9.脱走、この世界の現実
計画がついに実行された。
城から脱走計画。
城の人はみんな良くしてくれる。
王はともかく、きちんと衣食住を提供してくれて、贅沢すぎるほどの生活をさせてもらっている。
でも、あたしは所詮庶民。
なにもわからないままただ飯を、食らっているには居心地が悪過ぎた。
そしていつも監視されているようなあの空間には息がつまる。
自分が生きているという実感がほしい。
自分が自分の力で地に足をつけて立っているという実感があたしには必要だった。
それにはやっぱり働かなきゃでしょう、
という結論に至ったのだった。
メイドさんの服をこっそり拝借して、城からなに食わぬ顔をして抜け出した。
案外誰も気が付かないもので、全然いける。
あたしは雨の城下を走り続けた。
*
気が付くと城からは少し離れた閑散とした路地に入り込んでいた。
この辺は以前コリーンにお忍びで連れてきてもらったことがある飲食街。
この前は活気があって楽しそうだったのに、今は雨のせいなのか閑散としている。
飲食街ならバイトとかも見つかりやすいのだろうという見解のもとここへ来たのだけれど。
あるお店のドアを叩こうとしたその時、路地の奥で野太い男の声が聞こえた。
「さっさと来い!」
あたしは声のするほうに向かうとそこには地面に体を横たえ、ガラの悪い男に腕をつかまれ、無理やり引き起こされている女の子がいた。
15,6くらいだろうか。
顔立ちはきれいなのに、体がとても細く顔色も悪い。
虚ろげな彼女を見るとあたしはいてもたってもいられなかった。
「‘%&%$#&!!」
男の言っている言葉は早口で聞き取れないけれど、嫌がる女の子を無理やり連れて行こうとしていることはわかった。
あたしは男に近づきその腕をひねりあげる。
小学校から高校まで合気道部で鍛えたこの技をなめんなよ。
「やめて。」
あたしは男を睨む。
「なにしやがるこのくそがき!」
ガキってあたしは25だっての。
日本人はどこに行っても若く見られる。
こぶしを振り上げた男の力をいなすと男がぬかるみに転がる。
合気道は相手が熱くなって力をこめれば籠めるほどにこちらが有利になるのだ。
「覚えてろ!!」
こういう時の捨て台詞は万国共通らしい。
腕をかばいながら男は去って行った。
あたしは女の子に向き直る。
「大丈夫?」
「う…つ…」
彼女は何も言わない。
彼女の瞳は何も映していない。
ただ虚空を見上げ、浅い息を繰り返すだけ。
栄養が行き渡らず、ぱさぱさになった茶色い髪はベリーショートというのも憚られるくらい短く残バラだった。
肌は荒れて斑にアザができている。
ところどころあざがある以外はぞっとするくらい青白い。
抱き上げようとした肩は骨と皮ばかりで、まるで枯れ枝を抱いているようで、あたしは全身総毛だった。
なに…これ…?
「その子はもうすぐ死ぬよ。」
死という不吉な単語が聞こえて振り返ると、お世辞にもきれいとは言えない薄汚れた下着の様な格好をした30くらいの女性。
ぱさぱさになった髪に青白い顔はこの少女と同じだ。
キセルのような管を片手に物憂げにボロボロの壁に寄りかかっている。
彼女の周りには甘ったるい重い匂いが充満し、肺に絡みつくようだった。
「死ぬ?」
あたしは声が震えるのを抑えることができなかった。
「ここがどういう場所かお嬢ちゃん知ってるのかい?昼間は飲食街、夜は売春街さ。」
”リティアータ”という聞きなれないフレーズ…
それはおそらく彼女がここまでボロボロになった理由。
売春…
「あんたみたいなお金持ちの御嬢さんがいる場所じゃない。
正義感振り回して満足かい?
