2. 金曜日・公園告白
結果から言うと、逃走は成功した。
一分程の全力疾走と、三分ほどのマラソンのような走りと、最後はもう走れなくなって歩いて、とにかく逃げ切った。
「ちょっと、もう、本当に。ちょっと、待って」
ついに歩く事も出来なくなり足を止める。
息をすると肺が痛い。明日は筋肉痛確定だ。
どうしてこんな限界まで走ったのかというと、今この瞬間も男が右手首を掴んでいるからだ。まるで手錠のようにサユキの手首を離そうとしない。
動かなくなったサユキにつられて、ようやく男は歩みを止めて振り向く。
サユキは暫く膝に手を当てて息を整える。どこを通ったのかわからないが、いつのまにか住宅街に入ってきていた。
後ろを振り返り、警備員が追いかけてきていない事を確認して、改めて息をつく。
なんとか逃げきれたと安心したのと同時に、怒りが湧き上がってくる。
「あなた誰です、あのビルで何をしていたんですか!?なんで私を連れてきたんです?」
明らかに不審者である男に手を掴まれて走らされたのだから悲鳴を上げてもいいのだが、サユキは大声を相手の非難に使った。
サユキの怒りの形相に驚いた顔をしている男に、続けて言葉をぶつける。
「黙ってないで何か言ったらどうなの、でもその前に謝ってください!あなたのせいで」
ズキっとヒザが痛んだ。
苦痛に言葉が途切れたが、相手はサユキが何を言いたかったのか理解したようだ。丈が長いズボンのため外からでは傷は見えないが、視線が右ヒザに注がれる。
「それは俺が手を引いた時に」
「そうですよ、それでも引っ張られたせいで手当てもできなかったじゃないですか!」
相手に最後まで言葉を言わせず、口早に責める。
「あぁ、ごめんな。こんな事になるとは思わなかったから」
一応、謝られた。だが心から謝っているようには見えない。
カッとなってさらに文句を言おうとした瞬間、突然男はサユキに背を向け
「こっちに来て」
とだけ言い歩き出す。
「ちょっと、こっちってどこへ行く気ですか!?」
やはりそれについていく必要は無いのに、背中を追ってしまう。
男がやってきたのは、小さな公園だった。
秋晴れの休日。元気に走り回る子供達と、それをベンチに座って世間話をしながら見守る母親たち。それは、のどかで平和の象徴のような風景だった。
男は公園の隅を通って、やはり隅にあるベンチまで来る。木製で、ペンキはあちこちはげている。おそらく元の色が水色だったのだろうと分かるくらいだ。ささくれ立った表面には砂がまぶされていて、お世辞にも綺麗とは言いがたい。
「膝、大丈夫?」
「え…。まぁ、大丈夫ですけど」
突然聞かれ、反射的にそう答えてしまう。
「そうか、ならいいや」
ならいいや?どういう意味だ?
大事に至らずに済んでよかった、という意味だろうか。それとも、謝罪しなくてもいいや、という意味だろうか。
疑惑と迷惑の混じった視線で男を睨む。が、当の本人は全く気にしない様子で公園のベンチに座る。そして、なぜそんなに俺を見ているんだ?という顔をしながら
「とりあえず座ってよ」
と、どうでもいいような口調でいう。だが、正体の知れない男と一緒にベンチに座る趣味はない。ベンチに座るどころか、一緒にいる必要もないだろう。
とにかく謝らせて帰ろう。
「座りません。その前に謝ってください」
椅子にだらしなく座る男の前に立ち、毅然とした態度で言う。某国の政治家にも見習って欲しいものだ。
「……あぁ、わるかった。ごめんな」
あまりにも適当な答え。まるで某国の対応のようだ。
この男にこれ以上何を言っても無駄だ。たとえ適当といえども謝罪は謝罪。それさえ聞ければもう用はない。
「そうですか。それじゃあ失礼します」
男に背を向け歩き出す。
せっかくの三連休の初日がこんな事になるとは思わなかった。が、これ以上この男にかかわると面倒な事になりそうだ、ここが引き際だろう。どこにもやり場のない怒りを抱いて、公園から出ようとする。
周りには人もいるから、さっきのような力技にはでられないだろう。男が取れる行動は声をかける事だけ。けれど、声なら無視すればいい。どんな言葉をかけられても決して止まらず振り返らない。
―だが、決して止まらぬはずのサユキの足が止まる。
もちろん肩を掴まれた訳でも公園の出口に男の仲間が待ち伏せていた訳でもない。
