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時間短編  作者: 一文字
5/9

5. 土曜日・自殺少女

焼肉屋を飛び出して電車に乗り田辺駅に着くまで、二人は会話を交わさなかった。

カズタカはどこか不満そうで、サユキは自分が乗っている電車にアカリが飛び込むのではないかと緊張していたが、結局その心配は杞憂に終わった。

二人が田辺駅に着いたのは四時二十二分。そこはオーソドックスな地下鉄のホームで、一つのホームを挟むように上り線と下り線がついている。

自分たちの乗ってきた電車を見送って、

「さて、どうやらまだ飛び込んではいないらしい。ここからどうする?」

ようやくカズタカが口を開く。

「とにかく探しましょう。出来れば彼女の顔が分かる写真なんか見たいけれど…。せめてどこで飛び込むのか教えてください」

急いで駅まで来たはいいがサユキはアカリの顔を知らない。田辺駅のどのあたり―上り線なのか下り線なのか、ホームの中央なのかそれとも後方なのか―で飛び込むのかも知らなかった。

だがカズタカの答えは

「悪いが、それはできない」

「どうしてです!?いまさらここで協力は出来ないなんて、どういうことですか?!」

事態が事態だ。思わずカズタカに噛み付いてしまう。そんなアカリにカズタカは、どこか冷め切った様子で淡々と答える。

「協力する事への俺の意思は関係ない。

そうだな、言い方を変えよう。アカリの姿が分かるような写真は持っていないし、どこで飛び込むのかは分からない」

そんな無責任な!と思うが、よく考えればカズタカの責任ではない。どこで飛び込むかなど、飛び込む本人にしか分からない。

「それじゃあ五時までホームを見張りましょう。私は一番線を見張りますから、カズタカさんは二番線をお願いします」

それだけ言って一番線ホームの先端へと走り出す。飛び込むのならば電車のスピードが出ているホームの前方だろう、そう考えたためだ。当然カズタカは二番線の先頭、サユキの対角線上にいるはずだ。だが相手の姿が分からないというのは辛い。飛び込みそうな怪しい高校生がいたら大声を出して止めるしかない。

その時、風が吹き始める。ポロロンポロロンというチャイムの後「まもなく二番線に下り電車が参ります」と男性の合成音声が告げる。

カズタカの方だ。という事は、今は一番線を見張らなくてもいい。反対側のホームへ向かう。

風はますます強くなり、暗い闇の中からやがて二つの光が見えてくる。ホームの一番離れた場所からサユキの方を見ている人がいる。カズタカだ。だが今は見詰め合う状況にときめいている場合ではない。

休日の昼間という事で、そこそこの人はいる。そこそこで済んでいるのはこの駅が各駅停車しか止まらないからだ。その点は田辺駅に感謝すべきだろう。

だがサユキはホームに並んだ乗客を見て心の中で毒ついた。

アカリという名前の女子高生、という情報しかない。だから年頃の女の子を注意すればいいと思っていた。それしか見つける方法がない、と言ったほうが正しい。

そして、ホームにいる乗客の半分は『制服を着ている明らかに女子高生』と、『私服だがおそらく女子高生』で占めている。アカリという子がどうしてこの駅を選んだのか。それはおそらく学校から一番近いのだろう。女子高生が多くいても不思議ではない。

二つの光しか見えなかった電車は徐々にその姿を現し、運転手がはっきりと見えるようになり、暴風と騒音を引き連れてホームに滑り込んでくる。

その直前、そんな暴力の象徴に身を投げる―人はいなかった。

何事もなかったかのように、全て予定調和のように電車はスピードを落とし、そして止まる。乗客を吐き出し、そして飲み込む様子は何の変哲もない駅の風景だ。

知らずに呼吸を止めていたようだ。息苦しさを覚え、大きく息を吐く。

一本でここまで緊張していたのでは神経が持たない。五時まではあと三十分以上ある。さらに(幸か不幸か)それまでに何も起きなければ、もう少し延長しないといけない。

そんな弱気を大きく吸いこんだ息と一緒に内側へ押し込める。

何があっても、助ける。自分が手を伸ばす事で助かる命があるのなら、それは助けなくてはいけない。見つけにくくても見つけ出す。身が持たないなんて事は、助け終わった後に考えればいい。

