第五十六話:死魂の暴風域
―――2019年、フランス西部、レンヌ郊外のとある墓地。
空は夜闇に染まり、辺りはひっそりとした静けさに包まれていた。
『―――ッ!?だ、だれ?』
こんな不気味さの漂う真夜中の墓地だ。自分以外誰もいないだろうと思っていた少年は驚愕で手に持っていた懐中電灯をポトリと落とし、底知れぬ恐怖に声を震わせた。
そして地面に落ちた懐中電灯の光が墓場にいるもう一人の人物の姿を照らした。
そこには真紅のドレスを身に纏った一人の女が墓石に背を預けた体勢で芝生に座り込んでいた。
年齢は20代後半くらいだろうか。まず目につくのは光を反射して輝きを放つ腰の辺りまである流れるような長い銀髪、そしてドレスから覗かせる真珠のような輝きの白い肌。
『―――む?なぜガキがこんな時間に墓場をうろついておる?』
どこか気怠そうな声でそう言うと女はこちらへ顔を向けてきた。
『―――ッ!』
少年は肩をビクリと震わせた。女の容姿はまるで西洋人形のような繊細さとバランスのとれた端整な顔立ちで、見るものを見惚れさせるような美しい造りをしている。ドレスを身に纏っているその体も女性らしさを象徴しているかのような妖艶な色気が溢れ出ている。
血の凍りつきそうな美人がそこにいた。だが彼が肩を震わせた最大の理由は別にあった。
(・・・目が)
暗闇のなかで不気味な輝きを放っているその赤い双眼に彼の視線は釘付けになっていた。
『―――おい、聞いておるのか?』
『・・・えっ?』
『じゃからぁ、なぜ汝のようなガキがこんな所におる?』
『・・・最後のお別れを言おうと思って・・』
『お別れ?誰にじゃ?』
『母さん。もう当分の間ここには来れないから』
『何処かへ行くのか?』
『日本だよ。明日の朝には出発しないといけないんだ』
『ほう、和の国か。懐かしいのう』
『お姉さん、行ったことあるの?』
『昔一度な。あの島国に何しに行くんじゃ?』
『・・・新しい家にお世話になるんだ。母さんが死んじゃって僕一人になったから・・』
『父親はどうした?』
『・・・知らない。物心ついた頃にはもういなかった・・母さんも最期まで何も言ってなかったし、生きてるのかどうかも知らない。今までずっと母さんと二人で暮らしてきたんだ』
『―――ふむ、なるほどのう。それで、母親の墓石はどれじゃ?』
『・・・それ』
表情を濁して少年は女が背を預けている墓石を指さした。
『おっと、すまんすまん。これは悪いことをしてしもーた―――よっこらせ』
気怠そうに立ち上がった女。座り込んでいる時は分からなかったがかなりの長身で170センチは優に超えている。
『―――ッ!』
そして彼女が退いた後の母の墓石を見て少年は目を見開いた。
『・・・これ、血・・?』
女が背を預けていた部分が真っ赤に染まっているのだ。さらによく見てみると地面の芝生も血の色に染まっている。
『・・・・』
恐る恐る真横にいる女を見上げると―――
『―――ッ!う、腕がぁ―――っ!』
叫び声を発しながら大きく後ろによろめいて芝生に倒れ込んだ。
女の右腕は何かで斬り落されたかのように肘から下がなかった。切断面から絶え間なく出血がみられ、緑の芝を赤く染めていく。
それだけでなく、背中にも刀で斬られたような大きな切り傷があり血を流している。よく見るとドレスも所々穴が開き、裂けていてボロボロの状態だ。
『あ~、これか。ちと深手を負ってしまってのう』
『そんなこと言ってる場合じゃないよ!早く病院に行かないと!』
特に痛がる様子もなく呑気な口調で言う女に少年は声を荒げて諭す。
『無駄じゃ無駄、医者なんぞに診せてもこの傷は治りはせん』
『・・・じゃあ、どうすれば・・』
『―――キシッ、そうじゃのう―――』
―――ギロッ
直後、女は目つきを変えてゆっくりと少年の方へ歩み寄ってくる。
『―――ッ!』
少年は突然、身の危険を察知してその場から逃げようとするが―――
(―――ッ!?か、体に力が・・・!)
