女王と龍神 和解
懐かしい、城……。でも今の景華には、その感傷に浸っている暇さえない。通りすがりの部屋を、順番に見て行く。
「いない。……ここも、いない……。ここも……」
閣議室の扉に手をかけた、その時だった。
「死ねっ!」
「きゃっ!」
後ろで銀光が閃くのが、僅かに視界に入った。慌てて後ろからの斬撃をかわす。深緑の髪が一束、先程まで彼女がいた位置に舞った。振り返ると同時に剣を抜き、次の攻撃を受け流す。彼女に向かって剣撃を繰り出して来るその人物は、彼女が探していた春蘭だった。激しく素早い攻撃が、続けて繰り出される。
「やだ! やめて、春蘭!」
かなり際どいところでその剣撃をかわしながら、必死で彼女を止めようとする。それでも、春蘭の手が休まることはない。
「どうして戻って来たのよ! あなたなんてっ! あなたなんてっ……!」
景華が、後ろに跳び退って彼女の攻撃が届かないところまで逃れた。ようやく、春蘭の攻撃の手が止まる。
「春蘭、春蘭に会ったら、ずっと聞きたいことがあったの……」
肩で息をしながら、景華がそう言葉をかける。対する春蘭の方も、同じか、彼女以上に激しく肩を上下させていた。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 趙雨のこと……。私、春蘭がそうだって知ってたら……」
「私が趙雨を好きだと知っていたら、身を引いたとでも言うつもり?」
激しい射るような視線が景華に向けられた。それを彼女も、臆することなく正面から見返す。
「身を引くだなんて、そんな偉そうなこと言わないよ! だって、趙雨には春蘭の方がずっとふさわしいもの! 本当はあの時、何か違和感があったの……。趙雨が、私の告白に応えてくれた時……。おかしいな、春蘭のことはいいのかな、って……。それでも、自分が幸せだからって、見ないふりしたの!」
そう、今思えば。あの時の彼の瞳は近くにいる自分ではなく、遠くにいる誰か、おそらくは彼女に向けられていたのだろう。それでも、彼が自分の気持ちを受け入れてくれたことが嬉しくて、気付かないふりをしていた……。
「私があの時、趙雨にそれを訊ねていれば……。そうしたら、お父様も、ここまで来る間に亡くなった多くの人たちも、誰も犠牲にならずに済んだのに……」
「綺麗事はたくさん!」
彼女の瞳は、怒りに燃えあがっている。青い炎が、その瞳の中に窺える。
「あなたはいつもそう! 大して反省もしていないくせに、そんなことを言わないで! 多くの人が犠牲になることはなかった、ですって? それなら、ずっと柳鏡に守られてどこかこの国の片隅で暮らしていれば良かったじゃない!」
「それじゃあダメなの!」
春蘭の激しい口調につられて、景華の声もだんだんと大きくなって行く。
「私、柳鏡に教えてもらってたくさんのことを勉強したの! 今までの王たちの良い所も悪い所も! そして、お父様が非道な政治をしていたことも知ったわ! それでも私には優しい、いいお父様だった! だから決めたの! お父様が国民に恨まれて死んだなら、娘の私がその名誉を回復しようって!」
「笑わせないで!」
景華の言葉に、春蘭が間髪を入れずに怒鳴り返す。その迫力に、景華の肩が一瞬ビクリと震えた。
「うわべだけを学んでこの国のことがわかれば、苦労はしないわ! あなた、知ってる? 昨年の大飢饉の話……」
「お父様からお話だけは伺ったわ。そしてお父様が言っていたわ、気候が安定していない緋雀の里の辺りでは、かなりの被害が出ているだろう、って……」
景華の目が伏せられた。思い出したのは、柳鏡が連れて行ってくれた、廃坑となった鉱山の町の風景……。
「そうよ……。あの年は、里の人間の半分が食べていける量がやっとだった。それなのに、珎王はいつも以上の税を納めるように言ったわ。無理なら里を壊滅させる、ってね……。追い詰められた私たちは、国王の暗殺を決意したわ。それが、一年前のあの事件よ……」
春蘭の語気が、だんだんとその激しさを失って来た。どうやら、彼女も落ち着いて来たようだ。
「でも、それだけが原因じゃあないわ……。私、あなたがずっと大嫌いだった!」
「っ……!」
春蘭のその言葉に、息が詰まる。彼女が困惑して固まっているそこに、柳鏡が現われた。
「無事かっ?」
そう言って、彼は彼女を庇うように前に立ってくれた。春蘭の手に握られていた剣が、彼女の手を離れて音を立てて転がった。青い顔を、両手で覆う……。
「柳鏡、私は大丈夫だから、下がって……。まだ、春蘭と話があるの……」
その言葉を受けて、柳鏡は一歩後ろに身を引いた。それでも、いつでも飛び出せるように体重は前に傾けられている。
「趙雨は……?」
そう問ってくる彼女の声が、震えている……。柳鏡が口を開いた。
「殺しちゃいねえよ。もっとも、俺に言わせればあんたも趙雨も殺しても殺し足りない位だけどな……」
「柳鏡、そんなこと言わないで!」
冷たい物言いで彼女の心を抉るようなことを平気で言う彼を、景華が止めた。春蘭を傷つける必要は、どこにもない……。
「あんたはそれで良いのかもしれないが、俺は言い足りないぜ……。こいつらは、あんたを傷つけて、この城から追い出して……。許せる訳ないだろ?」
春蘭が顔を上げた。肩が震えていた理由は、涙がこぼれたから。
「柳鏡は、相変わらずなのね……。ずっと、あなただけ……。そんなに何でも持っているのに、どうして私から趙雨まで奪おうしたの?」
何でも持っている、という言葉に、景華が過剰に反応した。何でも持っているのは、彼女の方ではないだろうか……?
