レプリカ【夜闇】
当てもなく歩き続けて何日が経っただろう。歩きながら考えるのはほとんどが昔のことで、これからしなければならないことについては何も考えていなかった。まだ未練があるのかと自分を情けなく思ったけれど、僕にとっては記憶を失くしたあとの記憶でさえも大切な時間だったのだと思い知った。本当に、本当に取り戻さなければ。今までの行動を無駄にすることだけは避けたい。
「どこだろ、ここ」
何も考えていなかったから、自分がどこにいるのかさえもわからなかった。小さな町のようで、よそ者が珍しいのかすごく見られている。すっかり朝になっていたからこの格好は人目についてしまうだろう。フードを下ろしてマントを脱いだ。持ってきた荷物は最低限で、トランクの中身はほとんどがお金だ。着替えも宿もその場で調達しようと思っていたし、大抵の必要なものは腕輪で補える。良くできた都合のいい道具だと沁沁感じていた。
足もくたびれてきたからどこかで休むところがないかと思い始めた頃、唐突に腹部に激痛が走る。
「痛っ……」
覚えのない痛みではなく。脳裏に蘇るのは、あの日の記憶。悪逆の――。まさかと思い、シャツを巻くって腹部を確認した。そこにあった文字は悪逆ではなかった。初めて見る【神女】の文字。
「嘘だろ」
これもまた、運命とでも言うつもりか。僕は適当に歩いてきた。何も考えずに。それが仇となったのか。悪魔の子はその魂を求め合い殺し合う。そういうことなのか。冗談じゃない、と思っていた。けれどまだ見ぬ【神女】は近くに、この町のどこかにいるのだろう。
僕はこの人を探すべきなのだろうか。探して、出会って、それから?
「あなたが【死神】ですね」
よそ者に、近づいてくる人なんてこの町にはいなかったのに。背後から声。女性のものだった。振り返れば、戦うことになるのだろう。殺し合い。悪逆のと同じような人間だったらどうしたらいいだろう。偽物だと言われた僕を、彼女が見抜いて逃がしてくれるとは限らない。僕は前を見据えたまま答えることに決めた。
「【神女】さん?」
「……ええ。私が【神女】イリスと申します」
イリスと名乗った女性は静かに近づいてきた。悪意、増しては殺意さえも感じられない。隠しているような感じもしない。敵意さえもない。何を考えて彼女は近づいてきているのだろう。見るからに怪しい僕を疑いもしないというのだろうか。
「あなたのお名前は?」
「僕はユキト。【死神】だよ」
「そのようですね。私はあなたと戦うつもりはないですよ、ユキト」
まるで安心させようとでもしているような静かな声に、確かに僕の心は少し気を許していた。あっさり振り返るとそこにいたのは銀髪の美しい長い髪をした小柄な女性だった。瞳は閉じられていて、僕を見ていない。そして、その格好はまさしく教会の修道女だった。シスターと同じような服を着ている。
彼女の言葉の意味を考えあぐねていると、彼女はそれを汲み取ったのかさらに続けた。
「あなたの能力がどうのようなものか、私は存じません。でも、私の力については知っています。あなたは私が敵かどうか考えていた。それは、敵でないものに攻撃はしないことの意思表示だと思いました。だから私はあなたに私の力についてお話ししておきましょう。私の力は日に一度限りの力です。声と引き換えに願いを叶える悪魔の力。たったそれだけです」
「そんな力もあるんだね。僕はまだ知らないことばっかりだ」
「私も、学べる範囲で学んだだけの知識しか持ち合わせていませんよ。あなたがここに来たのは、この力に関する理由でしょう?」
「うん、そうなんだ。僕もよくわからないけど、いつの間にかここにいたんだ。でも、確かに僕は僕のこの力について知りたいと思っていた」
イリスは美しく微笑んだ。初めて彼女の目が開くところを見た。その瞳は赤く、血の色をしている。僕と同じ瞳の色をしていた。
「神の導きによるものでしょう」
「……悪魔でさえも、導いてくれるなんて寛大な神様だね」
彼女は僕を教会へ案内した。僕の家だったあの教会とは違ってまだ建物が新しい。奇麗に整えられていて、細部にまで手入れが行き届いているのが見て取れる。しかし静かだ。僕の家は子供の声が絶えない。ここでは子供を引き取るようなことはしていないようだ。
