよくわからない。だが彼女の目を奪ったのは、その隣の『熱湯』の文字。ホットティー用の、熱湯だ。
しばらくその熱湯の文字を睨み、考える。
寝耳にお湯。それは最終手段にしよう、そう思い直し水とアイスティーと新しいストローを持って自分の席へと戻る。
カズタカは目を覚ます気配が無い。寝ているというよりは、本当に気を失っているように見える。
「寝ていないのなら、寝耳に水とはならないわね…」
そう言いつつ、ストローの封をあける。
目の前のコップは水がはいっている。だがこのコップの中身は飲む目的で持ってこられたのではない。コップに新しいストローをいれ、吸い込み口を指でふさぐ。ストローの中には水が入った。
最初は頬にたらしてみる。反応なし。
次に、閉じているまぶたにたらしてみる。やはり反応はない。
最後に少し震える手で、ストローを耳の上へ。
寝耳に水。寝ている人も耳に水を入れられると驚いて起きるという。
少しだけ躊躇って、彼の顔を見る。机に頭突きをした時から、耳の上に水を構えるこの瞬間まで表情は変わらず、全く動く気配が無い。彼女の緊張が伝わっていないのか、伝わっていても表情を変えない訓練でも受けているのか。
意を決して
「………っ!」
指を離す瞬間、思わず目をそらしてしまう。水は耳たぶをぬらしている。半分くらいは中に入ったと信じたい。
だがそれでもカズタカは動かない。
諺になるくらいだ、普通の睡眠でも寝たふりでもここまで無反応という事はないと思う。
自然と彼女の視線はコップを離れ、コーヒーメーカーの『熱湯』というボタンにむかう。出てくるお湯の正確な温度はわからないが『熱湯』と銘打っているくらいだ、相当熱いだろう。以前ファミレスで友人が紅茶を作り、そして火傷したことを覚えている。その時友人は、
「こんなの、人の飲み物の温度じゃない!」
と言っていた。人体の中で比較的温度に強い口ですら火傷してしまう。それを耳に入れたら…。
「やっぱりそれはダメね」
カズタカは無事ではすまない。傷害罪だ。
ゼロ℃以下の水に入っても平気な人間が、百度のお湯に入ると致命的なダメージを受ける。それは体を作っているたんぱく質が高温に弱いからだ。イメージとしては卵を思い浮かべるといい。冷蔵庫の中でも凍らないが、フライパンの上ではあっという間に固まってしまう。ちなみに人間の皮膚は45℃以上で火傷を受け、全身の20%以上が火傷を負うと命が危なくなるらしい。だが、耳の中、鼓膜や三半規管などの耐熱温度をサユキは知らないし、ましてや火傷するとどうなるのかなど聞いたことも無が、あまりいい予感はしない。少なくとも手や足に熱湯をかけるよりも酷い事になるだろう。耳の中とはつまり頭の中だ。
自分のやろうとしていたことに少し罪悪感を覚え、大きくため息をつく。
その時、店の扉が開く音がした。
コンビニに入ると電子音がなり、店員に来客を知らせる。今まで気にした事も無かったが、ファミレスも同様の機能を持っているらしい。現に今、扉が開く音そして閉じる音と共に、「ピンポン ピンポン …」という間抜けな音が店内に響いている。
本来この音を聞くべき店員がいないのだからこの音には何の意味もなくそういう意味でも間抜けという表現はぴったりだ、とサユキは思う。そう思いつつ、混乱していた。誰かが入ってきた。誰が?どうやって?さっきまでは押しても引いても扉は開かなかったし店の外は真っ暗で誰もいなかったのに?