「絶対に、死なせるものか」

目の前で動き出した電車に背を向けて、決意を新たにそうつぶやいた。



今回も違った。

二番線から発車する電車の脇で大きく息をつく。

ホームにぶら下がっている時計はもうすぐ五時になる。アカリを探し始めてから数本の電車が過ぎた。

一度も見た事のない人を探すという事がこれほど大変だとは思わなかった。せめて特徴でも分かれば…と思うが、カズタカに言わせるとそんな分かりやすい特徴はないらしい。制服を着た女子高生がまたぱらぱらとホームに現れる。彼女たちの挙動をホームの端から観察する。顔が分からないため、挙動や雰囲気から探し出すしかない。

まるで獲物を狙う狩人のような眼光で乗客を睨むサユキに

「あの、先ほどからどうかしましたか?」

そっと声がかかる。

人の生き死にがかかってるんだ邪魔するな、という意味も込めて鋭い眼光のまま振り向くと、そこにはサユキより少し年上だと思われる若い男の駅員が立っていた。

今のサユキはホームにいるのに電車に乗らず、乗客を鋭い眼光で睨んでいる挙動不審者だ。駅員が声をかけるのも当然といえる。

「今ちょっと込み入っていて大変なんです邪魔しないでください」という言葉がの喉まででかかって、冷静に考える。

駅員。…使えるのではないか。

「実は、親友から田辺駅で飛び込み自殺するってメールが来たんです。止めようと思って見張っているんですけど、まだ見つからなくて。放送でその子を呼び出してもらう事って出来ますか!?」

考えるより先に言葉が出ていた。サユキの真剣な口調に気圧され一瞬たじろいだ駅員も、

「私の一存では決められません、ですがすぐに駅長に話をしてきます。呼び出し許可が下り次第、すぐに放送を入れますから」

サユキの必死さが伝わったのだろう、それだけ言って駆け出していく。

助けたいのなら、誰かに協力してもらう事はとても大切で、それが駅員ともなれば強力な味方となってくれるはずだ。

その時、ポロロンポロロンというチャイムの後「まもなく、一番線を快速電車が通過します。危ないですから黄色い線の内側にお下がりください」という放送がはいる。

それを聞いてハッとした。

田辺駅は各駅しか停車しない。だから乗客もそう多くないとさっき感謝したばかりだ。

だが言い換えるとそれは、各駅停車以外は通過するという事。

そして、通過するならば電車の速度はホームのどこでも変わらない。つまり、どこで飛び込んでも死ねる。必ずしもホームの先頭である必要はないのだ。

ホームの後ろにはカズタカが、前には自分がいる。一番手薄となるのは、ホーム中央―!

自分の後ろから風と轟音が近づいてくる、そんなプレッシャーを感じながらホーム中央の乗客を観察しようとしたとき、一人の女子高生に目がとまった。

小柄な女の子で、髪型はショートカット。他の子と同じような制服を着ている。

周りの女子高生は2〜3人のグループでおしゃべりをしているが、彼女は一人だった。遠目から見ても元気がないのが分かる。ずっとうつむいたままで、さらによく見ると足元がおぼつかない様子だ。そしてそのまま黄色い線まで進む。

まるでホームの放送に導かれるように―まるで轟音と暴風に呼ばれるように。

サユキは走り出す。直感した。彼女が、アカリだ。

自分の後ろから吹く風が強くなり、音が大きくなる。それはすぐ後ろまで来ている巨大な鉄の塊が自分の存在を誇示するかのようで、暴風を引き連れた巨大な死神を連想させた。そしてこのままでは、それは比喩ではなくなる。

通過列車を黄色い線の上で待つ人などいない。だからアカリの動きは目立った。ホームの反対側からカズタカもスタートを切っている。

アカリがいる位置は、ちょうど駅の中央。サユキとカズタカの中間地点。

アカリはうつむいたまま電車を待つ。だがそれは乗るためではない。次の駅よりもっと遠くへ行くためだ。

そんな簡単に死なせない!もう電車は自分のすぐ後ろまで迫っている。アカリまではまだ距離がある。周囲の雑音が消えて、後ろから迫る轟音のみが耳につき、その音から正確な電車の位置がわかる。きっとアドレナリンの過剰分泌だろう、今の自分に必要な情報のみを的確に集めてくれる。

