旗印と龍神 紋章
「明日には炎の砦に到達します、姫君。今日は、ここに幕営いたします。ただいま姫君の天幕を張らせていますから、もう少しお待ちください」
今日は、彼らは天幕を張って本格的に幕営をすることになっていた。明日にはおそらく城の軍とぶつかることになる。その拠点を築く際の予行演習として、幕営を行うことにしたのだ。
「負傷者用の天幕は足りていますか、連瑛様?」
景華の問いかけに、連瑛は一瞬間を空けてから答えた。
「それが……軽傷者用の天幕が足りていません」
言った後で、連瑛は後悔した。姫が一度言い出したら聞かない、ということは、息子から聞かされていた。
「それなら、私の天幕を使って下さい。私一人のために、多くの負傷兵を夜露にさらしたりなさらないで……」
「アホ」
隣から、その息子が割って入る。
「柳鏡、姫君になんて口のきき方を……!」
「いいんです、連瑛様。私がそう話してくれるように、頼んであるんです」
あまりにもひどい言葉遣いなのでたしなめようとしたが、景華自身に止められる。
「あんたが天幕を使わねえなんてことになったら、無条件で全員野宿なんだよ。仮にも総大将なんだから、その位のことわかれよ」
柳鏡のその言葉に、景華が返答に詰まった。
「それともあんた、父上や兄上たちにまで野宿させる気か? それなら、あんたの天幕を負傷者用に使ってやる」
「だって……」
口を尖らせて、俯く。彼の言っていることが正しいということは、身に染みてわかっている。柳鏡が、軽く溜息をついた。
「父上、確か副将以上の将軍には、個別に天幕が与えられていましたよね?」
「ああ、そうだが……」
個別に与えられている物なので小型ではあるが、天幕からあぶれている軽傷者は極僅かだ。彼はそう考えた。
「それでは、俺の天幕を負傷者用に用いて下さい。どうせ俺は姫の天幕を守って眠らなければならないので、必要ありませんから。それでいいだろ、わがまま姫?」
「別に四六時中付いていてくれなくってもいいのに……」
そう口ごたえをするが、彼は取り合ってくれない。仕方なく、景華の方が折れる。
「それじゃあ、そうして下さい、連瑛様」
景華はそう言って、案内に来た兵士の一人と彼女の天幕に向かって歩いて行った。連瑛が、こっそりと呟く。
「助かったぞ、柳鏡」
「いえ……。姫のわがままにはほとほと手を焼かされて来ましたから、ああいった時の対処法は知っています」
その言葉に、連瑛が苦笑する。
「お前もその若さで随分と苦労させられているんだな。お前の母親も、若い頃はなかなかすごかったぞ」
今度は柳鏡の方が苦笑してみせる。いや、苦笑というよりも、どことなく寂しげな笑み、という表現の方が正しいだろう。
「違うのは、父上と母上は無事に結ばれた、ということですね……」
息子のその言葉に、何だか違和感を覚える。
「私の天幕も完成しただろうか。柳鏡、ちょっと来なさい……」
そう言った父の後を、何も言わずに柳鏡がついて行く。連瑛の天幕も、完成していた。そのまま、中に通される。
「外に会話が漏れることはないと思うが……。柳鏡お前、何を隠している? 龍神の紋章のことで、何かあったのか? 最近、よく左腕を掴んでいるだろう?」
気付かれていたか……。そう思い、柳鏡は軽く唇を噛んだ。
父親の目はあの老婆の目と一緒で、自分の心の中までを見通してくる。だから、いつも隠し事はできない。そのせいで、悪戯がばれて叱られることもしばしばだった。
「龍神の華、という者は御存じですか?」
柳鏡の問いに、連瑛が少しの間目を閉じる。
「そう言えば昔、春の祭りの時に来ていた占い師が言っていたな。確か、龍神の紋章を持つ者に仇をなす、という存在だろう?」
「そうです……」
そう肯定してから、目線を下に落とす……。呪いの証からは、わざと目を逸らして。
「それが、どうかしたのか……?」
