第五十二話:正義の在処
―――午後4時過ぎ、サオス日本支部屋内プール訓練施設―――
ヴ―、ヴ―、ヴ―・・・
『当施設内で制御外発動力場を確認―――繰り返す、当施設内で制御外発動力場を確認―――』
施設内に設置されているFDS(Field Detection System)による警報アナウンスが絶えず屋内プールに響き渡る。
プールサイドにへたり込んでいる綾が顔を上げると、そこには―――
「・・・お兄ちゃん・・・」
突如、横合いから現れた彼女の兄が佇んでいた。
「大丈夫か?どこか痛い所は?」
「大丈夫・・・ちょっと打っただけだから」
「・・・・」
―――鬼眼、発動―――
―――カァッ
直後、式の双眼が“赤”に変化する。
白膜に囲まれた赤い虹彩に、ネコやワニのような夜行性動物に多くみられる、垂直のスリット型の黒い瞳孔―――その名の通り、それは“鬼の眼”を連想させる。
―――そして、その赤い眼は“視界に映る全て”を見通す―――
その目には骨格、神経、血管、臓器、筋肉、皮膚、皮下脂肪などといった綾の肉体の内側が構造的に映り、その配置や状態が手に取るように分かる。
(・・・特に外傷はないか)
―――フッ
役目を終えると、その双眼は普段の黒い瞳に戻った。
「立てるか?」
「う、うん―――そんなことよりお兄ちゃん、手・・・!」
「ああ、これか・・・」
グチャァ・・・
口元を押さえている綾の視線は血まみれになった式の左手に向けられていた。その拳は皮がめくれ、肉が裂け、所々骨が剥き出しになって指もあらぬ方向に曲がっており、とても“痛々しい”では済まない―――目を覆いたくなるような状態に変わり果てていた。
「大丈夫だ、夜になれば治る」
「・・で、でもお兄ちゃん・・・血がすごい出てるよ・・・早く治療してもらった方が・・」
綾は引き留めるように式の顔を見上げるが―――
「心配するな―――すぐに終わらせるから、下がってろ」
その声は冷たく、他を寄せ付けない威圧感が伝わってくる。
―――もう自分では、こうなってしまった彼を止めることはできない―――
「・・・わかった、でもお願い、危ないことはしないで」
無駄だと分かっているが、そう言わずにはいられなかった。
「―――ああ」
綾の瞳から目を逸らして、式は短く答えた。
(・・・お兄ちゃん・・)
―――ダッ
その後ろ姿が、自分に見向きもしなかった8年前以前の兄と不意に重なり、彼が自分の手が届かない、どこか遠くへ行ってしまいそうな不安に駆られ、それを払拭するように結理たちの元へ駆けていった。
(この女・・・)
改めて正面の女に視線を戻すと、その顔に式は見覚えがあった。
身辺警護として立花家に雇われていた日本支部のS2操者だ。移動の車中、ミラー越しに警戒するような目つきで見られていたことが印象に残っていた。
「こうしてお会いするのは3日ぶりですか・・・覚えておいででしょうか、序列第三位」
「ああ、確かあんた・・・」
「挨拶が遅くなりました―――サオス日本支部所属、三門羽月第一官です」
(第一官・・・通りで)
立花邸で会った時から日本支部のS2操者だとすぐに分かった。その佇まいから結理や恵美たちにはない、上級戦闘官特有の洗練されたオーラが嫌というほど伝わってくる。
第一官は日本支部において最高クラスの実績、実力を持ち合わせたS2操者を指す。日本支部には5000人近くのS2操者が在籍しているが、第一官はわずか20数名しかいない。
目の前の女はその内の一人―――
(・・・こりゃ、今の俺じゃ―――)
式は純粋に可能性として考えた。
―――やられるかもしれないと―――
また、三門羽月の視線は少年の足元のプールサイドに向けられていた。
表面に敷き詰められたゴムチップは彼の拳によって破壊され、ちょうど拳一つ分ほどの穴の周囲には亀裂が広がっている。だがその衝撃はゴムチップだけに留まらず、下にあるコンクリート製のタイルまで及んでいるようだ。衝撃によって圧縮された穴の周囲のタイルが盛り上がり、コンクリート片が散らばっている。
(とても素手でとは思えないわね、まるで硬化系や強化系を行使したかのような―――)
だがそれはありえない。原石である彼は他の第七感を行使することはできないはず―――
(―――それに・・・)
ピチャピチャピチャ・・・