不意にアカリはサユキのほう、サユキの後ろに迫っている電車を見た。その時のアカリの表情はとてもとても昏い―笑顔だった。

そして次に、電車と競うように走るサユキと目が合う。必死で走るサユキを見て『どうしてあの人はホームを全力疾走しているのだろう?』という顔をする。まさか自分を止めようとして走っているとは思っていない。

昨日といい今日といい、カズタカとかかわってから走ることが多い。昨日の全力走行のせいで今日は筋肉痛とか、そういった事も全部忘れる。今はただ、一瞬でも早くアカリのもとへ。今ならまだ助けられる。

アカリはもうサユキを見てはいない。彼女が見ているものは、この辛い地獄から自分を連れ去ってくれる巨大な鉄の天使。昏い恍惚とした顔で電車を見るその顔は、とても正気とは思えない。

アカリまであと三メートルの所で、電車はサユキを追い抜く。

自分の隣を、音と風を撒き散らしながら追い抜く様子を、サユキはスローモーションで見た。自分を含め全てがゆっくりと進む時間の中で、なおもアカリを目指し走る。

「―ダメ」

そこの電車、行ってはダメ。そのままでは一人の女の子が悲しみを抱えながら死んでしまう。

電車は、アカリまであと二メートル。

「―ダメ」

目の前の女の子、行ってはだめ。一歩を踏み出すと確かにここからは逃げられるけど、あなたにはまだ先がある。

電車は、アカリまで一メートル。

アカリは目を閉じ、フラっと体を宙に―

「―だめえええぇぇっっ!」

一瞬アカリの動きが止まり、

サユキはアカリに抱きつくようにして倒れこむのと、アカリの目の前を電車が通過するのは同時だった。

アカリの上にまるで庇うように覆いかぶさりながら、電車が過ぎるのを待つ。そんな彼女たちのすぐそばを電車は通過してく。強い風と音は、まるでアカリを連れて行けなかった事を恨む悪魔の声にも聞こえた。



電車が過ぎてもサユキは立ち上がれずにいた。ドキドキなっているのは自分の心臓か、それとも抱き込んだアカリの心臓か分からない。

その時「立てるか?」と声がかかる。

顔を上げると、すぐそばにカズタカが立っていた。そこでようやく周囲のざわめきが聞こえるようになる。

無言でのろのろと立ち上がる。

サユキの下には、驚いた顔をした女子高生。何が起きたのか理解できていないらしい。

「大丈夫?どこか打ったりしてない?」

サユキは声をかけながら手を差し伸べる。返事は無かったが、それでもアカリは差し出された手を掴み立ち上がる。

そんな二人は当然周囲の注目を集めていて、彼女たちを遠巻きに眺める人達の中にはアカリと同じ制服を着た子もいた。

そんな人の輪を掻き分けて先ほどの駅員がやってくる。

「遅れてすいません、駅長の許可が下りました!ですので、呼び出したい友達の名前を教えてもらえますか?」

サユキはアカリと目を合わせて

「えっと、アカリって言います。―そうでしょ、アカリ?」

アカリは、どうして知っているの?とあらためて驚いた顔をするのだった。



三人は若い駅員に連れられて、駅員室の奥にある六畳ほどの和室へと通された。目の前の四角いテーブルにはお茶まで準備されていて、温かそうな湯気をたてている。

若い駅員は駅長の所へ行っている。なんでもサユキを「事故を未然に防いだ功労者」として報告しているらしい。後日感謝状が届くかもしれない。

だがアカリにはそれはどうでもいいことだ。今この場に駅員がいてはこの後の話が面倒になる。アカリとは親友だとして説明しているが実際に会うのは始めてで、しかも説明の中ではカズタカの話もしないといけないだろう。だから肝心な話は駅員不在の今のうちに済ませたかった。

