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涙雨とセレナーデ

 僕は悪魔の家にいた。ベッドの上でごろんと仰向けに倒れている。

 ここにほとんど住み着いている。家はボロボロになっていて、所々床や壁が腐っているところもあったけれど、元々の作りが丈夫だったのか問題なかった。部屋はもうひとつあって寝室が別になっていたからそこで寝ている。さすがにシーツや毛布は使える代物ではなかったので新調した。

 神女の亡骸は家の裏の墓に埋めた。悪魔の家族の墓の隣に。1人でするその作業は骨が折れた。それでも、一時は共に居た仲間だから耐えた。涙は出なかった。

 墓を創り終えた後は日がな無駄に過ごした。

 森の中は常に暗く、朝晩の区別がもうなくなってしまっていて、1日中ベッドの上でぼーっとしたり、家の外に出ては枯れた木々を眺めたりと進展のない生活を送っている。手がかりがないのだ。


 セーレはあれ以来現れなかった。あの時、最後だと言っていた。彼の言っていたことは相変わらずわからないことだらけだったが、あの言葉は本当だったようだ。

 彼は「欠片を集めろ」と言った。僕が殺した【悪魔の子】はイリスだけだ。7人のうち、ひとつだけ。もう1人、僕の他に大きな欠片を持っている人。せめてその人さえ見つかれば良いとも言っていたけれど、当てがなさ過ぎる。僕たちは確かに引かれ合う運命にあるようだけど、今まで会えたのは悪逆のだけだ。

 そこでふと思いついた。セーレは悪逆のが大きな欠片ではないとは言っていない。ヒントすら言わなかったというのは確かだが、可能性はあるんじゃないだろうか。

 身体を勢いよく起こした。ベッドの上に座ったまま、顎に手を当てて考える。

 きっと、バイロンは僕のことを探しているだろう。夜闇が「完全」になったのを感じ取っていたとしたら必ず現れる。探すのは当然あの屋敷の周辺だろう。

 頭の中をあの時の恐怖が過る。いや、大丈夫。僕は死神だ。今度はやられない自信がある。どこから湧いて来るのかわからないけれど、負ける気がしなかった。


 思い立ったらすぐ行動だ。今まで怠惰に過ごした分を取り戻さなければ。

 立ち上がり、床にしわくちゃになってる外套を拾い上げて埃を払った。フードについた猫耳が揺れる。ばさっと翻して羽織り、適当に身支度をして早速古い扉を開けた。また街までのあの長い道のりを行く。鳥の声も虫の声もしない暗い森を1人で歩く。最初に来た時と、2回目も、1人ではなかった。寂しさが身体を冷やし、ぶるりと震えると腕で身体を庇うようにして先に進んだ。少し前にイリスと笑い合いながら外套につけた猫のしっぽを模した飾りが地面に擦れる。

 足取りは重く、長い時間を掛けて森を抜けると街の中は夜だった。人気のない街を疲れた足をとぼとぼと動かし歩く。森の中にいた時は気付かなかったが月が出ていて夜なのに明るい。照らされるその屋敷はイリスが死ぬ前と何ら変わらぬ姿でそこにあった。明かりの灯る部屋はなく、中に人がいるのかどうか確かめる術はない。勝手知ったる屋敷だから、あわよくば潜ませて貰おうかとも考えていたけれど、彼の所在がわからないうちはやめておくことにした。あまり関わらないことが良いことも理解していた。

 夜は風が冷えるが過ごせないことはない。フードを深く被り、顔を完全に隠した後道の端に雑に腰掛けた。

 バイロンが見つかるまでここを動かない覚悟だった。


 結局数日間、そこから離れたのは食糧を調達するため移動した時と、用を足しに行く時と、座り疲れた身体を動かすためにふらふら歩き回った時くらいだった。昼は重たい瞼を持ち上げて街を歩く人々を何も考えずにただ眺め、たまに睡魔に負けて眠っていた。街の人が見れば居場所のない子供か乞食にでも見えたと思う。昼間はなるべく目立たないように路地裏に座った。

 日付の感覚も麻痺してきた雨の夜、目線の先に人の足が見えた。どうやら僕を見ているらしい。足の指がこちらを向いている。見たことのない靴を履いている白い足だった。その靴は布が親指と人差し指の間に挟まっていて、むき出しの靴底に付いているようだ。よくわからない構造のそれが気になって、久しぶりに声を出した。久しぶりすぎて嗄れていたから、喉を鳴らして言い直した。