コンクリートを破壊したその左拳は無惨に潰れ、真っ赤な血をタイルに下垂らしている。
素手で思いきりコンクリートを殴れば当然の結果―――間違いない、彼は素手でタイルを破壊したのだろう。
(常人離れした怪力をお持ちのようね・・・さすが、化物と言ったところかしら)
そして何より―――いきなりあんな拳を放ってきたということは、そこには明確な殺意があることを意味する。
あと一瞬反応が遅かったら、ああなっていたのは自分の方だったに違いない。
「―――一応確認しておきますが、ご自身が何をされたか理解できていますか?」
「・・・・」
「あなたは2つの重大な違反を犯しました―――1つは使用の禁じられている施設内で第七感を発動させたこと―――」
ヴー、ヴー、ヴー・・・
未だに警報が止まない施設内を見渡して三門は言葉を続ける。
「―――もう1つは同盟を組んでいる他サオス機関員に対する危険行為―――これはバーゼル条約、第38条に触れる協定違反です」
「・・・・」
「そして、第一官である私には日本支部の脅威となり得る対象を独断で判断し、捕縛する権限が与えられています。以上から―――」
一呼吸おいて女は言い放った。
「―――たった今より、あなたは日本支部の敵と私は判断しました。その身柄を拘束させてもらいます」
「「「―――ッ!」」」
「・・・う、嘘でしょ・・」
「・・“敵”って・・」
その言葉を聞いた女性操者たちの表情が一気に強張る。
「何か異論はありますか、序列第三位?―――なければご同行願いま―――」
ゴオォ―――
「「「―――ッ!?」」」
直後、屋内プール全体に重い威圧感が波打つように広がった。
「・・・うっ・・」
「・・・なに・・これ・・」
「・・・体が・・」
ひしひしと伝わってくるその脅威に、女性操者たちの顔色が変わり、中には気分が悪そうに両手をついてへたり込んでいる者もいる。
「・・・もしかして・・」
「・・・これが狂闇の・・・」
「・・・式君の発動力場・・・」
恵美と彩香の表情も一変し、歩に至っては両肩を抱いてカタカタと震えている。
「・・・綾ちゃん、平気・・なの?」
そんな状況の中、結理は隣で平然と立っている少女に声を掛ける。
「うん。たぶんお兄ちゃん、私たちにはあんまり負担がかからないように抑えてくれてるから―――結理さんもそう思わない?」
「・・・そういえば・・」
(確かに占拠テロの時に体育館で味わったものに比べると、何ていうか―――そこまで重く感じない)
「それより・・・あのオバサン、一体何者?」
「―――え?」
綾が見ている視線の先に目を向けると―――
「―――ッ!?」
結理は自らの目を疑った。
グオォ―――
目で見て分かる―――三門羽月の周囲の空間が、まるで彼女に圧力をかけているかのように僅かに歪んでいるのだ。その光景から、彼女に向けて発せらている力場の強さ―――あるいは濃縮度が、今自分たちが感じているものとは比にならないほど強大なものであると自然と理解できる。
―――だが、最も驚くべき点はそこではなかった。
「・・・さすが、第一官といったところか・・」
自身の発することができる、最大限の発動力場を受けているにも関わらず、目の前の女は平然と立っている。
「“周囲の対象に脅威を植え付ける”―――それが狂闇の発動力場と聞きましたが、それは理に適っていません」
落ち着いた口調で三門は口を開いた。
「体に重圧のかかるようなこの威圧感―――確かに一見するとそれらしく感じますが、それでは他の第七感のように科学的に説明することができません」
そもそも、制御外発動力場とは第七感の力を発動させたときに生じる、微弱なエネルギーフィールドのことを指す。
第七感によってその特徴は異なり、怪焔ならば熱量の増加、魔氷ならば温度低下、豪雷ならば微弱電波の発生、聖光ならば光波の変動などといった人間の感覚では捉えにくい科学的な現象がその周辺で発生し、それを感知するために開発されたのがFDS(Field Detection System)だ。
「―――つまり、この発動力場も何らかの科学的根拠に基づいているはず―――そこで、ある仮説が考えられました。狂闇とは空間を操作する第七感―――それは身体作用でも物体作用でもなく、空間作用と言えるでしょう―――つまり、発動すると周囲の空間に亀裂や歪みが生じてしまう」