「さて、会うのははじめてね。はじめましてアカリさん。私はサユキっていうの」

よろしくね、というがアカリからは返事がない。うつむいてテーブルを見ている。

狭い和室の中でサユキとアカリは向かい合って座っているのだから、声が聞こえないはずがない。サユキの隣で黙りこくっているカズタカをさして

「この人はカズタカ。実は彼からあなたが、電車に飛び込みそうだって聞いてね。ホームでずっと見張っていたの」

その言葉にアカリは顔を上げる。そうしてカズタカとサユキをみて。

「…どうして」

周囲の雑音にかき消されてしまうほどに小さく弱い、これがアカリの第一声だった。

聞き取りにくいのは声の大きさだけではない。声に『張り』がない。存在感、伝えたい事、意思…。そういったものがごっそりと抜け落ちた、空っぽの声だった。

どうして、とアカリは言った。どうして自分が今日この駅で電車に飛び込む事がわかったのか。サユキはその問いにどう答えるべきか、カズタカを見る。

だがカズタカは

『助けたのは、お前だ。ならば最後までお前が責任をもて』

厳しい目がそう言っていた。

焼肉屋でカズタカはアカリを助けることにあまり乗り気ではなかった事を思い出す。電車にはねられるのを止めただけじゃ、彼女を救った事にはならないという事か。

「実はカズタカの時間の流れが普通の人と違って。未来から過去へと流れているんですって。しかも三連休を繰り返しているっていうの。驚きよね」

そんな訳であなたの事がわかったのよ、と。サラリとカズタカの秘密をばらす。

さすがにそれを聞いてアカリの顔に怪訝そうな色が浮かぶ。が、それも一瞬。すぐに無表情に戻る。

そして放った言葉は

「…どうして」

先ほどと同じ言葉。

「どうしてそんな嘘をつくか?でもね、これは本当らしいのよ。あなたをこうして助けられたのがその…」

「どうして、助けたんですか?」

サユキの言葉を途中でさえぎった今度の言葉には、はっきりと意志が込められている。それは、拒絶、そして恨み。

助けてくれたのですか、ではなく、助けたんですか。この二つの言葉の違いは大きい。

部屋の気温が下がったような錯覚を受ける。壁を隔てた駅の喧騒が聞こえる。

それだけ言って、アカリはまたうつむいてしまった。カズタカは相変わらず厳しい顔をしている。

どうして、助けたんですか?

そう言われる事も、予想していた。理由はどうであれ、アカリ本人がしたい事を邪魔したのだ。だが実際言われると、その言葉の重さにつぶされそうになる。

ドウシテ、タスケタノ?

「…本当にあなた、死んでいいの?ここで電車に飛び込んで、それで終わりにしちゃっていいの?」

アカリからの返事はない。何も聞こえなかったかのようにずっとうつむいたままだ。そう長くない髪のため、顔が隠れてしまうような事はなく、その隙間からは彼女が目を閉じていることがわかる。

「サユキ、さん。どうして私が…飛び込もうとしたのか、知っていますか?」

再びアカリから声が放たれたのは、サユキが質問してから一体どれくらい経ってからだろう。

消え去りそうなその声に、先ほどと違う色が混ざっていることにサユキは気がついた。

これは……怒り?

「え、ええ。それもカズタカさんから聞いているわ。いじめにあっているって」

「あなたは、いじめを受けたことがないでしょう」

顔はやはりうつむいたまま。だが今までにないはっきりとした断定口調で、アカリは言い切った。

「…だから、私を助けるなんて事ができたんです」

そうして、アカリはサユキを見る。いや、睨むといったほうが正しい。

その瞳に、ホームで電車を見ていた昏い色は、もうない。今は死人のような冷たさと、悪魔のような憎しみの熱さが渦を巻いている。

「いじめられた事のないあなたは、私が、どういう気持ちで今まで生きてきたか分からないでしょう。

学校へ行ったら突然友達に無視されたときの気持ちが分かりますか?

わざと聞こえるように悪口を言われたときの気持ちが分かりますか?

朝教室に入って机が倒されていたときの気持ちが分かりますか?

クラスの人が登校してくるたびにいじめをする人じゃないかとびくびくする気持ちは?

クラスの人に声をかけられるたびに緊張する気持ちは?目の前で携帯のアドレス帳から番号を削除されたときの気持ちは?