抑えようのない恐怖のせいなのか、体に力が入らずまともに動くことすらままならない。
『キシシッ、逃げられはせんぞ小童』
―――グッ
『―――うっ・・・』
そうもする間に女が眼前で屈みこんできて左手で顎を掴んできた。
『なんとまぁ―――愛らしい顔をしておる』
爪先の尖った細長い指で愛でるように少年の頬をさするその表情は狂気的な笑みに染まっていた。
『・・・ぼ、僕を・・どうするの・・?』
恐怖でガクガクと体を震わせながら少年は声を絞り出した。
『む?どうするってそりゃあ――――』
女は当然といった様子で言い放った。
『―――喰うに決まっとるじゃろう』
そう言って舌なめずりした女。その艶めかしい舌に黒いタトゥーのようなものがあったのが微かに窺えた。
『―――ッ!?く、喰う・・・?』
『そうじゃ、なんたって妾は吸血鬼じゃからな。汝のような若い男児の血肉を喰らえば多少の回復も見込める』
二ィと歪ませたその口元から覗かせる尖った犬歯に先が僅かに尖っている耳、そして獲物を見るような目つきで彼を見据えている赤い光を放つ双眼、確かに物語などでよく聞く吸血鬼に見えなくもない―――というよりも吸血鬼にしか見えなくなってきた。
『・・・・』
―――スッ・・・
すると少年は全身に力を入れるのをやめ、一言発した。
『・・・いいよ』
『・・・む?』
あまりに潔い彼の返事を聞いて女は思わず眉を寄せる。
『・・・変わったガキじゃのう。なぜ抵抗せん?泣き叫ばん?恐怖を感じんのか?』
『そりゃ怖いよ。怖くて足の震えが止まらない。でもさ―――僕ちょうど、死にたいと思ってたから』
無理やり作った笑みを浮かべて少年は女を見上げる。
『母さんはもういない・・・もう生きててもいいことなんてない。行ったこともない国で知りもしない他人といきなり家族になるなんて・・・僕には無理だよ・・・僕には母さんしかいなかったから―――なんかここで死んだら母さんのいる所へ行ける気がするんだ・・・』
その言葉の一つ一つからは彼の“絶望”が滲み出ている。
『・・・随分とまぁ、可愛げのないというか、冷めたガキじゃな』
『でも僕が死んだらお姉さんのケガ、良くなるんでしょ?そしたら僕とお姉さん両方の希望が叶えられる―――これってwin-winでしょ?だからいいよ―――それにお姉さん、なんか気味悪いくらい美人だし。でも出来るなら痛くないようにしてほしいな』
『・・・キシッ、面白い。真に変わったガキじゃ―――よかろう、ならば最高の快楽を与えながら喰らってやろう』
『かいらく?何それ?』
『“気持ちよ~い”ことじゃ。妾に直接生き血を吸われる者は言葉では表現できぬほどの快感に酔いしれながら死を迎えることができる――――キシッ、こんな喰らい方は滅多にせんから汝は稀に見ぬ幸せ者じゃぞ小童』
『・・・よく分かんないけど、痛くないならいいよ』
『こんなちっこいガキに説明しても時間の無駄か・・・そろそろ妾の肉体も限界じゃ、ではさっさと始めるぞ』
『・・・う、うん』
―――スッ
言葉を交わすと女は少年の小さな体を引き寄せてその首筋に唇を近づける。
『キシシッ、柔らかくて美味そうな肌じゃ。血を吸った後にその皮と肉も残さず喰ってやる』
『・・・・』
『怖いか?』
『そ、そりゃ怖いに決まってるよ・・・死ぬんだから』
『・・・後悔はないか?』
『ないよ。母さんと過ごした毎日は本当に楽しかったから』
『キシッ、そうか・・・正直なことを言ーとじゃな、今日汝がここに来ておらんかったら妾は間違いなく死んでおった―――礼を言う』
『・・・いいよ、そんなの。それより早く―――このままじゃ漏らしちゃいそうだから』
力なく笑いながら涙を浮かべて少年は目で語った―――早く殺してくれと