「ここにはイリスしかいないの?」
「いいえ、牧師様がいらっしゃいます。私はただのシスターに過ぎませんが、この通り小さな教会ですので。空いている部屋を頂いたんですよ」
「ふうん。で、何を教えてくれるの?」
「私の知り得ることしか教えてあげられませんが、あなたは随分困っているようだったので。今夜の宿に心当たりがなければこちらでいかがです?」
「いいの?」
彼女に僕の正体は話していない。殺し屋を生業としていること。悪逆のから逃れて今に至ること。何も。それなのにここまで親切にしてくれるなんて。職業柄でもあるんだろうけど、如何せん警戒心がなさ過ぎる。そういう思いを込めて尋ねた「いいの?」だったけれど、イリスはあっさり承諾した。
確かに宿の当てもなかったし有り難い申し出だったから受けることにした。身を守る術は身に付いているから問題ないだろう。イリスのこんな細い腕に、僕を殺すことなんてできるわけがない。それに。イリスの雰囲気はシスターと良く似ている。同じ職業だからという訳じゃなくて、性格、表情、小柄な体も同じで、僕が彼女に打ち解けるのに時間はかからなかった。
夕食を食べながら、色んな話をした。記憶を失くして今新たな人生を歩んでいること。記憶を取り戻すことができるかもしれないこと。そのために必要なこと。必要なことのために学んできたこと。あいつにも話したことがないようなことをたくさん話した。
「では、ユキトという名前は本当の名前ではないのですね」
「うん。これは僕の鍵を握ってる女の名前。一度だけ、会えたんだけど全然相手にされなかったんだ。僕の力はまだまだで、憐れまれたよ」
「悪魔の力を上回る女性なんて、世界はまだまだ広いのですね」
「うん。僕もびっくりだ。いい加減、返してほしいなあ……」
「あなたなら大丈夫ですよ。私も協力します」
「ほんと?すごく助かる。正直僕一人じゃ何をしたらいいかもわかっていないんだ」
「今あなたがやり遂げたいことは何なのですか?」
この質問には悪逆のことを話さなくてはならなかった。一部始終を話し、戦闘については少し濁した。そして、僕の能力について。腕輪のことだ。鈍く煌めく腕輪をイリスに見せた。腕輪はゆらゆらと色を変え、イリスは真剣にそれを見てくれた。
「どう?」
「そうですね……確かに何か違う。そんな気がします」
「イリスも感じるなら、確実かなあ。でもこれが何なのかわからないんだよ。偽物だとか言われてもどうしようもないよ……。ねえ、イリス。イリスの力はどういうものなのか教えてくれないかな?」
イリスは頷いた。
「私のこの力は言霊、とかそういうものだと考えています。私が意識して命令した言葉は悪魔の言葉として発せられます。それは必ず実現され、現実になるのです。そして、私はその後声を失います。1日に1度だけだというのはそういう意味です。日常会話すらできなくなるので、もう命令することができないのです」
「それって、目には見えないの?僕の腕輪は形になってるけど、イリスのは目には見えない。悪逆のも、扇子の形に見えていたよ」
「そうですね、私も見たことはありません。しかし感じます。この喉元に。確かに邪なるものが存在するのがわかります」
喉元に細い手を当て目を閉じる。僕にも触るように促すので、傷つけないようにそっと触れた。イリスとは、人間のそれとは異なる鼓動を確かに感じた。蠢いている。生きている。
「それにしても、1日1度だけの力で良く今まで生き延びてきたね?悪逆のには会ったことないの?」
「はい。私はそういう察知能力にも優れているようです。おまけの能力という感じですが。悪いものが近づいてきているとわかるのです」
「シスターだからじゃない?」
「そうかもしれませんね。しかし、あなたのことは感じなかった。だからここに受け入れたのですよ」
それはおかしい。僕は人の命をもう数えきれないほども奪ってきている。自分が生きるために、他人を殺している。それを悪だと言わないのなら、なんて呼べばいいんだ?イリスの察知能力とやらも、少しおかしいのかもしれない。
「僕もそういう能力があったら良かったのになあ。そしたら……」
