11.その名は知らない
庭を歩いていた。
いつものように。
この闇が、静謐な空気が
汚れ切った心を浄化させる。
すると、繁みの奥から声が聞こえたのだ。
「%&’&$$&#%&&。」
理解できない言葉に無意識に剣の柄に手をかける。
しかしその殺気の無さに
すぐにあの娘だと気が付いた。
しかし誰と話している?
ふと一歩を足を踏み出して私は絶句した。
なんと、娘は芝生の上に布一枚を敷いて寝転がっていたのだ。
さも気持ちよさそうに。
初めは倒れているのかと一瞬思った。
ただすぐにその幸せそうな顔を見て寝転がっているのだと気が付く。
こんな娘は知らない。
私はあきれてしまった。
城から脱走したり、夜の庭に寝転がったり…いったいどういう神経をしているのだろうか。
おおよそ異世界とは奇異な文化が浸透しているらしい。
ただ簡素な夜着の白いドレスを身にまとい、黒髪に夜露が珠のようにからんだその姿はおとぎ話に出てくる花の精のようでこの世のものとは思えぬほど…清廉だった。
そして同時にいらだつ。
こんな夜更けに何かあったらどうするつもりなのかと。
「お前には危機感というものがないのか?」
憮然とした声で静寂を破った。
娘ははっとしたように目を見開き、ばっと音がしそうなくらい勢いをつけて起き上がると
私の姿を見とめ、さらに大きく目を見開いた。
「カイルザーク王。」
私は娘の手を引き、体を起こさせ、近くのベンチの座らせる。
娘の手は小さく柔らかだった。
女の手など夜会や舞踏会で嫌というほど触れている。
なのに、この女の手はどこまでも頼りなく小さいように思われた。
「こんな夜更けに、危険だろう。時と場合を考えろ。」
自分もよくコリーンに言われる言葉をそのまま彼女に投げかける。
来ていた上着を肩にかけてやる。
マナーとして当然のことなのに妙にこそばゆい。
「ごめんなさい。」
娘はぺこりと頭を下げた。
その拍子に流したままの黒髪が肩から滑り落ちる。
不意に香るかすかな甘い花の香りに落ち着かなくなる。
「なぜこんなところにいた?」
娘の横に少し距離を置いて座り問うと娘は天を指さして小さく笑った。
「星がきれいだったから。」
その笑顔はどう見ても25には見えない。
片言の言葉づかいもそれに拍車をかけているのだろうが…。
「王は?」
「なんだ?」
「王はどうしてここにきたの、ですか?」
まっすぐに私を見据える瞳はこの夜と同じ漆黒。
この漆黒の瞳は落ち着かない。
「一人の時間がほしいと思うとここへ来る。この静謐は心を休める。」
この娘になぜこんなふうに言うのか自分でも理解ができなかった。
ただこの女の前では妙な言い逃れはできないように感じた。
「わかります。一人に、なる時間は、大事だと思い、ます。王は、とても、忙しい。大変だから。心を落ち着かせる、時間が必要。」
娘は一言一言区切って静かに言葉を吐く。
静かに目を伏せたその横顔は、それまでのあどけなさは影を潜め、年相応の女のそれで
先程までの幼さとの差に驚く。
ただ心だけがざわめく。
大変だから…か。
そんな風にみられるなんて、いつもなら弱さだと恥じただろう。
弱さなど、人に見せるわけにはいかぬ。
王とは強さと同義だ。
付け入らせるわけには行かぬ。
でも、なぜだか彼女の言葉はただひとえに温かかった。
反発心も、恥もなく、ただその言葉が優しく染みていく。
「月も、星も、天も、虫も、花も…変わらない。私が前にいた世界と。だから、ここにいていい、と言われている気が、します。」
はっとして娘の顔を見る。
彼女は静かに目を伏せたまま、口元には小さな笑みを浮かべていた。
そうなのだ。
この娘は見も知らぬ異世界から突然この世界に来て言葉もわからぬままここにいるのだ。
よるべきものも、自分を証明するべきものもなく、ただそこに留め置かれている。
不安に思わぬはずはない。
「なにか、困ったことはないか?」
娘は私の顔を見て意外だというように目を見開く。
どうも、この娘は根が正直なのだ。
言葉にしなくても顔にすべてが出る。
そして小さく笑って首を振る。
「いいえ。とても、みんな優しい、です。申し訳ないのは、自分だけが恵まれていること。この国に、貧しい人は、まだまだいっぱいいる、から。自分が何も、できないのは、辛い、です。」
私は正直驚く。
私が知る貴族の娘たちはそんなことは言わない。
それが異世界から来て、この世界の犠牲になる運命を背負った娘が、我が国の貧しさに心を痛めている。
なんという皮肉。
「…そうだな。皆に幸せな国は、まだまだ先だな。」
幸せ…か。
そんな国を作りたいと思っていたが…。
「王は、幸せですか?」
不意に告げられた質問に思わず言葉が詰まる。
幸せとは何か?
