わがまま陛下と龍神 我儘
秋の空気は、冷たい。ましてや夜の空気は、なおさら……。彼の心を温めてくれる少女は、もういない。最後に、眠っている彼女に別れを告げて来た。約束通り、何も言わずに……。
「自分で言ったくせに、怒るだろうな。あのわがまま姫は……」
泉が見えた。彼が龍神の紋章を解放してから、飛翔するならここで、と密かに決めてあった場所。一年前に、彼女に水を飲ませようとして拒絶された、あの場所……。彼を最後に見送ってくれるのは、ほろ苦い思い出の方が良い。その方が、決心が鈍るようなことがないだろうから。
乗って来た馬から降りて、彼を離してやる。彼は、勝手に走って行った。
「さてと、青龍の召喚とやらを行うか……」
そう言って、左腕を捲る。それから、その腕に巻かれた包帯を解いた。くっきりと刻まれた青い紋章と、青銀の鱗……。自分の腕だとしても、見る度に悪寒が走る。彼女は、そんな腕の自分でも受け入れてくれた。深緑の髪が、意識の隅にちらつく。ダメなんだ。彼女は、俺のものにはできない……。
「確か、紋章に触れて呪文を唱える、だったか? 随分とお手軽だな……。本当にそれで大丈夫なのかよ?」
彼の悪態に反応を示してくれる者は、一人もいない。彼女なら、ほら、文句言わないの! と言ってくれただろう。真紅の瞳が思い出されて、胸が苦しい。人でなくなろうとしているこの瞬間にも、思い返すのは、考えるのは彼女のことばかり……。
「洗脳されてるみてえだな……。馬鹿だな、俺……」
自分から、彼女を離れたくせに。望んだ訳ではないが、それが彼女の幸福のためなのだ。自分の存在は、彼女の存在を害するように運命付けられている。そして、その逆も……。それならば、最も傷つけたくない存在を護るために、その手を離す他ないのだ。
暗い思考を振り切って、彼は息を吸い込んだ。青龍の力で龍神になれば、もう、苦しむこともないだろう。
「我、龍神の紋章を持つ者なり。ここに東方の守護神、青龍を召喚す……」
辺り一面が、青白い光に包まれた。真昼の太陽よりも眩しく思える程の、輝き。もしも彼女が城からこれを見れば、気付くだろう。いや、もしかしたら自分の不在で気が付くかもしれない……。そして、帰らない自分をいつまでも待ち続けてくれるのだろう。約束通り、何も言わずに離れたのだから……。
「柳鏡!」
城に残して来た、愛おしい声。その時になって、気が付く。あぁ、自分は。最後に彼女が自分を呼ぶ幻聴が聞こえる程、本当に強く、彼女を想っていたのだと……。
「柳鏡!」
ハッとする。背中から、細い腕が回される……。まさか、そんなはずはない。彼女が自分を追いかけて来るなんて、そんなこと……。肩越しに、後ろを振り返る。
「っ……!」
最初に目に入ったのは、深緑の髪。その柔らかさは、彼の凍えた心に温かい。そして次に目に入ったのは、龍神の華の、真紅の瞳。そして。
「やだ! 龍神なんかになっちゃダメ!」
相変わらずの、わがまま……。今度は、体ごと振り返る。彼女の細い腕は一度解かれたが、今度は彼の正面から、再び折れそうな腕がその体に回される。非力な彼女が、精一杯の力を込めて。
「あんた、どうして来たんだよっ? 何も言うなって言ったの、あんただろっ?」
必死で彼女を振り払おうとする。決心が、鈍ってしまうから。それでも、彼女は離れようとしない。
「前言撤回! 何があっても、一緒にいてくれなくちゃダメ!」
小さな肩が、震える……。彼女は、最後の最後に約束を破った。
「一人ぼっちに、しないでよぉ……。柳鏡がいてくれないと、ひとりぼっち……」
この一年間で、彼女は多くのものを失った。残っていたのは、彼だけ……。
眩しい光が収まって、青い長大な龍がその姿を泉の上に現した。




