旗印と龍神 約束
「もう、柳鏡遅いよ!」
彼が戻るなり不機嫌な彼女に、先程までの父との会話で感じていた感情を全てしまい込んで、いつものように、を合言葉に答える。
「何だよ、俺がいないと飯も食えないのか?」
景華が座っている目の前には、二人分の食事が用意されていた。もう湯気が出ていないことから、彼女がかなり待っていたことがわかる。
「待っていてあげたの。ご飯、食べようよ」
彼女の正面に座って食事の皿を持ち上げた、その時だった。
「柳鏡? 腕、怪我したの……?」
まずい、と思って慌てて袖の中が彼女に見えないように引っ込める。しばらく戦闘はないだろう、と考えていた彼は、ここ数日間、いつもの格好に戻っていた。その広い袖口が、仇となったらしい。
「今、包帯巻いていたよね……?」
いつの間に彼が怪我をしたのかは正直言ってわからなかったが、気になって仕方がない。
「大丈夫? 見せて?」
そう言って彼の腕に手を伸ばした。が……。
「触るな!」
そう言って、彼が乱暴にその腕を振り払う。景華が驚きにその目を見開いた。彼女には、知られたくない……。
「……何よ。人の肩の傷は嫌がっても見るくせに! 心配になっただけじゃない!」
確かに、柳鏡は彼女の傷の具合を何度か確認していた。自分の責任でついてしまった傷だ、気になるのは当然である。景華は心配をかけまいと傷を見せるのを嫌がるのだが、彼女の大丈夫があてにならないことも柳鏡は知っていたので、自分の目で確認するようにしていた。
「別に……。痛む訳じゃあないから、心配はいらねえよ……」
そう言って、ついと目線を逸らす。この逸らし方は照れているときではなく、嘘をつく時。
「やっぱり痛いんでしょう? 薬塗ったりしなきゃ……」
そう言ってもう一度手を伸ばすが、やはり乱暴に振り払われてしまう。今までそんなことを彼にされたことがなかった景華は、いい加減腹が立った。
「……もういい……」
そう言って、落ち込んだ素振りを見せる。それから。
「私には見せられなくても、救護の人には見てもらった方がいいよ、柳鏡……。後で行ってきなよ。それから、そんなに包帯巻いているんだから、本当は動かすのも大変でしょう? しばらく負傷者として、前線からも離れた方がいいんじゃない? 私は、大丈夫だから……」
その弱々しい笑顔で言われても、と柳鏡は思った。自分がそばからいなくなるのは不安に違いないが、怪我をしているのに無理はさせられない、というのが彼女の考えだろう。
「……何を見ても、驚かないか……?」
彼女の不安材料は、全て取り去ってやりたい。少なくとも、戦闘の最中ではそばにいてやりたい。しかし、このままこの秘密を持ち続ければ、それすらも叶わなくなってしまう……。彼女の前では、最後まで人でありたかった。だが、天はなんとも無慈悲だ。彼の願いは、それすらも叶わない……。
「うん……」
景華のその言葉を受けて、柳鏡はその袖を捲った。肩から手首までが、包帯で一部の隙もなく包まれている。その結び目を、彼が必要以上にゆっくりと解く。そして、それ以上にゆっくりと、包帯が解けて行く……。
「っ……!」
景華は絶句した。他に何の言葉も、反応も出て来ない……。
「信じられるか……?」
彼の腕は、人のそれではなくなっていた。全体を、爬虫類を思わせる青銀の鱗が覆っている……。
「いつ、から……?」
そう言って、彼のその腕にそっと手を伸ばす。指先が、ヒヤリと冷たい腕に触れた。
「封印を解放してすぐは、紋章が疼いたりするだけだった。その内派手に痛むようになって来て、それが収まった後、少しずつ増えて来た。冷たいだろ? 人間の腕じゃねえ……。すでに、人間じゃあなくなって来ちまったんだよ、俺は……」
深緑の瞳が、これ以上はないという程、不安定だ。今にも、光を失ってしまいそうな……。
「まだ、心は人間のつもりでいる。だがそれも、これに侵食されていく内にいつかなくしちまうに違いない……。だから、ずっとあんたと一緒にいて、ずっとあんたのわがままを聞いてやる、だなんて話、約束できねえんだ……」
景華の瞳から、涙がポトリ、とこぼれた。ずっと一緒にいてくれると思っていた、ずっと自分のわがままを聞いてくれると思っていた彼が、その約束をできないと言う。そして、いつかは自分の前からいなくなってしまう。何をどう言えば良いのか、それすらももうわからない……。
彼のその手を、自分の頬に持って行く。涙に濡れた頬が、冷たい手に包まれた。
「温かい……?」
「ああ……」
意味不明な問いかけに、それでも彼は真剣に答えてくれる。
「良かった……」
そして、そのまま笑って見せる。その泣き笑いの顔は、柳鏡の胸を強く締め付ける。見ていられなくなった彼は、その腕で彼女の細い肩を手繰り寄せた。彼女の小さな体は、彼の胸にすっぽりと収まってしまう。
「ふぇっ……」
それを合図に、彼女は堰を切ったように泣き出した。声を上げて、小さな体を大きく震わせて……。外にその声が漏れないように、ギュッと強く抱き締めてやる。鎧を外していて良かった、と彼は密かに思った。小さな温もりを、すぐそばに感じられるから……。
「あんた、意外と温かいな……。ガキみてえ……」
彼女の温もりはその左腕だけではなく、彼の体全体、とりわけ心には、温かくて、心地良い……。鱗のある腕に抱かれているということがわかっていても、彼女は逃げようとすらしない。
天幕の中がしばらく、景華がしゃくり上げて泣く音だけに満たされた。
「……そばにいてやれる内は……」
彼がふと口を開いた。その口調は、真剣そのものだ……。景華が彼の腕からほんの少し、その身を起こす。
「一緒にいてやれる内は……あんたのわがまま、何でも聞いてやるよ……。だからあんたも一つ、約束しろ」
泣いているとわかっていて、その顔を上げさせる。そして親指でその涙を拭ってやった後、先程彼女がしたのと同じように、その頬を左手で包み込む。
「ずっと、笑っていろ。俺が人でいられる、最後のその瞬間まで……」
小さく笑顔を見せた、ということは、了承。柳鏡の方も、その笑顔に小さく微笑み返す。
「俺が戦う理由が、笑顔にある……」
彼が迷いながら、ゆるりと動くのがわかる……。景華が、軽く目を閉じた。そして。
今度は何者にも邪魔されることなく、龍神の唇が、華のそれに触れた……。呪いの紋章が疼き、彼の中で何かが脈打つ。肩のあたりが、固まってしまうのを感じる。それでも彼は、そうやって彼女に触れたくて、たまらなかった。
その日は、彼が初めて、彼女との約束を守れない、と言った日だった。