そんな根源的な問題に自分は答えられない。
自分が幸せかどうかなんて考えたこともなかった。
それすらどうでもいいようにさえ感じる。
「そんなことはどうでもいいのだ。私には国を守り、豊かにするという使命がある。」
答えにはとてもなっていないと感じる。
だがそんな風にごまかすしかなかった。
だが幸せとはなんなのだ?
「王は、幸せになってほしい、です。」
彼女がこちらを向いて小さく笑った。
その瞬間訪れたのは圧倒的な罪悪感。
幸せになる、
そんな資格あるはずがないではないか…。
私のために…お前は死ぬのだぞ。
自分には背負いきれない罪がある。
20の時王位に立ったその瞬間から自分には生涯許されることのない罪を負うてきた。
賢帝と呼ばれた先代の父王は強くそしてまた同時に遠い存在だった。
父は預言者にこう言われたのだ。
「王は自らの息子に殺される」と。
その予言のせいで父は母を蔑み、私を疎んだ。
「なぜあんな息子を生んだのだ」と。
「早く殺してしまえ!」と。
母に浴びせる罵声はそのまま母から私への罵声へと変わった。
「恐ろしい子、呪われた予言を受けるなど!お前など生みたくはなかった!」
それはひどく心をえぐり、凍らせる言葉だった。
幼い日の私は常に父に、母に認められたかった。
ただそれだけが至上命題であり、唯一の自分の存在意義だった。
だがしかし常に父は怯えていた。
いつ自分が息子に殺されるのかと。
殺される前に息子を葬るべきだと。
私がここに立っているのはひとえに先代の宰相であるコリーンの父の尽力によるものだ。
王の唯一の後継を絶やさぬため、ひたすらに私を守った。
父は私に暗殺者を送り、毒を盛り続けた。
そして私が20の誕生日を迎えた日。
予言が現実のものとなった日だった。
予言に囚われた父は晩年には心を壊しており、昼夜の境なく酒に溺れ、剣を振り回し、女官や兵士に怪我を負わせることもしばしばだった。
父王は領土を守り、国を盛り立てた強い王であり、そしてまた同時に弱い人間だった。
そしてそれは起こった。
ある季節はずれの春の嵐の夜。
酔いに任せ、父がある嵐の夜、母に剣を向けた。
錯乱した父を止めるために私は父に剣を向けた。
不思議と心は澄んでいた。
言い訳はしない。
私は自分の意思で、自分の判断で己の剣を父に向けたのだ。
剣を振り回し罵詈雑言を吐き続ける父は、もはや青い狼と呼ばれた頃の私の憧れの存在ではなくなっていた。
ただこれ以上生かしておくことが国の未来に是となることはないと、冷酷に判断したのだ。
「王は自らの息子に殺される」
その予言は、事実になった。
雷の音に父の断末魔はかき消された。
ただ、生暖かい血が雨のように私の頬を濡らした感覚だけが妙な現実感をもって、残っていた。
父の乱心に辟易していた元老院は父の死を病死とし、発表。
母はそのまま心を壊し、自らの毒を煽った。
私は父殺しの罪を負いながら王位を継いだ。
これはごく一部の人間にしか伝わっていない。
これが私の消えることのない罪。
思えば父に一度でも顧みてもらったことなどあるだろうか。
思えば母に一度でも抱きしめてもらったことなどあるだろうか。
そういう甘い記憶が一つでもあれば、幸せとはなんたるかを答えられたのだろうか。
否、こんな自分に幸せになる資格などない。
なってはいけない。
ましてこの先この女を殺して自分の願いを叶えると予言されているのだ。
犠牲になるかもしれない人間から幸せを願ってもらえるような生き方を自分はできないだろう。
まだまだ果てしなく遠くて孤独な道が広がっている。
ふと私の手を包む暖かな手。
驚いて顔を上げれば、レンの小さな手が私の手を包んでいた。
「貴方は、幸せになる。きっと。」
私は静かに目を伏せた。
目の裏が熱い。
この胸の痛みが罪悪感によるものなのかどうか、私には測り兼ねた。