6. 土曜日・助ける意味
アカリが口を閉ざしたあと、サユキは何も言えなかった。
彼女の口から語られた醜いいじめの実態。その話を聴いただけで気分が悪くなり、名も知らぬ彼女のクラスメイトに怒りを感じる。
しゃべって落ち着いたからだろうか。アカリから怒りの気配は消えて、その瞳は再び深く沈んだ色となる。
「分かりましたか。これが私が受けたこと。昨日までの私の日常です」
そういってアカリは髪に手をやる。ショートヘアーだと思ったそれは、長さもバランスも歪だった。
「それじゃあ、その髪は…」
「自分で切りました。まさかボンドをくっつけたまま外は歩けませんから」
そういって笑う。血の涙を流しているかのような笑い顔だった。
「でも、やっぱり髪の毛を切ったら言い訳できないじゃないですか。だから昨日は家に帰っていないんです。お母さんには友達の家に泊まるって言いました。でも、今日も外泊というわけにはいきません。そして、家に帰れば家族にばれてしまいます。だから、もう…。今日が、限界なんです」
―だから、死なせてください。
最後にそう言って、口を閉ざす。準備してもらったお茶は、もうすっかり冷めてしまった。
十七年生きただけで死を望んだアカリに、そんな彼女とは別世界を生きてきたサユキの言葉は届かないだろう。
それでも、
「…私と同い年のあなたがそこまで強く死を望むのだから、私の言葉じゃ説得力がないかもしれない」
それでも、サユキは語りだす。ここで黙っていたらアカリは死んでしまう。それだけはダメだ。絶対にダメだ。
「確かに私はいじめられた事はない。いじめた事も、ない。あなたには信じられないかもしれないけれど、私のいたクラスではいじめが無かった。いえ、絶対にさせなかった」
本人が死を望んでいるのに助けるのはエゴだ、と非難されたとしても、絶対に止める。
生きていれば、必ずいい事がある。ふと、あの時死ななくてよかったと思えるときが来る。
「いじめがどんなに卑怯で卑劣なことか、私は上辺だけしか知らないのかもしれない。あなたに言わせれば、そんな程度で自分に干渉するなと言われるかもしれない。
けれど、それでも言わせてもらう、絶対に、死んじゃダメって。まだ出来ることがあるうちに、希望が残っているうちに、諦めて死んでしまうなんて絶対にダメ」
アカリがそんな一瞬を迎えられるのなら。例え恨まれたとしても、絶対にここで彼女を食い止める!
「…いじめられてもいないのに、知ったような口を利かないでください。あなたは本当に死にたくなるような、いえ、そんな気も起きなくなるくらい絶望したことがないでしょう。それならば好き勝手言えますよ」
不ぞろいな髪の間からサユキを睨みつけるその目は、嫉妬や妬みに満ちている。
「学校にいって、毎日友達と楽しく話して。嫌いな授業や嫌いな教師の事ですら友達と笑いあって、放課後には部活をやる。そんな生活しか送ってきていないあなたみたいな人に、私の気持ちが分かるはずがない!」
アカリにとってサユキの生活、普通の生活は憧れなのだろう。そんな普通に憧れを抱いてしまうほど彼女は追い詰められている。そんな憎しみと狂気に満ちた視線に射抜かれても、もうサユキは動じなかった。
「そうね、私はいじめをうけた事もした事もさせた事もない。だからあなたがどういう苦しみを味わっているのか、想像することは出来ても実感することはできない。きっと私が想像する以上の、苦しみだと思う」
「だと思う、じゃないんです!私はもう、それを四月から受けている!毎日毎日!それを簡単に想像できるなんて言わないで!あなたが私と同じ立場になったら絶対に、私と同じように…終わりを選ぶ」
アカリの計画では、今頃は全てが終わっていたはずだ。死を選び実行するというのは大変なことだ。アカリは文字通り死ぬ気で気力を搾り出し、電車へと一歩を踏み出そうとして、それを見知らぬ他人に邪魔をされた。だから怒るのは当然で、今のアカリはサユキの事を救い主ではなく地獄に引きとどめる悪魔だと思っている。アカリのサユキに対する言動は、むしろ自然な事だった。
そんな恨みと妬みの嵐に対して
「私と、同じですって?」
サユキは心の底から同情し
「馬鹿にしないで。私は自殺なんてしない」
それ故、一歩も引かずに立ち向かう。
そのあまりにも直接的な一言に、アカリは言葉を失う。
「私と同じ、ですって?」
サユキはもう一度繰り返す。
「例え私があなたと同じようにいじめられたとしても、私は今のあなたと同じ方法は選ばない。これだけは断言できる」
