わがまま陛下と龍神 求婚
仕方なく、彼女の部屋の戸を開ける。
「何しに来たのよっ?」
予想通りの歓迎っぷりだった。何も言わずに机の上に桶を置き、布をその中に浸す。それを硬く絞ってから、相変わらず寝台の上で膝を抱えている彼女の隣に腰掛ける。
「ほら、冷やさねえと……」
「嫌」
景華はそう言って、柳鏡と反対側に顔を向けた。
「あんた、それ以上不細工になってどうするんだよ……」
景華の顔を自分の方に向けさせて、その瞼に冷たい布をあててやる。彼女は、今度は大人しくそれに従った。膝が解放されて、細い足が寝台から床に向かって投げ出される。
「私、今明鈴さんに話していたの。柳鏡が優勝しても、絶対に柳鏡のお嫁さんにはなってあげない、って……」
「全部、外で聞いてた……」
「そう。聞いてたならわかったでしょ? だからっ……はっ?」
柳鏡の言葉に、景華は絶句した。全部聞いていたということは、まさか、最初から最後まで……? 頬が熱くなる。
「あんた、余計なことまで話し過ぎ……」
「柳鏡には関係ないでしょ! 盗み聞きするなんて、最低! もう出て行って! さよならっ!」
その言葉を聞き終えた柳鏡が、立ち上がった。
「ちょっ……」
彼女の呼びかけで、彼が立ち止まって振り返る。
「何も、本当に出て行かなくても……」
「ああ、これを濡らし直すだけだ」
そう言って、彼女の瞼から熱を吸い取った布を、再び水にさらす。景華がふくれっ面になった。
「騙すなんて、ずるい」
「別に騙したつもりはねえよ」
また、冷たい布が瞼に優しく当てられる。視界が、白くなる。その拍子に、何かが額に押し当てられたのを感じた。それが彼の口唇だったと感覚でわかった景華は、真っ赤になって硬直する。
「不安にさせて、悪かった……」
彼がどんな顔をしているのか、景華には見えない。でもその声音からは、彼の謝罪の気持ちが十二分に窺える。
「……もういいよ。無茶苦茶言ったの、私だもの……。無理に優勝しろなんて言って、ごめんね……」
「無理じゃねえよ」
彼のその言葉に、目を上げる。視界に、色が戻る。最初に彼女の視線を引きつけたのは、温かい深緑の色。
「残りの種目で全部一位を取れば、優勝だろ? 全部一位になってやるよ。だから……」
そこで言葉を切った彼が、ついと彼女から視線を逸らした。照れた時に特有の仕草で、黒いくせ毛の中に指を掻き込む。
「だから、何?」
続きをなかなか言わない彼の顔を、真紅の瞳が覗き込んだ。彼の苦手な色。でも、一番好きな色……。
「だからっ……、そのっ……。あぁ、もう! いいか? 一回しか言わねえぞっ?」
彼女から意図的に目を逸らしていた彼だが、何を思ったのかその目を見つめた。その頬は、赤い。深緑の色が、彼女の視神経に心地良い刺激をもたらす。吸い込まれそうになりながら、夢見心地で頷く。
「だからっ……、その、その時はっ……。その時は、大人しく俺の嫁さんになれっ! いいなっ? 後から文句とか、絶対言わせねえからなっ!」
予想だにしなかった言葉。不器用で恥ずかしがり屋で、その上面倒くさがりの彼からは、一生もらうことができないと思っていた、言葉……。思考が、停止する。再起不能。深緑の瞳が、だんだんとぼやけて映る。周囲が、歪む……。
「だあぁ、もう! 泣くなよ、いい加減! 俺、あんたを泣かせに来たみたいじゃねえか!」
慌てて涙を拭ってくれる不器用な手が、本当に心地良い。温かい、大きな手……。停止した思考が、ようやく復活する。
「なるーっ……! 柳鏡のお嫁さんに、なるーっ……。柳鏡のお嫁さんじゃないと、やだーっ……!」
繰り返し、そう呟く。自分が言っていることは、もはや自分ではよくわからない。でも、彼はわかってくれたようだ。
「わかったからもう泣くなっ! ……その時になってから気が変わった、とか言うの、なしだぞ?」
「言わないよー……」
ボロボロと涙をこぼすその姿は、小さな頃の彼女を想起させる。しかし……。
「まったく、大体何でこんなに泣かなきゃならねえんだよ? 俺、悪いことしたみたいじゃねえか」
「だってぇー……」
辛うじて、彼に口答えする。真紅の瞳で上目遣いに彼を見上げて、唇を尖らせて。
「柳鏡がそんなこと言ってくれるなんて、思いもしなかったもん……」
どうやら、彼女を宥めるのにはまだ時間がかかりそうだ……。