親友だと信じていた子に相談したら拒絶されたときの絶望は?制服のままプールに突き落とされる衝撃は?服が乾くまで更衣室で隠れていなければいけない惨めさは?」

徐々に、声に熱がこもり始める。

それは、地獄でうめく咎人の苦しみを想像させた。

「先生にはお前が悪いと言われた、親友だと思っていた人にはもう話しかけないでと言われた。机は教室の隅においやられて誰も話しかけてこない。笑い声が聞こえると自分の事を笑っている気がする。

体育の授業は怖い、運動って言いながら何をされるか分からないから。国語の時間は怖い、声を出さないといけないから。

選択科目は怖い、みんなと一緒に教室移動すると嫌がられるから」

それは、地獄そのもの。

一秒ずつ心を壊される、いつ終わるとも知れない地獄。身に覚えのない苦しみを味わうと言う意味では、それは地獄以上の地獄だろう。

「休んだら休み明けに何をされるか分からない、何より家族には心配かけたくない。お父さんは優しくてお母さんはしっかり者で弟はお調子者で明るくて。そして、三人とも私にとても優しくて。

だから、ずっと隠してた。私が学校でこんなことになってるって。

ははは、クラスの人はね、痣が残るような事はしないの。だから家族にも隠せてた―今まではね」



次の時間は美術だった。

他の人がみんな美術室に行ってから、最後に一人で教室を後にする。

そうやって一人で動く事にももう慣れた。

ゆっくりと歩く。授業の開始まではまだ時間がある。あのクラスのざわめきが、ただひたすらに怖い。だからなるべく授業開始直前に美術室に着くようにする。

「あら、アカリさん。もうすぐ授業始まるわよ」

美術室の直前で後ろから先生に追いつかれる。二人で並んで、ざわめく美術室へと入っていく。

「ほらほら授業はじめるわよー、はい委員長号令」

まだざわつく室内の壁際を通って一番後ろの席へと向かう。

これが彼女の狙っていた理想の展開。先生と一緒に美術室に入れば、それと同時に授業開始となる。教室のざわめきにさらされる事がない。

今日はラッキーかも。そんなことを、考えてしまった。

普通の教科と違い美術というのは比較的自由が許される教科である。もちろん担当教員の個性によるところが大きいが、アカリの美術教師はそんな自由を最大限に使うタイプだった。

だからその日、

「今日は、授業終了までになんでもいいから一つ作品を仕上げる事」

なんて課題が出されたとしても、特に驚きはしなかった。

何をしてもいい!という期待に教室中がざわめく中、アカリだけは沈んだ顔をする。

黙って時間が終わるまで座り続けるほうが楽だ。そんな理由で数学は好きだった。ただ座って問題を解く。出てきた答えに感情を込める必要がない。

作品を仕上げるのに美術室から出てもいいのか、という問いに「いいけどあんまり騒ぐなよー」という投げやりな答えが返ってきてから、続々と生徒は外へ繰り出している。

サユキもなるべく人のいないところへ行こうとして、席を立つ。その時

「サユキー、どっか行くの?じゃあ一緒にいこうよ」

瞬間、全身が冷たくなり、吐き気を覚える。嗜虐の響きがにじみ出ているその言葉に振り返ると、そこにはクラスで最も顔をあわせたくない女子とその取り巻き達。四人で八個の目が、サユキを縛り付ける。

何と答えたのかは覚えていない。ただ、あっという間に周りを囲まれ、美術室から連れ出された。授業中の廊下を五人で歩く。その間、サユキを含め回りの女子は何も言わなかった。これから何をされるのか、何をさせられるのか。不安と恐怖で気分が悪くなる。それぞれの教室の前を通るたび中から先生の説明の声が聞こえる。扉を隔てた中ではみな真面目に授業を受けていて、まるで今の自分とは別世界のようだ。

そうして連れてこられたのは校舎の裏。学校外週の植木で外からは見られず、校庭からは校舎が邪魔となり、校舎からは死角となっている地点。周りにクラスメイトの姿はない。誰もこんなところで美術の課題を仕上げようとは思わないだろう。