混乱と恐怖した頭で間抜けなチャイムの事を考えながら、目は入り口から離せない。
間抜けなチャイムの余韻の中、やがて倒れたカズタカ越しに一人の女の人が現れた。
背中にまで届く、長く漆黒の髪。以前友達が「黒のロングストレートってイメージが重いよね」と言っていたが、目の前の人はそういった印象を全く与えていない。
ほとんど完璧といっていいほど整った顔立ち。人間離れしたその顔は、綺麗というより先に精密という単語を思い起こさせる。それでも仮面のように見えないのは、右目の下の小さいホクロのせいだろう。
服装は和服だった。といっても時代劇で見るような古きよき和服ではなく、また成人式で見るような派手で実用性を伴わない飾りでもない。和服ベースの洋服、とでも言えばいいのだろうか。創作和食ならぬ創作和服とでも言うべき奇妙な服を全く問題なく着こなしている。緑色をベースに濃淡を使い分けていて、強いて言えば竹林を連想させる服だった。
だが、その人物で最も目を引いたのは「光」だった。漫画でしか見た事がない『後光』というものをもっていた。まるで彼女の後ろにライトがあるような、それでいて彼女自身がかげる事のない不思議な光。
さらによく見ると、靴やサンダルははいておらず裸足で、歩くときに足を動かしているが床に足が着いてない。床からうっすらと浮いており、当然足音はない。長い髪の毛だって時々ふわふわと浮き上がっている。
ぱっと見て、分かった。アレは人じゃない。人の形をしたナニかだ。
この状況でそんな奇奇怪怪なモノが登場するの?それは反則じゃない?など思いつつもサユキが取り乱さなかったのは、すでに色々なことが起きて精神のキャパシティが少なくなっていたからだ。今更妖怪だか宇宙人だか知らないが、人外のものが出てきても「それもありかな」なんて受け入れてしまう。
その人外の者はレジの前まで来て、クルっとサユキのほうを振り向いた。限りなく仮面に近い顔が、普通の人なら目をそらしてしまうような眼力でサユキを見据える。睨んでいると言ったほうが近い。
見られた瞬間、サユキの心のキャパシティが限界を超えた。一時的なショック症状に陥るが、それはむしろ幸いした。もし、まともな心で人外の彼女と目を合わせれば、飲まれてしまうだろう。ほくろの位置すら綺麗だ、などと全く関係の無い事を思う。
そうしてどのくらい見詰め合っていたのかわからない。やがて人外の彼女はふっと眼力を緩めて微笑みながら
「よかったのう」
と言った。その声はやはり若い女性の声で、聞く者の心を掴む響きを持っている。
何が良かったのか、よくわからない。まさかこの状況のことを言っているのか?と思い聞き返そうとすると、
「いや、お主の事じゃ。今、この者の耳に湯を注ごうとしておったろ?」
この者、といってカズタカを指差す。自分のやろうとしていた事を考えさせられ、その酷さに愕然とする。
そして気がついた。なぜ自分のやろうとしていた事―寝耳にお湯を知っているのだろう?
「冷水を注いだ後、思い詰めた顔で湯とこの者を交互に見ているのを見れば、誰でもわかる。わらわはそれを外から見ておってな」
確かにこの暗がりの中外から店内はさぞかし目立つ。しかも店内にはサユキとカズタカしかいなかったのだ。店に目を向ければ自然、彼女の姿に目を留める。
「本当に湯を入れられてはかなわんと思うて、こうして出てきたのじゃ。もし、お主が本当に湯を注ごうものなら、永遠にこの空間に閉じ込める心算だったのだがのう」
そう言いながら、心底残念そうにサユキをねめつける。それは、捕食者が獲物の命乞いを楽しむような、そんな顔だった。
普段のサユキなら、いや、普通の人ならば、そんな顔をされれば心が折れる。今まで意識的だろうが無意識だろうが、自分は生物の頂点に立っていると信じきって、全生命体の中でも最高最強の生命体だと思い込んでいる人間に、更に上位の存在を思い出させる。普段から他の生物と食うか食われるかの戦いを演じている人間ならまだしも、普通の人では彼女の視線をまともに受けられるはずもない。それでもサユキが視線を受けていられるのは、彼女の心がキャパシティを超えているからだ。なんだか嫌な目つきをするなぁ、と思いながら初めてサユキから口を開く。