「なに、その靴」

「……草履」

「ゾウリ?」


 聞いたことがないものに興味は湧いたが、それよりも声の主の方が重要だということに遅れて気がついた。


「ユキト……」


 顔を上げる。目に雨が入るので顰めて見たが、その人物は確かに彼女だった。真っ黒な光のない瞳が見下ろしている。どうしてここにいるのだろう。その疑問をぶつける前に、彼女が先に話しはじめた。


「苦情が来ててね」

「苦情?」

「そう。家の周りを死神がふらふらしてるって」

「誰から?」


 そう聞くとユキトは目を細めて口の端を上げて、「君の太陽神が」と答えた。


「ナニソレ」

「……君が言ったんだろ」


 面白くないとでもいうように、彼女の眉間に一筋皺が寄った。そして、ため息をつくと促すように後ろを振り返ってそこにいる人物を見た。

 もう1人いたことに気付かなかった事実に僕は身体の衰弱を感じ取った。

 もう1人はゆっくりとこちらに近づいてきて、ユキトの隣に並んだ。


「もう俺のことなんて忘れてしまいましたか?」


 ……ああ。懐かしい声。

 重たくなっていた心が少し軽くなったことに気付かない振りをして、視線を下げた。こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。

 少しだけその温かさに酔っていたが、彼が彼女と共にいることに漸く気がついた。その意味にも。身体が冷めていった。


「ソル」

「ええ。お久しぶりです。お噂は予々」


 嫌味を含むその言葉に苦笑する。


「どうして、」

「『彼女と共にいるのか?』ですか?」


 彼の声は、僕たちが一緒にいた頃とは違うトーンで、それは僕に対する憎しみによる変化だ。僕の行動が彼を変えてしまったのだとしたら、それは僕がまさに望んだことだ。

 こんな仕事を生業としている僕と、一緒にいていいような人間じゃなかったから。『飼い主』がいなくなった寂しさを埋めてくれた彼と共に居たいと願ったばかりに道を踏み外させてしまった償いをしたかった。真っ当で明るい正しい道に、戻ってほしかった。

 でも彼は間違えた。一緒にいるべき人間は、彼女でもない。

 答えずに地面を見つめ続けていたら、彼は勝手に喋りだした。


「捨てられたからですよ。俺は1人でこんな世界でやっていける程強くない。アルテはそんな俺に手を差し伸べてくれた。あなたがいなくなってどうすればいいのかわからなかった俺は縋るしかなかった」


 怒りが含まれるその口調。昔は僕を叱るために使っていたのに、今は罵倒するために使われている。まだ言いたいことがありそうなソルをユキトが諌めて前に出た。


「そういうことだから、死神」

「うん」

「いいの?」

「僕の希望とは違うけど、それがソルの意志なら」


 ユキトがソルを見ると、彼は頷いた。


「当然、俺の意志です」

「なら、何も言うことはないよ。僕、人を待ってるんだ。邪魔しないでくれる?」


 もう外套は水をしっかり吸って重たくなっていて、中にまで浸みてきていたから身体は冷えきっていたけれど、この人たちと一緒にいるよりは1人でいる方がましだ。早く立ち去って欲しかった。僕が現実を受け入れきれていない今のうちに。

 ところがユキトはまだ僕に話があるらしく動こうとしない。もちろんそれに従うソルもその場から動かなかった。


「聞こえなかったの?」


 ただの人間に用はなくて、いつまでも言い出さないユキトに苛立って急かした。遠慮なくものを言う彼女らしくもなく、口を開いたり閉じたりしている。

 それ以上待つつもりもなくて、彼女達が移動しないのなら僕が移動するつもりで立ち上がった。ふらついたけれど構ってはいられない。彼女達のいる方とは反対の、裏の道の方へ進み始めたところで、ようやくユキトの声がした。


「会ったの?」


 足を止めた。主語のない言葉だったので理解できなかった。


「悪魔に」


 それを悟ったのか次いで言う。振り返ってユキトの顔を見ると、その顔は切実なものだった。本当に知りたいと思っているようだ。でも、それは僕も同じこと。


「相手の顔も知らないから探してるんだろ」

「……まだなのか。【神女】はどうしたの?」


 ユキトは恐らく、【神女】が僕を導く役目だと知ってて聞いている。どうして彼女がそんなことまで知っているのか不思議だった。僕だってセーレに聞くまで知らなかったことなのだ。