「今日の美術の時間って、何を作ってもいいんだよねー。みんなどっかで絵を描くって言うんだけど、それじゃ面白くないでしょ。それでね、私達(うちら)いい事考えたの!」

彼女達はニヤニヤと笑っている。一人一人顔が違うはずなのに、なぜかアカリには同じ顔に見えた。

「ほら、絵って二次元でしょ。やっぱ私達(うちら)くらいになると、絵じゃ満足しないわけよ」

そうして、取り巻きの二人が左右からサユキの腕を抑える。

それは今までにない、完全な拘束だった。無言で身をよじって抵抗するが、腕を開放してくれる気配もない。そんなサユキを見て彼女たちの顔に嬉しそうな笑顔が浮かぶ。

「これからは、彫刻よ。絵なんて時代遅れ。三次元で思い出を残そうってね」

そういいながら近づくリーダー格が持っているのは、木工用ボンド。きっと美術室から持ち出したのだろう、教材用の大きなヤツだ。

彼女を取り囲んだ四人は、弱い者をいたぶる喜びに顔をゆがませている。それはとても人間とは思えない、悪魔のような笑顔。

「やだ、やめて…」

出せた声は、かすれてとても小さく。―大きな声が出ない。

体を左右に揺らす程度では両腕の拘束は解けない。―大暴れする事もできない。

そんなサユキの抵抗は彼女たちをさらに喜ばせてしまったらしい。

「ちょっとそんなに嫌がることないじゃない」

リーダー格のボンドを持った彼女が目の前に立つ。

恐ろしさで、声も出せない。動く事もできない。

ただ、相手の目を見る。やめてと、声にならない声で抵抗する。

「私達がやろうとしているのは、美術の課題だよぉ?主役はアカリじゃないと出来ないって思ってるからここにつれてきたんだから。

そんなに嫌がってるとまるで―」

ボンドのキャップをあける。中身が詰まった容器を両手で掲げた。

自分の頭に向けられた吐出口は、今にも中身が出てこようとしている。その姿はとてもグロテスクで。

ボンドを掲げた彼女は、アカリの目に絶望が浮かぶのを見逃さなかった。

「―ワタシタチガ、イジメテルミタイジャン…!」

そういいながら両手を握る。

アカリはその時の事をよく覚えていない。

とっさに目を閉じて顔をそむける。頭を庇おうとしたが両腕は押さえつけられていた。顔へはかからなかったが、左側の髪の毛にボンドが張り付いている。

両腕を押さえていた二人が突然アカリを突き飛ばす。抵抗も出来ず地面に倒れこむ彼女をみて、周りの女子は心底嬉しそうに笑っている。

「どう、芸術のモデルになった感想は!?」

誰がそう聞いたのかはわからない。それに答える代わりに、必死で手でボンドを落とそうとする。

そんなサユキにリーダー格の子が近づいていく。

まだ何かされる。それが分かっているが抵抗は出来ない。

突然前髪を掴まれて顔を上げさせられる。すぐ目の前、息が吹きかかる距離に悪魔のような笑顔とボンドの吐出口を見た。

「バカだねぇ、あんたは彫刻なんだよ!?

―顔を塗らないでどうするのよ!!」

目を閉じたため目の中に入る事はなかったが、顔の右側に少し冷たい粘性の液体。鼻を突く独特のにおいが、皮膚をはいずる感覚が、目の前から聞こえる笑い声が、吐き気をもよおすほど気持ち悪い。

アカリの髪をつかんだまま大笑いをして、それが落ち着くと今度は舌打ちをしながら顔を地面に叩きつけるかのように腕を振る。アカリは両手を付いたが、それでも舞い上がる土ぼこりは顔と髪とボンドに茶色の跡を残す。

そんなサユキの姿に周りの笑い声は最高潮を迎えた。ある者は彼女を指差し、ある者は腹を抱え、ある者は猿のように両手を叩いて、アカリを罵倒する。それがどれほど続いたのか、アカリには分からなかった。

「ハハハハ……。本当、あんた笑わせてくれるよ!サイコーだね!

ほら、美術の時間はあと一時間以上あるよ。その汚れた髪の毛を洗ってきたほうがいいんじゃない?」

ようやく満足したのか、そういって彼女たちはアカリにこの場から去ることを許可した。

ならば後は一刻も早くこのボンドを洗い落とすべきだろう。恐怖と悲しさで震えながら、よろよろと立ち上がりゆっくりと歩き出す。今すぐにでも走り出してこのボンドを落としたい。だが震える足ではまるで足を引きずるように歩くのが精一杯だった。

そんな惨めなアカリの歩く姿をみて、背後からは笑いと楽しそうな会話が聞こえる。

「アハハハハ!面白かったねー。『やだ…』だって!サイコー!」

「泣き顔も惨めだね!本当、ダメだよ!」

「もともと汚い顔なんだから、洗ったって意味ないじゃん!」

「でもあれはよかったねー。なんか顔にかけられたみたいじゃん。今度は男子誘ってヤッて貰おうか!?」

「アカリ相手にする男子っているのぉ?」

アハハハハハハハハハ―!