制御外発動力場は発動に伴ってどうしても生じてしまう、副作用のようなもので、現代の技術を持ってしても抑制することは不可能だといわれている。しかもそれが原石の発するものとなると、そのエネルギーはイミテーションとは比にならない程、強力だと言われている。
「それは一定を保っているはずの空間に偏りや不安定が生じることを意味する―――あなたの発動力場の正体は、その偏りによって生じた圧縮空間を対象にぶつけ、それを殺気や脅威と錯覚させるものに過ぎない―――違いますか?」
「・・・・」
「図星ですか、タネが分かれば何てことはありません。“脅威を植え付ける力場”とは狂闇の情報を秘匿するためのダミー情報―――恐れるに足らない、ただのハッタリです」
「・・・・」
―――フッ
「・・・あれ・・?」
「・・・体が・・」
「・・楽に・・なった・・?」
直後、それまで周囲に伝わっていた発動力場が解除され、女性操者たちの顔色が元に戻っていく。
「意外と潔いですね―――まぁ、うちの部下たちも勉強にはなったでしょう」
「・・・聡明だな」
「御世辞を言っても無駄ですよ」
「俺は世辞は言わない主義だ―――それだけの洞察力があれば、本部の序列二桁代くらいには入れるだろ」
「・・・褒め言葉として受け取っておきましょう―――お遊びはこの辺にして、ご同行して頂きます」
「その要望には応えられない」
「・・・この期に及んでまだ駄々を捏ねますか・・・見苦しいですよ、序列第三位」
「―――分かってねぇな」
「・・・はい?」
「協定違反?重罪行為?そんなことはどうでもいい―――お前、誰の妹に手ぇ上げたか分かっているのか?」
「・・・式君が・・・怒ってる・・?」
いつもは感情を表に出さない彼が見せたその一面を結理は初めて見た。
「アイツに危害を与える存在は一切の例外なく排除する―――お前はその対象となった―――」
少年はゆっくりと一歩を踏みだし始め―――
「―――ただで済むと思うなよ、雌犬――」
「―――ふっ・・・兄妹揃って口の悪いこと―――妹思いなのは素敵ですが、今のあなたに勝機はありません」
女も憮然とした態度で少年の方へ一歩を踏みだし始めた。
「―――支部長から聞きましたよ―――あなた、昼間はろくに第七感を使えないそうですね。先ほどの発動力場がもう―――限界だったのでは?」
「・・・・」
「加えてその左手はもう、使い物にならないでしょう?」
「―――勘違いするな、人間一人壊すのに第七感はおろか、両手もいらない―――片手で十分だ」
「・・・それがあなたの“答え”ですか―――分かりました。ではこちらも力ずくで身柄を拘束します」
「女だからって容赦しねぇぞ―――」
「―――上等」
口元を吊り上げ、どこか楽しそうに笑った少年と、憮然とした表情の女―――2人の距離は徐々に縮まっていき―――
―――ガッ
衝突が始まった。
―――グオッ
式の右拳が女の顔面向けて放たれ、三門はそれを間一髪のところで避ける。
(―――この身体能力・・・どうやら第七感ばかりに頼ってるわけじゃないようね)
それは彼の鍛え抜かれた肉体からも想像ができたが、それにしてもあまりに常人離れしている。
すると今度は、拳を放った体勢で懐ががら空きになった式の腹に、三門の膝蹴りが―――
―――ドゴッ
直撃した。
だが―――
―――ガッ
「―――ッ!?」
式は自らの腹に叩き込まれた彼女の脚を右手で掴むと、そのまま彼女の体ごと持ち上げ―――
――ブンッ
そのままプールサイドに叩きつけるように腕を振り払った。
―――タッ
だが三門は空中で体勢を直し、受け身を取って衝撃を上手く吸収して着地すると式から距離をとった。
(・・・この女、結理さん―――いや、“カリーナ”並みの身体能力か―――)
「・・・驚きました。本気で蹴ったつもりだったのですが」
「ああ、かなり効いたぞ。恐らく肝臓がやられてる―――だが生憎、こっちは“痛み”に慣れてる―――耐えれば済む話だ」
腹をさすりながら平然と式は言った。
「・・・なるほど。では手足の一、二本は折る覚悟でいかなければいけませんね」
「―――面白い、そっちこそ手足の一、二本はなくなると思え」
―――ガッ
両者は再び衝突した。
ガッ!ドゴッ!ドガッ!