「死んだよ」


 無感情に答えると、ユキトは目を大きく開いた。


「殺したの?」

「そうだよ。殺されそうになったから殺した」


 そう言うと、ユキトは顔を歪ませて悔しそうな表情を見せた。誰にも言ってないし見られてもいないから当然だが、そのことはまだ知らなかったようだ。

 つかつかと近寄ってきて肩を掴まれた。結構な力が込められていて少し痛い。身体ごと振り返らされると、両肩を掴まれた。


「それで君は何してるの?こんなところでゴミみたいにして、何を待っているの」

「あんたに関係ないよね」


 その通りだったけど酷い言われように苛立った。大体こいつは僕の親を殺した奴だ。僕の記憶に関しても何か知っているはずなのに、聞きたいことがあるのは僕の方なのに。自分だけ聞くのはずるい。


「……ソルを私の側に置いている理由に気付いてないんだね」


 低い小さな声で、後ろで待機している彼に聞こえないように言った。

 思い至ったその理由とやらは、「人質」だった。

 逆らえない自分がもどかしい。唇を噛むと、ユキトは思った通りとばかりに口角を上げた。


「気付いたの?じゃあ教えてくれるよね」

「最低だ、あんた」


 僕から視線をはずして、この距離でも聞こえにくいほど小さく「今更なりふり構ってなんかいられない」と切羽詰まったように彼女が言った。

 肩に置かれた手を払った。


「【悪魔の子】を待っているだけだよ」

「誰を?」

「悪逆の」


 後ろにいるソルがはっとして僕を見た。でも何も言わなかった。


「殺されかけたのに?」


 ユキトは馬鹿にしたように言った。僕は彼女を睨んだ。


「夜闇はもう完全になった。僕は負けない」

「へぇ。やっと本物の死神になったってわけ。それなら、ここで待ってるといい。君の読み通り悪逆はこの辺にいるよ。呼んできてあげる」


 にやにやと癪に障る言い方をするが、彼女が所属している組織ステュクスは【悪魔の子】を追っているようだし、その関係で関わりがあったのだろう。親の仇による手助けというのは気に入らなかったが、それで目的が達成できるのなら安いものだ。受けることにした。

 ユキトはソルに顎で指図すると、ソルはそれに従った。「行くよ」の合図だったのだろう。2人は共にその場を離れて行った。

 僕はそれを見送ると、元の場所に座り直した。




 こつ、こつ。靴の鳴る音。

 膝に頭をのせて休んでいたが、その音によって遠のいていた意識が戻ってきた。雨はまだ降り続いている。

 こんな夜更けに歩き回る人間は少なく、響く足音はそれだけだった。その足音はこちらに近づいてきている。

 彼だ。

 近づくにつれて腹部がじくじくと痛み始めた。確認せずともわかる。今、僕の腹には逆十字と【悪逆】の文字が傷を作っているのだろう。わずかな明かりが影を作る。


「こんばんは、死神」


 掛けられた声は、間違いなくあの時の彼のものだった。僕は勢いよく顔を上げた。


「あはっ、やっと会えたねバイロン」


 思わず笑みが漏れた。野良犬みたいに過ごした数日間、この時を待っていた。今度はしっかりと立ち上がり、目の前の彼と対峙した。久しぶりに見る顔。憎たらしいあの顔だ。

 殺意を感じ取り、バイロンは空気をかえようと思ったのか無駄話を始めた。


「まさか、これほどとは」

「なにが?」

「お前のことだ。『完全』を手に入れたんだな」

「うん。君の言う通りに」


 彼に教えてもらわなければ気付かなかっただろう。僕は不完全な夜闇のままでも満足していた。そのままでも充分に便利だったけれど、今は前以上に僕に馴染んでいる。昔は何かの形を模さなければ使えなかったけれど、今では不安定な形のままでも機能する。人を殺すという、目的を果たすための。

 バイロンは僕から少し距離を取った。あの風を起こす扇も既に握りしめている。隙あらば攻撃をするつもりなのだろう。

 油断させようと思っているのか、まだ話を続ける。


「ステュクスの彼女は1時間経つと様子を見に来るそうだよ」

「邪魔が入るってわけ」

「様子を見に来るそうだ」


 わざわざ結果を確認しに来るらしい。お節介な女だ。

 バイロンはなおも興味津々に僕を上から下まで眺めている。そしてまた後ずさる。彼の武器は遠距離型だから、その方が有利だと思ったのだろう。しかし夜闇がいる今、僕とってこの程度の距離は問題ではない。