『―――うむ、最初はちっとばかり痛むと思うが我慢せい―――ではその生命、貰い受けるぞ』
―――ガッ
『―――うぅっ・・・』
そう括り占めると女は口を開けて少年の首筋に犬歯を突き刺して生き血を啜り始めた。
(・・・なんだこれ、なんか・・気持ちいいかも・・)
少年は何とも言い難い快楽に浸っていた。女の唇が肌に当てられ、彼女の舌が自分の血を求めて蠢いているのが分かる。まるで生命そのものを吸われ、支配されていくのような感覚だが不思議とそれが心地よいのだ。
(・・・こんな死に方があるんだ・・・知らなかった・・)
ゆっくりと瞼を閉じて、次第に彼の意識は薄れていく。
(ふむ、やはり童貞か。にしてもコヤツの血・・・なんたる美味・・・これほどのものは味おうたことがない)
少年の血を啜りながら女はその味に驚きを覚えていた。彼の幼く可愛らしい容姿から上質な血に違いないことは予想できていた。だがその味はそれを遙かに超えるものだった。一度吸い始めると病みつきになってしまう―――もっとだ、もっとよこせと体が欲するのだ。
『・・・・』
だが同時に彼女の思考の中で美味いとは別の―――何か重要な情報が駆け巡っていた。
敢えて言い表すならそう―――この小さな少年は自分に近い存在―――ある種の親近感を感じとっていた。
(―――いや待て、まさかこの小童・・・!)
―――クチャ・・・
途端、女は驚愕に染まった様子で目を見開くと、少年の首から唇を離して口元の血を拭い取った。
『・・・?』
意識を失いかけていた少年は突然血を啜るのをやめ、自分を抱きかかえている女をぼんやりと見上げた。
『・・・小童、1つ聞いてよいか?』
『・・・なに・・?』
今までにない神妙な表情を浮かべながら言った女に少年は掠れた声で尋ねた。
『名は何という?』
『・・・シキ―――』
一呼吸置くと少年は続けて言った。
『―――シキ・ル・ノワール・・・明日からは“雅式”になるはずだったけど・・・』
『・・・・』
少年の名を聞いた女はゆっくりと彼の母親の墓石に視線を向ける。
血の付着した墓石にはこう刻まれていた。
Reina Le Noir
1988――2019
『――――シッ、キッシシシシ―――ッ!』
女は突然、左手を顔に当て肩を震わせながら狂ったように笑い始めた。
『・・・・』
少年はそんな彼女をただ呆然と見つめている。
『シッシシシ・・・まさか、まさかこんなことがあろうとは!これを運命―――いや、因果と呼ぶのであろうか』
『・・ねぇ、どうしたの?』
『キシシッ―――よいか小童、よ~く耳の穴をかっぽじって聞けい!我が名は可憐かつ最強かつ美貌に満ち溢れた“暴食の吸血鬼”―――グラトニス・ル・ノワール―――生粋のパリジャンヌじゃ!』
『・・・ル・ノワール・・・偶然だね、僕と姓が同じ』
『偶然などではない―――これはある意味、必然と言える』
『・・・え?』
『う~む、こんなもんか・・・』
訳が分からないといった表情を浮かべている彼をよそに、女は立ち上がって傍に生えていた花々を適当に摘んで彼の母が眠る墓石の前に放り投げた。
『非礼の詫びと手向けじゃ、せいぜい安らかに眠るがよい』
『・・・・』
『母親はどのような女であった?』
『すごく温かくて、優しい人だったよ・・・それにお姉さんくらい美人だった』
『―――シッ、阿呆が。妾と同等の美貌を持ち合わせた女などこの世には存在せんわ』
『ほ、ホントだって、すごい綺麗だったんだよ』
『キシシッ、分かった分かった―――なあ小童よ』
『・・ん?なに?』
多少血を吸われたせいでぼんやりとした感覚に見舞われている少年に、眠気を吹っ飛ばすような一言を女は言い放った。
『すまんがのう―――急遽予定変更じゃ』