そしたら。僕は。何を考えた。
イリスが察したように手を握る。
「大丈夫ですよ。あなたは神に愛されている」
「神に?冗談でしょ。これが神の仕打ちなの?」
「仕打ちではありません。試練です。あなたは何かを成し遂げなければならない」
「何かって、何だよ」
「わかりません……でも。あなたのその腕輪。やはり悪魔の力だけではなさそうですね」
「わかるの?」
「ええ。私は常にその力と共にありますから。これは、むしろ人工的な感じがします。でも、人にこんなものが作れるはずがありません。本物を参考に作られたのではないでしょうか」
こんな、金属でもなんでもない物質を人が作り出したという。そんなことができるのか。誰が、一体、何のために。疑問が次々に生まれてくる。わからないことだらけで雁字搦めだ。身動きが取れないほど、僕の頭の中ではたくさんの言葉と思いがぐるぐる巡っていた。手首にきっちり巻き付いたこれ。外そうと思っても外れない。記憶を失う前からくっついていた。【ユキト】が括り付けた訳でもない。失う前から。記憶の1つの手がかりになりそうなのに、何も思い出せないのがもどかしい。僕のごちゃごちゃの頭の中とは裏腹に、イリスの頭の中ではシンプルな結論が出ていた。
「それは偽物です。そして、答えがあるのはあなたが育った教会。そこで間違いないでしょう」
僕は絶句した。
夜、客室を借りて僕は床に就いた。
あの後もイリスと話して、教会に鍵があることが確定的だと判断した僕は1度教会に戻ることにした。驚くことに、イリスが同行したいと言う。理由を尋ねても、僕の力になりたいとしか答えない。今日会ったばかりの人間に、こうも協力的に振る舞うのはなにか罠があってのことなのかと疑ったが、イリスはそれでも一点張りだった。イリスとは今日会ったばかりとは感じられないほど親しくなれたと思うし、彼女が悪魔の子だなんて信じられないくらい清純で、神様を信じている。神様を信じているということは悪魔の存在も認めていることになるのだが、それさえも彼女はまっすぐに受け止めていた。こんな正義あふれる真面目な彼女が僕を騙そうとするなんて、考えたくもない。
明日は彼女の準備ができ次第、出かけることになっている。コートを脱ぎ捨てシーツに潜り込んだ。
——どうして赤目なのかしら。両親はどちらも鳶色だったのに
髪の毛も恐ろしいほど真っ黒だ
あの子が生まれた途端、この村は悪いことばかりだ
呪われているんじゃないかしら
近づいちゃだめよ。呪われてしまうわ
近づかないで
出て行ってよ
悪魔の子
悪魔!
僕は何もしてないのに
どうして悪魔だなんて言うの?
そうまでして、僕を悪魔にしたいなら。本当に
そうなればいいのに
「ユキト。ユキト!」
まだ日も上りきっていない早朝、僕はイリスに叩き起こされた。
「うぇ?イリス……?」
「大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込まれている。何か、悪いことでもあったんだろうか。まだ朝も早い。たいしたことじゃないならもう少し寝たい。目を擦ると濡れていた。僕、泣いてる。
「酷く魘されていたんですよ。大丈夫ですか?」
イリスが同じことを聞いた。何が、大丈夫なんだ?泣いていること?イリスが駆けつけて来るくらい魘されていたのか。身震いするような、悲しい夢を見ていたような体の寒気と怠さ。
「ごめんね。悪夢でも見てたんだろうね。ありがとう
「いいえ。まだ早いですから、もう少し眠ると良いです」
「うん、そうする。時間になったら起こして……」
イリスが優しく僕をベッドに戻して頭を撫でてくれた。優しい。気持ちいい。子供扱いされているのは明らかだけれど、こういうのは嫌いじゃない。むしろ好き。うとうとし始めて、目を閉じるとイリスが静かに言うのが聞こえた。
「シャワーの時間も取りましょうね。神父様にこれからのことも話さないといけないから、朝食は少し遅くなると思います。……おやすみ、ユキト」
それから数時間後、イリスは約束通り僕を起こしに来た。今度は魘されることはなかったけれど、その時かいた汗が気持ち悪いからシャワーを浴びた。その間にイリスは簡単な朝食を用意してくれていて、朝食をとりながら神父に休みを頂く許可を貰えたことを聞いた。