「・・・ねぇ、止めた方がいいんじゃ・・・」
「無理無理無理!あんな中に割り込んで入っていったらマジで殺されるって!」
「にしてもあの2人、ホントに丸腰?まるで加速系を使ってるみたいな動き・・・」
「イミテーション使っても勝てる気がしない・・・」
「あれが第一官と序列第三位の実力・・・2人とも化物クラスね」
目の前で繰り広げられている激しい肉弾戦をただ呆然と見ている女性操者たち。
「・・・・」
そんな中、どこか思い詰めたような表情で結理がその攻防戦を見ていると―――
「・・・ねぇ結理」
隣にいる恵美が声を掛けてきた。
「私の気のせいかもしれないんだけどさぁ、なーんか式君、すごく楽しそうに見えない?」
「・・・たぶん、気のせいじゃないわ」
そう、さっきから気になっていた。左手があんな状態で、三門さんの蹴りが直撃したにも関わらず、彼は口元を吊り上げて、この上なく楽しそうに笑みを浮かべている。
まるで、闘いを楽しんでいるかのように―――
普段の彼とはどこか違う、まるでもう一人の人格。
いつもの彼と今の彼―――どちらが本当の式君なのだろうか。
「・・・私のせいだ・・」
「・・・綾ちゃん・・?」
隣にいる綾がふと声を漏らした。
「どうしよう・・・私のせいでお兄ちゃんが・・・お兄ちゃんが!」
「ちょっ―――綾ちゃんどうしたの!?落ち着いて!」
両肩を抱いてその場にへたり込んだ綾。その声に覇気はなく、表情には焦りさえ見られる。
結理は何とか落ち着かせようと彼女を抱きしめるが―――
「私のせいだ、私が止めなかったから・・・お兄ちゃんが・・・」
彼女は軽くパニックを起こしている。
(一体、式君に何が・・・)
だが今の結理には彼女を抱きしめ、ただ2人の闘いを見届けることしかできない。
ドゴッ!ガッ!ドッ!
互いに拳や蹴りを放ち合う式と三門。
(―――ちょこまかとすばしっこい、スピードは向こうが上か―――)
三門は式の攻撃を全て寸前のところで器用に躱している。それに対して―――
ガッ!ドゴッ!ドカッ!
(―――何て頑丈な体・・・これだけダメージを与えているのに、攻撃のペースが落ちていない)
スピードで勝っている三門の蹴りや拳をガードし、それでも防ぎ切れない打撃は食らっているにも関わらず、式は一切攻撃の手を緩めない。
まるで痛覚のない相手と闘っているような気分にさせられる。
しかも彼は左手を一切使っていない―――その言葉通り、右腕だけで器用にガードし、拳を放ってくる。
圧倒的に不利なのは向こうにも関わらず、近接格闘で自分と互角に渡り合っている。
(―――加えてこの力強さ、パワーは確実に向こうが上―――)
―――ブオッ
寸前で避ける時に伝わってくる拳の風圧で分かる。素手でコンクリートを粉砕するような怪力の持ち主だ。その平凡な体格のどこにそんな力があるのかは不明だが、取りあえずこれだけは言える。
(一撃でもまともに食らったら、終わりね―――)
そう察知し、距離を取ろうと後退した時だった―――
―――ツルッ
「―――ッ!」
水浸しになったプールサイドに着地した際、足を滑らせた三門の上体が不安定に傾いた。
「―――終わりだ」
そして、彼がそれを見逃すはずがなかった。
―――グオォ―――ッ
透かさず詰め寄ってきた式の右拳が彼女の頭部を捉える寸前だった。
「―――かかりましたね―――」
「―――ッ!?」
僅かに女の口元が綻んだのを式は見た。
―――code:Ignition Boost,on―――
次の瞬間、三門の動きに異変が―――
―――グンッ
上体が後方に反れた体勢にも関わらず、彼女の体が何の予備動作もなくその場で一回転し、式の拳を寸前のところで躱すと―――
―――ガッ
顔の横を掠めていった彼の右腕に飛び掛かるように掴まり―――
―――ブンッ―――ドカッ!