『・・・え・・?』
『汝を喰らうのはやめた』
『・・・えっ・・な、なんで・・・?』
『キシシッ、もっと良いことを思いついたからじゃ』
口端を吊り上げながら女は彼を見下ろす。
『汝は可能性を持っておる。ただ喰うにはあまりに惜しい素材じゃ』
『・・・なに言ってるの・・?』
『どうせ死ぬのであれば、最期に賭けをせんかと言っておるのじゃ』
『・・・賭け?』
『キシシッ、そうじゃ。成功する確率は限りなくゼロに近い―――じゃが成功すれば汝は力を手にすることができる』
『・・・ちから?』
『そう―――人間なんぞ超越した圧倒的なものじゃ。半永久的に誰にも邪魔されず好きなように生きてゆくことを可能にする最凶の力。全てを変えられる―――汝や、汝の世界全てを』
『・・・よく分からないけど、別にそんな力・・・いらないよ』
『ほう、なぜじゃ?』
『そんな力持ってても・・・一人で生きていくのは・・寂しいよ』
『―――キシッ、言ーたであろう小童。汝の世界を変えると』
『えっ・・・?』
『よいか、よく聞け―――』
女は少年の耳元に唇を近づけると―――
『――――――――――』
『――――ッ!?』
静かな声で何か囁いた。その言葉を聞いた途端、少年の心は大きく揺らいだ。
『・・・それ、ホント・・?』
『うむ、可能じゃ。この妾が言ーんじゃ、信用せい』
希望の色を瞳に浮かべている彼の頬を優しく撫でながら女は美しく微笑む。その言葉を聞いて彼の決心はついた。
『―――分かった、やるよ』
『キシシッ、それでこそ男じゃ』
『約束は・・守ってくれるよね?』
『無論じゃ。このグラトニス、生まれて以来契りを違えたことは一度たりともないわ!』
前で腕を組んで偉そうにふんぞり返りながら女は豪語する。
『・・・・』
ジー・・・
『な、なんじゃその目は!?』
『いや、そんなこと言う人に限って約束破ったりするなーって思って・・・それに僕にそんなことしてお姉さんに何かメリットあるの?』
『カァーッ!可愛くないのう!そこは“わぁーい!超絶美人なお姉さん大好きぃー♥”と喜ぶべきところじゃろーが!ガキのくせして疑り深いヤツめ』
『・・・だって、なんか怪しいし。“変な人には気をつけなさい”ってよく母さんが言ってたし』
『妾をその辺と変人と一緒にするな!まったく・・・妾にもメリットはある、汝を喰らうより大きなメリットがな。じゃからこの話を持ちかけたのじゃ』
『・・・そのメリットって?』
『今負っておるこの傷は妾が狂闇の原石であるが故に治癒できない。じゃからこの傷を治すには一度、この第七感を手放す必要がある―――そこで汝の出番じゃ。妾が完全回復するまで汝には一時的に代役を担ってもらう』
『・・・ごめん、何言ってるのか全然分かんないんだけど・・』
『キシッ、ガキにはちと難しかったか・・・まぁ簡単に言ーとじゃな―――仮に成功すれば汝は力を手に入れ願望を叶えることができ、妾は傷を完治させることができる』
『・・・成功しなかったら・・?』
『コレに喰われる―――ただそれだけじゃ』
ブワァ・・・
突如、女の左手から何か黒いものが湧き出てきた。
『―――ッ!?』
少年は言葉を発することができなかった。女の左手で蠢いているソレを目にして―――
『・・・な、なにそれ・・?』
それはまるで闇を具現化したような不気味な黒い物体だった。
『陰喰―――最凶の第七感、狂闇の原石たる妾の肉体を構成しておる生きた暗黒物質じゃ』
『・・・・』
『この陰喰を使って妾の力のおよそ9割を汝の体に直接流し込む。失敗すれば無惨に肉体を喰い荒らされて終わりじゃ―――まぁそれはそれで汝は当初の願いであった死を迎えることができ、妾は陰喰を通じて汝の血肉を味わうことができる』
