第七話
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夜の帳が下りてきている。
俺が雲雀の元へ駆け込んだのはすでに面会時間ギリギリだった。
「雲雀!」
少し、病室の中はひんやりしていた。というよりも、俺の体が火照っていただけかもしれない。
呼吸を整えて、雲雀の元へと駆け寄る。
フォンは、なぜかいなかった。
静かに、横になり目を閉じている雲雀を見た瞬間、涙が出そうになった。
安堵、だろうか。
「雲雀、本当に、ごめんな。気付くのがおせぇよな、俺。」
その手を握ると、確かに、証明する様に雲雀の手は暖かかった。
――世界中の誰に恨まれてもよかった。憎まれ罵倒されてもよかった。
―――――それでも俺は、雲雀に笑っていて欲しかった。
手を握る力を、少し強めた。
両手で包み込んで握り、祈るように額に当てて雲雀を確かめた。
さっき、やっと見つめた自分自身。そして言葉の通り。ここで、雲雀は確かに生きている。
俺が、見つめ続けなければならないすべては、初めからずっと、ここにこそあった。
「雲雀……」
―――だからこそ、俺が、世界中の誰よりも雲雀を信じなければならなかった。
「…こ……い、わ。」
高道のそれではない音が、空気を揺らした。
伏せていた顔を上げると、雲雀の目は開き、こっちに向いている。
「こ〜、痛い、わ。」
「ひ…ばり?目が覚め…!」
思わず、更に強く手を握る。
「っ!手が、痛いわ。」
我に返って握り締めていた手を緩めた。雲雀の白い手は俺の手形でわずかに赤みを帯びていた。
「わ、悪い。」
「こ〜……」
雲雀の口元にかすかな笑みが浮かぶ。
しかしその変化はかすかなまま止まり、彼女の視線は高道の両手に向けられていた。
「お願い、こー、起こして。」
「ああ。」
高道は抱きかかえるようにして雲雀の軽い体を起こした。
そのとき、はらりと袖口から覗いた腕が、記憶にある雲雀のそれよりもずっと細く、白いことに気がついた。
―――あの、雲雀が。
雲雀は高道のその視線に気付いたらしく、腕を隠すように袖をたくし上げる。
そして、口の中で小さく、ゴメンとつぶやいた。
「こー。向こうを向いて。こんな身体、恥ずかしいわ。」
「っ、馬鹿だな雲「お願い。」
俺の言葉を遮って、雲雀は顔を伏せた。
そしてもう一度、お願い。とだけ繰り返す。とても、断ることが出来ない声色で。
「わかったよ。」
その場で振り返ると、背中の服をつかまれたらしく、服がひっぱられた。
そして、額を当てているのか背中の中心辺りに一つ、温もりが伝わってくる。
「こーの背中って、こんなに大きかったっけ。」
「かわらねぇって。雲雀だってそうだ。」
「……嘘つき。」
拗ねた様な軽い一言。
そのくせ俺の深遠まで染み込んでくる雲雀の言葉。
動揺がばれない様に静かに一呼吸の間をおいた。
「…かもな。」
「ごめん、ね、こー。私、ダメね。こーの手を見て、泣きそうになっちゃったわ。」
泣きはらした後のように、雲雀のその声は湿り気を帯びている気がした。
「私、本当に重かったでしょう?もう、いいわ。もう、いいの。こー…」
「おまえ!もういいって、なにがだよ!」
「ダメだわ!」
温もりに引き絞られるように服が握られる。
雲雀は高道を振り向かせないように、強く服を握り締めた。しかし、それは彼にとって本当に弱弱しく伝わる拘束だった。
「ねえ、こー。私、全部聞こえていたの。……デートの約束も、こーの…」
実際、肉体的な痛みを伴うのではないかというほどに、そのためらいがちの雲雀の言葉は俺の真ん中に突き刺さってきた。
「全部、か。」
痛いのは、自分がしてきたことの意味をずっと理解していたからだ。
「振り向かないで。ねぇ。お願い。これが最後の、お願い。」
『最後』と。
雲雀は言葉を選び、その上で、『最後』とつぶやく。