「そんな事は、ない。実際に経験しないと、この辛さは分からないです」
先ほどまでの荒々しい口調はなくなったが、声の裏にある本質は変わっていない。空っぽの声、まるで暗黒の宇宙空間のように冷たく、物質など何もないような、大切なものが抜け落ちた声。そんなアカリに対して、
「いいえ、だってあなたにはまだやるべき事がある。私にはそれが分かるし、だからあなたと同じにはならない」
サユキは堂々と、アカリに残されている道があると宣言する。
反論しようとしたアカリの口調が止まる。それはサユキの言葉が予想外だったからか。
―それとも、アカリ自身どこかでそのことに気が付いていたからか。
アカリの沈黙は今までのものと違い、何か自分の中で答えを探そうとするものだった。
「私が、するべきこと?そんなことが今もあるっていうんですか…?」
「あなたは家族を心配させないために、いじめられていることを隠していた。それはとてもすごい事で、家族を大切に思うことはえらいと思う。
でも、私ならそうはしない。本当に、自殺をするほど追い詰められたら―自殺する前に、家族に相談する」
それはアカリがしている事と正反対。
「もしあなたが自殺したら、それを知った家族はどう思う?きっとこう思うわ、
―どうして、自分達に相談してくれなかったのか、自分達はアカリに信用されていなかったんだ、ってね。
家族に黙って死を選ぶ、それは、大切だって言ってた家族を結局信用していなかったということでしょ?」
家族に対し、隠すのではなく、告白する。
「本当に大切で信頼できる家族なら、全てを打ち明けて相談するべきなのよ。
そして、それは家族だけじゃない。学校だってそう。担任に拒絶されたら違う教師に、クラスメイトに拒否されたら違う友達に、それでもダメなら教育委員会でもいじめ相談室でも!一人で抱え込んだって、絶対に解決しない!時間がいじめをなくならせる事はあるかもしれない、けれどあなたが受けた傷は、そのままになってしまう。それは解消であって解決じゃない!」
一人で悩む事は解決にならない。
問題が一人で解決できなければ、信頼できる仲間、友達、家族に打ち明けるべきだ。
問題につぶされたとき、迷惑を受けて悲しむのはそれを見ている周りの人なのだから。
「今日だって、カズタカさんが私に話したからあなたを助けられた。駅員さんに話したからこの部屋が使えて今あなたの話を聞くことができる。どれも、みんなに協力してもらったから。私やカズタカさん一人の力では、ここまでできなかった」
今この場にいられる事がみんなに協力を頼んだ結果。誰一人かけても、この結果は得られなかっただろう。
「あなたは辛い仕打ちのせいで人が信用できなくなっている。だからこそ、せめて無条件で信用している家族には全てを話してあげて」
それは今のアカリからは最も遠い選択。そして、本当は最初にするべき事。
暫くアカリは何かを考えているようだった。
「今更、何を言えばいいのかわからない…」
それは、初めて聞くアカリの弱くて繊細な、だけれどちゃんと彼女の色の付いた声だった。
「大丈夫、私達に言ったじゃない。あの通り話せば大丈夫よ。」
もし言葉にならなければ、大声で泣けばいい。あなたが大切だと思っている人はきっと、あなたを大切だと思ってくれている。そしてその人は、あなたを助けてくれるから。
アカリはうつむいて黙っている。だがそれは今までの沈黙とは違い、何かを考えているようだった。死に向かう覚悟の沈黙ではなく、新たに示された道、家族に全てを話すという道について、悩んでいるようだった。
自分の言えることは言った。そしてアカリにはそれが届いている。この後アカリ自信がどういう選択をするのか、それは分からない。
サユキにできる事は、待つ事だけ―
「そうだ、携帯を出して」
一つ思いついたことがあった。思いついたと同時に、口が動いていた。
アカリは辛そうな顔をしながら、まるで万引きした商品を差し出すようにして携帯を出す。それは白の折りたたみ式で、全体に丸みを帯びたデザインになっている。
アカリの表情は、暗く硬い。目の前の携帯がとても恐ろしい物だとでも言うような、怯えとも取れる顔をしていた。それもそうだろう、彼女が受けてきた仕打ちの中には、この機械がかかわっていたものも少なくないはずだ。ここから吐き出される言葉が、これが受け取る文章がどれだけ彼女の心を傷つけたのか、それはいまのアカリの顔をみれば十分想像できた。