それ以上は聞くのが怖くて、震える足を無理やり引きずり走り出す。

本当に怖かった。今向けられた嘲笑が、クラスには自分の味方がいない事が、そして、たとえ今は彼女たちの会話の中だけだとしても、いずれそれは現実になることが。

恐怖で震える足を、恐怖で無理やり動かす。それは見るものがいれば惨めと言わざるを得ないような、敗走だった。



彼女の高校には運動部の生徒が汗を流すためのシャワー室がある。アカリは運動部ではないが、場所は知っている。今は授業中という事もあり、利用している生徒はいない。

タオルは持っていないがとにかく洗い流す事が先決だ。絶対に落とさないといけない。

「ハァ、ハァ。早く、早く…」

服を脱ぎ、シャワーの下に立つ。右目が開けないのがもどかしい。

蛇口をひねると勢いよく水が出てきた。お湯になるのを待たず、顔に付いたボンドを手でこすり落とす。粘ついた感覚が気持ち悪い。それでもこすり続けると、だんだんと右目が使えるようになってくる。

しばらくこすり続け、薄く膜が張ったような感覚だけは残ったが、顔に付いたボンドはもう見えなくなった。

次に髪をすすぐ。もう水はお湯へと変わり彼女の足元から湯気を立てているが、髪に付いたボンドはなかなか落ちなかった。一本一本の隙間に入り込んでいて、こすり落とせない。

「落ちて、落ちてよ…」

お湯の勢いを強める。

手でこすればこするほど、ボンドは広がり髪にまとわり付く。

まるで絶対に逃がさないというような意思を持っているかのように。

どんなに頑張っても振り払えない。

どんなに頑張っても振りほどけない。

どんなに頑張っても、逃げられない。

狂ったように髪をかきむしる。肩の下ほどまであった髪の毛は、お湯とボンドで乱れている。

「だめ、落とさないと。落とさないと…」

ボンドが髪に付いたままでは、まずい。

そのまま帰ることになるのは、まずい。

「落ちて…。落ちてっ…!」

なぜなら、家族がそれを見つけてしまうから。

娘の髪にボンドが付いているのを見逃すような両親ではない。姉の髪にボンドが付いているのを見過ごすような弟ではない。このままでは家族に、いじめがばれてしまう。

それはまずい。とてもまずい。

自分がいじめられているという事がわかれば家族は、驚き、悲しむ。自分のせいで、世界で一番大切な家族に悲しい顔はさせたくない。だから、今すぐここでこの白くて臭いネバネバを落とさないといけないのにどうして髪にまとわり付いて離れないどうしても離れないどうして本当にお願い剥がれて取れてもう嫌ごめんなさいだから早く取れて取れてそうじゃないと家族が家族にばれちゃう―!!

ブチブチッという衝撃を、頭と、むやみに動かしていた右手で感じた。呆然と右手を見るとそこには、一房の髪。うっすらと白いボンドでコーティングされた、自分の体の一部だったもの。

自分で自分を傷つけてしまった―。気が付くと、ひざを抱え背を丸めて泣いていた。背中に土砂降りのようにシャワーが降り注ぐ。

言葉による攻撃、態度による差別。それは跡が残らない。だから隠せた。

だが今日は違う。今はもう分かっている、この髪の毛に付いたボンドは落とせない。好きだった髪の毛も、今では無残な姿になっている。

もう、家族に隠す事はできない。

今日家に帰ると、家族は唖然とするだろう。当然、何があったのか聞いてくる。

その時、自分がどういう行動を取るのか分からない。何も言わず部屋にこもるか、それとも泣き出してしまうか。そんな数時間後の自分を想像して悲しくなる。それは自分が惨めだからではなく、家族の悲しむ顔が浮かんでしまったから。

そんな顔をさせてしまう家族に申し訳なくて。

そんな顔をさせる自分が情けなくて。

そんな弱い自分が嫌になって。

今までこらえていたタガが外れたかのように、泣く。生ぬるいお湯に打たれながら泣く。

自分とクラスを呪い、声を上げ、泣く。

シャワーの音にかき消され、その叫びが誰かの耳に届く事は無かった。


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