「あなた、誰です?」
服装や口調はとても現代人とは思えないし、その存在感はとても人とは思えない。それでも、『あなた、何?』とは聞かなかった。もし人だとしたら、その聞き方は失礼に当たると思ったからだ。
「わらわは…そうだのう。トキジクとでも名乗ろうか」
「…トキジク、さんですか。職業は何を?」
「神を、やっておる」
「……」
カズタカに言われた「俺は時間を繰り返している」発言並みに常軌を逸した回答だが、サユキはそれほど驚かなかった。トキジクの持っている雰囲気があまりに人間離れしているためだ。逆にそのなりで人間です、といわれても信じられない。
「それで、神様がどうしてここに?」
「言ったであろう、外から見ておったらお主が面白そうな事をやろうとしていたのでな。こうして現れたというわけじゃ」
それはさっきも聞いた。もし耳にお湯を入れていたら
「…永遠に、ここに閉じ込めてられていた?」
「その通りじゃ。よかったのう、思いとどまって。あの時危なかったのは、実はお主のほうだったのだから」
そんなトキジクのいう事など、もう聞いていない。
「つまり、あなたはこの空間を自在に操れる?」
「その通り。わらわにとって、この程度は雑作もない」
「じゃあ、ここに私たちを閉じ込めたのは…」
「なんじゃ、今更気付いたのか?その通り、ここにカズタカをつれてきたのは、このわらわじゃ。こやつが今日という日を越えられず、また土曜日に戻るためにここはある。
ほほ、なんとも贅沢よのう。人のみでありながら、たとえ限られたとはいえ時間と空間を与えられておる。金でも権力でも手にする事の出来ない、究極の贅沢じゃとはおもわぬか?」
「…じゃあ、カズタカが三日間を繰り返すようになったのも」
「わらわがそうした」
「カズタカが未来から過去へ進んでいるのも!」
「わらわがそうしたからじゃ」
「どうして!?」
「簡単な事。カズタカがそう望んだからじゃ」
「カズタカが、望んだから?」
予想もしなかった答えに思考が停止する。
カズタカはあんなに苦しんでいた。普通の生活に戻る事を、心から望んでいた。だが、それを本人が望んでいたとはどういうことなのか。
「そんなはずはない。彼はもとの生活に戻りたがっていた」
「そう、今カズタカはもとの生活に戻りたいと願っておる。心の底からそう願っておるのを、わらわも知っておる。だがのう、お主は知っておるか?こやつがこの螺旋に墜ちる前の生活を?」
トキジクにそういわれ、サユキははっとなる。
確かに、カズタカがこうなる前の生活というのを、彼女は知らない。それとなく聞いた事はあったが、いつもはぐらかされてきた。
だからこそ、彼女はカズタカが強盗の一味だったと思い込んでしまったのだが。
「その顔を見ると、知らぬのだな。まあよい。ここにいるという事は、お主にも知る権利くらいはある」
そうしてトキジクはカズタカの隣にいすを持ってきて座る。もちろん、持って来るというのは右手をかざして離れているいすを手元に引き寄せる、神様にだけ許された方法だった。大体、浮いているのに座る意味はあるのだろうか。
「そうは言ってもな、別にたいした事はないのじゃ。こやつ、元来は平凡なサラリーマンでの。特別優秀でも、特別出来が悪かったでもない。普通だったのじゃ。
切っ掛けが何だったのかは、わらわにもわからん。思うに、そんな物は無かったし要らなかったのだろうな。カズタカは徐々に力を失っていったのじゃ」
「力?体力が落ちて病気をしたという事ですか?」
「いいや、お主ら人間が言う力とはつまり体力のことであろう?わらわがいう力とは、生きる意志じゃ」
「生きる、意志?」
「そう。まぁ今の時代の民どもはそろって力が足りぬのだが。それでも、カズタカは目に見えて弱っていきよった。わらわにはそれが良く分かった。
時にお主、一番力が弱くなる時を知っておるか?」
力、つまり生きる意志が一番弱くなる時期?