「僕なんかのために休みを使うことはないんだよ」
「いいえ。もう決めたことですから。私は見届けたいと思っているんです」
「どうしてそんなに親切なの?」
「正直、わかりません。本能のままに動いているだけですよ。私がそうしたいのです」
イリスは微笑みながら言った。これが悪魔の子なんて、本当に笑わせる。
外は見事に晴れていて、僕の淀んだ心とは正反対だった。教会から出て、僕の家である教会へ向かう道すがら、イリスが少し顔を曇らせて話したことがある。
「ユキトの教会は、十字架がありました?」
「そりゃあ、教会だからね。お祈りをするところだけじゃなく他にもあったよ」
「……私たちの体に表れる十字の意味はご存知ですか?」
「逆十字のこと?悪魔のことだよね」
「ええ。それを教会で見たことは?」
「ないよ。あくまでも教会だし。あるわけがないよ。僕の知らない部屋でもない限りね」
「教会には、そういう場所があるところは多くあります」
「そうなの?」
「はい。それに、私の推測が正しければおそらくあなたのシスターは私と古い知り合いのはずです」
「そ、そうなの?」
「はい。同じシスターですから」
それがどういうことなのかはよくわからなかったけど、同じシスターなら知り合う機会もあったのかもしれない。久しぶりに会えることを楽しみにしている様子も見受けられたから、それ以上僕に付き添うことについては触れないことにした。
それからすぐに教会へ向けて出発した。歩いてきた時は途方もない時間がかかったように感じたが、戻るときはあっという間だった。汽車でも使えば一瞬だっただろう。その程度の距離だったことに、あの時の疲労度を思うと笑えた。体力には自信があるから、おそらく心労。理由が何かなんて、考えたくもない。
教会はいつも同じようにそこにあった。古びた様子も変わらない。昼間だから子供の声がする。イリスがその教会をみて「やっぱり」と小声で言った。
僕は構わずにドアを開ける。
「こんにちわ」
子供達がロビーで走り回って遊んでいるのに声をかけた。イリスも次いで挨拶をすると子供達は元気に返す。
「シスターはいる?」
「はい!お呼びします」
近くにいたこの中では一番年上であろう子供に言うとすぐに駆け出して呼びに行ってくれた。ロビーでイリスと少し会話しながら待っていると何故かローズが来た。
「ユキト!」
「やあ、ローズ」
ぎゅうっと抱きついて挨拶する。最近は何かと教会に顔を出す機会があるから久しぶりだという訳でもないはずだが、嬉しそうに迎えてくれる。少しして離れると、シスターの居場所を聞いた。呼びに行かせた子供はシスターを見つけきれずにローズに話したんだろう。
「聖堂にいるのよ。大事なお客様しか通さない下の方の」
「ああ、子供は立入りが禁止されてるところか」
「ええ。この時間はお祈りしていると思うわ」
「ありがと、ローズ。これ、お土産」
「まあ、ありがとう」
ローズが僕等から離れた後、イリスを連れて聖堂に向かった。そこは滅多に人を通さない裏の聖堂。僕ですらなかなか入れてもらえなかった。熱心な信徒のみが許される場所だとシスターは言っていたけど、今思えばここがイリスの言う「そういう場所」だったんだろう。地下に降りて行き、古びた扉の前で止まった。古いが豪華な装飾がなされている。この中は広くも狭くもない大きさの部屋で、僕はひとりになりたい時によく忍び込んでいた。入ってはいけないというくせに鍵さえかけられていなかったからだ。
「ここですね」
「うん。あけるよ?」
「はい」
静かに扉をあけて、中の様子を探る。シスターはそこにいた。聖堂の真ん中で、静かに跪いている後ろ姿が見えた。音もなく近づいて声をかける。
「シスター」
「あら、ユキト」
一泊置いて驚いたように振り返ると言った。僕だけじゃないことに気付くとすぐに立ち上がる。イリスの顔を見てまた驚いた。
「イリス!?」
「お久しぶりですね」
「急にどうしたのですか?どうして二人が一緒に……」
はっとしたように、シスターは黙った。
「やっぱり、まだこちらにいらしたんですね。この子のおかげですか?」