「……確かに私は欲しい物はなんでも与えられていたし、飢えて苦しい思いをしたこともないわ。でも私、ずっと春蘭が羨ましかった」
その言葉の真意は、春蘭にも、そして柳鏡にもわからない……。
「春蘭には……お母様がいるじゃない。兄弟だっているし、私にはない良い所、たくさん持っていたから……。あの夜趙雨に言われたでしょう? 春蘭には、私にはない公平さがあるって……。周りをなんの贔屓目もなく見るなんてこと、私にはできないもの……」
春蘭の隣に、傷を負った趙雨が並んで立った。柳鏡の剣撃を受けても動けるということは、彼は言葉とは裏腹にかなり手加減をしたに違いない。普通なら、即死していてもおかしくないのだから……。
「それに……」
春蘭が、今にも倒れそうな趙雨を支えた。趙雨が、小さく彼女に微笑む。景華の手が、そっと柳鏡の腕に触れた。
「私に柳鏡がいてくれるのと同じように、春蘭には趙雨がいるじゃない。何でも持っているのは、春蘭も同じでしょう……?」
春蘭の目から、後から後から涙がこぼれる。気が付かなかった。一番憎んでいた彼女に言われるまで、自分が持っている物の価値には気付こうともしていなかった……。彼女を憎んでいた一番の理由が、それだったというのに……。
「ダメなんです。私は、趙雨にはふさわしくありません……」
激昂していた感情が収まったのだろうか、春蘭の口調も言葉遣いもいつも通りに戻った。
「何でも持っているあなたから、全部奪ってやりたかった……。あなたが当然の物として持っている物が、全て私から奪ったように見えていました。そんな自分のわがままで、彼に国王暗殺までをさせてしまった。たとえ一族の救済を表面上に掲げていたとしても、内心ではそんなことを考えていた私が、彼にふさわしいはずがありません……」
「そんなことないよ」
景華が、ニッコリと彼女に笑いかけた。
「春蘭が本当に一族の心配をしたのでなければ、趙雨が手伝ってくれた訳ないじゃない。……お父様は、あまり王様として褒められた政治は行っていなかったし……。だから、これで良かったと思うの」
彼女の言葉に、二人が目を見張る。柳鏡には、聞き覚えがある言葉だった。
「二人は、私に色々と必要なことを勉強する時間をくれたんだよね? 私は、そう思ってるよ……」
その笑顔で、心に残されていたわだかまりが、溶けて行く……。四人は、小さな頃の彼らに戻ることができた。景華が二人に歩み寄り、春蘭を抱き締める。
「ありがとう、春蘭……」
その様子が見ていられなくなった柳鏡が、お人好しの馬鹿姫が、と呟きながら室内を見渡す。その時、彼の目に銀色の物が映った。
「おい、馬鹿姫。あれが、四神剣じゃあないのか……?」
「ああ、そうだ……」
柳鏡のその言葉に応えたのは、呼びかけられた景華ではなくふらついている趙雨だった。柳鏡がそれを持って、彼に肩を貸してやる。すまない、と言って、趙雨はその肩にもたれた。
「ほら、どうする? いくら和解したからって、こいつらに罪を償わせる必要があるだろ?」
正義感の強い柳鏡は、そういったことにはとことん厳しかった。四神剣を受け取って、景華が泣き笑いの表情を浮かべる。
「うん……。でも、それは皆の前でね。ねえ趙雨、春蘭。いくら私たちの間で和解が成立しても、それじゃあこの乱に協力してくれた皆に示しがつかないの。……わかってね?」
「ええ、わかっています……」
王族の暗殺、それも国王を暗殺したとなれば、死罪は免れない。二人には、とうに覚悟ができていた。