「病気をした時?」
「たわけ、それは当然じゃ。この国が全体的に、弱くなる時というものがあるのじゃ」
この国全体の生きる力が弱くなる時。それだけ聞くと、とんでもない時間のように思えるが、そんなものが本当にあるのだろうか。
「……風邪が大流行した時?」
「…………」
とんでもなく冷たい、本当に見下した視線―見下したような視線ではない―で睨んでくるトキジク。サユキはそんな表情も綺麗な人だと思う。尤も、トキジクは人ではないのだが。
肝心の問題の答えはまるでわからない。生きる力、前向きな力、やる気、前進する力、それが弱くなる。ネガティブで、やる気が無くなる。全てがどうでもよくなってしまう、そんな時間。
自分はどうだろう。自分が、『弱くなる』時間。
テスト前。課題の提出期限が迫っているとき。友達とケンカしたとき。だが、これは個人的な悩みだ。全国レベルで同じ悩みを共有しないといけない。
「あ」
思わず声を上げる。
「まさか……でも、だからカズタカは。それでこの螺旋に…」
思いついた一つの答え。あまりにも馬鹿馬鹿しいが、もしそれが理由ならば彼がこの三日間を繰り返す理由にもなる。
「ほう、どうやら分かったようじゃの」
「全国で力が弱まる時間。それは、日曜日の夜でしょ?」
トキジクは、満足そうにうなずいた。
「そう、その通り。あと数時間で始まる一週間を考えて、ほとんどの人が憂鬱となる時間。それはその日までの休日が楽しければ楽しいほど、強い負の力となる。
お主も一度は考えた事があろう?『明日なんか、来なければいい。ずっと休日だけで過ごしたい』とな」
「……それで、カズタカは」
「月曜に何があるのか、それは知らん。だが、こやつはそれを恐れてな。心底月曜など来なければいいと望んだのじゃ。
わらわはその願いを叶えてやっただけ。本来ならば一人の我侭を叶える事はご法度なのだがな、なにこやつは特別じゃ」
呵呵と笑うその笑顔は、トキジクに良く似合っている。
サユキは確信した。トキジクは人をいじめて喜ぶタイプだ。
「だが、いずれもとの生活に戻りたくなる事は分かっておった。それゆえ、この宝珠を鍵として置いておいたのじゃが。ここまで来る事が出来たという事は、少しは成長したようだの…」
テーブルの上に置いてあった宝珠に手を伸ばす。宝珠はひとりでに浮き上がり、彼女の手の中に納まった。あまつさえ、淡く光りだす。
「此処に至るにはこやつ一人の力では無理となるよう、わざわざ逆行までさせたのだから成長するのは当然じゃが。あえてお主を選んだという事はどうなのだろうの。まさかわらわの存在に気がつくような事はないと思うのじゃが…」
トキジクのそんな独り言を聞いて気がついた。月曜が来なくていいと願っただけなら逆行させる必要は無いはずだ。
「どうしてわざわざ逆行させたんです?それも彼が望んだ事ですか?」
「いや、そこまで望んではおらぬ。逆行させたのはわらわの意思じゃ」
「どうして?カズタカを逆行させると、あなたが何か得をするの?」
それを聞いてトキジクはフフフと笑う。さっきの笑いとは違い、さもおかしそうだった。どうやら普通の笑い方もできるらしい。ついでに、普通に笑うとものすごく美人だ。
「人間よ、損得ではないぞ。わらわは、こやつにもう少し強くなってほしかったのじゃ。申したはず、カズタカは弱っておった。こやつは生きる事に不器用での、月曜を先延ばしした程度じゃ、後悔はしても強くはならん。
分かるかのう、逆行させるとどうなると思う?」
二度目の問いかけ。といっても、分かるわけがない。カズタカの様子を思い出す。逆行していると言ったとき、彼はどんな様子だっただろう。
「…すごい、困る」
冷たい視線もこれで二度目。だが、分からないものはわからない。
「よいか、逆向螺旋より抜き出るためにはこの宝珠が必要じゃ。宝珠はモールで展示しておるが、金曜の夜には火がでるゆえに手を出せるのは金曜中。そして宝珠を持っておらねばならんのは、日曜の夜という事になる。すると、どうなる?」
話が複雑で、よく分からない。ただ話を複雑にするために逆行させたという単純な理由じゃないだろうな?ともおもうのだが、トキジクの顔は真面目そのものだ。サユキも必死に頭をひねる。もし自分が同じ状況なら…
「ええっと、まず日曜から繰り返しが始まって。日曜、土曜は何もできないから、金曜日にようやく宝珠を手に入れて…」
そして気がついた。金曜が終わると、今度は日曜になってしまう。