父親の目が、不安げな色を宿した。普段は厳しい人物であっても、彼は子供に対して当たり前の愛情を持っていた。ましてや、柳鏡の場合はその生い立ちや背負わされた運命が過酷であったから、なおさら。
「あの姫が、その龍神の華なんだそうです。そして華に焦がれた龍神には、本当に呪いが待っていた……」
柳鏡が、自分の左腕をきつく握り締めた。その力の強さで、指先が白くなる。
「先程父上がおっしゃっていた占い師の老婆に、俺も話を聞きました。そして、こうも言われました。俺への試練は、姫をそばに置くこと、そして、諦めることだと……」
息子の重い口調に、連瑛はただただ口を閉ざしていた。どうしてやることもできないということは、これ程までに辛いことだったのか。そんなことを考えると、自分が無力な一人の人間であるということが、嫌でも思い知らされる。
「初めは、何のことだかわかっていませんでした。別に体に変調をきたすこともなく、普通に過ごしていました。彼女を得ようだなんて考えず、いつかその日が来たら手を放すことができれば、それでいいのだと……」
「違った、ということか……」
父親の呟きに、柳鏡は緩慢に頷いてから答えた。
「この呪いの痣は、姫への想いすらも許してくれないようです……。ほんの少しでも俺の心が動けば、たちまち牙を剥く……。姫を想いながらも、得ようとしない。おそらく、その事実が俺の左腕を蝕んでいると思われます」
はっきりと言葉を切ってから、柳鏡は再び口を開いた。父に、宣言をしておこうと思って。
「俺は……だんだんと人ではなくなって来ています……。それでも、最後の瞬間まで人であるために、彼女のそばにいたいんです……」
息子の身に何が起きているのか、連瑛は大体の察しがついた。おそらくは、紋章の力の暴走……。それが彼にどんな変化をもたらしているのかまではわからないが、あの息子がここまで動揺しているのだ、事態は相当深刻に違いない。
「お前の名前は、お前の母親がつけたんだ。水面に映る、柳の葉を見て……」
「姫が、見つけてくれましたよ。その色が、俺の目の色にそっくりだとか……」
嬉しそうに話す、あの笑顔が蘇る。人である内は持ち続けようと決めた、思い出……。
「惜しいな、姫君……。正解まであと一歩だった……」
そう言ってふと遠い目をする父親に、柳鏡は目だけで問いかけた。一体どこが違っているのか、ということを。彼女がその説明をしてくれた時、彼自身もそれに非常に納得がいったのだ、間違っているはずがない、と。
「その色は、水面が波立つと消えてしまうそうだ」
「それも、聞きました……」
波立ったらすぐ消えちゃうの、と言ったふくれっ面も、柳鏡はよく覚えている。真紅の瞳に、柳の影が揺れていた。
「お前の瞳の色と同じ、鏡のような水面に映る、柳……。でも、水面が波立ったらすぐに消えてしまう。だから……」
そこで一度言葉を区切って、息子の顔をじっと眺める。その面差しは、母親のそれに近い。
「その色が映る水面のように、穏やかな人生を歩んで欲しい……。それが、お前の母親の願いだ……」
「っ……!」
柳鏡は、胸が詰まるのを感じた。母が呪われた運命の自分に望んでくれたのは、危険を冒して手に入れる栄光ではなく、そこにある平穏……。その事実が、胸に突き刺さる。
「……俺は……母さんが望んだような人生を、生きてはいないのかもしれません……」
そこで、目線を上げる。その瞳に、恐れと言うものはない。
「ただ、最後の瞬間まで人として生きること。これが、俺の望む生き方です……」
そう言って一礼してから去って行く息子を、連瑛には呼び止めることはできなかった。だが、本当はこの言葉をかけてやりたかった。
「望むように生きろ、柳鏡……」
ここまでお読み下さっている皆様、本当にありがとうございます。
改訂前の方ではわかりにくかったかな、と思って、龍神の紋章についての記述をつけたしてあります。
少しでもわかりやすくなっていれば幸いです。