そして女は指でピースサインを作ると―――
『いずれにせよ、どちらに転がっても互いにメリットしかない―――これぞ真のwin-winではなかろうか?』
二本の指を開け閉じしながら翻弄するような口調で少年に語り掛けた。
『どーする小童?選ぶのは汝じゃ』
『・・・・』
ゴクリ・・・
頬から一筋の汗を流して少年は生唾を飲み込むと―――
『さっきも言った通り―――やるよ」
『後戻りはできんぞ?』
『男に二言はないよ』
女と同じようにピースサインを作って決心を固めた。
『キシシッ、格好つけよって―――じゃが勇ましいぞ、あと10年もすればいい男になる。原石たる資質は申し分ない』
『そ、そんなのいいから・・・早く・・!』
『キシッ、照れおって―――可愛いヤツめ。さて、では始めるか』
『う、うん・・・』
―――スッ・・・
女は陰喰を纏った左の手の平を静かに少年の胸に当てる。
『よいか?今から汝の中に膨大な力が入り込んでくる。それは汝を支配しようと暴れ回るに違いない―――じゃから耐えろ、ただひたすら耐えて抑え込め』
『・・・ねぇ、1つ聞いていい?』
『む?なんじゃ?』
『それって・・・結構苦しいの?』
『・・・・』
少年の問いかけに女は一瞬、無言で押し黙ると―――
『キシッ、当然じゃ』
『・・・はぇ・・?』
人の悪い笑みを受かべて言い放った女に対して少年は思わず素っ頓狂な声を発した。
『かなりの荒治療じゃからのう。死を遙かに超える苦痛であることは断言できるぞ』
『ちょ、ちょっと待って!僕痛いのは―――』
『男に二言はないのじゃろう?ほれ、いっちょ男らしく根性を見せてこい!』
悪戯めいた表情で女は舌をペロリと出した。そこにはどこか禍々しさを感じさせる黒い円状の刻印が―――
キイィ―――ンッ!
直後、刻印が眩いばかりの赤い光を放ちながら輝き始めた。
ドクンッ・・・
『―――うっ・・・』
少年は何かが自分の中に入り込んできた感覚を覚えた。
グアァ―――ッ
そしてそれは彼の体の中を駆け巡る。
直後だった―――
ブチィッ
『ぎあ゛―――っ!』
何かが切れるような音が聞こえたと同時に少年が体を大きく仰け反らせて悶え苦しみ始めた。
体中の血管が切れたのだ。彼の全身は一気に血に染まる。
『ぐあ゛―――っ!』
グッ、ギギギィ―――ッ
手足の骨があり得ない方向に曲がっていき―――
『―――ごはぁっ!』
ブシャア―――ッ
大量の吐血によって芝生が真っ赤に染まる。更に鼻や耳、両目からも血が流れだす。
『あ゛ぁ゛―――っ!』
目を大きく見開きながらのた打ち回る彼の断末魔が深夜の墓地にひたすら響き渡る。
それは痛いや苦しいなどといったレベルのものではなかった。痛覚が麻痺しないのが不思議なくらいだ。自分より遙かに巨大な質量の何かが好き放題に体の中を蠢いているようで、まさに地獄に放り込まれたような感覚に陥った。
また体とは別に頭の中―――脳内に膨大な量の情報体が入ってきた。
(・・・ここは・・?)
そこは彼の深層心理の中―――日常の中で思い、感じ、考ることが無意識に集まって形成された心理領域。
(―――ッ!?母さん!?)
彼の心理領域は母との思い出で埋め尽くされていた。一緒に食事をし、風呂で体を洗ってもらい、寄り添って寝て、遊び、たまに叱られたり、仲直りしたり―――いつも二人で手を繋いで笑顔の絶えない日々だった。母はいつも優しく微笑んで自分を抱きしめてくれた―――彼にはそれだけで十分だった、それだけで幸せだった。
―――だが、彼女はこの世からいなくなってしまった。
(・・・母さん・・)
せめてもう一度―――少年は目の前にある母との思い出に触れようと手を伸ばす。
だが―――
パリンッ・・・
(―――ッ!)