「金曜に宝珠を手に入れても、それを持って日曜へはいけない」
「そう、こやつだけ時の流れが違うのでな。後から手に入れたものを持って逆行は出来ぬのじゃ」
「それじゃ、どうすれば」
日曜に宝珠を持っていけるのか、と聞きそうになって気がついた。自分の役割を。なぜ今ここに自分がいるのか、どうしている羽目になったのか。
「誰かに頼めばいいんだ、そうすれば日曜日に宝珠を持っていってもらえる」
「その通り。自分ではない他の正常な時の中を生きる者に手を貸してもらい、宝珠を日曜まで持っていってもらう。そうすれば、カズタカは晴れてこの逆螺旋より抜け出せるというわけじゃ」
「それじゃあ逆行させた理由は、まさか誰かに手を貸してもらうためだっていうの?」
「そう、『誰かに手を貸してもらうため』、詳しく言えば、誰かに助けを求めさせるためじゃ。
こやつは、いい奴でのう。人の頼みは断れん、そして自分の事は人に頼めない性質での。そうやっていつも、やらなくてもいい事を抱え込んで。それでも、本人は周りの人のためと、それを受け入れておった。
じゃが、こやつは抱え込むことは出来てもそれを処理するだけの力が無くてな。限界まで溜め込んで、どうしようもなくなって回りに迷惑をかけるという事を数回繰り返しての」
話が抽象的になり、サユキの理解が追いつかなくなる。顔をみてそれを悟ったのだろう、トキジクは
「そうじゃのう、例えるのなら肉と野菜を買うお使いに出かけたのに時間がなくて野菜は買えなかった、ようなものじゃ。これは簡単なたとえじゃぞ?実際は、肉と野菜と調味料を買うついでにクリーニング屋と文房具屋へハシゴして子供を保育園から引き取ってくるくらいの事を頼まれておった」
それが分かりやすいたとえかどうかは別として、言いたいことは分かった。自分に出来ない事まで引き受けてしまったということだろう。
「だがそんな事を言われても、人の身に出来る事などたかが知れておる。そして、カズタカはそれが出来ずに悩みよった。どうすればよいかなど、すぐに分かりそうなものだが、もしかしたら分かっていて悩んでおったのかも知れぬ。そこはいくらわらわが神とて、推し量るしか在るまいがのう」
未だピクリとも動かないカズタカを見る。
はじめて会った時に感じた何か。ここまで彼の頼みを断らなかった理由。
ここに来て、サユキはそれに感づき始めた。
カズタカと自分は、よく似ているのだ。
人の頼みごとを断れない。自分の事は自分で、人の事も自分がやる。
だが、その先。やり切れずに回りに迷惑をかけるというのはサユキには経験がない。彼女は全てのことをうまくこなしてきた。
「カズタカは人の事も自分の事も、全て引き受けて。それが最後に出来なくて困るっていうの?周りに迷惑をかけるってどういう事?」
「どういう事もなにも、そのままじゃ。先のたとえで言うとな、肉は買ったが野菜は買えぬ。すると野菜を欲した者は納得せぬだろう。必要だから頼んだのに、ありませんはいそうですか、とはいかぬ。引き受けるとはそういう事じゃ。出来ぬなら最初から引き受けぬ方がよい。頼む側、頼まれる側双方のためにな。
特にこやつの場合は仕事でそれが顕著での。仕事などは突き詰めれば人と人の繋がりじゃ。そこでこやつのような失敗は、繋がりを絶ち流れを止める。周りの人間も、そのような見方をするようになる。あぁ、こいつは流れを止める奴、仕事が出来ない奴だ、とな。
与えられる仕事を満足にこなせない自分への不満と怒り、周りの者からの好奇と敵意。
そういった物がこやつの生きる力を奪いよった。普通では考えられぬほど、強く強く月曜を、いや、未来を拒絶したのじゃ。先の見えぬ未来などいらぬ、とな」
サユキは言葉がでない。どれほどの思いをすれば、そこまで絶望できるのか。そして昨日の出来事を思い出す。電車に飛び込もうとした彼女も、未来を拒絶していた。カズタカとアカリも似た者同士だったのだ。
未来がいらない、明日などこなくていい。学校が面倒で、月曜の朝が憂鬱という経験はサユキにもある。だが、カズタカのそれはそんなものではない。頑張って人の為になろうとして、それでも出来なかった彼の気持ち。そしてそれを迷惑だと切り捨てるトキジク。その物言いにサユキは納得できなかった。
「人の苦労が放っておけず、手を貸すのは悪い事ですか!?」
「自分の世話も出来ぬのに人に手を貸すなどおこがましい。そんなもの、手伝われたほうだって困る。挙句に手伝いすら満足に行かぬようではもはや話にならぬ」