「いい、090…」
それ以上アカリの顔を見るのが辛くて、これ以上アカリにそんな顔をさせるのが嫌で、サユキは十一桁の番号を明るい口調で言う。そうして最後に
「それ私の番号だからね、ちゃんと登録してよ」
と付け加えた。アカリは驚いて呆然としている。今の彼女にとって携帯は自分を傷つける窓口でしかなかったからだ。
「ほら、ボーっとしてないで!」
サユキの弾むような、せかすような声でアカリは現実に戻る。目の前のサユキは、何かを待っているように携帯を持っている。
「早くかけてよ、そうしないと、アカリの番号わからないでしょ!」
それは、信頼関係の第一歩。お互いが、いつでも連絡が取れるという事。
辛いとき、嬉しいとき、悲しいとき。この小さな機械で、誰かと繋がる事が出来る。その鍵が、十一桁の数字だった。
今教えられた番号を表示させ、通話ボタンを押す。数秒のタイムラグの後、サユキの手の中で電話が振動する。
それを確認して、アカリは通話を切ろうかと思った。番号を教えるだけならば、ワンコールで十分だからだ。
だがサユキは、振動している携帯を開いて耳に当てる。その目は『あなたも耳に当ててみて』そう語りかけていた。アカリはただ言われたとおり、携帯を耳に当てる。サユキが通話ボタンを押して、二つの機械が繋がった。
「もしもし、アカリ?」
目の前と、受話器から同時に聞こえてくる声。
なにも答えられず、ただ受話器を持っているだけのアカリにかまわずサユキは
「これで私とあなたは他人じゃない。あなたが死んで悲しむ人が一人だけ増えたって事、わすれないでね」
嬉しそうに、少し恥ずかしそうに言って、電話を切る。
この数ヶ月、携帯から聞こえてくるのは、実に覚えの無い抽象や罵声、根も葉もない噂。それはアカリの心を切り裂くナイフで、だから携帯が怖かった。携帯の着信音を聞くとビクッとする、そんな癖までついた。自分からかける相手もいなくなった、そんな携帯電話が、再び輝きだす。
アカリは受話器を握り締めたまま、涙が止まらなかった。
サユキとアカリの話が終わってから、駅長と若い駅員を含めた話し合いが行われた。
アカリはまず電車に飛び込もうとした事を駅長に詫びた。駅としても大事にはならなかったため、アカリにはお咎めがないということだった。
そして成り行きの一部始終―もちろんカズタカが未来から来たという話はせず、サユキとアカリが親友だという設定にしたが―を話して聞かせた。
駅長と駅員はアカリを救ったサユキの行動にしきりに感心し、またアカリのいじめについてはショックを受けていた。
サユキと話したことでアカリは変わった。
「私、家族に相談してみます。もう、自殺を考えたりしません」
そう言ってくれた。
駅長は同じくらいの歳の子供がいるそうで余計にアカリに感情移入したのかもしれない。話し合い終わり駅員室を出るときに、いつでも遊びにきなさい、とまで言ってくれた。
「本当、一人で抱え込むとダメですね。知らない間に自分を追い詰めちゃって。サユキさんが声をかけてくれたから、私は今度からこの駅の駅長室に遊びにいけることになりました」
三人で一番線のホームで電車を待っている時にアカリは嬉しそうに言った。時間はもう午後七時になろうとしている。電車はしばらく来ないようだ。二時間前より女子高生の割合は減ったが、乗客は増えている。
アカリはサユキと、その向こうに立っているカズタカを見て言う。
「アカリさんはカズタカさんから私の事を聞いたんですよね。でも、カズタカさんとどこかでお会いしましたっけ?」
結局、駅員室ではカズタカは一言も話すことなく、厳しい顔をしてサユキとアカリの話を聞いているだけだった。
「……最初に言ったはずだ、俺は未来から過去に来ている。信じる、信じないはお前の勝手だ」
あまりにも無愛想な答え。カズタカは決して性格がいいわけではないが、アカリに対する態度はすこし酷いようにも思えた。
アカリは「そうですか…」と答えたが、目でサユキに解説を求めている。
が、説明して欲しいのはサユキだって同じだ。今でもまだ未来から来たなんて信じられない。
だが、アカリが実際に電車に飛び込もうとしたのだから、本当にカズタカは未来から来たことになる。そうじゃなければ、アカリと裏で組んでいるか。
だがアカリには嘘をついている様子は無いし、あのタイミングは止めなければ本当に死んでいる。裏で手を組むとしても、命まではかけられないだろう。
だが、そうすると本当にカズタカは未来から―?
