グレイ-深淵に降る雨-
ごめんなさい、ごめんなさい。マーマ。
幼い頃の私はその言葉しか知らず、ただ嘆くように願うように祈るように請うように、言葉を繰り返すだけだ。
ごめんなさい、マーマ。悪い私でごめんなさい。馬鹿な私でごめんなさい。醜い私でごめんなさい。生まれて来てしまってごめんなさい。ごめんなさい、マーマ。ごめんなさい――
狭い路地の合間から見える空はまるで手が届かなく、嘲笑うかのようにこの地区を覗き見している。幼い私はいつもその空を眺めあげながら、ただ純粋に疑問だけを抱いていた。その空に美しさを感じたり、その美しさに焦がれたり、そういったこともなく、ただ単純に疑問だけを抱いていたのだ。
何故あの空はこちらを覗き見しているのに、灰色に染まらないのだろう――と。
怪物と戦うものは、その過程で自らも怪物にならないように気をつけなければならない。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。――かつてニーチェの残したその言葉を、グレイ地区に住む私が知る由もなかったのだが、しかし幼いながらに私はその言葉を肌で感じていたのだろう。言葉ではなく、現象として。現実として。
政府すらも見放したここ、グレイ地区は私にとって人生の親であった。何より尊き師匠よ、グレイ。グレイを歩けば、腐敗した死体とよく出くわす。白濁した目玉は膨張していたり崩れ落ちていたり糸をひいていたりする。割れた額からは黄色い汁がまとわりつく骨が覗いていたりする。飛び出した腸からは糞が覗いていて、蛆がわき、鴉がついばんでいる。衣服などは全て、体のどこかが欠損した子供たちが競うように剥いで行く。グレイは私にとっての師匠だった。私は現実を知っていた。私にとって現実は死だった。死は死体だった。それが現実。これが現実。現実。現実。
私を産み落とした女は、グレイで仕事をする売女だった。
マーマはよく私に言ったものだ。マーマの手が私の首を絞めることも、私の頭を角に何度もぶつけることも、わたしの頭に熱湯を降り注ぐことも日常茶飯事であったし、その度に同じ言葉をよく吐いた。
私の金をどこまで削ればいいの、ずうずうしい子! 吐き気がするわ、醜い子! 生まれてくるなんてよく出来たわね、恥ずかしい子! どうして私に金を持ってこないの、馬鹿な子!
――血を吐き、嘔吐しても、胃壁が削れるだけで何の意味もなさない。生きることも死体となることも、同様に何の意味も為さない行為でしかない。だからこそ、私たちは生きることにしがみ付いていた。マーマは私を産み落としただけでなく、そうしながらも生かしてくれた。それはグレイにすれば非常に稀有な行為であっただろう。
私は言葉を知っていた。物乞いをする子供たちが口にする「おなかがすいた」以外に、言葉を知っていた。
マーマが私をぶつときに、私は何度でもその言葉を口にした。
ああ、マーマ。マーマ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。その言葉だけを知っていた。
その日も深淵を覗いている筈の空は深淵に染まることもなく、ただ乾いた青をもって嘲笑を私に注いでいた。マーマにぶたれた頬は腫れ上がり、感覚すら失った右足を引き摺りながら幼い私はグレイの道を歩いていた。当時、私は恐らく十二、三のローティーンだったと思う。私はとても小さく、そしてとても醜かった。
顔の右半分は幼い頃にかけられた熱湯のせいで赤く爛れ、目蓋すら持ち上がらない状態だった。縮れた黒髪はマーマの美しい金髪とは似ても似つかず、マーマの顧客のもの――ようするに顔も知らない父親のそれを受け継いだのは明らかだった。左手の二の腕から下の部位はそれ自体がなかった。生まれてすぐの頃にマーマに切られたのだ。グレイには体のどこかが欠損している子供が少なくない。外に出て物乞いをするさい、そのほうが哀れみを誘い物乞いがしやすいからという理由で、生まれたばかりの子供のどこかを切り落とすのだ。
どこかで銃声が響き、綺麗なイントネーションの助けを呼ぶ声が響いてきて、私は足を止めた。続いて弾け上がった笑い声に納得した。無用心な観光客か何かが、狩りにあったのだろう。珍しくもない。