「じゃあ、さっさと終わらせないとね。始めようか?」


 外套から腕を出して広げて見せた。腕輪を解放し、彼にお礼の意味を込めて披露する。

 広がる闇をゆるゆると眺めた後、彼は言った。


「……いや、やめておく」


 また一歩、後ろへ。その発言から、彼が攻撃をする間合いを取っていたのではなく逃げる体勢をとっていたのだと理解する。


「は?」


 その真意は理解できず、思わず声が出た。ぐっと喉を鳴らした後、バイロンは答える。


「お前は変わった。前とはまるで違う。闇の濃さが、比ではない」

「何を言ってるの?」

「俺にはしなければならないことがある。死ぬわけにはいかないんだ」

「何を言ってるの?」


 もう一度繰り返した。その意味を彼は理解したようで黙り込んだ。

 それ以上、馬鹿みたいなことを言わせるつもりはなかった。


「僕たちは魂を求めて引かれ合う。【完全】になるために殺し合う。そういう運命なんだよね?」

「ああ」


 目を伏せて、足下をじっと見ながらバイロンはかろうじて聞き取れるくらいの声で返事をした。


「君はかつて僕を殺そうとした。君の気まぐれで僕は生き残ることができたけど、僕を殺しにくるって言ったよね」

「その通りだ」


 今度ははっきりと答えたけれど、やはり僕の方を見ることはなかった。


「今がその時だと思うんだけど、都合のいいこと言っているのは誰?」


 やや間を置いて、漸く僕を見たバイロンは答えた。


「……俺だな」


 僕はその答えに満足し、自然と笑顔が漏れた。安心した。


「そうだよね!自覚してて良かった。それじゃあ、始めようか」

「……すまない。ことが済むまででいいんだ、頼む」


 この期に及んでまだ意志を覆そうとしない。乗り気になってはくれないようだ。笑顔がすっと消えた。心底うんざりしてしまった。バイロンはこんなに腰抜けだっただろうか。かつて僕の前に立ちはだかった人物と同一人物とは思えない。


「お話しにならないんだけど。戦う意志がないってこと?まあ、それでもいいや。君に用なんてないし」

「死神……」

「ね、その魂をちょうだいな」


 巫山戯て言うと、バイロンは必死に弁解を始めた。


「あの時は、必死だった!ああする他なかった。殺さなければ殺される。そうだろう?俺は生きなければならないんだ。守らなければならないものがあるから。でも、今のお前はまるで……」


 バイロンが言い淀んだので僕が続けた。


「まるで?悪魔みたい?」


 こくりと頷いて言った。


「……俺には勝つことができない」


 眉間に皺を寄せてぎゅっと目をつぶり歯を食いしばりながら彼は言った。

 本当に大切なものがあるのだろう。きっとそれを知っているからこそあの時奪おうとしたんだ。死なせたくない大事な人。僕にとっての——

 思い浮かべようとしたところで、もやもやと黒いものがそれを覆って隠してしまった。息を深く吸って、吐き出す。

 バイロンの気持ちはわからなくもないけれど、そんな理由では僕には響かない。


「あのさぁ、勝敗なんてどうでもいいんだよ」


 僕にとって大事なことは勝敗などではなかった。大事なのは、その欠片だけだ。

 一歩、前進した。


「大体、今更許してもらおうなんて狡いよね。枠からはみ出ようとするなんて許さないよ。ソルは君に殺されたんだよ?僕だって、何度も何度も。……たまには君が死んでもいいんじゃないかなァ」


 二歩。三歩。四歩。五歩。

 後ろに下がりながら、怪訝そうな顔を向けられた。


「……ソルは死んでなかったっけ」


 六歩。

 記憶が煙のようにもわもわと。隠れたり見えたり、現れては消え。錯綜している。


「まあいっか」


 七歩。

 バイロンの背は壁についていた。行き止まりだ。苦々しく口をぎゅっと結ぶと、扇を僕に向けた。ようやく戦闘に入る気になったらしい。少し前に出て、構えた。

 楽しくて口元が歪んでしまう。地を蹴って彼に向かって飛び出すと同時に顔の側を刃の風が掠めた。フードがずれ、頬が裂ける。その勢いに顔を逸らすとバイロンは再び扇を動かしてまた何筋か風を生んだが、夜闇で盾を作り去なした。

 彼の懐に飛び込んで、顔を見上げた。なんて生温い。僕に恐怖を与えたあの時とは格段に質が下がっている。

 そっと彼の胸に手を添えて念じると、掌から芽吹く双葉のように刺を伸ばした。夜闇は彼の体内を抉るように貫くと、バイロンは唸るような声を出したが叫びはしなかった。背中から先端が見える程伸びた後、夜闇は霧散した。支えがなくなり貫いた傷口から血が溢れ、色の付いた雨のように染みを作った。バイロンの血を被りながら、倒れないバイロンを見て驚いた。確かに心臓を貫いたと思ったのに。