しばらく自問したが答えは出ない。仕方なく
「そうみたい、実際に私はあなたの事をカズタカさんから聞いたから…」
言っているサユキ自身、半信半疑なのだ。聞いているアカリが信じられるはずがない。
それでも一応納得してくれたようだ。
「分かりました。…もしも私が何か手伝えるようなことがあれば、教えてください」
ホームに風が吹き始め、今日一日で何度も聞いたチャイムの後にホームに電車が来る事を告げるアナウンスが流れる。数時間前はアカリの命を運び去ろうとしていたその乗り物は今、彼女を新たな日常へと連れて行く。暗いトンネルの向こうから、ライトが見えてきた。
時間に正確にホームに滑り込む電車、それを見る彼女の目に、数時間前の昏さは無い。
自分の死に救いは求めない。家族を、信じる。
風が吹き荒れるが、彼女はふらつく事なくしっかり立っている。風に髪が巻き上げられても毅然と立つその後姿は、逆風に胸を張って立ち向かう戦士を思わせた。
アカリの目の前で扉が開く。
「…まだ言ってなかったですね」
電車に乗り込み、アカリは振り返る。
「助けてくれて…。本当に、ありがとう」
その目には涙。自分が生きることを認めてもらえた、自分がどうすればいいのか分かった、そして、できた新しい友達。
次々と溢れる涙をぬぐおうともしないアカリと、それをホームから見るサユキとカズタカ。そんな彼らを、扉が隔てる。
動き出した電車を、二人は黙って見送った。
ホームのベンチに並んで座る。あたりは少し混んできたようだ。
「とにかく、助けられてよかったです」
「…………」
カズタカは答えない。
とにかく今日のカズタカはおかしかった。昨日はどこか投げやりで無愛想だったが、今日は純粋に無愛想だ。
サユキの言葉に何も答えず、目を閉じて何かを考え込んでいる。
「これも、カズタカさんが教えてくれたおかげです。ありがとうございました」
それでもカズタカは何も答えない。
一体どうしたのだろう。焼肉屋に入っていたときにはこんな事無かったのだが。
ここまで露骨に無視をするという事は、今は話をしたくないという事。そんな人を無理に会話に誘うような奇特な趣味をサユキは持ち合わせていない。
しばらくは黙っていようと決めたとき、
「今日アカリを助けたことに、意味はあるのか?」
ポツリとカズタカがつぶやいた。驚いて振り向くが、相変わらず無表情で眼を閉じている。何かの聞き間違いか?と思ったとき
「繰り返しの螺旋から抜け出すために色々なことを試してきた。一時期、三日間の中で起きる何かを未然に防げば普通の生活に戻れるんじゃないか、そう考えた時期があった」
唐突に語りだされたそれは、彼の苦悩だった。
三日間を繰り返す意味。それは、その間に起こる問題を未然に防ぐためではないのか。
例えば、交通事故。例えば、強盗事件。例えば、―自殺。
「アカリの事を知ったのはそんなときだった。田辺駅で女子高生がいじめを苦に自殺、まさに俺が求めていた事件だ。だから、彼女の自殺を思いとどまらせれば俺は帰れると思った。そう信じた」
そうして、幾度目かの今日。カズタカは単身、アカリの自殺を食い止めることに成功する。
「いじめに苦しめられ、自信を喪失して自尊を消失して自己を見失っていたあいつに、お前は進むべき道を示す事で彼女を救った。それは、自己の修復だ。自分が誰で何をすればいいのか、それをお前は示したんだ。自覚していないようだから言っておくが、それはすごい事だ。高校生でそんな事をできるヤツを俺は始めて見た。
俺にはそんな事はできない。だがアカリを救わないと戻れない。俺は一言で彼女に自殺をやめさせた」
「…何を言ったんですか?」
今日の自分の説得を、カズタカはたった一言で済ませたというのだ。そんな言葉を使えるという事はカズタカのほうがすごいという事ではないだろうか。