私はすぐに興味を失くし、グレイと外とを分ける狭い路地に足を向けた。狭い路地の向こうは一本通りを挟んだだけだというのに別世界になる。そこはグレイではなく外であり、それはつまり私たちにとってすれば非現実だった。そして金を得られる場所だった。外に出ることはなく、路地の端、外とグレイの境界線で私は足を折って座り込む。そしてただ待つのだ。通りを行くお洒落な外の住人たちが哀れみの視線を向けてくるのをただ静かに見つめ返し、骨と皮だけのぼろぼろの右手を差し出して、乞うのだ。「おなかがすいた」「おなかがすいた」と。それは毎日の行為であり、何時間も何時間も続く行為だった。それが生きる術だった。その日もいつも通り、私は同じ言葉を繰り返していた。
ふいに視界が翳った。私は唱えるように繰り返していた言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。そこに男が立っていた。見上げる。それは三十歳程度に見える黒人の男であった。彼はとても大きく、とても裕福そうにさえ見えた。男が厚手の帽子をかぶり、分厚いコートを着込んでいるのを見て、ようやく私はその日とても寒かったのを自覚した。男の息が白く煙る。葉巻臭い息だと思った。
「寒く、ないのかい?」
男が言った言葉は理解できたが、しかしながら幼い私は自ら喋るには知識も経験も足りなかった。喋れる言葉は限られていた。だから喋れる言葉を呟いた。
「おなかがすいた」
「そう、おなかがすいたのか」
男の目が哀れみをもって細まるのを、私はただじっと見上げていた。その私の視線を受け止め、男は黒い手を私の頬に添えてきた。指輪がはまっている、金持ちの手だった。
「酷い傷だ」
醜女と言われたのとそう思った。私はあの頃労りなどと言う感情を理解するだけの知能はなかった。
「ごめんなさい」
「……君が謝ることじゃない」
「ごめんなさい。ごめんなさい。醜い私でごめんなさい」
その言葉を吐いたとき、男の顔が奇妙に歪んだのを覚えている。男の親指が、私の開かない目蓋を撫ぜた。
「……醜くないよ、君は美しい」
何を言われたのかは理解できなかった。だから私は単純に疑問を表す為に首を傾げた。男が深いため息をついた。
「……君はおなかがすいたんだね」
知っている言葉だったので、私は頷いた。男が自らの懐に手をいれて幾枚かの折れた紙幣を取り出したのを見て、私は引っ手繰るようにその金をもぎ取った。紙幣を握り締めていたが、男が立ち去らなかったので私は疑問を持ってまた首を傾げてみせた。男は何かを諦めたように首を振った。
「いいや。君はずっとここにいるのかい?」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくれ」
男は葉巻臭い吐息をついた。乾いた冬空を見上げて、口中でだけ何かを唱えたようだった。男は少しの間じっと佇んでいたが、やがて何かを決めたかのように私の前で腰を下ろして、私の醜い瞳を覗き込んできた。
「私はもしかしたら、君を一瞬救えるかもしれない。だけどそれは、君を地獄に招くのと同じ事になるかもしれない」
「……?」
「神に背いて、悪魔に魂を売ることはできるかい?」
その時普段は動くことのない感情と言う名の部位が、薄くではあったが確かに疼いたのを覚えている。それは嘲笑ったのだ。男の言葉はいっそ滑稽なほどにナンセンスだった。グレイの神は、悪魔そのものであることを彼は知らなかった。
「もしそれができるなら――」
黒人の男は、躊躇うようにまたコートの中に手を入れてそして「それ」を取り出した。「それ」は私の人生を劇的に変える物だった。その日、私は知らないうちに人生の岐路に立っていたのだ。「それ」は白い錠剤が入った透明な袋だった。錠剤は数粒程度だった。
「これを飲み込んでごらん。君はきっと、少し楽になれる。足りなくなったら……」
男はどことなく苦しそうに見える仕草で、言葉を紡いでいた。
「また、ここにおいで。ただであげ続ける事は出来ないかもしれないけど……どうしても、必要ならね」
私はよく判らず首を上げた。男は私の視線に混じる疑問符に気付いてくれた。
「魔法の薬だよ、小さなレディ。私は魔法の薬を売る男なんだ」
魔法の薬という言葉が耳に残った。それはとても甘美な響きで、幼い私を惹き付けて止まなかった。魔法の薬と称された錠剤を見下ろし、私は小さく頷いてみせた。男は少しだけ寂しげに微笑んで見せて、それから帽子を深く被り直して通りを歩いていった。一瞬だけ触れ合った現実の男は、通りの向こうの非現実へと紛れていった。幼く醜い私に残されたものは紙幣と、そして魔法の薬だった。