まるでガラスが割れるようにそれら全ては崩れ去っていき、呆気なく消えていった。
(・・・・)
少年は手を伸ばしたまま、ただ呆然と立ち尽くす。彼の心理領域は何もない―――真っ暗で空っぽのものになってしまった。
グオォ―――ッ!
(―――ッ!?)
―――そして、空っぽになったそこを埋め尽くさんばかりに代わりのモノが彼の深層心理に入り込んできた。
『『『『『『『ギア゛ァ―――――ッ!』』』』』』』
『『『『『『『ギャア”ァ―――――ッ!』』』』』』』
(―――うっ・・・)
顔だ―――夥しい数の赤黒い色をした、人の顔のようなものが奇声を発しながら彼の深層心理を埋め尽くした。
『『痛いよぉ・・・』』
『『助けて・・・』』
『『苦しい・・・苦しいよぉ・・・』』
『『死にたい・・・誰か殺してくれ・・!』』
(・・・な、なんだよコレ・・)
縋りつくように自分に群がってくるそれらに、少年はただ呆然とすることしかできなかった。
『『憎い・・・アイツが憎い!』』
『『殺してやる・・殺してやる!』』
そこはまるで地獄と化していた。血の赤と闇の漆黒に染まった地獄そのものだ。
(・・・教えてよお姉さん・・・なんだよ・・なんなんだよ――――なんなんだよコレ!)
母との思いでに浸ることのできた先程の世界から一変し、地獄に成り果てたこの光景に理解不能となり、彼はその場で叫んだ。
その時―――
『『おかあさん・・・』』
(―――ッ!?)
自分と同じくらいの歳の子供の声が聞こえてきた。
『『おかあさん・・・おかあさんどこぉ・・?』』
(・・・・)
恐怖で目を閉じていた少年はゆっくりと目を開けた。すると彼の眼前には―――
『『ねぇお兄ちゃん・・・おかあさん、どこにいるの・・?』』
それは母親を探している子供の顔だった。
(・・・も、もういやだ・・)
―――そして、少年の精神を崩壊させるには十分なものだった。
(もうイヤだっ!ここから出してっ!出してよぉっ!)
少年は泣き叫ぶがその声は誰にも届かない。
グオォ―――ッ!
(―――ッ!?)
すると赤黒い集合体が彼を飲み込もうと更に群がってきた。
(お、おい・・・やめろ!)
必死にそれらを払いのけようと躍起になって抵抗するが、膨大な数の前ではそれも無意味に等しい。
(イヤだ!ここはイヤだ!誰か助けて!)
誰も彼を助けはしない。赤黒い集合体が彼を包み込んでいくばかりだ。
(イヤだ!こんな所で・・・もう出してよお姉さん・・・助けてよ母さん・・母さ―――)
助けを求めて最後まで手を伸ばしていた少年だったが、とうとう完全に飲み込まれていった。
(―――ッ!)
雅式はハッと目を覚ました。
(・・・クソ、最悪だ。胸糞悪い夢を見ちまった・・)
そう吐き捨てた彼の周囲には―――
『ギャアァ゛――――ッ!』
『ギア゛ァ――――ッ!』
夢の中と全く同じ光景が広がっていた。
思わず耳を塞ぎたくなるような断末魔を発している死者の魂で埋め尽くされた、赤黒い世界。
これが狂闇の原石である彼の深層心理であり、陰喰の中であるともいえる。
ここにはこれまで陰喰に喰われ殺された死者たちの魂が集まり、ただひたすら蠢いて彷徨い続けている。
まさに死魂の暴風域といった呼び名が相応しいような場所だ。
(・・・確か俺は・・)
だがあの時と違って、今の彼はこの死魂の暴風域の中でも平然を保っていられる強靭な精神力を持ち合わせている。
(・・・そうだ、アイツに身体を貸して・・・)
そう、今の式には肉体がない。魂だけの存在になっていた。
(クッソ・・・なんて様だ・・)
あの吸血鬼―――グラトニスにいいように乗せられて肉体を奪われてしまった。終いにはアイツと初めて会った日の夢をこんな所で見ていたとは・・・
(・・・つくづく最悪だ)
だが今はそんなことを言ってる場合ではない。
(・・・・)
外の状況を確認するため、意識を集中させると―――