男は声をかけただけ。決して止まらないはずの彼女の足を止めた言葉。それは、脅迫でも懇願でもなく
「ちょっと待ってよ、ニシカワサユキさん」
サユキのフルネームだった。
魔術師にとって名前とは重要な意味を持つ。その存在を縛り付けるためだ。そんな考え方は西洋魔術だけでなく、日本でもあったらしい。会話の中で本名を出さないよう、相手を示す言葉がたくさんできた。あなた、貴殿、おまえ、貴様…。とりわけ目上の人に多いのは、重要な人ほど呪いにかからぬようにしたためだとか。
なるほど、確かに彼女の名前を知っている事で、男はサユキの動きを封じた。もしかしたら魔術の原理はこういう事なのかもしれない。
もちろん呼び止められたサユキにはそんな事を考える余裕などない。見知らぬ男に自分のフルネームを知られているという事実は、サユキを混乱させていた。足を止めたばかりか振り返ってしまう。
「どうして、私の名前を…?」
「ん、昨日君に聞いたんだよ」
先日のことを思い返してみる。当然、こんな男と会った記憶はない。何しろ昨日は学校があった日だ。
「昨日は学校がありました。あなたとは会ってません」
そう言いつつ記憶の中を検索してもこの男は出てこない。
長めの髪に、切れ長の目。黒一色の服装だが、彼によく似合っている。十分にかっこいいという部類に入るだろうが、その全てを台無しにしているのが表情―特に目だ。死んだ魚とは表現だと思っていたが、その目をした人が本当にいるとは思わなかった。何を経験したのか知らないが、『諦め』ている。
「ああそうだ、間違えた。明日だった。悪いな、最近人と話して無くて、感覚がずれてた」
普通の顔をして、日常会話のように男が言う言葉の意味が分からない。頭がおかしいのかもしれない。名前を知られている事にかまっている場合じゃない。とにかくここから逃げないと。
男は、そんなサユキに続けて声をかける。
「俺が狂っているとか考えているだろ?」
からかうように、試すように。暗い目でサユキを見る。
心を読まれたような錯覚を覚え、とっさに言葉が出ない。
「まぁそれが普通だな」
ふう、と大きなため息と共にそう吐き出す。
諦めが似合っている。というか、諦めに気に入られているようだ。
「君が俺に対して今警戒しているのは分かる。ついでだから言ってしまうけど、俺がモールで何をしていたのか教えておく。
まぁ、簡単に言えば強盗をしてきた」
それは「たまねぎ買ってきた」というのと同じくらいの緊張感の無さで語られた、あまりにも淡々とした告白だった。冗談だろうと思った。
が、ビルから出てきたときの状況を思い出す。破られたガラス。後を追いかけてきた警備員。強盗をしてきたという言葉を裏付けるには十分すぎる。
では、この男のいう事が本当だとしよう。その場合、彼が自らの罪を告白する事のメリットは?
分からない。というか、無い。逆にデメリットだらけだ。ここまでつれてきた事への、彼なりのお詫びなのかもしれない。
もしくは「冥土の土産」というやつか。あまり考えたくないが。
一つ確かなのは、サユキの中で警戒カウンターの針が上昇していく。
そんなサユキを全く気にせず、男は話し続ける。
「あのビル、モールの最上階にある特設ホールで今何が行われているか、知っているか?『日本各地に残される神の足跡展』という展示会をやっている。江戸時代までの出土物やのうち、神に関した物だけを集めて展示しているんだ。
この国は全ての物事に神が宿っているからな。なかなか興味深い展示だった。普通に戻ったらもう一回行ってもいいかな」
さっきからこの男の言葉の意味が分からず、ありありと警戒の色を浮かべているサユキの顔を見て男は笑う。それは、出来の悪い生徒を見て苦笑する先生のようだった。それでもやはり顔色から諦めの色が抜けない。
「そう、君が思っている通り俺は今普通じゃないんだ。別に怪我や病気をしているわけじゃない、それよりももっと性質がわるくてね」
そこで彼は一度言葉を切ってサユキを見る。真剣な顔で、目には縋るような色をたたえている。このときだけは、諦めの色が抜けていた。
「俺は、今日から日曜までの三日間を繰り返している。ただ繰り返しているだけじゃない。逆行しながら繰り返しているんだ」
何を言われたのか理解は出来なかったが、サユキの中の警戒カウンターがレンジを振り切った事だけは確かだった。