紙幣と魔法の薬を握り締め、私は帰路についた。紙幣はマーマの手に渉り、結局その日も私は空腹を抱いたまま眠る事も出来ずにまんじりと夜が過ぎるのを待つ事になったのだが、マーマにばれないように隠し持っていた魔法の薬を思い出した。魔法の薬。その響きに、幼い私はとても魅力を覚えていた。
臭いの染み付いた薄い毛布を剥がして身を起こす。手垢のついた黒い石の壁の向こうにマーマの気配がないか探ってみたが、当然のようになかった。マーマは仕事へ向かったのだろう。私はそう結論づけて寝床から立ち上がった。とても寒い夜だった。白く吐いた息で右の指先を微かながらに暖めて、着衣の下に隠していた魔法の薬を取り出した。
――神に背いて、悪魔に魂を売ることはできるかい?――
脳裏に反復された男の言葉が私に最後の一線を踏み出させるための引き金となった。熱に浮かされたように、私はその薬を口にした。
口内に放り込んだ錠剤は溶けることなく食道を下っていく。
そして、私の世界は一変した。
とても月の綺麗な夜だった。深い淵の底からだからこそ、私はその月の美しさを誰よりも良く知って理解していたのだ。
黒人の男と再会したのは、それから一週間後のことだった。魔法の薬はとうに切れていた。
男は私を見つけると福与かな頬を緩めた。その頬の動きを私は左目でただ追っていた。
「やあ。また逢ったね、小さなレディ」
男はまるで旧知の友のように、私の醜い顔に手を添えて頬でキスを交わした。私はとても驚いた。マーマが誰かにしているのを見た事は何度もあったが、私がされるなどとは夢にも思っていなかったからだ。しかし私は理解した。それが魔法の薬の効果だった。心の中が熱くなる。
祈りが通じたのだろう。グレイの神は悪魔そのものではあったが、だからこそ醜女であった私の祈りでさえ聞き届けてくれたのだ。世界は変わり始めていると私は信じた。何しろ男は私にキスをしたのだ。私はキスをされたのだ。キスを!
「――薬は、飲んだのかい?」
男は私の頬から手を離し、黒い瞳で覗き込んできた。瞳の中の私はその時はとても醜かったが、私は知っていた。それは薬がないからだ。
「まほうのくすり」
私がごめんなさいでもおなかがすいたでもない言葉を発したのを見て、男は僅かに目を見開いた。私の唇は震えていた。
「そう。そうだよ。魔法の薬。……飲んだのかい」
訊ねるというよりは確認の口調に私は「うん」と小さく頷いた。「飲んだ」。男の目が例えようのない色に変わった。
男は無言のまま私の縮れた汚い髪を撫でた。フケがまるで雪のように降り落ちる。空はその日青ではなく澱んだグレイに染まっていた――それこそ、雪でも降りそうな様子で。その灰空を見上げ、私は納得した。空は深淵を覗きすぎたのだ。
「魔法の薬は君を少しでも救えたかい? それとも、地獄へと誘ったかな」
男の顔を見て、私は強く首を左右に振った。魔法の薬は素晴らしかった。とても素晴らしかった。それは奇跡だった。とてもリアルな奇跡だ。リアルであるということは、それは現実であるということだ。腐敗して崩れ落ちる死と同じ、それは現実だった。奇跡が現実に成り得たのだ。魔法の薬は、まさに魔法だった。この男は幼い私にとって魔法使いそのものだった。私は震えながらも、拙い舌足らずな音で男に言葉をぶつけ掛けた。
「くすり、ほしい」
男が逃げないように自由な右手で必死に男のコートを掴んだ。
「魔法の薬、ちょうだい」
殴られるのは覚悟していた。ところが男は殴らなかった。私の頬を撫で、男自身の頬を寄せてきた。
「すまないね、レディ。あれは私の商売道具だから、そう簡単にあげることが出来る物じゃないんだ。すまない……すまない。少しだけ、待ってくれないか」
待てなかった。あの薬は奇跡だった。魔法だったのだ。あの薬を飲み下してからの約半日ほど、私は奇跡を体感していたのだ。私は、その半日間――醜女ではなかった。とても美しい人間になれたのだ。
縮れた黒髪は長く美しいストレートだった。右顔半分の火傷などなくマーマと同じ美しい顔になっていた。腕もきちんと両方そろっており、肉もついていた。ローティーンらしく、なによりも瑞々しい美しさが備わっていた。あの時間私はマーマより美しかった。そして知ったのだ。理解したのだ。マーマが今まで私を殴りつづけていたのは私に嫉妬していたからだったのだ。私はこれほどまでに美しい。グレイは色を変え踊りつづけ私を祝福してくれたし、男は今私にキスをしてくれた。そうなのだ。男だけが私の真実の姿を知っている魔法使いだったのだ。あの薬は、私にかけられた魔女だか悪魔だかの呪いを解くための魔法だったのだ。待てる訳がなかった。
「欲しい」
「……レディ」
