女王と龍神 秋風
月明かりが、室内にも差し込む。それが幼い兄妹と、その母親の姿を浮かび上がらせる。母親が机の上に置いていた蝋燭は、とうに燃え尽きてしまっていた。それでも、母親が語る物語は、まだ終わらない……。
「じゃあ、いよいよお城に向かうんだね、景華姫……」
兄の方が、そう口を開く。妹の方は、眠そうに目を瞬かせていた。こちらはそろそろ眠ってしまうかもしれない。
「そう。炎の砦は、彼女にお勉強を教えてくれていた鄭旦さんがすでに陥落……敵を追い払って味方のお城にしてくれていたから、景華姫たちは予定よりも早くお城に向かうことができたの」
「柳鏡はどうなっちゃったの、お母様……?」
眠そうにその目を擦りながら、それでも話を最後まで聞こうとする。娘のその姿に、母親は思わず微苦笑してしまう。
「龍神の紋章のせいで、どんどん体中に青色の鱗が生えてきてしまったのよ。それでも、彼は景華姫のために最後まで戦うことを約束してくれたわ……。さあ、続きを話ましょうか」
「長、やりました! ついに砂嵐族が寝返りました! 虎神族からの援軍を担当してくれるという趣旨の文章が、たった今届きました! 趙雨が、今年は緋雀族のみ租税を免除するという政策を実行したためと思われます」
若い兵士が、昼下がりの炎の砦に息を切らして駆け込んで来た。それを聞いて、清龍族の長、龍連瑛は満面の笑みを浮かべた。
「そうか、ついに! 早速姫君にお知らせしなければ!」
そう言って自分の部屋を飛び出し、階段を三階まで駆け登る。その一番東側の部屋の手前で、彼は足を止めた。
「あぁーっ、ずるいよ、柳鏡! また私の負けー?」
そう不満気な声が、室内から漏れてくる。
「あんたが弱過ぎるんだろうが、アホ。俺はずるいことはしてねえよ」
そして彼の息子の、不敬にもほどがある、と言いたくなってしまう程の言葉。
「ちょっと位手加減してよー! もう一回! ね? いいでしょ? もう一回!」
「あぁ? 面倒くせえ……。あんた、どうせ何回やっても勝てないだろうが」
邪魔をしたくはないのだが、仕方なく室内の二人に声をかける。
「姫君、連瑛です。御報告があって参りました」
「どうぞ」
室内からそう声があってから、その戸を開ける。どうやら二人で石取りの遊びをしていたようだ、床にいくつも黒い石が転がっている。景華たち反乱軍は、砂嵐族の動向が安定していない、ということで、亀水族軍は北の水の砦に、清龍族軍は南の炎の砦に留まって様子を観察していた。そこで暇になった景華が、勝てもしない勝負を柳鏡に挑んだ、という訳だ。
「父上、どうかなさいましたか?」
二人が立ち上がって、彼の方へと歩いて来る。息子の深緑の瞳が、その父を捉えた。もう一方からは、真紅の瞳が見つめて来る。
「ああ。姫君、申し上げます。砂嵐族が、やっと当方へ寝返りました。これでようやく城に向けて進軍できます」
「本当ですか? 良かったぁ。もしこちらに味方してくれないなんてことになったら、どうしようかと思いました……」
そう言ってほっとした、というように胸を撫で下ろすその姿を見て、思わず頬が緩む。
「アホ、父上の作戦に抜かりがある訳ないだろうが。それで父上、いつ頃出発ですか?」
そう軽く彼女を小突いてから、柳鏡が自分の父を見据えた。その視線の鋭さに、父親である彼も一瞬動揺する。
「早ければ明日にでも。ただ、準備に時間がかかることも考えられる。明後日、と思ってくれていた方がいいかもしれないな……」
「わかりました。……あんたもわかっただろ?」
そう言って、隣の景華を見下ろす。うん! と言う元気のいい返事が、彼女から返って来た。その笑顔は、前までのそれよりも数倍明るい。彼と、笑う、という約束をしたからだ。
「ほら柳鏡、続きしようよ!」
彼の腕に甘えるように飛びついて、そのまま先程座っていた所まで彼を引きずって行く。連瑛は、静かにその部屋を後にした。
「……あんた、懲りねえな。まだ負け足りない、って言うのか?」
嫌味な口調に、とびきり意地悪な表情でそう訊ねる。彼の予想通り、彼女がふくれっ面になって反抗した。
「次は絶対に勝つよ! 柳鏡、覚悟してね!」
「途中で大地震でも来たら、あんたでも勝てるかもな」
「何ですってーっ!」
顔を真っ赤にして怒る彼女を見ていると、自然と笑みがこぼれる。
炎の砦に滞在している二週間、景華は精一杯柳鏡にわがままを言ってみせた。退屈だから遊んで、だの、じいと勉強をするから付き合って、だの……。傍から見ればそれはただ柳鏡を困らせているだけに見えるが、彼らには、ある約束があった。それは、柳鏡が景華のわがままをなんでも聞く、というもの。そして、景華はその代わりにずっと笑っている、と約束した。柳鏡が人でいられる、最後のその瞬間まで……。
「そう言えば、腕の調子はどう?」
急に真面目な顔付きになって、彼女が思い出したように問いかけた。明日ないし明後日からまた戦場に赴くのだ、気になって当然である。その上彼はこの軍の主力なのだ、彼がもし不調だとなれば、それはそのまま士気の低下に繋がってしまう。
「ああ、別に変ってねえよ。まぁ、少しずつ増えて来てるっちゃあ増えて来てるが……」
この砦に入るまでは、呪いの青銀の鱗は彼の腕のみを覆い尽くしていたが、最近では、肩から胸にかけての部分にもその侵食が始められていた。
彼のその答えに、真紅の瞳が伏せられた。彼女自身は知らない、龍神の華の称号を示す、その瞳……。彼の答えは、刻限が刻一刻と迫っているという事実を、そのまま景華に突き付けていた。その顔を見て、柳鏡も胸が痛む。
「……今更そんな顔したって、仕方ないだろうが。時間がもったいねえだろ……。約束、破る気か?」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて顔を上げて、彼に笑いかける。彼の黒いくせ毛が、秋の風に吹かれた。どんなに想い合っていても、彼らには時間がない。しばしの平和な生活で忘れかけていた、現実……。
「ねえ、柳鏡。一つ、お願いしておいてもいい……?」
黙って視線だけを彼女に当てる。約束をしてしまった彼に、選択権はない。それでも彼女がお願い、と言うのだから、何か重要なことに違いない。真紅の瞳が、眩しい。
「いつか……柳鏡が行かなくちゃダメになった時……」
そう、それは、二人が離れなければならない時。彼が、人としての最期を迎える時……。
「その時は、何も言わずに行ってね……」
真意がつかめずに、疑問を表す意味で片眉を軽く上げて見せる。彼女が、笑った。切なげで、苦しげで、泣いている時よりも悲しそうな笑顔。
「そうしたら、明日は帰って来てくれるかも、って、ずっと待っていることができるでしょう……?」
「……」
胸が、痛い。張り裂けそうな痛みが、彼のその身を貫く。できることならば、叶うものならば、彼女のそばを離れたくはない。それでも……。
「……わかった」
運命には、逆らえない。たとえ彼が人外の力の持ち主だったとしても、それだけは変えられない。彼女のそばで、彼女を愛おしい、と思う度に、彼のその体は蝕まれていく。龍神と龍神の華は、やはりお互いを滅ぼしてしまう運命にあるのだ。
彼の返答を受けて、彼女は小さく笑った。