「簡単な言葉だ。『君の事が好きだ』、分かるか?その日、俺はあいつに告白したんだ」
思わずカズタカを振り返る。
「どうしてそんなことを?だってあなたには彼女が…」
「だけど、それがアカリを救うには一番簡単な言葉だった。愛の告白、それは相手の全肯定だ。誰かに『好きだ』って言われれば嬉しいだろう。それがいじめにあっていて自分を日々否定されているような人なら、なおさらだ」
「でも、そのあとでカズタカさんに彼女がいるって分かったらアカリはすごいショックだと思います。それにカズタカさんの彼女に対しても裏切ることになるんじゃないですか?」
「そうだな、アカリの命を助けるために―いや、結局は自分のために、俺はアカリをだました。その自覚はある。そのときは、繰り返しの螺旋を抜け出すためなら何でもする気だった。
螺旋さえ抜ければ、その後アカリがどうなろうと知らない。本気で、そう考えていた」
「…………最低」
思わずつぶやいたその声は、サユキの想像以上に冷たい響きを含んでいた。
自分が助かるためにアカリに嘘の告白をする。それはいくらカズタカが特別な状況にいても、許される事ではないだろう。
「…だが結局ダメだった。アカリを救ったけれど、俺は戻れなかった。日曜から土曜へ戻った時は本当に絶望した…」
そこでカズタカは口をつぐむ。だが、その先に何か言いたい事がある、そんな話の終わらせ方だった。
サユキは沈黙で先を促す。カズタカも口を開かない。
先に根負けしたのはカズタカだった。
「そして…次の繰り返しで。あいつは、また自殺した」
感情がこもらないその一言から、感情がこもっていないから余計に、サユキはカズタカが苦しんでいると感じた。
「また、って言い方は変だな、その世界でのあいつにとっては、初めての自殺なんだから。
わかるか?助けて『もう自殺はしません』って言っていた相手が、やっぱり自殺してしまう。その次の繰り返しでは、もう一度アカリを説得した。頼む、もう二度と自殺はしないでくれって。あいつはうなずいてくれたよ、そして次の繰り返しで自殺した。
それを幾度か繰りかえしてようやく気が付いた。俺が自殺を止めても止めなくても、あいつは死んでしまう。救っても救わなくても同じ事。
つまり、俺にとっては、あいつを救う事に意味がない」
幾度も幾度も自殺を見て、幾度も幾度も自殺を止めてきた。それでも、新たな繰り返しでは必ずアカリは自殺する。助ける事と助けない事が同等で、等しく無意味だ。
焼肉屋を出てから機嫌が悪くなった理由がようやく分かった。カズタカにとって、今日の午後は無駄働きだったのだ。
けれどそれは違う。人を助ける事を、簡単に無駄なんて言えないはずだ。
「意味が無いなんて事は無いでしょう。あなたが助けたアカリは、その後ちゃんと生きているはずです。彼女の未来を否定することは、誰にも出来ません。
それに今日彼女を助けた事はあなたにとっては無意味でも。私にとってはとても意味があります」
「それは、人を助けたという満足感を手に入れるためかい?」
からかうような口調でカズタカから言われたその言葉で、さっきまでのアカリの姿がよみがえる。
死なせて欲しいと言ったアカリの顔、自分に向けられた恨みの目、そして携帯番号を教えたときに見せた涙。それが馬鹿にされたようで、考えるより先に口が動いた。
「同世代の子が死のうとしているのを止めるのが、そんなに気に入りませんか!?どうせ次死ぬのなら今助けなくてもいいと?人はいずれ死んでしまう、それが早いか遅いかの違いだけならそもそも、命を救う事に意味がなくなってしまうじゃないですか。
大体、助けた事の意味ってなんなんですか?助けられた人が将来有名にならなければ助けた意味が無いとでもいうんですか?」
口調が荒くなったサユキに、淡々とカズタカは答える。