グオッ
正面で蠢いている死魂たちが退き、扉一つ分ほどの空間ができる。そこから外の光景を覗き見てみると―――
(・・・ヤベェ・・・最悪だ、最悪すぎる・・)
案の定と言えばいいのだろうか。俺の体であのクソ吸血鬼は暴れ回っていた。
そんなアイツと拮抗して闘っているのはよく知る人物だった―――
(・・・海場さん)
周囲には日本支部の女性たちの姿も見える。
(結理さん・・・)
そして、遙か向こうの正面には目元を赤くしてこちらを見つめている一人の少女の姿が―――
(・・・綾)
最低だ―――俺は最低な兄貴だ。俺はまた泣かせた―――アイツを泣かせてばかりだ。
俺の甘さと弱さのせいでこんな事態に陥ってしまった。
(・・・自虐は後でできる、それより今は―――)
戦闘は激化している、原石同士の闘いだ。いくら海場さんでも、いつまでも彼女たちを守りながらアイツを相手にするのは困難を極める。
このままでは周囲に甚大な被害を与えかねない。
(これ以上、海場さんに迷惑をかけるわけにはいかない)
一刻も早く体を取り返さなければ、取り返しのつかないことになってしまう。
支配権を奪い返そうと意志を集中させる。
しかし―――
バチィ―――ンッ!
(―――ッ!?拒絶しただと!?)
奪い返すどころか、アイツに話しかけることすらできない。
『―――“そちら側”から篤と見ておれ―――』
(・・・そういうことか―――クッソ!あの吸血鬼!)
簡単なことだ。アイツの方が俺より狂闇の原石としての格が遙かに上であるから一度体の支配権を奪われたら俺の方から手出しできない。
俺の肉体を構成している陰喰が―――狂闇が俺ではなく、アイツを原石として認め始めている。
現にアイツは昼間にも関わらず存分に第七感を行使している。
(・・・いや待てよ、昼間にも関わらず使えているのはアイツの力じゃない)
なぜなら、第七感の半分は虚無の境地に封印しているからだ。
だとすれば考えられる要因は1つしかない―――
(―――そうか!抗体の効果が切れかかっているからだ!)
このごろ渇きを覚えて仕方なかった原因もそれだった。
そして、昨晩のアリスとの電話のやり取りを思い出した。
『―――そういえばアナタ、そろそろ限界でしょ?』
『・・・ああ、そうだな』
『新しいのを用意したわ。明日の夕方頃に、サミットの任務でアランとカリーナが日本に到着するの。だからついでにあの二人に届けさせるから―――大至急でね』
『・・・おい、あのアイツらを一緒にさせたのか?大丈夫かよ・・・』
『まぁ・・・問題ないでしょ?アランなんて“アジアンビューティーとヤリまくるぜ!”って息巻いてたわよ。フフフッ』
『・・・いやだから、それが問題だろ』
『まぁ公然わいせつで捕まるようなヘマはしないでしょ―――あれでも一応、本部のナンバー5なんだから』
『・・・分かったよ、まぁ何にせよ助かるよ―――ありがとな』
『んもう♪気にしなくていいわよ―――お返しはいつものように、ベッドの上でたっぷりと貰うから♥ンフフッ♪』
『・・・・』
『私の愛―――しっかりとその体に受け止めるのよ』
『・・・愛かよ、アレが・・』
(・・・そうだ、まだだ)
諦めるのはまだ早い。あの二人がここにアレを持ってくれば、まだ形勢逆転のチャンスは十分にある。
そう思った矢先―――
キイィ―――ン
(―――ッ!)
微弱ながら確かに察知した。音速を遙かに超えた速度で何かがこちらに接近してくるのを―――
(ははは・・・さすが、本部のエースたちといったところか)
肉体はないが、思わず笑みがこぼれる。
―――ふと、死に際に母が優しく微笑んで囁いた言葉が蘇った。
『泣かないで式、希望はあるから―――どんな時でもね』
(・・・ああ、そうだね―――母さん)
そう言って微笑むと少年は表情を引き締め、再び意識を集中させた。