「―――ぐっ・・」
目にも止まらぬ爆発的な勢いで自信の体を振り子のように揺らし、強大な加重によって自信もろとも、彼の体を勢いよくプールサイドに叩きつけた。
―――ギュウッ・・・
そしてその右腕に両足を絡め、手首を掴んで身動きが取れないよう、関節技に持ち込む。
「―――ねぇ、今の・・・」
「―――ええ、恐らく豪雷の加速系を怪焔の点火系で爆発的に飛躍させた『相乗流纏操作』の一種―――」
「―――超瞬時加速・・・」
「そ、そんな・・・第七感の異なる2つのコードの相乗流纏操作だなんて・・・可能なんですか?」
「―――2年前、ウチとドイツ支部の共同開発で成功させたと聞いてはいたけど・・・こんな身近に使える人間がいたなんて・・・」
「予備動作・・・ほとんどなかったよね?」
「それが超瞬時加速の最大の利点よ。点火系の熱エネルギーを加速系に流用させて運動の代替エネルギーとして使うことによって、ノーモーションでどんな体勢からでも爆発的に動きに緩急をつけられるから、全く動きが予測できない―――」
「その代わり、結理の相乗流纏操作―――二重式加速みたく、継続的に加速することはできないわ」
「・・・ここぞという一瞬に決める―――ってことですか・・・」
「その分、その効果は絶大。現にあの式君が見事に決められた」
「式君―――序列第三位が・・・」
―――負けた―――
「―――捉えましたよ、序列第三位」
ギュウ・・・
全身を使って右腕を締め付けながら三門が勝利宣言をする。
「―――ぐっ・・・てめぇ、どこに隠し持ってやがった・・・」
「気づかなかったのも無理はありません―――脊髄に埋め込んでいるんですよ」
「・・・マイクロチップタイプのイミテーション・・・足を滑らせたのはこのためのフェイク―――ってわけか・・・」
「あまりこのような手は使いたくなかったのですが、こうした方が確実なので―――」
ギッ、ギギッ・・・
「―――くっ・・・」
苦痛に顔を歪める耳元で骨の軋む音が響く。
「どうやら痛覚はあるみたいですね。本当にあれだけの痛みに耐えていたとは―――大した忍耐力です」
ギッ・・・ギギギギィ
「―――では宣言通り、まずはこちらの腕を圧し折ります」
―――グッ、ギギギギギ・・・・
「があぁ―――っ」
三門は両足で式の肩を固定すると、少しずつ本来曲がらないはずの方向にその腕を曲げていく。
「―――もうやめてっ!」
「「―――ッ」」
その時だった―――
「―――綾・・・」
仰向けに倒れている式の視界に映ったのは、こちらに向かって駆け寄ってくる妹の姿だった。
「―――ごめんなさいっ、全部私が悪いんです!代わりに私が殴られます!―――だからこれ以上お兄ちゃんを傷つけないでっ!」
懇願するような口調で綾は兄の腕を圧し折ろうとしている女に訴えた。
「―――ッ!綾っ、来るな!」
(この女にそんな言葉は通用しないっ!)
「・・・なんともまぁ、美しい兄妹愛ですね」
5メートル付近まで近づいてきた少女の姿を一瞥して女はそう言った。
―――ベキッ!
「「「―――ッ!」」」
直後、少年の腕が無惨に圧し折られた音が屋内に響いた。
「あ゛ぁ゛―――っ」
あまりの激痛に耐えかねた式の叫び声がその場に轟く。
「―――お兄ちゃんっ!」
すぐ傍までやってきた綾が取り乱した様子で一目散に兄の元へ駆け寄ろうとしたが―――
「―――邪魔をしないでもらえるかしら」
ピキ、ピキピキピキッ・・・
「―――きゃっ」
突然、綾が前のめりになって倒れた。
その足元に視線を向けると
「・・・氷・・」
まるでプールサイドから生えた、足輪のような形状の氷が彼女の両足首を掴んで固定している。
「あなたに危害を加えるつもりはないわ―――少し冷たいだろうけど、そこで大人しくしていなさい」
「・・・お、お兄ちゃん・・・」
綾は懸命に式の方へと手を伸ばす―――あと少し、あと数センチで触れることができるのに―――
(・・・と、届かない・・・!)