「誰かのために頑張った彼に、そんな言い方はないでしょ!そんな、助けようとした人から恨まれたんじゃ、彼の誰かを助けたいって気持ちが報われないじゃない」
「ぬかせ小娘。よいか、誰かを助けるというのは強者の権利じゃ。自分の身すら守れぬ弱者が誰かを助けようとする事は、罪になる。なぜか、それは他人にとって迷惑以外の何者でもないからじゃ。それをカズタカは証明しただけ。そして一人で悩むというのだから、なんとも贅沢な話よ」
「でも、それじゃあカズタカはどうすればよかったっていうの?」
「簡単な事じゃ、頼まれても断るか、自分に出来ぬとわかった時点で周りに打ち明けるか。どちらかじゃな。こやつはそれが出来ぬ奴でのう。断る事が出来ぬのなら、せめて助けを求めるようにはなってもらわぬと、絶対に自分ひとりの力では解決できない問題を与えたるために、逆行させたというわけじゃ。嫌でも他人の力を借りるようにするためにな」
こうしてカズタカは、トキジクの望んだように宝珠を手に入れサユキという協力者を得てここにいる。
「じゃあ、これでカズタカは許されるのね?もう普通の生活に戻れるんでしょ?」
「そうじゃのう、お主もこやつが何故このような事態を望んだのか理解できたようじゃし…」
その言葉に
「理解、出来ないですけど」
まるで今までの怒りや焦りはテレビの中の出来事で、そのスイッチを切ったかのように気持ちが落ち着くのを感じる。
「出来ぬか?ふむ、お主とこやつ、同じ人種だと読んだのじゃが間違いじゃったかのう?まぁよい。瑣末事じゃ」
「いえ、彼と私が同じ人種だっていうのは、多分その通りだとおもいます。私も結構頼まれたら断れない性格ですし。でも、私はカズタカのようにはなりません。私は自分の力量を心得ています。自分に出来ない仕事は請けません」
自分の力を正確に把握し、過大評価も過小評価もしない。敵を知り己を知れば百戦して危なからず、とは有名な言葉だがまず敵を知る前に己を知らねばならない。
「私は私の事をよくわかっています。これまでも自分の力量を見誤った事はないですし、これから先もないでしょう。明日が来なくていいなんて思わないですし、未来は拒絶せず受け入れます。だから私には、カズタカの気持ちは分かりません」
はっきりとそう言い切った彼女を、トキジクはじっと見つめる。
それは威圧するでも蔑むでもなく、純粋に対象を観察する眼。その眼に見つめられるのならば、まだ脅しや怒りの方がいい。純粋に観察されるという事は、生き物というよりは固体、人間というよりは観察対象として見られているという事で、そこにはなんの感情もない。実験用ラットを解剖するのに躊躇する研究者がいないのと同じだ。
それでも、その眼を正面から見つめ返す。目をそらしてはいけないと、分かる。
そして先に眼をはずしたのはトキジクのほうだった。
「ふん、時にはお主の様な者がおるから面白い。カズタカの奴、なかなかにして人を見る眼があるのかもしれぬな」
微笑みながらそんな事を言う。
「おぬし、齢は?」
「十七歳ですが、それが何か?」
「ふ、そう憤るな。今の世では十七では職に就けぬのだったな。いや、奉公くらいならできるのか?まぁよい。数年後、おぬしが職に就いた後にも同じ事が、同じ言が言えるのか楽しみにしておるぞ」
トキジクがそういい終わる前に、世界が揺らぎ始める。
真っ暗な外と店内を隔てているガラスが、何も移さない液晶テレビをかけている壁が、カズタカが寝ているテーブルが。視界の全てが揺らぎ始める。
そして、強烈な、凶暴な眠気が襲ってきている事が分かった。同時に、この空間から吐き出される事が感じられる。次目が覚めたときは、普通の時間に戻っているだろう。トキジクとの会話も、もう終わる。
その前に言っておきたい事があった。必死に眠気に逆らいながら口を動かす。
「ええ、私は変わらない。就職したって、何も変わらないわ。もう会わないでしょうから、そっちの世界から私の事をよく見ておきなさい」
最後はほとんど呂律が回らなかった。だがそのうなり声のようなサユキの言葉をトキジクは理解したようだ。
言い終って睡魔に負ける瞬間。サユキの耳にはトキジクの声が聞こえる。意味として理解できるだけの理性はなく、記憶にとどめておくだけの意識もない。だから音として捕らえた言葉は、しかし彼女の胸に一握の予感を抱かせる物だった。
「ほほ、案ずるな。いずれ、そう遠くない未来に合間見えようぞ…」