「あれがあれば、私は美しい。私は美しい。だから、欲しい」
男の目を覗き込みながら私は願った。そして、ふと思いついたのだ。男はあれが商売道具だという。なら、商売させてやれば良いのだ。顧客になれば良いのだ。そして私は決定打の言葉を口にした。
「なら、私を買って」
男の目が一瞬驚きに見開いた。私は頷いた。
「私を、買って?」
マーマが良く口にする言葉だったので、アクセントもイントネーションも良く知っていた。どうすれば良いのか知っていた。見上げて軽く首を傾げるのだ。マーマはいつもそうしていた。
その瞬間、聖人のようだった男の目が正しく「男」の目に変わった。私は勝利したのだと確信した。再び私は魔法の薬を手にしたのだ。男の葉巻臭い腕に抱きしめられながら、私は体の内部から沸きあがってくる喜びを押し殺すことが出来ずに震えていた。聖人であった男は正しく男になった。それは単純なことで、男は恐らく深淵を覗きすぎたのだ。男もまたグレイに染まったのだ。
その夜私は男に抱かれた。初めてだった。
あの夜から、幼く惨めで醜い少女であった私の人生は変わった。魔法の薬のおかげで私の人生は素晴らしいものへと変貌していったのだ。
男と幾度も寝て、あるいは男が紹介してきた「顧客」とも寝た。寝れば魔法の薬を手に入れることが出来たのだ。それはなんと素晴らしいことだったろうか。私はいつしかマーマの元から去り、男とともに過ごすようになった。男は私にとても優しくしてくれた。親切にさえしてくれた。それが愛という情であったということを、私は成長するにつれて知っていった。男は私を愛してくれていたのだ。私は初めて人に愛された。男は私にとってまさに魔法使いであった。神に感謝し、男に感謝した。そして私はとても美しくありつづけた。魔法の薬を飲みつづけている間はとても幸せだった。私は醜女ではない。とても美しいのだから。
空は幾度も色を変え、季節を越えていった。人生はそれこそ薔薇色に輝き始めていた。
そして私は今、誰よりも美しいハイ・ティーンになっている。
その夜もまたいつも通り私は男に抱かれていた。
行為が終われば私は全裸のまま男の腕に抱かれて、そしてそのまま眠りにつく。特に理由があった訳ではなくそれは習慣だった。深夜過ぎだった。私は唐突に目を覚ました。
ベッドから身を起こし、頭を振る。どうしてこんな夜中に目が覚めたのだろう。薬の効果が切れたのだろうか。そう思うとぞっとした。鳥肌がたった腕をさすり、私はもう一度首を振った。今度の振りは先ほどとは意味が違い、悪夢を振り払うためのそれだ。
ベッドサイドの机に手を伸ばす。水と薬はいつだってそこに置いてあった。私は常にそうしていた。それが習慣だったのだ。ぬるい水を使って薬を喉に流し込む。ほんの一瞬体内がざわめいたが、それだけだった。問題ない。私は美しい。机に置いてあった鏡を見て頷いた。美しい。黒く長い髪は艶があり、大人びた顔立ちは整っていて、痩せてはいたがそれなりにつくべき肉もついている。マーマより今の私はずっと美しかった。笑みが零れる。あの日、魔法の薬と出逢ったからだ。私はまるで童話の中の姫君だった。醜女であったあの幼い私は美しい私へと変貌した。今はこれが、美しい私が現実だった。
私は変わったのだ。あの頃のごめんなさいとおなかがすいたしか言えなかった幼子ではないのだ。醜女ではないのだ。ああ、神よ。あの夜の祈りを聞き届けてくださったのですね。我が神よ――貴方に心より感謝の意を。醜女であった私に生を与えてくれ、その上で私を醜女でなくして下さったその慈悲深き御心に、何よりも感謝を。何よりも感謝を。
唱えるべき聖句は知らないままであったので、ただ静かに胸元で手を組んで祈った。再度目蓋を開けて、私はもう一度眠りに付くべくベッドに横になった。眠ったままの男の頬にお休みのキスを――それは習慣であった――しようとして覗き込む。
そして、私は愕然とした。
硬く目蓋を閉ざした男の寝顔は――ああ、何ということか神よ――酷く醜かった。醜かった、醜かった、醜い! 泥の様な色の肌には深い皺が刻まれている。分厚い唇は死体の膨れた眼球のようにさえ見えた。葉巻臭い息。黄色い歯。年老いたただの中年だった。魔法使いなどではなかった。醜すぎた。酷く醜い。何ということだ――私は寝ていたのだ。この男と! この男と! この醜い男に抱かれていたのだ、美しい私が! 美しい私が美しい私が美しい私が美しい私が醜い男に醜い男に魔法使いではない醜い男にただの中年に醜い男に抱かれて――!
