旗印と龍神 嫉妬
それから間もなくして、炎の砦に着いた清龍族軍の一行だったが、その砦の様子を見て皆が我が目を疑った。そこに掲げられていたのは、辰南国の旗ではなく、景華たち反乱軍の旗。だが、よく見ると微妙に模様が違っている。
「敵の陽動か……?」
隣の柳鏡が、その瞳を鋭く細めた。確かに、景華たち清龍族の軍は全員今砦に着いたばかりなのだ、そう思う方が自然だった。その時、砦の上から景華の呼ぶ者があった。
「あれは、まさしく姫君! 景華姫ーっ、お忘れですかっ? じいでございます!」
景華のその瞳が、大きく見開かれた。そこにいるのは、彼女がじい、と呼んで懐いていた師だった。小さな頃から詩や文字、歌について色々と教わっていたのだ、見間違うはずもない。連瑛が、その人物を見上げて呟いた。
「あれは、鄭旦殿! この砦に囚われているとは聞いていたが、どういうことだ……?」
彼は現砂嵐族の長の叔父で、景華の国語の師であることから彼女の父から相当の恩賞を与えられ、この砦の守護も任されていた。しかし趙雨が王位に就く際に彼の即位を正面から否定したために、自らが任されていたその砦に捕らえられてしまったのだった。
「只今開門いたします! 少々お待ち下さい!」
その言葉通りに、砦の門はすぐに解放された。しかし、柳鏡や連瑛はそれを訝しむ。
「父上、どうなさいますか? 罠とも思いにくいのですが、いまいち信用はできません」
「そうだな……」
その時、景華が前に進み出た。そして、大声を出す前に特有の息の吸い込み方をする。
「久しぶりね、じい! でも、どうやってこの砦を乗っ取ったのっ?」
彼女の問いに、鄭旦はやっと気付いた。そうか、彼らは自分たちを疑っているのか、と……。仕方のないことだ。自分たちは、ついこの間までここに捕らえられていたのだから。
「お待ち下さい! 今そちらに行きますから!」
そう言って、砦の上の老人の姿が消えた。しばらくして、開け放した門の中から一人で、何も持たずにその老人が姿を現した。そのまま、こちらに向かって来る。景華は、馬から降りてそれを迎えた。彼が、その場で一礼する。
「申し上げます、姫君! 我々は、姫君が決起したのではないか、という知らせを受けました! そうです、黄金の龍と亀が、白銀の百合を擁している旗印の話を聞いたのです!」
息を切らして、老人は話を続ける。どうやらあの偽の旗は、その噂から想像して作ったようだ。
「その時、体中に力が漲るのを感じました。陛下は崩御され、姫君が連れ去られたとお聞きした時には、もうこの世に私が存在する意味もない、と思いました。それでも何とか趙雨が王位に就くのを阻止しようと思っていました。彼らの策略に違いない、と私は最初から思っていたのです!」
彼のその言葉を、景華は真剣に聞いている。万が一のことがあっては困ると思って、柳鏡も馬から下り、彼女の横に立った。
「そして、砦の中で暴動が起きるように仕向けました。自由に動ける者の中には、まだ何人か私に忠節を誓ってくれている者が残っていたので、彼らに協力してもらったのです」
「それで?」
だんだんと話が核心に触れて来たな、と思いながら、景華は続きを促した。その隣から、柳鏡がその身を乗り出す。少しでも不審な点があれば、すぐに彼を捕らえるつもりに違いない。
「ここは水が少ない地域なんです。近くに川も流れておらず池もない、砦では井戸の水を生活に利用していました。その井戸に、ちょっとした細工をしてやったのです」
そこで彼が、自慢げにその胸を反らす。こういう茶目っけのある仕草がいかにも彼らしいな、と景華は思った。
「毎日、井戸の中に毒薬を入れてやったのです。もちろん、そんなに強い毒ではありません。腹痛が起きる程度のものです。しかし、彼らは水質が急に悪くなったのだと考え、水の補給を城の方に頼むようになりました」
続きがなんとなくわかった柳鏡は、この老人はなかなか優れた軍師だな、と内心で舌を巻いた。まだその結末がわかっていない景華は、さらに真剣な顔をして続きに聞き入る。
「城から運ばれてくる水の量には限界があります。しかも、高官たちは自分たちの喉ばかりを潤し、兵士たちには少ない水で配給を行いました。それでは、暴動が起きるのも当然です。私が行ったのは、水質の改善を約束して、兵士たちの暴動を指揮したことのみです」
「すごいわ、じい!」
景華がそう言って、老人に飛びついた。焼き餅を焼いてもどうしようもないことはわかっているのだが、何となく、面白くない……。
「なんの、姫の御為です。じいは当然のことしかしておりません!」
そうだクソジジイ、さっさと姫から離れろ。内心ではそう思っているが、もちろん、柳鏡はそんなことおくびにも出さない。さりげなく景華の腕をつかまえて、自分の方へ引き戻す。
「積もる話は砦にお邪魔させていただいてからにしましょう。ほら、行くぞ」
「わかったわよー」
そう言った景華が馬に乗るのを、さりげなく助けてやる。それから、自分の馬にまたがる。
「それでは、どうぞお入り下さい、皆様!」
老人の言葉を受けて連瑛が行進の合図をし、隊列がゆっくりと進みだす。景華は、隣でどことなく不機嫌そうな彼に話しかけた。
「柳鏡、どうしてそんなに機嫌が悪いのよ?」
「別に……」
その答え方が、彼の機嫌の悪さを物語っている。
「嘘。絶対に怒ってる! どうしたのよー?」
「人の目の前で、じいさんなんかとベタベタするからだ!」
小声で答えて、その後たまらなくなって彼女から目を逸らす。その頬が、何となく、赤い。その様子があまりにもおかしくて、景華は吹き出してしまった。
「何それー? 焼き餅?」
おかしそうに、だが嬉しそうに笑いながら景華が訊ねる。前に、全く逆の立場でこんなことがあったな、と思いながら。まさか鄭旦相手にそんなことを考えるなんて、おかし過ぎる……。
「そうだ、焼き餅だ!」
彼はそう開き直って、その後は景華と目も合わせようとしてくれない。
「柳鏡、馬鹿だね……」
そう笑って見せる。後でたくさんわがままを言って、たくさん甘えてあげよう、と彼女は思った。嫌そうな顔をするくせに、内心では喜んでくれることを知っているから……。
「ね? 柳鏡」
残りの時間が短いことは、彼女も知っている。だから、せめて一緒にいてくれる間は、良い思い出をたくさん作りたい……。彼女の唐突な問いに、彼はうるせえよ、とだけ答えた。もうすぐ、秋がやって来る。空の色は、どこまでも澄んで青かった。