「おかしいな」


 左手で彼の首を掴んで壁に押し付けた。抵抗はされなかったが、ぐぐっと喉仏が動く。

 夜闇をナイフの型へ変えた。右手でその柄を握り、傷をさらに広げるように入れて裂いた。

 もう一度。もう一度。もう一度。


「……なんで?」


 欠片が見つからないことの方が気がかりだった。体内にあるものを夜闇が何らかの形で取り込むのだと思い込んでいたけれど、違うようだ。


「生きてるの?」


 声を掛けて確認したが、バイロンは答えなかった。首から手を離すとその身体はズルっと崩れ伏した。

 ちゃんと死んでいる。死んでいるはずなのに、欠片が手に入らない。もっと奥の方にあるのかと、仰向けに倒れている身体の横に片膝を付いて、ナイフで胸から下にもさらに傷を入れてみる。雨が流してくれるから、返り血も気にならない。

 どこにあるのだろう。そもそもどんな形をしているのだろう。きっとこいつの欠片がそうだと思うのに。

 血みどろになりながら探っていると、人の気配が近づいてきているのを察した。恐らくあの2人だ。まだ1時間も経っていないと思うのだが、何故来たのだろうか。


「まあ、いいか」


 僕には関係ない。

 探る、濡れた音が響く。身体の、深く、奥深くまで——


「ソル、拘束して!」


 遠くからユキトの声が聞こえた。その後、間を置かずソルの声が近くから聞こえた。


「やめるんだ、ユキト」


 凶器を持っている方の腕を掴まれた。行動が止まる。走って来たようで、息を切らしている。側にはまだユキトが来ておらず、1人で急いでここまで来たのだとわかる。


「放して」

「やめてください。もう死んでいるでしょう」


 ぐっと力を込めて掴まれて、ナイフを落としてしまいそうになる。僕はキッと睨み返した。


「放せ」

「ユキト」

「まだ見つかってない!」


 叫ぶように言って、腕を捻って逃れようとしたが抜けなかった。ソルはさらに眉間の皺を深くした。右腕を掴んだまま、掠れた声で問われた。


「何を探しているんですか?」

「欠片に決まってるだろ。あいつに聞いたんじゃないの?」

「欠片?」


 ユキトはソルに話していないらしい。知らないようだ。僕はそれ以上のことを言うのを躊躇した。巻き込みたくないという思いはまだ隅の方に残っていた。

 僕は黙って話すことはしなかった。しかしソルは頑なに放そうとしないので、無様にもがくのをやめた。もう1人が漸く到着し、ソルの横に並びながら言った。


「もうバイロンの欠片は君の中だよ」


 ユキトはゆるゆると歩きながらソルに革製のベルトを渡した。ソルは受け取ると、僕の腕に巻き付けた。少し抵抗してみせたが、グッと力を込められたからやめてユキトが言った言葉の意味を考える。


「全然なにも感じない」

「【神女】の時はどうだったの?」


 ユキトの言うことは最もだった。確かに、バイロンより先にイリスを殺している。あの瞬間を思い起こした。月明かりに照らされた部屋。祈りの体勢をとったまま血の海に沈む銀色のイリス。感じたのは寂しさと、虚しさだった。あの時はそれがイリスから得たものだと思っていた。けど、違うのか。

 今はただ、何も感じないだけ。


「はっ!なにそれ。ハズレ?こいつ、ハズレかよ」


 乾いた笑い声が夜の静かな路地裏に響いた。他人の声のように聞こえているが、動いているのは僕の身体で、腹から笑いが漏れているようだ。それは心から喜んだ時のものと同じではなかったが、込み上げてきて止めることができない。


「ふふっ、アハハ」


 目は開いているから、はっきりと見える。2人が笑い続ける僕を痛々しい傷を見るような目で眺めているのが。

 苦しくなってきて、死体の側に両膝をつき、人形のように項垂れた。びしょ濡れの地面は雨水だけでなく、血で汚れている。

 雨の音が大きくなった。


「ソル」


 ユキトがソルに声を掛けるのが、夢の中にいるように遠くの出来事のようで。

 中途半端に巻かれていたベルトで、右手だけじゃなく左手も一緒に、腕を使えないようにぐるぐると胴体ごと拘束し始めているのも他人事のようで。

 部屋の中の閉め切った窓から外を眺めているような。別の世界から見ているような、そんな気分だった。


「大丈夫だから。君の家に運んで」

「……はい」


 笑い声と雨の音が続いている。




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