番外編「振り子の、さらに向こう側」 ――唐律・闘訟律・大陸の現場へ――
今回は特別編となる「番外編」です。大宝律令の直接のモデルとなった唐代の貞観年間、国際色豊かな大都市・長安へとタイム跳躍します。大宝律令闘訟律の源流である唐律・闘訟律の裁判現場を見届け、自力救済編で追った法思想の振り子の「最古の始点」を探ります。
「Unit-LEX、次章に進む前に、一つ、片付けておきたいことがあります」
律が円卓で、いつになく真剣な面持ちで切り出した。
〔Unit-LEX〕「神条調査官の意図を確認します。唐律・闘訟律への直接調査、という理解でよろしいですか」
「はい。ずっと、気になっていました。大宝律令が唐律を範としていた、ということは分かりました。でも、私たちはまだ、唐律そのものの現場を、この目で見ていません」
陣内が茶を飲みながら、意外そうな顔をした。
「律儀だな、先生。もう総括まで終わったのに、わざわざ後戻りするのか」
「これは後戻りではありません」
律はきっぱりと言った。
「振り子の始点を、実際に確かめないまま終わらせるのは、調査官として、筋が通らないと思うんです」
〔Unit-LEX〕「同意します。対象法令:唐律・闘訟律。編纂は貞観年間を中心とする、唐代の律令法典です」
〔Unit-LEX〕「跳躍先を設定します。貞観年間、長安」
床が発光し、空間が歪んだ。
香辛料と、砂埃と、様々な言語が入り混じる喧騒。
律たちが降り立ったのは、長安の市中、東西の市が並ぶ一角だった。西域からの商人、僧侶、役人――今まで見てきたどの現場よりも、遥かに国際色豊かな光景が広がっていた。
「これが……長安……」
律は、その規模に、しばし言葉を失った。
〔Unit-LEX〕「観測します。この都市の人口規模、行政機構の複雑さは、これまで調査した日本の各時代と比較して、著しく大きいことが確認されます」
市の一角、官衙の前で、まさに「闘訟」の裁定が行われていた。役人が、几帳面な態度で、二人の当事者を前に問いを重ねている。
「双方、事の次第を申せ。まず、先に手を出したとされる者から」
役人の言葉に、律ははっとした。
「……理非を推問する、という姿勢……。大宝律令と、同じです」
〔Unit-LEX〕「肯定します。大宝律令闘訟律は、この唐律闘訟律を範型として編纂されており、条文の構成、手続きの様式に、高い類似性が見られます」
役人はさらに続けた。
「証人はおるか。目撃した者があれば、進み出よ」
近くにいた商人らしき男が進み出て、証言を始めた。律はその様子を見つめながら、静かに呟いた。
「……証人を呼び、事実関係を確認する。この手続きの骨格は、そのまま、大宝律令の郡衙で見た光景と重なります」
陣内が周囲を見渡しながら言った。
「でも、規模が全然違うな。ここは、日本の田舎の郡衙とは比べ物にならない、大帝国の首都だ」
〔Unit-LEX〕「補足します。唐律の統治対象は、多民族・多言語にまたがる広大な領域です。日本が継受したのは、条文の文言だけでなく、こうした複雑な統治機構を成文法によって統制しようとする、律令国家という統治モデルそのものでした」
律は、役人が手にする律令の写本を見つめた。それは、これまで見てきたどの条文よりも、体系的に整理され、細部まで書き込まれていた。
「……これほど精緻な体系を、遥か東の島国が、丸ごと輸入しようとした……。大宝律令の編纂者たちは、いったいどれほどの労力を払ったのでしょうか」
〔Unit-LEX〕「記録によれば、遣唐使を通じて、律令の条文だけでなく、注釈書、判例集、さらには実務経験を持つ人材までもが、日本へともたらされたとされています」
律はゆっくりと頷いた。
「……単に条文を書き写しただけではなかった。運用のノウハウごと、輸入しようとしていた……」
裁定は続いていた。役人は、証言と物証を丹念に照らし合わせ、最終的に、先に手を出した側により重い罰を、そして応戦した側にはより軽い罰を言い渡した。
律はその判断を見届けながら、深く息をついた。
「……理非を推問する。この姿勢は、ここではまだ、生きています。御成敗式目で、一度この理想が放棄されることになるとは、ここにいる誰も、想像していないでしょうね」
「歴史ってのは、後から見ればつながって見えるけど、その場にいる人間には、先のことなんか分からねえもんだ」
陣内が言った。
律は頷いた。
「……この唐律の役人も、まさか自分たちの築いた体系が、海を越えた島国で受け継がれ、そこでさらに数百年をかけて、理由を問わない方向へ振れ、また理由を問う方向へ戻ってくることになるとは、思ってもみないでしょう」
律たちが円卓に戻ると、律は静かに、しかし満ち足りた様子で端末を開いた。
〔Unit-LEX〕「本件は番外編として記録し、正式な報告書番号は付与しません。備忘録として記録しますか」
律は頷いた。
時空法制局・調査備忘録(番外編)
対象法令:唐律・闘訟律
調査地:貞観年間・長安
【現場の事実】
唐代の官衙において、証人・物証に基づき、加害の先後を含めた事実関係を精査した上で、量刑に差をつける裁定手続きを確認した。これは大宝律令闘訟律の直接の範型であることが確認された。
【継受の実相】
日本による唐律の継受は、条文の文言のみならず、注釈書・判例・実務人材を含む、統治モデル全体の輸入であったと考えられる。
【振り子の始点として】
本件により、「自力救済編」を貫く法思想の振り子――理由を問う、問わない、再び問う――の、確認しうる最も古い始点を、実地で確認することができた。
律は端末を閉じ、静かに微笑んだ。
「……これで、本当に、始まりから終わりまで、全部この目で見ることができました」
「満足したか、先生」
陣内が尋ねた。
律は、長安の喧騒の余韻を残しながら、静かに答えた。
「はい。振り子は、ここから始まっていました。そして、その振り子は、まだ、揺れ続けています」
〔Unit-LEX〕「新たな調査対象を提案します。対象法令:治安維持法」
律は頷いた。
「……はい。今度こそ、参りましょう」
番外編をお読みいただきありがとうございました! 長安の官衙で丹念に理非を推問する役人の姿を通し、日本が受け継いだ律令国家という巨大な統治モデルの原点を確認することができました。東の島国で変容を重ねた振り子の始点に触れ、律たちの調査の旅はより深みを増しました。これからも彼らの活躍をお楽しみに!