「ええ。ご存知なのですね」
「一時噂になっていましたから。なら、この子のお願いを聞いてあげてくださいますね?」
「……イリス、あなた」
多分、話している内容は僕がこの教会の資金を援助している件だろう。もともとの援助者がいなくなって、存続が難しかったことを話しているのだと思う。
でも、シスターはそれ以外にもやはり何か知っているようだった。
「シスター」
「……ごめんなさい、ユキト。口止めされているのです。全ては話せません」
「どうして!?」
「あなたは悪魔の子【死神】。わかっていました。私が、預かっているのだから」
「預かる……?」
シスターは僕の質問を無視して祭壇に近づき、大きな十字架にくっついている小さな十字架を回して逆さまにした。下の大理石がガコンと動いた。蓋になってたところが開いたのだ。中に入っているのは小さな箱だった。
「なにそれ?」
「あなたのものです。来るべき時が来てしまったのですね」
「どういうこと?シスター。ねえ、イリス?」
答える気のないシスターに、待ちきれずにイリスに疑問をぶつける。イリスは僕の肩に手をそっと置くと「あなたの腕輪です」と言った。腕輪。
「なんでシスターが……」
「私はこれを託されただけです。必要になった時に、返すために」
「僕のことを知っているの?そういえば、シスターは女らしくしろとかしばらくうるさかったし、ねえ……」
「いいえ。託されただけです。ユキト、あけなさい」
黒い小さな箱は、シンプルな銀の飾りがついている。逆十字。悪魔。
心臓が高鳴る。血が熱く巡る。疼く。
僕はその箱から目を離せなくなって、やっとのことでシスターに一歩、また一歩近づいた。箱を受け取る手が震える。初めて人を殺した時にすら、こんな風に震えたことはなかったのに。
頭のどこかで声がする。
あけろ。はやく。はやく。
不器用な手つきで箱を手に取り、あけた。
そこにあるのは深い闇だった。
「……え?」
真っ黒で、何かが入っているようには見えない。
「なにこれ?」
イリスも不安そうに僕の手元を覗き込むが、見当もつかないらしく首を横に振った。僕はシスターに視線を移した。
「【夜闇】です。今、あなたのその片腕にあるのはこれのレプリカだそうです」
「レプリカ?」
「はい。人の手によって作られたものです」
「そんなことが可能なのですか……」
「誰がそんなことをしたのか、私は知りません。あなたの闇に気付いた誰かが、あなたを守りたいと思った。あなたを守るために闇を切り離して、この箱に閉じ込めた」
「じゃあ、今つけてるこれは?」
「……不安だったのでは、ないでしょうか。それでも、悪魔の子という運命にあなたは巻き込まれてしまうかもしれない。そのための保険の意味を込めて……模造品を作ったとは、考えられませんか」
シスターの話は予想でしかなかったのかもしれないが、僕の片鱗を知っている人が言うのだから、それは真実味を帯びていた。僕は信用する。
手渡されたのは銀の十字架。ずっしり重たい。それを正しい方向で握っていると「逆ですよ」と言われた。逆十字。僕にとって、正しいのはこっち。僕はそれを箱の中へ堕とした。立ち上る黒。闇が天井まで届きそうなくらい広がって、霧のような、もしくは影のようなものがまるで卵の殻のように僕の周りを囲い込んだ。自分が当事者でなければ、恐ろしいことが起こっていると思っただろう。これは、違う。これは僕だ。僕の一部だった。懐かしさを感じる。意識などしていなかった。自然と口から出た言葉は——オカエリ。
弾ける赤。黒い影。妖しく光り、僕の両腕に収まった。レプリカを取り込んで、さらなる闇へ。失くしたものが、戻ってきたような、傷が塞がったような、そんな感覚。
静まると、シスターとイリスを振り返った。イリスは満足そうに僕を見ていた。彼女の目も赤く輝く。シスターは、少し悲しそうな顔をして笑った。
「よかった。不安定さが少し消えたような感じがします」
「ありがとう、シスター」
「いいえ。これもまた、運命なのでしょう」
そう言うと、祭壇の十字架を元に戻して部屋から出て行った。
僕はイリスと顔を見合わせてにやりと笑った。