私は言い様のない感覚が体を浸食していくのを感じた。それは恐怖だった。それは怒りだった。それは憤りだった。それは絶望だった。吐き気でもあった。体が震えた。指先が冷えていた。しかし頭は熱かった。私はベッドを降りた。出来るだけこの醜い男から遠ざかりたかった。醜さがうつってしまうと私は醜女になってしまうと感じた。何より恐怖だった。私は美しいのだ。それが現実なのだ。現実が覆されるわけがない!
男が目を覚ました。くすんだ眼球を私に向けている。小汚い。醜い。ああ、何てことだろうか我が神よ――あの目で見られていたならば、私は腐ってしまう! どうにかしなければ――!
「……どうした、レディ?」
耳が腐る目が腐るあの男に見られたら声をかけられたら全てが腐り崩れ落ちる死体のように死体のように死体のように死体になる死体になる死体になる――!
私は後退った。美しい私に近付くべき生き物ではなかった、あの男は。男が怪訝な様子で首を傾げて立ち上がったとき、私は勝利を確信した。あの日と同じに勝利を確信した。私の指先に男がいつも身につけている銃が触れたのだ。両手は動かなかった。腕は魔法の薬の効果で両方揃っても、私が操り感覚を得られるのは右手だけだったからだ。右手だけで銃を拾い上げた。操り方は男が時折行っていたので知っていた。私はその通りにした。男の目が恐怖と驚愕に見開かれるのを見て嘲笑った。
私は美しい。それが現実であったなら、この男は私にはつりあわない。何故なら私は美しいのだ。マーマより、誰より美しいのだから!
私は笑った。美しく笑ってみせた。せめて最期に、この男にも祝福を。そうでしょう、我が神よ――?
「さようなら」
乾いた銃声はいつもグレイにある現実で、流れ出た脳漿も血も確かに現実であった。
私は男の持っていた薬を全てかき集め、銃と魔法の薬を握り締めてその場から逃げ出した。私はとても美しく、美しいということはそれをするだけの権利があったのだ。マーマが私にそうしていたように。
空は夜色で暗く、そして雨雲を抱いていて澱んでいた。深淵を覗きすぎたのか深淵そのものに変じていたように私には思えた。あの乾いた青はどこに行ったのだろうと、そんな事を少しだけ考えた。
男と寝ていた家を飛び出すと、夜はやがて雨を引き連れてきた。冷たい雨ではあったがしかしあの夜のように冬ではなかったので、私は濡れるがままにして重い足を引き摺って歩いていた。グレイを歩いているとやはり死体に出くわす。ここ数年はさらに酷くなっていた。実の所その光景は近年外にも飛び火していると言う――外ですら、この数年は飢餓に襲われているらしい。しかし関係がなかった。私は美しく私を買う男はいた。だから金があった。薬もある。今なら銃もある。
私は無言で雨のグレイを歩きつづけた。娼婦たちが屯する一角に来て笑みをこぼす。どの女も私を見ていた。ああ、哀れなり。どの女も醜い。私は誰よりも美しかった。娼婦たちは私より歳を重ねていて老けていたし――当然だ、私はハイ・ティーンの未だ少女と呼ぶべき年齢であるのだから――とてもではないが美しくなどなかった。私は嘲笑った。あの女を買う男もいるのだろうが、しかし私は誰より美しい。あの女たちの顧客を私がとってしまえば、あの女たちは餓えて死ぬのだろうか。それもまた面白いことに思えた。やってみてもいいだろう。
どの女をターゲットにすべきか、私は視線を端から端へと向けていった。安っぽい下着のような赤いドレス。黒のドレス。身につけている物は皆どれも粗悪なものであった。そして私は彼女と出逢った。否――再会した。
金色のゆるく波立つ髪。深い紺色のドレスはそれが一番金髪を映えさせるのに適していると彼女自身が良く理解しているからだ。年老いていた。皺も深く化粧では隠せないほどであった。しかしきっちり惹かれた紅が彼女の中のプライドを確かに艶やかに見せさせていた。
マーマだった。
ぞっとするほどの冷たさが私の身を包んだ。幼い醜女であった私に戻ったかのような恐怖が身を苛んでくる。私は動くことも息をすることも出来ずにその場で立ち竦んだ。からからに乾いた口中で「ごめんなさい」が響くことなく掠れていった。
マーマの蒼い目が私を見つけた。マーマも酷く驚いていたようだった。唇が歪み笑みを作った。私はそれを見守るしか出来なかった。
「……久しぶりね」
怖い。
ごめんなさいの言葉が私の中で響き渡った。細胞中が声を上げていた。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、マーマ。ごめんなさい、どうかどうか、ぶたないで――!