でも、その子はもうすぐ死ぬよ。
もう売りつくしちまったからね。
自分に売れるものは全部。
髪も、体も、心も。
全部だよ。
もうその子は空っぽさ。
なーんにも残っちゃいない。
だから死ぬしか残されてないのさ。
物心つくころからこの子は、男に抱かれて、自分を削り続けてたんだ。
こんな風にのたれ死ぬことも知っていても、それでも削り続けるしかなかった。
そうすることでしか小さな弟や妹を守れないからね。
女が働くっていうのは、そういうことなのさ。
命を削って抱かれ続けるのさ。
その果ては、病気で死ぬか、殺されるか、どちらかでもね。」
お金のため。
生きていくために、女は命を削って体を売る。
あたしにとって仕事はそんな重いものじゃなかった。
死ぬとか生きるとかそういうものじゃなかった。
ただお金を稼ぐための手段でしかなかった。
「出ていきな。
ここはあんたのいる場所じゃない。
あたしたちの命を啜って踏みつけてるあんたみたいな奴等に、同情なんてされたくない。
あんたが守ったその子の妹が今度は同じように命を削る。
生きるために命を削る。
バカな貴族や金持ちの欲に命は吸いとられ、そしてあとには何も残らない。
この子も妹も死体になってエスタ川に流される、それだけだ。
その現実を知るといい。」
女の人は手も顔も体も骸骨みたいに痩せているのに、目だけがぎらぎらと異様な光を放ってあたしを見据える。
それは狂気にも似てあたしを震撼させた。
憎しみ。
怒り。
言いようのない哀しみ。
そして絶望…。
そんな負の感情がその眼に異様な光を宿しているのだと気が付き
あたしは何も言うことができずに腕の中の少女を見た。
彼女はすでにこと切れていた。
その表情は苦悶に歪んでいる。
あたしよりもずっと幼いこの子は家族を守るために命を削って春をひさぎ続けた。
ただ一心に死に向かって。
この子にとって、生きることは死に向かって進むことだったんだわ。
ただ生きるために、家族を生かすために、命をすり減らして抱かれ続ける。
それが、それだけが生きるということだったのか。
あたしは彼女をそっと地面に横たえ、薄く開いた目を閉じさせる。
そうすると少しだけ安らかに眠っているように見えた。
その女性に頭を下げ、そして走り出した。
まだあの子の骨ばった肩の感覚が、ハリのない布切れみたいな肌の感覚が手から離れない。
あの子はきっと知らない。
恋のドキドキも、家族のぬくもりも。
あの子にとって生きるとは、ああやってぼろぼろになるまで体を売り続けるということだから。
あたしは思い上がっていた。
働きたいだなんて。
この世界について何も知らないのに。
あたしはあの子みたいにぼろぼろになって死ぬ覚悟なんてどこにもない。
あんなふうにボロボロになって死ぬのなんてぜったいに嫌だって思う。
あんなふうに汚い路地裏でのたれ死ぬのなんて絶対嫌だと思う。
でもそれ以上にそんな人たちの命の上にあぐらをかいてなにもせずに座っている自分がもっと嫌だ。
あたしはただ雨の中を走り続けた。
町から少し離れたところにあった木の下で雨宿りをした。
膝を抱え目を少しつむる。
生きるってなんなんだろう?
あたしは元の世界で夢も希望もなかったけれど、それなりに平和にぬくぬくと暮らしていた。
でもここはそうじゃない。
弱いものは、貧しい者はぼろぼろ死んでいく。
泥にまみれて、冷たい雨に打たれて。
誰にも悲しまれず。
お墓さえきっとない。
ただ鳥についばまれ、風に吹かれ、土にさえ還れない。
そんな世界。
こんなところ嫌よ。
早く帰りたい。
帰りたい。
あたしの世界へ。
あの平凡で馬鹿みたいにものであふれたあのごちゃごちゃした東京へ
還りたい。
ただひたすらにそう思った。
ふと雨のしずくが途絶え視界が暗くなった。
顔を上げるとそこには、カイルザーク王が立っていた。
漆黒の髪から水滴をしたたらせ、馬でかけてきたのか服も濡れている。
あたしは驚きで目を見開いた。
だってこの人があたしを探すなんて考えてもみなかった。
憎まれてるとさえ思っていたのに。
「帰るぞ。」
あたしの腕を無理やり引いて立たせる。
大きな無骨な手だった。
つかまれた部分が熱く熱を持っている。
硬い、けれど暖かい手のひらに、泣きたくなるくらいの安堵感を感じている自分がいた。
この笑わないイケメンもやはり人間なのだと実感する
「カイルザーク王」
あたしは彼を呼び止める。
声が震えるのは体が雨で冷え切ったからだけではない。
王は立ち止まってあたしを見下ろした。
冷たいフィヨルドの瞳。
怒っている。
当然だ。
自分勝手に城を抜け出したのだから。
でもあたしはあんなにも怖かったこの人に今こんなにも安堵感を持っている。
「…ごめんなさい。」
謝罪の言葉を述べると、彼は形の良い眉を寄せて一言言った。
「よい。」
彼そのあと何も言わずにあたしの手を引いてつないであった馬のところまでくると何も言わずにあたしの腰を抱いて馬に乗せた。
無愛想な表情なのにその手はすごく優しくてびっくりしてしまう。
あたしはおとなしく彼の胸に体を預けて城への帰途へ着いた。
こんなに近くに体を寄せたのは初対面の時以来だけれど、見た目と違ってすごくがたいがいい。
きれいな顔に似合わずごつごつした手は小さな傷があって、働く男の手だと実感する。
そう、彼はおとぎ話の王子様なんかじゃない。
熱い血の通った一人の男の人なんだと思う。
みんな生きている。
ただ明日のために必死で生きている。
あの子も。
この王様も。
あたしは…?
ここで…何のために生きるのだろう?
どうしてあたしはここへ来たのだろう?
答えなど出るはずもない。
あたしはただ一心に前だけを見続けた。
彼は城へ着くまで一言も口をきかなかった。