「・・・うっ、う・・・お兄ちゃん・・・」
少女の両頬を一筋の涙が流れた。
(・・・綾・・)
激痛で意識が遠のく最中、こちらへ手を伸ばしている妹の顔を式は虚ろな目で見ていた。
擦りむいてしまったのか、その綺麗な白い膝と肘からはうっすらと血が出ている。
―――誰だ、コイツを傷つけたのは―――
その両目から溢れ出ている涙が頬を伝って落ちていく。
―――誰だ、コイツを泣かせたのは―――
俺の腕を圧し折ったこの女―――いや違う、俺だ―――俺が弱いせいで綾が傷つき、涙を流している。
―――ドクン、ドクン・・・
『―――キッシシ、全くもってその通りじゃ―――』
(―――ッ!?)
その時、突然どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『―――何を驚いておる?妾の魂を陰喰の中に封じ込んだのは、他でもない貴様であろうが―――小童』
(・・・てめぇ、まだ魂が残ってたのか・・・)
『―――キッシシシ、笑わせるなよ小童―――誰がその力を与えてやったと思っておる?』
(・・・・)
『にしても無様じゃのう―――たかが人間一人にこうもやられ、女の一人も守れぬとは―――落ちぶれたものよの―――“暴食の鬼童”や』
(・・・何が言いたい?)
『なーに、単なる気まぐれ、余興よ―――少しばかり力を貸してやると言ーておるのじゃ―――』
(何が狙いだ?)
『じゃーかーら、暇なんじゃよ、暇!妾も偶には遊びたいんじゃ―――』
(―――笑わせるな。今のお前にそんな力はない―――肉体と切り離された、魂だけの絞り滓が―――)
『・・・キッシシシ!暴食を恐れ、まともに力を使いこなせぬ半人前がよくもまぁほざくのぉ―――以前の貴様の方がよっぽどマシだったわ』
(・・・・)
『まぁそう怒るな。ここは一つ、互いに昔のことは忘れ、大暴れしてやろうではないか?』
(・・・“昔のように”?)
『そうじゃ、力が欲しいのじゃろう?あの女を殺したいのじゃろう?弱さが憎いのじゃろう?ならば共に喰らい、殺そうではないか―――楽しいぞぉ?』
(・・・・)
『それに近頃貴様、“渇き”を覚えて仕方がないのじゃろ?陰喰の中にいる妾には分かるんじゃよ―――どれだけ抑えようとも、貴様の核となっている“暴食の罪”を消すことはできん』
(・・・・)
ゴクリッ・・・
『―――キッシシシ、それを返事と受け取ってよいのじゃな?では少しばかりその体を借りるが―――よいな?』
(・・・1つだけ約束しろ)
『ん?何じゃ?』
(―――綾に危害を加えるな、傷一つでもつけてみろ―――陰喰諸共、今度こそ消してやる)
『・・・シッシシシッ―――すっかり“お兄ちゃん”とやらが板についておるではないか!真にあのようなただの人間の小娘に情が移ったというのか!?妾はてっきり情婦にでもするのかと思っておったわ!こりゃたまげた!傑作もんじゃ――――キッシシシ!』
(戯言は結構だ、どうなんだ?約束できるのか?)
『シッシシシ・・・すまんすまん―――よかろう、契りを結んでやる。“そちら側”から篤と見ておれ小童―――見せて進ぜよう、真の狂闇というものを―――』
(・・・うるせぇ―――この“クソ吸血鬼”・・・)
ドクン、ドクン・・・ドクン・・・―――――
そこで雅式は完全に意識を失った。
「―――完全に気を失っているわね、これでようやく一件落着かしら」
目を閉じてピクリとも動かなくなった式を見下ろして三門は言った。
「・・・うっ・・・うぅ・・・お兄ちゃん・・・」
「・・・・」
パキンッ!