動けずにいる私を見て、マーマが笑った。
「どうしたの、醜い子?」
その言葉が私を幼く醜いあの頃から今の現実へと引き戻した。あの頃の私は醜かった。小さかった。だけど違う。今の私は美しい。美しいのだ!
「醜くなんかないわ」
震えた声は確かに私の唇から漏れたものだった。マーマが微笑む。
「言葉を覚えたのね、私の醜い子よ」
「私は美しい、貴女より!」
雨の中、私は悲鳴のように叫んでいた。雨音はまるで泣き声のように聞こえた。
マーマが笑った。とても深く、深く、深く笑った。自身の右頬を指して、それから私に指を向けた。
「本当に?」
ぞっとした。私はまるで熱に浮かされたかのように、右頬に手をやった。奇妙な感覚が返ってきて、私の肌は総毛だった。恐る恐る顔を下に向けた。水溜りに私の顔が映っていた。
――息が、出来なかった。
右の半分顔は無かった。こけた頬が爛れ落ちて赤く澱んでいるだけだった。長く美しいはずの髪は縮れて跳ねていた。荒れた肌はぼろぼろで湿疹が出来ていた。目は落ち窪み、黄色い眼球が腫れあがり、歯はかけていて左腕は二の腕から下が無く――ああ、何ということか何という事だろうか我が神よ――これが、私なのか? 私は、私はとても――マーマよりとても――醜い?
ちがう。ちがうちがうちがう。あってはいけないのだ。これは非現実なのだ。魔法の薬の効果が切れたのだ。こんなのは現実ではないのだ。私は美しいのだから、美しい私が美しい私であることこそが現実であるのだから!
私は震える右手で薬を懐から取り出した。貪るように噛み砕いて飲み下した。魔法の薬が切れたのだ。ただそれだけだ。私は、私は美しいのだから!
「醜い子! 変態専門の売女! 汚らわしい! 汚らわしい!」
マーマの甲高い嘲笑に私は耐えられなかった。銃を持ち上げて、マーマに据えた。マーマの笑みが固まったのを見て、私は笑った。
「マーマ、これは天罰よ。だって貴女は神が認めた美しい私を笑ったんですもの。だからこれは天罰なのよ、マーマ。私は、美しい!」
右肩に酷い痛みが走って、銃声がこだました。周りの娼婦たちが悲鳴を上げるのを遠くで聞いた。
マーマはあの男と同じに頭から血を流して死んでいた。絶え間なく降り続く雨が、マーマの血を流して赤い水溜りをつくっていた。
私は恐る恐るその水溜りを覗き込んだ。そして、ほっと息をついた。問題なかった。私はいつも通り、とても美しかった。とても。とてもとてもとても。黒髪は流れる夜のよう。柔らかなハイ・ティーンの肌。とても美しい顔立ち。マーマの血の中の私は、マーマよりずっとずっと美しかった。当然だった。神は私に微笑んでくれたのだから。
マーマの醜い死に顔を見て、私は笑った。感謝するのを忘れていた。マーマに対して、忘れていた。
私はマーマの美しかったはずの金髪を撫でて微笑んだ。雨が静かに降り続いている。
「マーマ。私マーマに言わなきゃいけないことを忘れていたわ。マーマ、私を産んでくれてありがとう。こんなに美しく私を産んでくれてありがとう、マーマ。私をこんなに美しく産んでくれて、ありがとう、マーマ」
グレイに降りつづける雨は、いつまでも止みそうになかった。
そして私はいつまでも美しくありつづけられるのだと確信していた。
「マーマ。ありがとう、大好きよ、マーマ」