俺は、もはや振り向くことも、雲雀に言葉を返すことさえ出来なくなってしまった。
雲雀の言葉を待ちながら胡乱な頭で自分の手を見つめた。
新聞配達で、繰り返した力仕事で、いつの間にか節くれだち荒れた、変わってしまった自分の手を。
「私が、こーを変えてしまったから。優しいこーは、私のせいで汚れるのも厭わないことを、憎まれることさえ厭わないことを、知っているから…。」
雲雀は感情の波を乗り越えるためか、かすかに震える深い呼吸を一度、言葉の間に挟んだ。
「こーは、もう、私の為に頑張らなくていいの。こーのおかげで、私はこうして戻れたから…。」
次第に背中に伝わる感触が弱まってきた。
最後のつながりは、雲雀の言葉が終わりに近付くにつれ放れていく。
「後は私が頑張る番だから。私はまだ…このままの自分を赦す事なんてできないから。だから、本当にこれで終わり。」
――『私がいうのもおかしいかもしれませんが。雲雀さんが目を覚ましたときに、齋井さんは、それで彼女が喜ぶとお思いなんですか?』
――『ヒバリが…それで喜ぶのカ?』
思い出したのは、三崎警察官の言葉。
そして、クルゥセの言葉。
やはり俺がすべて悪かったのか。
結局俺が雲雀を傷つけた。
気付くのさえ、もはや遅すぎたというのか。
「私は、ずるいから。汚い女だから。今、こー…高道を、真っ直ぐに見るのも、高道に真っ直ぐに見られるのも痛すぎるから。辛すぎるから。だから私は本当に別れたいの。自分勝手にあなたを振るの。」
握られていた服が開放される。
両手の温もりは背中から離れ、背中に残ったのは一つのかすかな温もりだけ。
「――――高道、私、あなたが好きよ。きっと、あなたが想う私よりも。……だから私と、別れてください。」
「嘘ばっかりだな…。雲雀は俺よりも嘘つきだ。」
『本当に』。
雲雀は思ってもいないことを言うときに、繰り返しその言葉を使う。
でも。
今の俺には、振り向いて雲雀の思いを無碍にすることなんて出来やしなかった。
精一杯、虚勢を張る。
「馬鹿だな。本当に。バカウンジャクッ…。」
水位が上がるのを、歯を食いしばって耐える。
「ありがとう、な。……あの事故の日、これだけ言いそびれていたんだった。」
自分の歯を噛み砕かんばかりにかみ締め、最後に深呼吸を済ませ。高道は振り向く事無く病室を後にした。
俺とすれ違った看護師が、目覚めている雲雀に気づき担当の医師を呼びに駆けていく足音がリノリウムの床独特音の反響となって響いていた。
車に乗り、当てもなく走り回っていた。
ともすれば歪みそうになる視界を必死に確保しながら、ただただ車を走らせていた。
そして、行き着いたのは、ラ・クルゥセ・トマリだった。
ヒカリに誘われる虫のように、何故かエントランスまで近付き、そして我に返って車に引き返そうとしたとき、後ろからタイミングを見計らったように声をかけられた。
振り向くと、そこには始めてみたときと同じ純白のスーツに身を包んだクルゥセがたたずんでいた。
「食べて、イくんダロ?」
投げかけられた言葉は、予想外のものだった。
魂を抜かれたような高道は一つ頷き、クルゥセに案内されるまま奥の個室へと通された。
そして、注文を通すまでもなく目の前に出されたのは、あの日と同じ特大のタルトだった。
あの日のように端をすくい取り、口に運んだ。
それはやはり、わずかな酸味が絶妙なバランスで全体の甘さを引き立て、味を引き締めていた。
しかし。
それは、あの日ほど…。
「…苦い。」
堰を切ったように涙が出てきた。
そのまま二口、三口と食べ続けると、涙は止まるどころか、嗚咽をまじえ、ただひたすらに流れ続けた。
「……コゥ。」
クルゥセは泣きじゃくる高道の頭を強く、強く胸に抱いた。
強い力で拘束され、鼻の奥に滲み込んでくる様に、甘い香りと、ふっくら焼きあがった生地の香ばしいニオイがした。