「将来の事なんて関係ない。ただ、いくらあいつを助けても無駄だと分かっただけだ。次の繰り返しでは、必ずあいつは自殺する。止めても無駄だよ」
サユキは落ち着くために大きく息をはいて、必死に落ち着く。そうして
「じゃあどうして、今日は彼女が死のうとしている場所と時間を教えてくれたんですか?」
今日一日が無駄だと言う彼の矛盾を突いた。
「…………最近の繰り返しではずっとアカリの事は無視していた。だから、たまには止めてやってもいいかな、と思った。それだけだ」
そんな言い訳じみたカズタカの答えを、アカリは即座に否定する。
「いいえ、それは違います。あなたはアカリが飛び込む瞬間走っていました。本気で彼女を止めようとしていました」
アカリが飛び込もうとした場所は駅のホームの中央。
飛び込む瞬間、サユキからはアカリの向こう側にカズタカが見えた。必死の形相で走る彼は、全力でアカリを助けようとしていた。それは、たまには助けるというような投げやりな態度では絶対になかった。
「あそこで助けなかったら、駅まで行った労力が無駄になる。俺は無駄が嫌いなんだ」
今度こそ完全に言い訳となったカズタカの発言を無視して、サユキは先を続ける。
「今までの繰り返してきた中で、助けたアカリと助けられなかったアカリがいる。あなたは、助けたことに意味を見つけてしまうと、助けられなかった彼女に意味がなくなってしまうから、助ける事に意味が無い、なんていっているんじゃないですか?」
助けるも助けないも同じ。ならば、助けたアカリも助けなかったアカリも同じという事。
「…………」
カズタカは何も答えない。ただ黙って前を見つめる。
「気が付いたのは、助けても無駄ではなくて、助けられないという事じゃないんですか?自分ではどうしてもどうしても助けられないと、繰り返している間は助けられないと気がついたから。辛かったのは、助けたくても助けられないと知ったから…」
「知ったような口を利くな!」
怒りとほんの少し迷いを含んだカズタカの鋭い言葉がサユキの言葉をさえぎる。
気まずい沈黙が流れ、ホームのざわめきが大きく聞こえる。
やがて
「悪い、言い過ぎた」
駅の雑踏にまぎれながらもその言葉はちゃんとサユキに届いた。
カズタカが感情的になったのは初めてだ。そして、それで確信する。カズタカはできるなら全てのアカリを助けたいのだ。だがそれは出来ない。そんな、普通の人なら感じる事のない、感じられる事のない無力感にとらわれている。飛び込もうとしていたアカリに向かって走る彼の真摯な顔を思い出し、どこか投げやりな表情の裏に隠れているあの真剣な顔が彼の本来の姿ではないのか、と思う。
確かに彼が今回も螺旋を抜け出せなければ、彼にとって今日の出来事は意味がなくなってしまうだろう。だからサユキはこう言った。
「今回は私に宝珠を預けているじゃないですか。だから繰り返しの螺旋から抜けられるはずだって、昨日のあなたはそういっていました。今回は今までとは違う、抜け出せますよ。だから今日アカリを助けたのは正解です。
そして、もしもあなたがまた繰り返しの螺旋に落ちても。アカリは私が面倒みますから、大丈夫です」
ホームに電車が入ってくる。
磁石に引かれる砂鉄のように、扉の正面となる位置に人が並びだす。
ベンチから立ち上がり、さぁ行きましょうとカズタカを促す。遅れて立ち上がったカズタカの顔には苦笑い。それは焼肉屋を出て初めて浮かべる、やわらかい表情だった。
「俺が螺旋の繰り返しに落ちても大丈夫、か。そうならないために必死になっている人にそういう事を言うってのは無神経なんだか…」
扉が開き、人のざわめきと放送でホームが騒がしくなる中。
「でも、アカリの事はもう心配しないでいいんだな。あとは任せたよ」
本当に安心した声で言ったそのセリフを、サユキは確かに聞いた。