すると、今まで綾の足首を拘束していた氷の足輪が割れ、彼女を解放した。
「―――お兄ちゃん!」
バッ
「ごめんなさい・・・私のせいで・・・ごめんなさい・・・」
少女はその体を抱きしめ、大粒の涙が彼の頬に落ちる。
「・・・・」
三門はその様子を一瞥すると、即座に振り返って結理たちの方へと歩みだす。
「・・・三門さん・・・あなたって人は!」
握り拳をガクガクと震わせている結理、その目元には薄らと涙が浮かんでいる。
「何を勘違いしているの?先に仕掛けてきたの彼の方よ。ああでもしないとこちらがやられていたわ」
「・・・でも、いくらなんでもやりすぎです」
「それも綾ちゃんの目の前で・・・」
「・・・あなたは卑劣です!」
彩香、歩、恵美の3人も肩を震わせ、怒りの籠った目で直属の上司を睨みつける。
「卑劣?笑わせるわね―――殺したわけじゃあるまいし。この程度、今まで彼がやってきた悪行に比べたら屁でもないわ」
「「「「・・・・」」」」
「それよりあなたたち4人、上官に手を上げたあげく日本支部の正義理念に背く失言をしたのよ―――覚悟はできているでしょうね?」
「・・・これが日本支部の正義というのなら、私はこの仕事に誇りを持てません!自らこの職を辞するつもりです!」
「・・・結理・・」
「・・・先輩・・」
「青臭い精神論ね―――構わないわ、耐えられない者、怖気づいた者、覚悟の足りない者は去りなさい。あなた達の代わりなんて何万といるのだから」
「「「「・・・・・」」」」
「けど1つだけ言っておくわ―――この日本支部は四機関の中では最もまともなサオスよ。アメリカ本部に至っては、必要とあらば自国民でさえ平気で手にかける―――悲しいけどこれが世界の真実なの、正義ってものは時と場合によって姿を変える―――残酷なものよ」
「―――キッシシシ、その通りじゃ。なかなか分かっておるではないか、小娘」
「「「「――――ッ!?」」」」
その場が凍りついた。
自分と向かい合っている部下たちが顔を強張らせ、目を見開いてある方向に視線を向けていることに三門羽月は気がついた。そして聞き覚えのあるこの声に、背後から伝わってくる不気味なオーラ―――
(―――まさか・・・)
振り返るとそこには―――
「“正義は必ず勝つ”とよく言ーじゃろ?そりゃそうじゃ―――力のある者、勝者が正義を手にするのじゃからのぉ―――汝ら人間の何千年にも及ぶ歴史も、そうして確立されてきたのじゃ―――」
むくりと上体を起こしてこちらを見ていたのは、気を失ったはずの少年だった。
だがその表情はニカッと奇妙なほど明るい笑みを浮かべ、声もどこか垢抜けている。
―――ギロッ
そして、まるで獲物を選ぶかのようにその赤眼を細め、彼女たちを見ている。
「・・・お兄ちゃん?」
未だに頬から涙を流し、彼にしがみついている綾はその赤い瞳を見上げて疑念の声を漏らした。
「あー!くっつくな!煩わしい!さっさと離れんか!この泣き虫めい!」
だがそんな彼が妹に向けて発した言葉は、普段のものとはかけ離れた―――罵声に近いもの。
その場にいる全員が直感した。
―――アレは彼ではない―――
「・・・誰、あなた」
三門羽月はそう言葉を発せずにはいられなかった。
「―――うむ、よくぞ聞いてくれた―――喜べ人間風情、汝らは妾の復活に立ち会うことができたのだ―――光栄に思うがいい―――」
スッと軽やかに立ち上がると、雅式の姿をした“それ”は高らかに言った。
「―――よいか!一度しか言わんからよ~く耳の穴をかっぽじって聞けい!我が名は可憐かつ最強かつ美貌に満ち溢れた“暴食の吸血鬼”―――グラトニス・ル・ノワール―――生粋のパリジャンヌじゃ!覚えたかぁっ!」
キュピーンッ
腰に手を当て、ふんぞり返った態度の赤眼の少年。ニシッと笑みを浮かべているその口元からは、白く尖った犬歯を覗かせていた。




